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2012年2月

甲野先生とのご縁がつながった話

ちょっと昔の事を書いてみようかな、と思います。
気がつけば、当たり前のように心と身体の一体感を伝える仕事をしていますが、こんな未来は当時、まったく描く事ができませんでした。
人生どうなるかわかりません。
 
 
 
今日は師匠である甲野先生とどう、ご縁ができたのか、それをお話しようと思います。
少しは役に立つかな^^

甲野先生と出会ったのは1995年。大学を卒業した年でした。
阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件などがあった年ですね。
ただ今考えると、学生気分が抜けない自分はそんな大きな出来事、事件も自分の「事」として考えていなかったなぁと思います。

この年、卒業したわけですが、実は就職をしませんでした。
今考えると、ニートのはしりだったのかも(笑)
なぜ、就職しなかったかといえば、少林寺拳法の本部で仕事をしたかったから。
少林寺拳法はとても大きな団体です。
しかも財団法人、宗教法人、学校法人をもつ、ちょっと特殊な組織です。
普通の就職とは違って、その年、募集そのものがなかったんです。

しかし、募集がないからといって、諦めるわけにはいきません。だって、仕事は一生の選択ですから。

募集がないなら、来年まで待ちますから。
そう言って、就職浪人として、大学を卒業してしまったのです(笑)。
 
 
 
しかし、この「募集がなかった」事が、今、この仕事をしているきっかけになっているのだから不思議です。
もし、募集があって、そのまま仕事をすることができていたら、甲野先生には会えていたかもしれませんが、これほどまでに、自分の身体と心への理解が深まる事はなかったはずです。

その就職浪人中、暇だったんでしょうね、きっと。
ほとんど本を読まない自分でしたが、卒業時に拳法部の恩師から頂いた甲野先生の本に惹かれ、本を頼りにその技の研究を始めたんです。

研究を始めた・・・と言っても、なにから手をつけていいか全く分かりませんでした。
膝を抜いてみたり、丹田を意識してみたり、試行錯誤でチャレンジしてました。
ただ、なにも「できない」んです。

当時の研究していた技は、いたってシンプル。
抑えられた手をただ、上げるだけ。そんな技です。
やってみるとわかりますが、武道のキャリアとかまったく意味をなさなくなる技です。
こんなもの絶対不可能だ、と思っていた技なのですが、本の中の先生は相手に悟られる事なく、あげているんですからね。
ホントかよ、と思いつつ、稽古していました。
 
 
 
少しでも自分の中に進歩している感じがあればよかったのですが、これが全く、分からないんです。
まぁ、これが「才能」というやつでしょうが、才能がない事が幸いしました(笑)。
 
 
 
才能がない事がよかった・・・?

どう言う事かと言えば、あまりの分からなさに、ついに行動を起こしたんです。
なにをしたかと言えば、甲野先生に手紙を書く、という事をです。
 
 
 
なんだ、手紙か。
と思われるかもしれません。でも、それは手紙を書いた事がない人間の気持ちを分かっていません(笑)。
そんな面倒で、恥ずかしい事、普段なら絶対にやらないです。
でも、書いてしまった・・・。

当時、インターネットはまだ普及していません。
本を出すような人にコンタクトをとる方法なんて、全く分かりません。
ただ、当時の本の最後に先生のご住所が書いてあったのです。(平和ですねw)

自分よりも目上の方にどう、書けばいいのか・・・。
迷いながらも手紙を書こうと決め、送らせていただきました。
 
 
 
すると、驚いた事に、1週間もたたないうちに、お返事をもらったんです。
しかも、そこには私が出した手紙に、熱意を感じました、との言葉が添えられていました。
天にも昇る気持ちだったなぁ・・・。

考えてみると、幸運でした。
手紙を書いた事がない自分でしたが、特殊な手紙は幾度となく書き続けていたからです。
それは「欠席届」(笑)。

大学時代、わが少林寺拳法部には、ある伝統が残っていました。
それは遅刻、早退、欠席をする際には主将宛に手紙をだす、という伝統です。
その手紙はメモではなく、「ちゃんと」書く事が決められていたのです。
早春の候など、時候の挨拶から始まり、一通りの流れを面倒でもちゃんと書かなくてはいけませんでした。もちろん、日時も入ります。その日欠席するためにはちゃんと書かなくてはいけなかったんです。

一枚で収まる時にはもう一枚、ちゃんとつけ、きれいに三つ折りし、新品の封筒に入れて、提出です。休むほうが面倒なくらいです(笑)。

形式ばった固い手紙しかかけなかったのがよかったのかな?
その気持ちを先生は情熱として受け取っていただきました。
そういえば、もちろん、返信用の封筒も入れました!
 
 
 
その手紙にタイミングよく、関西に行く仕事があり、もしよければ名古屋に寄って技を体験されますか?と書いてあったからもう、驚きです。
なにをどう準備し、お迎えしていいかわからなかったものの、急いで会場を取り、連絡の取れる仲間を呼んで先生をお迎えする事となったのです。
 
 
 
今思うと、なぜ、この時、こんな行動力があったのだろうか?と不思議になります。
私の事をご存知の方はお分かりでしょうが、あまり、外へは出て行かない性格なんです。
ずっと、地元の名古屋に住んでいますし・・・。

もちろん、仕事であれば、ドコへでも伺います。遠いから、と遠慮した事はありません。
でも、講座やセミナー、展覧会など、どこかへ行って学ぶ、というのはほとんどしません。
今でもその性格は変わっていないんです。でも、この時だけは違っていました。

ひとつ思い当たるフシがあります。
少林寺拳法の本部は四国、香川にあります。
この就職浪人を決めた年、生まれ育った名古屋を離れ、四国にいき、骨をうずめる決心をしていたからではないかと。
気持ちが遠くへ行こうとしていたんでしょうね。
だからこそ、甲野先生という人の技をしりたい、会いたい、と行動させてくれたのかもしれません。
 
 
 
そして、甲野先生の技を受けてからはもう、身体の不思議、心の不思議の解明に一直線です。
もともと自信のない性格でしたから、自分でなにかをする、求める、という事は考えもしませんでした。
でも、身体を通して気づかされる新しい自分を感じていると、もっと知りたい、そんな気持ちにあふれてくるようになったんです。
気がつけば、自分の中に見つかる新しい自分が自分の中の大きな決心を変えていました。
少林寺拳法の本部へ行き、組織の中で働きたい、という気持ちよりも、地元にある、父の道場を継ぎ、一人一人の身体の感覚を頼りに稽古し、生きる事の楽しさを伝えたい、と思うようになりました。
 
 
 
今はインターネットが当たり前の時代です。
すごい人を探せばどんどん見つかります。
そして、そのすごい人と縁を作るのも簡単です。

また3月にも甲野先生にお越しいただきますが、毎回、たくさんの人が来てくれます。

実は、もったいないなぁ・・・と思っている事があるんです。
それは、あまりにも簡単に出会え、教えを受けれる事で、自分が得た感覚を普通の事だと思ってしまっていないか、という事です。

これまで、17年、甲野先生の背中を追ってきていますが、途中、よくわからなくなる時がたくさんありました。
本当に甲野先生ってすごいのか?とかです。
なぜなら、もっと派手に技を見せる人はたくさんいますからね。
それこそ、手を触れずにヤーと投げ飛ばす人まで。

そんな浅はかな自分を救ってくれたのが、最初のご縁に至るまでにあった苦労と幸運です。
奇跡的な出会いと思えるものがあったからこそ、心が浮気をしそうになった時に、いやいや・・・ちょっと待てよ、と稽古を続ける事ができました。

今でこそ、武術の稽古が身体と心が一つである、という事を学ぶ事ができる最高の方法だ、と分かりますが、これが直接、仕事や資格に役立つわけではありませんからね。
結婚し、仕事が変わり、ばたばたして来れば稽古する余裕をなくし、離れていてもおかしくありませんでした。
それでも、続ける事ができたからこそ、今があります。
 
 
 
甲野先生には、自分とはなんだろう?という問いを自分で考えていいんだよ、という事を身をもって教えていただいた気がしています。
今、私自身がそれを伝える事を一生の仕事として選択しました。

自分の身体ってなんだろう?心ってなんだろう?自分の限界ってこんなものなのかな?って感じている人は諦めてしまう前に、一度体験してみてください。
私がそうだったように、自分ってよくわからない・・・と驚くことができますからね。

お呼びいただければどこへでもいきますから、そちらも、ご遠慮なく。

久しぶりに、昔話をしました。
変な話にお付き合いくださり、ありがとうございました。

なにかありましたらご連絡ください
jun@karadalab.com

3月の甲野先生の名古屋・浜松講座
名古屋
浜松

カラダラボ(私)の講座
2/14 大垣
2/19 名古屋
2/26 浜松

自分にとっての本当の幸せ

ふと、自分にとって幸せな時ってなんだろう・・・と考えた。
あまり大きく考えるとややこしくなるので、「稽古」の枠の中で考えを巡らせてみる。

身体が動くようになり、いろんな技が可能になって、人に驚かれるようになった事も多い。
運動オンチだった頃の自分からすれば、それは信じられないぐらいの変身だ。うれしくないわけがない。
 
 
 

しかし、その技が効き、相手が崩れた事でうれしいかと言えば、実はそうではない。
むしろ、相手のがっかりする顔がみたくないから、望んで体験してくる人以外には積極的に技を試してもらう事も遠慮していたような気がする。
特に間違って、その場に居合わせてしまったような縁の場合だ(笑)

何年も何十年も追い求めてきた経験を持っている人を「術理」はあっさりと、追い越してしまう。
それは才能の問題ではなく、自分の身体の見方だけなのだが、なかなか自分の中にもそれを行う能力があるとは信じてもらえない。まぁ、自分もそうだったので、気持ちは分かる(笑)。
 
 
 


それまで体験した事のない技にかかると人はどう対応していいのか迷う。
その迷う顔が苦手なのだ。

この先、その術理を受け入れるというのは、それまでの稽古の仕方をガラリと変えなければいけないのが分かるから。
もしかしたら楽しく稽古しているのかもしれない。そんな事を考えてしまうと、あぁ~頼りにしていたものを壊してごめんなさい、って気持ちになる。

だからこそ、技が効くから、崩す事ができたからうれしい、というのはあまりない。
 
 
 


そこで、一つ気がついた。
自分が一番うれしい瞬間を。
それは、自分が気がついたそれまで知らなかった身体の力、使い方を相手に伝えて、その動き方で自分が見事に崩され、投げられた時にものすごい喜びを感じるのだという事を。

その時、「先生、わざと倒れたでしょ^^」と言われる。
でも、そんな事は絶対にない。
いや、そんな器用に相手のご機嫌を取ることなんてできない(笑)

自分が崩れる時には本当に崩され、倒されているのです。

これって、「負ける事を望んでいる」事だよなぁ・・・。
その瞬間、自分が大切にしているものってなんだろう?と頭の中がグルグルっと回った。
 
 
 


後だしジャンケンで負けてみる、という遊びがある。
試してみると分かるけど、これが意外と難しい。
後出しだから、簡単になにを出せばいいのか分かるのだけれど、「つい」相手のじゃんけんに対して「勝つ」ものを出してしまうのだ。
どうやら、私たちには無意識に刷り込まれている事がたくさんあるぞ、と、この遊びは教えてくれる。

自分が本当に望んでいるのが「負けること」だと分かってみると、では、それを「生活」の中で生かしてみるとどうなんだろう?
生活の中での勝ちと負けとはなんだろう?
簡単には答えは出そうにない。
しかし、単純に恐れていたものが間違っているかもしれない、と一歩踏み出せた事は大きい事は確か。
 
 
 


今の仕事は「自由」だ。
その分、安定感は全くない(笑)。
もっと、安定しないかなぁ・・・と欲を出したりするわけだけど、そんな欲が出てくると、決まって心に不安が生まれてくる。

この「不安」が間違っているとしたら。
生活のために仕事を安定させ、不安をなくす。これを「勝ち」と考えてみると、本当にそれでいいのだろうか?と疑問がわいてきた。
負ける事ってなんだろう?
自分がやられる事だ。

自分が「安定」し、幸せになる事は、武術においては、いつも技が決まり、相手を崩すことができる状態に近い。
自分が崩されなければ、倒れなければ幸せ、という事。
でも、それがうれしくない、と分かってしまったわけ。

では、自分が崩されるって?
自分が伝えたことで、目の前の相手が安定し、幸せになっている状態と言えるのかも。
自分はやられているのに、相手は幸せ。
自分には得られていないのに、相手は得ている。
これ、「嫉妬心」が出てくる状態ではないか・・・。
 
 
 


実はこれまで親しい人にしか言ってないけど、私は嫉妬心が強い。
素直に周りの成功を喜べない小さな自分が嫌いだ。
自分にはできない、という低い自己評価のせいだと思っているけど、なかなかそれが取れなくて苦労している。

でも、今日の気づきで、自分が感じる嫉妬心が実は、喜びになるかもしれないと感じ始めている。
 
 
 


指先を決めると、迷いがなくなる。
腸を意識してみれば丹田に近づき、肝が据わり、堂々としていられる。
失敗する事はダメな事ではなく、自分が行きたい場所へと勢いをつけてくれるチャンス。
などなど・・・これまで話をしてきた事は誰かを投げるためのものではなく、すべて、明るく生きるために役に立つだろう、という事ばかりだ。

私がそうであったように、自分の事が嫌いという人がいる。
決断力がなくていやだな、と思っている人もいる。
人とのコミュニケーションが苦手、という人もいる。
いろんなコンプレックスが身体をいろんな見方をしてみる事で取れていく事が分かった。

ぜひ、少しでも困って、諦めている事、諦めそうな事があるなら、騙されたと思って身体からのアプローチを試してみてほしい。
今日、こんな事を書いているのも、心の内を出してみる事で、ちょっとでも勇気をもって自分と向き合う事ができる人がいるかもしれない、と思っているから。
少しでも気づくきっかけになってくれればうれしい!
 
それが一番の幸せ、だと気づいた、というお話でした。
話がまとまっていなくて読みにくいですね。
自分で読み返してみて思いました(笑)。
お付き合いくださり、ありがとうございました。

腸で投げる、腸から動く?

腸から動くと動きが変わるみたいです。
まだ、腸、腸、と口にするのも違和感があります。
だって、これまで、全く考えもしなかったのですから。

とりあえず、技が一気に変わったので、写真だけでも。

引っかかりやすい片手での切り落としも
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腸から動けば、このとおり。
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両手でしっかり押さえつけられても
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たた、前へと進む事ができます。
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首を絞められたとしても
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腸は自由に動くんですね。
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一本釣りも前より、ずっと楽になりました。
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大切にしているのは「技にたよらない」という事です。
ただ、普通に引きたいんです。
でも、普通は綱引きになります。
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でも、ハラ、腸から引いてみると・・・
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ちょっとこれは苦労しました。
丁寧に握る」事をしないと、ただ、普通に起き上がる、というのはできなかったなぁ・・・
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四年以内にくるらしい地震が持ってくる不安

二月に入りました。
噂は噂、余分の話は聞くまい、と思いつつも、情報はドンドン目から、耳から、入ってきます。
一説によれば、私達が一日に得る情報は江戸の時代を生きた人の一生分、といわれているそうです。
すごい!

で、その噂ですが、この1月から2月にかけて、また、大きな地震がくるのではないか?と聞こえてきます。
怪しげな情報であれば、そうそう、振り回されませんが、テレビ、ラジオ、新聞、地震研究機関の発表となると、もしかしたら…と真実味が増えてきます。

 
 
 
ん、ちょっとまてよ?
今、感じているこの「不安」はなんだ?
果たして、不安しかつくれないのだろうか?

そんな事を「身体の感覚」と合わせて考えてみます。
なぜ、不安が生まれるのか?
究極的には死ぬのが怖いからなのかもしれません。
でも、死なないとしたら?
災害にあう確率、事故にあう確率、そんな確率は微々たるものじゃないかな?

昨年の地震でも、助かっている人の方がはるかに多い。
だとすれば、死ぬ不安はなくなるかもしれない。
 
 
 
では、なんだろう?
今持っているものを失う不安だろうか?
家、食事、健康、車、お金…そういうものを失う不安だろうか?
友達や家族も大切なもの。その大切なものを失うと考えたりすれば、やはり、不安にもなる。

でも、これも、まだ、そうとは決まっていないこと。
決まってもいない事を、今から不安に思い、考え、落ち込んだとすれば、それは、取り越し苦労。あまり、役に立つとは思えない。
 
 
 
色々と考えているうちに、武術的思考法とは、今の時代にぴったりな考え方だな、と思った。
なぜなら、不安なところをスタート地点にかんがえられるから。

あれがあったら楽しい、これがあったら楽しい、娯楽って楽しいところから始めるものだ。スポーツも近年では、相手を調べ上げ、自分にとって、より、有利な状況を作り、戦う事のほうが重要。

でも、これは、今の時代のように、明るさよりも不安の方が多いときにはあまり、役に立たない。特に、自分のように、つい、自虐的になってしまう性格の奴には(笑)
 
 
 
 
それでも、今、不安がきても、なんとなく、まあ、大丈夫、これをバネにして、なにが出来るんだろうと考えられるようになったのは、これまでの稽古のおかげというしかない。

武術(というよりは、甲野先生が、だけど)の研究稽古はひたすら、捨てにいく稽古。どれだけ、重要に思えるものをみつけたとしても、次の瞬間、感ずるものがあれば、遠慮なく、捨てる。
失う怖さを手放させてくれるのだ。

これは、技術というよりも、習慣なのかもしれない。
奥義を教えてもらってありがとう、というのではなく、稽古を続ける事、そういう考え方をする人を間近で感じ、供にすることで、優柔不断、自虐的な人間でも、前にドンドン進んでいく力を身につけられるのだ。
 
 
 
証拠は俺(笑)。
やっぱり体を通して、自分自身の持っているものを認識し、感性を高めていくしかないと思う。

これまでは、楽しさを与えてもらうだけで、充分楽しく明るくいけた時代だ。
私の年代はちょうど、ゲームやマンガの文化が爆発した時代。
週刊マンガなんか、600万部とか出てたもんなぁ

でも、だんだんとそういう、与えてもらう楽しみは、間に合わなくなる。楽しさを見つける力も必要なんだと思う。

探そう!と決めて、毎日を過ごしてみると、信じられないぐらい、予想不可能な楽しい事がたくさんあるのに気づく。

なんとなく、感じた事を書き連ねました。
グダグダですね(笑)

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