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2016年10月

外からの動き、中からの動き。

気づきはいつも突然現れます。
最近、その気づきが多くなった、と感じていますが、きっと、これまでも、気づくチャンスは同じようにあったのだろう、と思います。
 
今朝、浜松への移動中、口にクッキーを頬張りながらふと、気づいたことがありました。
それは、息に対して身体が動いている、と言うことです。
もちろん、呼吸は身体を動かします。しかし、今朝気づいた動きは、ただ動いた、というのではなく、息に対して、ぴったりと身体がついてくる感覚でした。
 
そして、すかさず、息と身体を意識をしましたが、これまで感じたことのない速さがあり、ゾクゾクとしました。
面白いのは、この発見をまだ、なにも、誰にも確かめてもらっていないにも関わらず、「確かだ」と認めている自分がいたことです。
 
 
 
これまで何度も気づきを得てきましたが、実際に誰かに抑えてもらう、と言うことで「確かさ」を得ていました。しかし、今日は気づいたことで身体が違うことを感じたのです。
 
 
 
実際にそれは確かに違う、と言うことがその後の稽古でわかりましたが、なぜ、そう感じたんだろう?と、帰りの道中ずっと、考えていました。
 
そして、一つ自分の中でこれまでとの違いを見つけました。
それは外から動くのと、中から動くのとの違いです。
 
 
 
これまでも、身体感覚を「中に」探ってきましたが、その感覚は「外に」ありました。
視覚、触覚、聴覚。これらの感覚を高めて、それまで気づけなかった動きを見つけ、扱う。そんな稽古です。
 
骨の感覚は中にありそうなものですが、それを探っている自分は骨の外にいました。
今日気づいた息は「鼻」です。鼻を意識するというのは「嗅覚」を意識すること。
その嗅覚をこれまで、外に向けていたのですが、口の中にある味覚から嗅覚につながったのではないか、そう思います。
 
 
 
嗅覚を中に向けて意識をする事で、鼻の奥に動きが生まれます。その動きが身体を動かしました。鼻の奥に生まれた動きは僅かですが、末端にたどり着いた時には相手を崩すには十分な動きとなります。
 
 
 
どんなに抑えられても動きたい。それが私の願望ですが、嗅覚から得られる情報は止められません。
視覚的なもの、触覚的な自分はびたりと合わせられると心に不安が生まれますが、匂いを遮断するのは簡単ではありません。僅かな隙間を見つけ、入り込む事ができます。
 
 
 
息をすることで生まれている動きに気づくことが出来たのも、息をするのも精一杯という、死にそうな立ち方に気づいたから。フラフラの肉体だから、息をするだけでも動いてくれました。これまでは、健康すぎる肉体がしっかりと、その揺れを抑えてしまっていたみたいです。
 
 
 
今週は大人の武道塾はありません。一人稽古の会にてしっかり確かめ、また、ご報告します。

願いとプレッシャーはセット。

何かを願ったとき、同時に、出来るかな?とプレッシャーを感じるはずです。
もし、プレッシャーを感じないなら、その願望は願いと言うよりも、計画、予定に近いかも知れません。予定や計画ならプレッシャーは要りませんから。
 
 
 
自信をなくすと、ついつい、余裕のある願望、つまり、計画出来る程度の事しか行動を起こさなくなりかねません。
本当はもっと、自分には出来るのに、自分で、行動を狭めてしまいます。 
 
 
 
稽古をする事で「プレッシャー」に対して慣れることが出来るようになります。プレッシャーについてよく分かるようになるからです。
 
稽古ではいきなり空を飛べ!という願いはたてません。今出来ることを少しだけ伸ばしていきます。外に大きな目標を持たず、ひたすら、内に意識を向けます。
 
 
 
内面に意識を向けても、それを「やれないこと」と自覚していると「プレッシャー」が生まれます。
稽古は研究です。使えるものは何でも使います。このプレッシャーも使うことが出来ないか?そう考えました。
 
探せば見つかるものです。プレッシャーは上から下へとのしかかってくるものでした。そして、その力は足下にある地面に「跳ね返って」来ていました。
上からの力にそのままのるのは難しいですが、下から跳ね返った後の力であれば乗ることができます。
 
 
 
大きな願いを立てたときにもこの経験は生かすことができます。
 
何かを願う。その時、プレッシャーが生まれるのは「当たり前」です。プレッシャーは願いとセットなのだ、とわかれば最初に出会ったプレッシャーに反射的に行動を止められなくなります。
 
むしろ、プレッシャーがあるから、強い行動にもする事ができます。
どんな願いがあっても、行動に移すことがなければ、運に頼るしかありません。しかし、現代は運という不確かな要素がドンドンなくなっています。行動する力を高めることこそ、運命を自分のものとする近道ではないでしょうか。
 
 
 
ちなみに、プレッシャーの力、上下の力は下駄を履くとよくわかります。冗談みたいなホントの話です(笑)
本当に、これ、試してもらいたいです!日本人の叡智です!

稽古の記録 2016/10/28

あまりにも次々と新しい事が出てきます。

稽古の記録として、残していこうと思いますので、気になるものがあった方は遠慮なく聞いてください。
 
ひとつひとつの気づきはそれだけでそれまでの動きを一変させるほど、パワフルなものですが、すぐに、別の形に変えてしまいます。ほとんどがなにかに気付くためのきっかけの役目をおっているかのようです。
 
備忘録として残します。
 
 
2016/10/28(金)
・頭だけになる感覚を確かめる。
頭に全身が隠れるように意識をすると、遠い足元への切込みに対しても反応ができる。
 
・ヒモの力を始めて実感する
いい感じのひもが道場にあったので頭に巻く。すると、頭が常に先に動き、剣を躱しやすい。また、斬り込みなど、体術においても、気配なく動くせいか威力が上がる。
 
・ヒモは3次元、刀は2次元、下駄は1次元か。
平紐を頭に巻くと丸紐に比べて動きにくい。ただ、平紐の時には、頭に前後の奥行きが生まれるのを感じる。頭に着物を着て刀を差した時の感覚が生まれた。その感覚にそって動くとよさそうだ。
また、下駄シールを貼ってみると、頭の奥に小さな点が感じられてこれも、いいかも。丸紐が頭蓋骨なら下駄は脳に響く。
 
・動きの元は頭、上半身、下半身。
それぞれ、役割が違う。主役を決め、あとは従うように。
 
 
以上。

五行思想と身体感覚

五行思想というのがあります。
あらゆる現象を「水木火土金」に分けて考えます。
これが良いんです。アタマの中が整理されて次の研究へと移しやすくなります。
 
 
 
五行思想をどこかで学んだわけではありません。
今から20年以上も前、鍼灸師の友人にこの思想の存在を教わりました。
以来、何となく、気にして、本を買ったり、ネットを見たり。そんな程度です。
 
 
 
最初に手に入れるのは知識です。
色にも五行があり、四季に五行があります。
私は記憶力が非常に足りないので、何度読み返しても、これまで研究されている五行思想の分類を覚えることが出来ませんでした。
 
 
 
興味はあっても身につかない、使えない、というのは悲しいですが、なぜだか、五行思想だけはずっと、興味を持ち続けることができました。
 
ただ、ある時、ただの知識だったものが身体的にわかったのです。
当然、身体の中にも五行はあります。鍼灸師などはそれを利用し身体を整えているのでしょう。
 
私が実感した五行は肩、肘、手首を当てはめたものでした。
肩の関節、肘の関節、手首の関節。それらがちょうど「火、土、金」に対応している気がしたのです。
 
 
 
細かい説明はまた他の機会に譲りますが、知識が身体とつながった体験でした。
その後、「木」は背骨、「水」は仙骨だ!と理解はつながりました。
 
これが合っているかどうかは分かりません。正当な五行を学んでいる人からすればそんなもの!と言われるかもしれません。
しかし、現時点で納得を得ながら、身体を動かすことができるというのは私にとっては大切な事でした。
 
 
 
身体感覚のおかげで、知識だけであった五行思想への信頼が確かになりました。
五行思想というこの宇宙を説明する理論に信頼を持てるとそこからまた、色々な事を想像していくことができます。
 
 
 
このブログのカテゴリーにある「水木火土金」は五行思想に当てはめたものです。もちろん、勝手に(笑)。
 
私は研究する事、追い求める事がなにより好きなのだ、とわかりました。今こうだ、と思っていることもこの先、新しい理解とともに変わっていくはずです。
その時にも五行思想が助けてくれるはずですし、いつか、五行思想に当てはめられないものを見つけたいとも思っています。
 
 
 
五行思想は宇宙を説明すると書きました。
宇宙は広大です。それは誰もが知っています。しかし、この身体も広大なのです。
誰かが身体のことを小宇宙と言いました。
 
誰もが宇宙に住み、身体という宇宙を持ち生きているんです。こんな凄いものを研究しないなんてもったいない!本当にそう思います。
 
私は勝手に、研究をして、身体で確かめています。最初、自分が研究しているだなんて…と、考えるだけで恥ずかしかったです。
しかし、今では、恥ずかしいと思い、研究を公言しなかった時間の方がもったいなかったなぁ、と思います。ぜひ、ドンドン自分を探してください。

願いが叶わないのではなく、叶っているとしたら…

左右の密着によって気づかされた事があります。こんなにも自分は迷っていたのだなぁと言うことです。無意識の部分なので気づきませんでした。
 
左でも右でも、好みの方に密着させる。すると身体は窮屈になります。動けなくなりますが、実際に仕事をするのは腕や脚です。
これまで、腕や脚の自由を奪っていたのが体幹なのだ、とわかりました。
 
もしかしたら、筋肉、特にインナーマッスルを鍛えて成果を上げようとする試みはこれと似ているかもしれません。
ただ、左右の密着は筋トレが要りませんから、楽々です(笑)
 
 
 
迷いがなくなってきた事で一つ、ひらめく事がありました。
それは願いをどう叶えるのか?と言う問題です。
願えば叶う、それが願望実現の力です。そのためにありがとうを言ったり、笑顔を作ったり、みんな、努力をしています。
 
 
 
でも、もしかしたら、もう、叶っているのが「今」ではないか、という事です。
 
なにかを「手に入れたい」という願望があって、願う、でも、手には入らない。この時、教えは間違っていたのか?と疑いを持ちます。
 
でも、もう、叶っているとしたら。
 
 
 
アタマの中では手に入る、入った!(完了形で行うのがメジャーですよね(笑))、と願ったつもりでも、無意識、心の奥では無理かもなぁ、と思ってしまっているわけです。
 
今、無理が現実になっているところで、努力をして、また、願っても、無理に無理を重ねるのですから、さらに無理が強力になりかねません。
 
まず、この無理の連鎖を止めなくてはいけない、そう思いました。
 
 
 
稽古を通してわかった事は人間は成長すると言うことです。これは人はすぐに飽きちゃう、という意味でもあります。
夢にまで見た世界を手に入れたとしても、すぐに普通になり、飽きるのです。
 
この力を使わない手はありません。
稽古を通した研究は成長力を自分の中に見ることができます。自分には出来る、どこまで出来るようになるのか分からない、という気持ちを得ることが出来るようになります。
 
 
 
一旦うまく行かなかった事に出会ったときは、出来るところまで気持ちを戻します。
一気に戻してもかまいません。
形有るもの、特に値段がついているものであればお金を基準にしてもいいでしょう。
 
とにかく、悪い循環に入っている事を自覚し、その流れを変えることに目を向けるのです。
 
 
 
これはドン底の自分を見つけるという作業かもしれません。
その底からであれば、少し楽になるための方法は見つかりやすいし、うまくいきます。失敗したとしても、ドン底に戻るだけ、また、チャレンジができます。
 
 
 
身体は行動する事の大切さを教えてくれました。
武術の世界では肉体的な行動ではなく、思考的な行動で相手を倒す技も存在しますが、それは、武術で学ぶよりもビジネスなどの世界の方が学びやすいです。
 
行動するときの姿勢、それが思考を助けてくれます。思考的によく分からなくても、納得できる姿勢をとり、行動する。
これも一つの答えです。迷いは特に身体に出ます。その迷いを取ることができたら望んでいた循環に入ることが出来ます。
 
姿勢の力はもっと、見直されてもいいんだけどなぁ。姿勢よりも、成果の方に注意が向けられているのが現代です。
姿勢だなんて、後回し!そんな事を思わず、姿勢を整え、好きなことにチャレンジしてみてください。

感情のコントロール

やるべき事が分かっていても怖いことがあります。仕事でも、日常生活でも、です。
特に現代はあらゆる問題に答えがありますね。
 
答えがないような問題でも、これが答えだ!と大きな声で主張している人はいます。その人間を信用するなら、それは、答えを手に入れたのと同じです。
 
 
 
問題はその答えを実行に移すとき、怖い、と思ってしまった時です。感情が揺れてしまった時です。
 
感情がポジティブに揺れてしまった時には気にしませんが、恐怖のように身体を緊張させてしまうと、せっかく答えを持っていても、それをうまく行うことはできません。
 
 
 
しかし、私たちは普通、義務教育の中で感情のコントロールを学びません。
もしかしたら、近代日本の前は社会全体に「我慢」という雰囲気があり、それによって、感情を爆発させない、とさせていたかもしれません。また、覚悟のようなものがもっと、身近にあったかもしれません。
 
ただ、現代は感情を引き出され、ビジネスに活かされる時代です。
保険、医療など、不安を生み出させて行動に移させます。不安を自覚させ、我慢するという事は決してありません。
 
生み出された感情をコントロールし、次の行動に移すことができるのに、それを学ぶチャンスがありません。
 
 
身体感覚の稽古はまさに、それが学べます。
ルールにそった戦いはルールによって身を守られます。ルールを信頼すれば、感情を揺らさないですみますから有利ですが、そのままでは、現実の社会では役に立たないものになります。
 
 
 
最近はどこも、クレームが多くなっているそうです。誰かが我慢をして乗り切る方法は、いつか、自分に順番が回ってくるかもしれませんから、得策ではありません。
 
誰もが、なにがあっても、心を揺らさないように感情のコントロールができる、と求め始めたらいいのに、と思いますが、中々そういう発想には向かないようです。
 
 
 
最近気づいたことがあります。
これまで、感情と身体は関連が有る、と分かってはいましたが、より、細かく、その関連に気づきました。
 
感情を生み出すのは体の中でも体幹部、特に、上半身ではないか、と言うことです。
体幹部には多くの内臓があります。それに関係しているのかもしれません。
内臓を自覚するのは難しいですが、体幹という肉体は目に見えますし、触れることも出来るので手がかりになります。
 
 
感情のコントロールを求めた時、いきなり、すべての感情を制御する必要はありません。まず第一歩が「ある」とわかることが大切です。
そして、少しずつ、コントロールできるという自信をつけていくと良いはずです。
 
 
 
身体を捻ってはいけない。
 
これが私が稽古を始めたときの手がかりでした。
でも、最初、なにが捻れて、捻れていないかということ自体が分からなかったのです。身体を捻る、捻らない、だなんて、私の中には基準がありませんでした。
 
 
しかし、今、その言葉がまた、私を助けてくれます。
なにかに気づく度にあぁ、こんなにもまだ捻ってしまっていたのかぁ、とわかるんです。
その僅かな捻れが身体を歪まし、その瞬間、感情も動いてしまっていたのを感じます。
 
 
 
手順にすれば、怖さを和らげる姿勢や動きは作ることができます。最初の手がかりとしては良いかもしれません。
しかし、それで安心してはまた、大きなアクシデントで心が揺らされてしまいます。
 
大切なのは自分でなんとかする、と言うこと。
人それぞれ、感情が動くポイントが違います。それを身体を手がかりに確かめていけば、徐々に身体の声というものが聞こえてくるはずです。
 
明日、明後日、感情コントロールを手に入れなければいけないのではないですよね。
一生を通して、自分と向き合うとき、感情は心の状態を表してくれる強力な手がかりです。
 
こんな研究をしなくても、人生は続くし、楽しく過ごせるでしょう。でも、この研究で、自分のことがより深く分かるかもしれません。もし、そんな興味があるなら、ぜひ、チャレンジしてみてください。必要なものはなにもありません。ただ、自分に向き合うだけでいいのです。
そのお手伝いはいくらでも、させていただきます。

バカと天才は紙一重

私は刃物が苦手です。もう、何十年も「武」の世界にいますがどれだけ肉体を鍛えても敵わない「武器」にいつも気持ちが負けます。
 
 
 
しかし、実際の生活で刃物によって襲われる事はほとんどありません。
武道の技を教えていても、今の日本の武道のレベルでは、刃物に対して真剣に向き合う場所は少なくなっていますから、困ることはありません。
 
「刃物が怖い」なんて気にせず、表に出さず、堂々と威張って技を教えていればいいのは「わかります」。
 
しかし、それは本当の自分に嘘をついていることになるので、出来ませんでした。
 
ただ、なんとかしたい、そんな気持ちをずっと持ち続けて研究する事が出来たので、やっと、刃物に対して、向き合う一歩を見つけたわけです。30年もかかってしまいました(笑)
 
 
 
武器を前にして普通でいられるってのは変な感じです。
でも、実は、普通でいられる人は多いんです。
どんなに目の前に武器をちらつかされても微動だにしない人がいます。
 
 
 
その姿をみると、まさに達人!
しかし、その後が…。
 
その後、実際に攻撃をされると当然ながら、やられるわけです。しかも、微動だにせず(笑)
 
反射がないのです。
怖い、という経験が無いからこそ、身体が反応しないのではないのかな、と考えています。
経験もなければ想像もしない。目の前に自分を壊すモノが現れても、変化が起きないのは鈍感だから。
 
 
事が起こる前までは達人と変わりません。達人も鈍感に見えます。
事が起こった後、死んでしまってはどうしようもありません。
達人は鈍感に見えますが、一度事が起これば、超敏感に身体を動かします。
似ていますが、全く、違うものなのです。
 
 
 
スピリチュアルな考え方で行けば、攻撃をされる、という状況すら考えなければそれでいい、と言うかもしれません。
不安という想像も現実になるのですから。
 
 
 
確かに、刃物や拳で襲われることは有りませんが、私たちはこの世に肉体をもって生まれているわけです。
 
歳を取ることによって、徐々に肉体は重くなるわけです。見えない敵が肉体にどっしりとのしかかってきます。特に、日本人は。
 
これは避けられないこと、肉体を持ち、地球に暮らす以上避けられません。宿命です。
 
 
 
だからこそ、私は今から、肉体が使えなくなって行ったときの事を考えます。動けなくなるのが怖いからです。
 
機械や人を使えば自分が動けなくても仕事を出来るかもしれません。でも、私は自分の身体で「動いている」、それを命がつきる最後まで感じていたいと思いました。
 
 
 
歳を重ねて老いたとしても、怖くない。そう思う人も多いはず。
むしろ、死ぬ直前を考えて生きている人を探す方が難しいです。
しかし、それが本当に怖くないことなのか、想像できないから怖くないのか、ぜひ、考えてみてください。
 
その結果、ものすごい恐怖に出会うかもしれません。
こんな怖れは感じたくなかった、と思うかもしれません。しかし、それは自分の中から生まれてきたもの。いつか、必ず芽を出したものです。
 
しかし、それでも、大丈夫。
稽古は生きる死ぬを普通の生活をしながら実感をするもの、出来るものです。
求めれば必ず、答え、納得は得られます。
 
刃物に対して向き合うのに30年かかりました。入り口を見つけるだけにです(笑)

生きること、死ぬこともこの先、ずっと、追い求めるつもりです。何年かかるのかな?でも、その求める間、その時間も研究、稽古は楽しい時間にさせてくれるのです。
そんな楽しい事を伝えたいと思っています。 
 
 

ドン底のさらに底

身体を半分にする内観を使い、息をするのも精いっぱい、そんな姿勢を作りました。

「ドン底」の姿勢です。
 
この時、敵が現れたとするとどうなるか?
ドン底なのに、そこにさらに敵が加わります。
ドン底ですからもう、その下はありません。身体の下にあるのは「地面」のみです。
 
 
 
身体があって、地面がある。
こんなに恵まれていることはありません。
どんなに外に嫌なことがあっても、足元には地面があります。
どんなに自分の中に力がないように思えて、がっかりしても、地面があれば、それを活かす、いや、それに助けてもらうことができます。
 
 
 
便利な機械やサービスがあると、自分の身体を使わず助けてもらえるかもしれません。
しかし、そうして救われると、「また、ドン底に落ちたらどうしよう?」、そんな怖れが出てくるかもしれません。
 
自分がなにも持っていなくても何とかなる、それを身体は教えてくれます。ドン底になってもなんとかなる、そんな思いこそ、自信の源になります。
 
 
 
運命という重い言葉。
何とかしよう、何とかしたい、生きること、生きていることを実感したい、と思った時、身体で感じる事ができます。
 
自分の中で大きく、重くすればするほど、納得へは時間がかかります。
しかし、稽古は研究そのものです。
自分の身体を通して、少しずつ分かることが増えると自然に持っている疑問も解決していきます。
納得を得るための便利な機械もサービスもありません。自分が自分で求めるぞ、そんな決意だけが納得への入り口です。
 
 
 
稽古の仕方、研究の仕方はいくらでもお伝えします。意外と簡単なんですよ。
ぜひ、自分の人生を実感してください。
 
 
 

分かる言葉、分からない言葉に要注意

ブログを書き出した事で、思っても見なかった言葉が山ほど出てきて自分でも驚いています。作文がなにより、苦手だったのに(笑)
面白いのは、自分が書いた文章を読み返したとき、本当に自分が書いたのかよくわからない時があります。その瞬間、身体に生まれている感覚に従って書いているからでしょうか(笑)
 
 
 
さて、書きまくってきてふと、思った事があります。
それは「分かる言葉」と「分からない言葉」についてです。
 
最近書いた記事に「左右の密着」というのがあります。
体幹を左半身と右半身と分けて考えて、右半身を左半身にぴったりとくっつけるという使い方です。
それによって、重心は左半身の右断面に沿って落ちることになります。
言葉は理解できなくても、動きとしての働きはわかりますので、そこでまた、頭は混乱します。

 
こんな説明をすると百人が百人、「分からない」といいます。その「分からない」を手がかりに稽古を進めるのですが、徐々に理解は進みます。求めれば、必ず、答えは得られます。
 
 
しかし、ここで一つ疑問が生まれます。
「分からない」という言葉は分からない、という興味を持たせてくれて追求する事ができます。
しかし、「分かってしまった言葉」はどうでしょう。
分かってしまったから、スルーされてしまいます。
 
 
 
左右の密着と関係させてみると、「正中線」がそれに当たります。
正中線を「分からない」と考え求めている人がどれだけいるでしょう。武道、スポーツの世界ではあまりにも当たり前の言葉です。つい、わかった、わかった、と「分かったつもり」になってしまったかもしれません。
「分かったつもり」になり、追求を止めてしまった言葉がどれだけあったのでしょう。

言葉は難しいですね。しかし、面白いです。丁寧に向き合わなくては。

「立つ」ということについて、その2

先週、「立つ」ということについて新たな感覚があったのでそれを報告しました。
ちょうど、翌日が甲野先生の稽古だったので、恐らく、新たな気づきをもらえるはず、と書きました。
 
そして、それは予想通り出てきたので、また、ご報告いたします。
新たなもの見せてくれる、それは予想通りでしたが、中身はいつも、予想外!まさか、こんな方法があるとは…、でした。
 
 
 
前回お知らせした「立つ」ですが、前提として「死にそう」な時と、設定しました。その上で「立つ」となれば、立つために相当な意味、覚悟、気力が必要だろう、と。
生な肉体で立つのではなく、肉体とは違う気力で立てることが分かったのです。
 
今回の気づきも、「死にそうな」という前提は同じなのですが、バランスをとる新たな場所が見つかりました。
倒れそうだ、と意識をして立ってみると、足裏の意識が強くなります。自然と肉体と地面との間でバランスをやりとりする事になります。
 
しかし、もう一つバランスをとれる場所がありました。
それは「頭」それも「脳」です。
フラフラな時、もう立ってもいられない状態で脳を動かすと、バランスが取れるのです。
 
ただ、この時の「動かす」は脳の持つ高次元的能力ではなく、位置としてです(笑)。
 
 
 
脳が五感からの情報を受け取り現実を作っている、というのは実に夢のある話です。ただ、今回はそこには触れません。むしろ、それじゃない脳の使い方があったのでびっくりしています。
 
足裏のバランスに気がついてすぐでしたが、しっかりと、受け止めて稽古をしてもらったので、それに対応する動きも少しずつ見えてきました。
肉体ではなく気力で立つ、という突飛な考えも、しっかりと観察をすれば動きが見えてきます。
足裏の地面に従うように動いているので、そこを注意してもらうと、対応ができそうな気もします。
しかし、脳は外からは見えません。
わずかに脳が動いたとき、瞬時に肉体は動きます。そもそもが倒れそうなのですから、すぐに動きます。
見えない部分が初動になるのですから、相手もちょっとやりにくいわけです。
 
 
 
前回のブログで「浮いているよう」と書きましたが、下と上、それぞれでバランスがとれることがわかり比べてみると、やはり上でバランスをとった方が「浮いている」ようです。このあたりはここで訂正しておきます。
 
 
 
今後、この動きがどう展開していくのか、全く分かりません。
今、一つのヒントがあります。どうやら、この脳と指先には強い連動がありそうだ、ということ。
指先の動きに従い脳が場所を変えれば、その瞬間、体幹部の位置も動き、まとまりそうです。
これまでよりも、正確で、速い動きが可能になるかもしれない、そんな予感があります。
 
そして、なにより、この脳が動く感覚は「頭痛」との関係が深そうです。
激しい頭痛がある時、それは、細かな脳の動きに対して、頑固で動かない肉体を作ってしまった結果、アタマの中で衝突が起きているかもしれないなぁ、と考えました。
 
 
 
全く新しい動きがでると俄然やる気がでます。
それを追い求めた結果、一時的にも下手になったとしても全然気になりません。それよりも、この新しい動きは自分をどう自由にさせてくれるのだろうか、とワクワクします。
また、気になることがみつかれば報告します。

問題の答えはいつも二つある

答えは常に二つあります。
今の時代は問題に出会った時、すぐに答えが見つかります。
昔なら「秘伝」として秘密にされたことが今は商品として売られているわけですから。
書店に行けばたくさんの答えがあるので、運が良ければ一つ目の答えで問題が解決してしまうかもしれません。
 
 
 
しかし、また、新たな問題が出て来ます。それは問題を解決する答えに出会えない時です。
一つの問題に対してたくさんの答えがあるので、答えを試し続ければ良いのですが、何度もうまく行かないことを経験すると、諦めが生まれてしまったりしますよね。
私はこの「自分を信じられない」という問題に苦しめられました。
 
 
 
たまたま、私は「稽古」に出会い、「研究」をし始めました。
研究が教えてくれたのは自分は変わっていく、という事です。
答えを一つでも手に入れていれば、後はそれに合う自分に「変わっていけばいい」という事になります。
時間はかかるかも知れませんが、確実に答えへと近づくことができます。
 
 
 
新しい自分をいくつか見ていくと面白い事がわかります。
それは「答えは二つある」と言うことです。
 
ある問題を解決するのに速く動いてもうまく行くし、遅く動いてもうまく行きます。
大きく動いてもうまく行くし、小さく動いてもうまく行きます。
相手の事を考えてもうまく行くし、自分の事を考えてもうまく行きます。
 
最近見つけたのは、自分のバランスを足裏の下でとってもうまく行くし、頭の中、脳みその辺りでとってもうまく行くという事です。
 
 
 
人間には「飽きる」という能力が標準装備されています。
飽きているのにそれをやることは自分に嘘をついていることです。
ただ普通は仕事として結果を求められますから、飽きていても、同じ事をしてしまうものです。
 
 
 
研究をすれば結果が得られます。
その結果があれば生きることを「楽に」する事ができるかもしれません。
しかし、それが「楽しい」かどうかは自分に問いかけなくてはいけません。
飽きてはいないだろうか?ワクワク楽しんでいるだろうか?
 
 
 
研究が上手になる、というのは結果に囚われなくなる事かも知れません。
気づいたことを隠すことなく、全部伝える。カラダラボの稽古はそれを行えるようにしてあります。
 
秘密にしておけば技はかかり続けるので勝ち負けで言えば気分は良いかもしれません。
でも、心の奥にはもっと新しい自分を見たい〜という気持ちがあるかもしれません。まだまだ、すごいことが出来る自分が必ずいるんです。
 
 
 
実は研究上手になって秘密を全部伝えると良いことがあります。
それは自分の中に新しい問題が生まれると言うこと。
秘密、秘訣を伝えるのですから、相手はそれを抑えてきます。技がかかりにくくなるのです。でも、この経験、体験が心になんとかしたい!という必然性を生みます。

どうしても解決したい、そういう思いがなくては答えは見つかりません。
なかなか、外の世界、日常生活の世界でこんな体験は難しいです。
あまりにも便利になったので、どうしてもしたいことが減ったからです。
研究上手になるために稽古をする。そんな思いで来てくれると私もやる気がでます(笑)
 
 
 
各地でいろんな稽古、講座、研究会を行っていますので、興味に従いお越しください。

カラダラボのウェブサイト

臆病の効用

私の性格の一つに「臆病」というのがあります。
一応、子供の頃から武道を行ってきたので、強くなければ、と思っていました。しかし、技は身についても、それを使い切る気持ちがなかなか持てませんでした。
中途半端な自分を嫌い出すきっかけになっていた性格かもしれません。
なんとかしようとあれこれ、工夫や勉強もしましたが、「基本的」な性格はなかなか変わらないのです。
 
 
 
変わる性格もあれば変わらない性格もあります。
変わらない性格には活かし方を変えればいい、稽古はそう教えてくれます。
そして、昨日の稽古で「臆病」を使う新たな身体操法が見つかったのです。まさか、こんな効用があったとは!

今まで、思い切りが良く、勇気がある人をみて羨ましく、憧れていましたが、彼らにはこの臆病から生まれる力がきっと、わからないだろうなぁ(笑)うまく伝えることができるだろうか?今、そんな心配をしています。
 
 
 
臆病者の私は怖いものが来たとき、「指先」が迷います。
どこに指を置けばいいのか、居場所がなくなります。
この指先のまま相手の攻撃を受けると、大抵、衝突した際、力みが生まれます。なぜなら、ぴったりと寄り添っていないから。
しかし、この「ズレ」に今まで気づくことはありませんでした。理由は「全てがそうだったから」です。

自分の動きだけではなく、他者からの動きもズレがあるからケンカになります。
ズレているのが当たり前なのですから、誰も問題にしません。
 
 
 
このズレを解決するにはぴったりと合わせる、それが一つの答えです。
しかし、それを行うには無数のズレの中からぴったりとあうという奇跡的なポイントを見つけなくてはいけません。
この時、臆病による、指先の迷いが役に立つのです。

指先の動きを迷いと考えるとそれは無駄に見えます。
しかし、その細かい動きを予測と考えれば相手とぴったりと合う確率はグンと上がります。
 
 
 
コーヒーカップをつまんでみました。
普通に取るときと、臆病さを再現し、指先を見えないほど振動させ、そぉ〜と取ります。
振動させながらカップを取るとその瞬間、体のまとまりを感じます。
カップを取るだけですから、多くの人は必要としない精度です。しかし、この精度は相手と触れた瞬間崩す技になり、どんな場所でも、自分らしくいるための精度です。
自分の中にこんな力が隠れていただなんて、その喜びは研究する事でしか得られません。
 
 
 
実はこの動きに気づくためにもう一つ大切な感覚があります。
それは指先と目線が繋がっている、という事です。
指先の先に目線が行きます。その目線が頭を導き、身体全体を動かします。
古い伝書に技は手に導かれるように、というのがあったそうです。中心からの動くのではなく、指先から動く、それを実感しました。
 
もう少し確かめて、また、言葉にします。

本当にやりたいことに出会うためには。

世の中は便利になって、自由になって、やれる事は増えたけれども、それが本当にやりたい事かはわからないものですね。
 
テレビや雑誌、こちらから見れば夢を叶えたような人であっても、そこに満足せずに今を投げ打って新しいものにチャレンジする人もいます。
チャレンジは見ていて楽しいものですが、本当にやりたい事に向かわず、そこに居続けることで魅力を失えていく姿を見ていると、少し、辛いです。
 
 
 
本当にやりたいことは何だろう?
多くの人が「頭」で考えます。
多くの人が考えて、ちゃんと答えに向かえればいいですが、どうやら、これだ!という答えは見つかっていないみたい。
本当にやりたい事はなかなか見つからない、私はずっとそんな思いでいました。
 
 
 
先日の稽古で「立つ」事の理解が広がりました。その結果、見えてきたのは、本当にやりたい事の見つけ方です。
本当にやりたいことは命が尽きる瞬間でも行いたい、と思うことなのだ、そう感じました。
 
それに気づいたきっかけは肺を半分にし、胃を半分に、心臓を半分にしたとしたら、その瞬間、立っているのも精一杯だろうなぁ、と研究しはじめた事です。
「立つ」という事を本当にやりたい事として表現できた実感があったのです。
 
 
 
武術ですから、自分勝手ではいけません。
目の前に敵がいます。敵がコチラに攻撃を仕掛けてきます。その攻撃をどう受け入れるか、それを考えなくてはいけません。
 
本当にやりたいこと…を考えてうまく行かないのは自分勝手に自分の事だけを考えるから。おそらく、周りにいる他の人も本当にやりたい事を求めているのでしょう、無意識の中で。そこに衝突が生まれ、より強い意志を持った人の本当にやりたいことが現れます。
 
武術は常に相手との共同作業です。
「立つ」という事を本当にやりたい事にするために、まず、「立てない自分」を作りました。
これまで考えたことのない肺や心臓の事を考え、これらが働かなくなったときの自分を想像します。この想像、イメージが内観的な稽古のお陰でリアリティを持ち出したのかもしれません。内臓を弱くする事で意識の中で「立てない自分」が生まれました。
 
この時、他に力がなければそのまま倒れるだけですが、この時、気力が残っているのではないかとひらめきました。
息をするのも精一杯、これは「ドン底」です。
ドン底なのにさらに怖い、というのは本当のドン底ではなかっただけ。
本当にドン底にいたら、相手がいくら邪魔をしてこようが気にする余裕がないのではないか、そう思えてきました。
 
 
 
そういう気持ちで立ってみると、相手がいてもいなくても、自分の意識はひたすら、足元です。バランスを取ることに専念します。
それが気力のようなもの。形としてないけど存在している力です。
その力はバランスを取るだけ。それを動かしてみると、結果的に身体全体が動き、技になる。そんな仕組みを自覚しました。
 
 
 
仕組みがわかれば後は応用。
運命として、人生の中でその仕組みを使うにはどうしたらいいのか考えたくなります。
本当に自分のやりたい事とはなんだろう?
その問い持ったとき、命を意識しない状況ではだめだな、とわかります。
しかし、今の私はそんな命の危機はありません。ただ、稽古でなら内観力を育てる事ができます。少しずつ、身体を手放すことにリアリティを持てば、本当にやりたいことの「精度」が上がるはず。
本当にやりたい事が見つかるかもしれない、それがわかったので、それを、求めること。これも研究の一つになります。
 
 
研究を癖にすると、安心はありません(笑)
わかっても、また、次のレベルを求めるからです。
これを楽しむために稽古があります。ぜひ、一度、お試しください。

「立つ」ということ

さっき書いた心臓の事、肺の事、内臓が弱っていたとしたら…、それを思い、身体に表し、稽古をしてみました。
 
改めて「立つ」という事を当たり前に受け入れてしまっているんだなぁ、と。
 
 
 
今のわたしは「立つ」事を苦にすることはありません。
もちろん、長く立っていたり、邪魔する相手が出てきた時には「立てなく」なります。
しかし、普通に「一秒立つ」のに「苦しさ」は感じません。
 
でも、もし、その一秒も立てないほど肉体が弱っているとしたら…。
その時、やりたい事がなければ横になったままでもいいでしょう。
しかし、心の中に立ちたい、立って何かやりたい、という思いがあれば、肉体を補うように内観的な力が必要になるかもしれない、そう思いました。
肉体で立てないからこそ、内観が働かせる事ができる、そう思っています。
肉体と内観、合わせて100%なんです。
 
 
 
生な体、肉体で立てない時、意識は足裏に行くように思えます。重力があり、地面とぶつかっているのですから。
その地面との接触をどうするのか、感覚はいつも、そこにあるのではないでしょうか。
この時、他者が襲ってきても、もともと、気にする必要があるのは足裏の地面です。敵を敵として見ない、それを身体で表現する事ができそうです。
 
 
 
この立ち方を試してみると、なんだか、ずっと、浮いている感じがします。相手に押されてもそれは維持をし続けるような。相手までも、足元の力が抜け、浮いているそうです。
積極的に肉体を捨てるように意識をする、というのは変な話です。
病気の話を聞いたからこそ、想像するきっかけを得ることができました。
この「手放す感じ」は身体があってこその感覚。単なるイメージとは全く違うことです。
手放すのですが、なくてはならない、そんな思いが出てきます。
 
明日、甲野先生からまた、たくさんのものを受け取るはず。そこに化学変化がおきて、今考えているものとは全く違う術理になってしまうのだろうと思います。
今の動きは「超しょんぼり」。研究できるのもあとわずかの命かも知れません(笑)
明日、みんなに受けてもらい、感想を集めてみたいと思います。ご協力よろしくお願いします。

自分を変えるきっかけ。

学校卒業、入学、進学、就職、恋愛、失恋、結婚、誕生…生きている間にはたくさんのイベントがありますね。
そのイベントをきっかけにして「変わりたい」と思う人、実際に「変わった」人、いるかと思います。
イベントが起こると環境が変わるので、その力を借りる事で「変わるぞ!」と強い気持ちが出るのでしょうか。
 
 
 
私はそれらのイベントでは変わらなかった人。いつも、こんな自分は嫌だ、と、変わりたいという気持ちはありましたが、自分から変化に踏み出すことなく生きてきました。
 
でも、今は信じられないほど変化を受け入れているなぁ、と思いました。
身体の感覚を探り、新たなものを見つけ、それを基準にすると、難しかった事が簡単に見え、嫌いなもの、避けたいものが受け入れられるようになります。
イベントで変わるのではなく、身体で変わるのです。
 
 
 
この方法はとても大きなメリットがあります。
それは毎日が新しい自分になるチャンスになる、という事です。
入学や卒業などのイベントは節目にしかやってきません。毎イベントを逃さないように意識するのは少し、疲れそうです(笑)
しかし、身体を見続ける事はいつでもできる事です。
そして、突然、新しい感覚に気づいたりするのです。
 
 
 
もしかしたら、その変化はイベントでの変身よりも小さなものかもしれません。
新しいコーヒーの飲み方を見つけても、それほど、人生は変わらないかもしれません(笑)。
しかし、その変身の積み重ねが変化に強い自分を作ります。
積み重ねることによって、それまで、見逃していた小さなものを見つけやすくなるかもしれません。
変化なんてしたくない、今、絶好調で強い自分を感じている人はそう思うかもしれません。
しかし、人間は誰もが「老います」、変化をきらっても必ず、変化はやってくるのです。
 
 
 
先日、病気の事を聞きました。肺を切除するかも、というお話です。
また、心肺停止にもなった、という、話も聞きました。病気について考える機会の多い一週間でした。

そして、ふと、思いました。
今、自分がそうなったらどうだろう?
病気を嫌うのは簡単です。命に関わるものならさらに、です。
しかし、物事には嫌なものだけではない、という事を稽古は教えてくれました。
命に関わる病気を通して、それを心から望める気持ちになるには何かないだろうか?と問いが生まれます。
 
 
 
問えば応えてくれるのが私達の脳。それを助けるのが身体です。
今、大切にしている術理は「折りたたむ事」、これは「手放す事」と同意です。
身体を半分手放せば、心配もなくなり、新しく前向きな気持ちが増える事がわかっています。

肺を切る、胃を切る、心臓の力が弱くなる。内臓を「半分」手放してみたときの事を想像すると身体がぎゅ、と小さくなる感覚を受けました。
小さくなる感じが、折りたたみによって生まれる心配の無さと似ているんです。
 
 
 
病気になろう!とおもってもなれないのが人間の不思議。
薄着で寝て、朝方の寒さで風邪を引くこともあれば、真冬に裸で外に出ればより、健康になってしまったりもします(笑)
ただ、手放すことを身につければ、小さくなる、失う、弱くなるという方向にも光が見えそうです。
 
こんな考え方が出来るようになったのはまさに、稽古、研究のおかげです。
命に関わる病気になるにはもう少し時間があると思います。それまですっと、問い続けて行くつもりです(笑)

シンクロニシティについて

今さっき、思いついた事があったので心に感動のあるうちに言葉にしておこうと思います。

シンクロニシティという言葉があります。願望実現系の本を読んだ事がある人ならよくご存知のはず。
 
 
 
願ったら忘れる。

これは願いを叶えようとする時、よく言われる事です。
あれこれ、思うのではなく、流れに身を任せれば望み通りのように偶然が重なりうまく行く、と。
 
色んなところで勉強しました(笑)
確かに変な偶然、不思議な偶然はあります。それをシンクロニシティだと言われればそうだよなぁ、と思います。しかし、それは上手く行っているからそう見えるだけで、そうじゃない時にもシンクロニシティはあるんじゃないか、そう考えてきました。
 
ただ、全く手がかりはつかないまま、十数年前経ちます。
 
 
 
さっき、本当につい先程、お風呂の中でハッと気づくことがありました。少しでも動くととんでしまいそうな感覚、まだ、言葉にもならない感覚です。
いま、こうして、文字にしながら、少しずつ、頭に刻んでいます。
 
 
ずっと、手がかりのなかった「シンクロニシティ」という言葉。
言葉として知ってはいても、偶然のものだし、どう、使えばいいのかわからないし、そもそも、使おうとする時点でシンクロニシティからは離れてしまうかも、と納得からは遠いものでした。
特に、私は武術で世界を考えています。
 
目の前に現れる刀。その刀を前にシンクロニシティを期待できる人を私は見た事がありません。武術という瞬間の世界では星占いも易も当然、シンクロニシティだって使えません(笑)
 
 
 
ただ、ここに納得へのヒントがありました。
私の武術はひたすら「身体」の感覚を掘り下げて作っています。
願望の世界は身体とは逆に「心」ではないか、と思いました。
心の世界でのシンクロニシティは他者との出会い。
自分の望む世界に辿り着くための他者との出会いをシンクロニシティ、と考えてみました。

大きな夢であればたくさんのシンクロニシティが必要です。
大勢の心がその瞬間、つながり、一つの大きな現実を作ります。
これを両端の一つとすると、身体はその逆を考えます。
 
ひたすら、一人、自分一人になっているのを考えました。
 
 
 
一人になったとき、そこに、シンクロニシティはないのか?
そう考えた時、身体自体がシンクロニシティの塊ではないか、そう思いつきました。
 
これまで稽古をしてきてわかってきたのは、私の体は「想像以上にバラバラだった」と言うことです。
もちろん、体幹、手足、指先、その全ては繋がっています。しかし、ほんの少し動いただけで身体の中のバランスは崩れ、内観的、感覚的にはバラバラになります。
 
このバラバラ感をとにかくなくす、整える事が私の稽古でした。ルールの中で一本二本とって金メダルを目指すというのはどうでもいいんです。
20年以上そんな事を考えながら稽古をしてきて、徐々に感覚的に整う感じ、崩れなくなる感じをみつけ、新しい身体に驚かされてきました。
そして、その整いだした身体を使っていると、目の前にいた敵がいなくなり、思い通りの方向へと進める実感を得るようになりました。
 
これは、人生だし、運命だ。身体ならそれを自分のものとする事ができる。そう思うようになりました。このブログを書き出したのもそれを伝えるためです。
 
 
 
バラバラだった身体が一つになって、一つの目標に向かい出す。すると、目の前が開けてきて進む事ができる。
こうして言葉にするとなんだか、シンクロニシティと同じように思えます。
 
 
 
身体の中に感じる一体感と相手との間に感じる一体感、共にシンクロニシティなんだ、それが今の私の納得です。
夢を描き、流れに身を任せるのは「望む未来」を先に作るという事です。その未来に導かれるように私は動かされ、また、ともにその未来を作る他者も導かれます。心は未来を描くのにはちょうどいいのかもしれません。
 
逆に身体は「過去からの積み重ね」です。
身体の仕組みはオギャーと生まれる前から、誰がデザインしたのかはわかりませんが積み重ねられてきたものです。大きな夢を描いた時、そこに進みたい、と意志をもてば一歩一歩足を踏み出せます。
この時、心に、自分ならできる、という強い意志が必要です。
自分の生まれや経験だけで自分にはできるという強い気持ちが作れるのならいいですが、少しでも迷いがあるなら、徹底的に過去へと向き合い、自分への信頼を得なくてはなりません。
 
稽古として過去へ戻ると言うのは、身体の仕組みを根本から見直す、と言うことです。ただ筋トレをするような消極的な練習では行けません。
なぜこの骨はここにあるのだろう?この筋はなんだ?肌ってのはどうしてこうなんだろう?
人間として「当たり前」の事に意味を見いだせた時、自分の身体は整い、一つにまとまります。
おそらく、掘り下げれば掘り下げるほど、それは大きくなるはずです。
 
ずいぶん、しっかりと研究してきたつもりですが、掘れば掘るほど、人間の可能性は大きくなり、途方にくれそうです(笑)
 
 
 
私は過去からのアプローチが好きです。なぜなら、夢を描くことが苦手だから。未だに、好きな未来はなんなのか、よくわかりません。
それでも、今よりもちょっと先の未来は幸せでいたいなぁ、と願う事ができます。
それを実現するために、まず、身体を整えます。身体の中にシンクロニシティを作る、今ならそう言えます。
そして、その身体を動かし、誰かと出会い、共同作業として現実を作る。
今日はこのアプローチがはっきりした記念すべき日になりました。
 
 
 
でも、きっと、この興奮もすぐに当たり前になって忘れるんです(笑)
いつも以上に読みにくい文章でした。ありがとうございます。
きっと、読まれたあなたは私のシンクロニシティに巻き込まれた人です(笑)

これからも考え続けて、今日のこの考えを超えるもの、より納得の得られるものを見つけたいと思います。

重力と責任、期待、覚悟の関係。

もし、この世界が無重力だったらどうなるんでしょうか?
いきなり変な事を聞きました。そんな事、あるわけありませんよね。
それでも、ちょっと、考えてみてください。
 
無重力の状態はどれも、居場所がない状態です。どこに何があっても許される状態といえます。
しかし、私達の世界には重力があり、モノの位置、自分の位置が決まっています。
決められた場所から動かされればすかさず注意を受けることもあります。
 
あまりにも、当たり前な「重力」。機械がなかった頃は間違いなく、この重力を私達は上手に使っていました。
しかし、今は重いものを持つ機会が少なくなったので、ついつい、忘れがちです。しかし、相変わらず重力は常に、働いています。
 
 
 
身体に重力がどう働いているのか、それがわかると楽に動くことが出来るようになります。
立っているとき、背中や肩に重さを感じる人もいるかもしれません。それらは肩こり、腰痛として痛みや重さを感じさせてくれますね。
この痛みがある時、上半身はなにもしていなくても、辛いです。肩こりのない人にはわからないですが、当事者はただ過ごすだけでも精一杯です。
それなのに、上半身で仕事をしなくてはならない、となると、もう、最初のハードルが高すぎですね。
 
この時、上半身を手放し、下半身に任せる、という選択が出来るとわかれば気持ちは楽になります。
具体的には腰椎の五番を仙骨に密着させるようにすると、上半身の力、力みは取れていきます。それと同時に上半身を動かしにくくなります。この不自由さがおそらく、この気付きを遠ざけていたのだと考えます。
実は上半身を手放してみると、下半身の動きがそのまま上半身を通り力が発揮されるのです。
 
立っているだけ、歩いているだけで不自由なことが自由を与えてくれる経験を得ることができるのです。
 
 
 
そして、座った姿勢では上と下の関係は逆になる事が多いようです。
上半身の重さが椅子や床とで仙骨を潰します。座っているだけで腰が痛くなるのは土台となる下半身がすでに潰されてしまっているからです。
この時、無理に腰を伸ばそうとすればまた、辛くなります。すでに下半身は頑張っているんですから。
ここでも、手放す事が役に立ちます。
 
腰を伸ばすのではなく、仙骨を腰椎五番に密着させるのです。
すると、下半身は座る、という役目から出られるので腰が楽に感じます。
この姿勢は下半身の自由を手放した姿勢。その結果、自由になるのは上半身です。
武道の代表的な練習方法である呼吸法、合気上げが楽になります。なにか特別な技を得るのではなく、ただ、上半身が自由になっただけで技になります。
 
  
 
不自由を得て自由になるのは「断捨離」と似ています。
たくさんのものがあれば、それだけ有利に思えますが、同時に迷いも生み、タイミングを遅らせます。
たくさんの力を手に入れてもうまく行かないのはタイミングがわるいからかもしれません。
あらゆる物事には「良い面」と「悪い面」があるのです。
それをわかっているはずなのに、やはり、手に入れたものを捨てるのは勇気がいりますね。
だから、まず、身体に「捨てる事」、「手放す事」の意義を感じる事が役に立つのです。
 
 
 
どれだけ手放したとしても身体は残ります。そして、重力がある限り、そこに力は生まれます。
重力というプレッシャーと戦うために武器を作り、機械を発達させてきました。
実は重力は精神的には責任や期待、覚悟に形を変えます。大きな夢を持てば同時にプレッシャーも大きくなります。その時、便利な機械があればいいですがその保証はありません。
夢を持てば上からの圧力も変わる。それを知っておけばいいんです。
心が弱くなっている時、つい、反射的には逃げてしまいがちです。しかし、その時、仕組みをわかっていれば行動を選択する事ができます。
 
 
 
誰にも等しく与えられているのが重力です。
これも「エネルギー」として使えるかもしれない、そんな気持ちで探っています。
これを力とする事が出来たら、自然は自分の味方になります。
 
 
 
色々難しく言葉にしましたが、これがわかってできる事はシンプルです。
立つ事、座る事、歩く事が楽になります。どんな仕事をする時にも身体が楽であればいいですよね。
心を落ち着ける瞑想だけではなく、身体を落ち着ける姿勢も探してみてください。

世の中をシンプルに考えるコツ

たくさんの知識を持つとたくさんの選択肢が生まれてきます。
たくさんの経験はたくさんの見方を作って、迷いも生みます。
子供の頃は皆、素直でシンプルです。私たちはいつの間にか、大人になって世の中を複雑に考えてしまいがちです。

どうしたら子供のように考え、行動できるか?

いつの間にか、そんな事を考えるようになりました。
 
 
 

複雑なものは価値があるように見えます。
機械なんかはそうですね。
成功している人の話はシンプルなものとテクニカルなものとに分かれますが、人気があるのはテクニカルなもののようです。
手順を踏めば自分にもできるかもしれない。複雑であればあるほどそんな気持ちにさせてくれます。
手順を踏める才能があればよかったのですが、私はいつも途中で躓きます。

そんな失敗を積み重ねたおかげでシンプルなものに希望を持つしかなくなりました(笑)
 
 
 
私が追究している身体はシンプルです。
この身体を前後、左右、上下にどう動かすだけかを考えています。

例えば苦手な場面に遭遇したとき、普通はその苦手を解決する答えを求めます。でも、私はとにかく、身体だけを考えます。
嫌なものと向き合い、負けてしまっているから気持ちが嫌な方へと向かいます。
この時、ほんの少し、前後左右上下に動かせば嫌が嫌でなくなる、それを何度か経験したおかけで身体の動かし方だけに集中できるようになりました。
相手は関係ないのですから、とっても楽です。
 
 
 
嫌な相手は悪者です。
悪をそのままにするのは理不尽ですから、頭には怒りが出てきます。
しかし、相手を変えるのは簡単ではありません。ケンカは同じレベルの間にだけ起こる、というのは本当の事です。
自分を動かす事で気持ちが変わる。心身一如を身体の方から行える、とわかると、まずは全力で自分がやれることをやればいい。それで物事が停滞せずに一歩先へと動きます。
 
 
 
最近、前後左右上下に加えて新しい要素が見えてきました。
それは自分の「大きさ」です。
リアルな自分の身体の大きさは瞬間的には変わりません。しかし、内観的、感覚的には小さくできる、それかわかりました。

左右の身体を折りたたむ。すると、意識的な身体の幅は半分です。
これは私が無意識に怖れをたくさん持っているからかもしれませんが、気にしなくてはいけない身体が半分になると、怖れも半分になり、その分、前を向く意識が増えてくれるようです。
実際の身体もバランスを左右のどちらか「だけで」取るようになり、重心のキャッチボールがなくなります。

「迷う」という行動は多くの場合「左右」です。
どちらにしようか、知識があればあるほど迷ってしまっていたのは、身体が左右へと動きすぎていたからです。
 
 
 
夜眠るとき、横になり、意識を内側に向けます。
左右を半分に、そして、上下も半分にします。寝ている姿勢は仙骨を腰椎五番に密着するように折りたたむと、上半身の動きが良くなります。呼吸が深く、大きくなる感じがあります。無意識に下半身の事を考えているのですね。
そして、お腹を背中に貼り付けるようにすると前後も半分です。
普通の動きの中ではまだこれほどの余裕はありませんが、眠るときのようにリラックスできる場所なら、ずいぶんと想像力を働かせられるようになってきました。
 
 
 
無意識領域を理解するのに睡眠は非常に大切だ、と言われます。
多くの流儀で眠る時には「赤子のように」と言われているのも無関係ではないでしょう。
理屈はわかっても、身体的には子供に戻れなければ無意識の力みが夢見を悪くするかもしれません。
夢の世界の話はまだまだ、答えの出ない領域です。だからこそ、自分で研究する事が必要になります。

夜眠らない人はいません。
毎日眠るのです。眠るとは何だろう?そう思い求めるのも運命とはなにか、そこにヒントをくれる気がします。

運命が動かせるかよりもどうなっているのか知りたい

自分の気持ちを言葉にするのが苦手だったので、ずっと、やれるかどうか、目に見えるもの、つまり、結果に囚われていたようです。
学校では◯✕、点数で判断されるし、スポーツも勝ち負けを競います。仕事だってだんだん、成績重視になってきました。
本来数字にならないものだって関連付けて数字になっていくようで、今話題の映画も最初見た人たちは楽しさ、と感動が先にあったはずですが、だんだんと興行収益で凄さが伝わっていくようになります。まぁ、世の中そういう流れなのでしょう。
 
 
 
そんな見方が嫌だったので身体感覚という世界に出会ったのかもしれません。
多くの友達を巻き込んでみましたが、誰もがここに興味を持ったわけではありませんでした。最初はもちろん、楽しみます。しかし、だんだんと仕事や家庭、趣味など忙しさに引っ張られ離れていきます。
 
その気持ちもわかるんです。
なぜなら、身体感覚を探る事は結果に囚われないと言うことだから。身体という終わりのないものを相手にするのだから、いつも、まだまだ、こんな事では、と思えるのでなかなか、人と共有できません。研究よりも、楽しくお祝い、打ち上げの方がいいんでしょう。
 
 
 
たまたま私はここが気に入りました。
打ち上げパーティーは、たまに、でいいんです。毎日を研究する事がこんなに楽しいものだったとは考えもしませんでした。教えてくれる人もいませんでしたし(笑)。

そしてわかってきたのは身体というものはあらゆるものに「似ている」という事です。
最初、というか、つい最近まで、もっとこの身体が動けばいいなぁ、と思って研究していました。
しかし、ケガや疲れが気になりだして思うのは、動けなくなった方がいい結果をもたらせてくれる事があるかも知れない、ということです。
動けなくなっているのに、結果的に動けるようになっている。これは「矛盾」です。その矛盾を受け入れてみると、これまで手を焼いていた事がちょっと楽に思えるようになりました。
 
 
 
身体感覚を通して「矛盾」を感じた事であらゆるものとの「共通点」が見えてきました。
このブログのテーマである「運命」もそうです。
運命を自分の思い通りに動きしたい。幸せになるためには何ができるのだろうか?と考えますが、つい、頭には今の常識から見て「好転」させたいと思ってしまいます。
頭はいつも勘違いをします。たからこそ、身体に任せることを選択し、生きてきたのですが、ついつい、また、頭が出しゃばってきます。

良いと思ったことだけを求めるとおそらく、超自分勝手な生き方になるはずです。
しかし相手は自然、宇宙です(笑)。私も随分自信を持つ事ができましたが、限りない宇宙と戦って勝てるほど自信はありません。

 
 
 
ここでやはり、身体が助けてくれます。
身体は新しい目的をくれました。より良い動きを求める事を目的にするのではなく、身体そのものの仕組みを探りたくしてくれました。
その結果、良い動きがくるかもしれませんし、もしかしたら、動かないほうがいい、という思いがやってくるかも知れません。とにかく、身体のことをもっと知りたい、そこに興味を向かせてくれました。

運命に対してもそう。だから。似ているんです。
良い運命を求めるのではなく、仕組みを求める。
すると、周りにある見たくない現実にも興味を持つ事ができます。研究材料が一気に増えていきます。
その結果、運という人の外にある流れがよく見えるかもしれません。その流れに乗り、好きなところにも行けるようになるかもしれません。

慌てず、仕組みを求める。
この事を最初から求めてもよかったのですが、目先の結果、成果が楽しくって、ここまで先送りにしてしまったようです。
 
 
 
おそらく、もっと大きな視点からみればこの気づきも予定通り(笑)
いつか、このブログを読み返して、あぁ、やっぱり運命は決まっていたんだなぁ、そんな気持ちにもなりたいと思います。
自分で自分の生き方に向き合う。なかなかそれを勧めてくれる人はいません。それが成果を返してくれるかどうかも不確かですからなかなか向き合えません。それでも、身体というものを手がかりにすれば少しずつ、わかってくるものがあります。
こうして、言葉にすることで少しでも興味を持って研究してくれる人が現れてくれればと思います。

良く効く願いの立て方

身体を研究するようになって、たくさんの事に気付くことができました。

納得を求めると外に答えはありません。自分の心が納得するには自分の中から答えが出てこなくてはいけません。
 
お金で願いが叶うなら簡単ですが、納得は誰も助けてはくれません。
 
 
 
しかし、この困難な願いが次々と叶い、自分の動きがどんどん良くなっていくのです。
アイデアを出すのが苦手だったのに、どうして、こんな事になったのだろう?良く考えます。
昨日、ひとつ思いついたことがありました。
それは「良い願いの立て方」と「良くない願いの立て方」がありそうだ、という事。
 
 
 
最近できるようになった動きに「振り回す棒を怖がらないでいられる」というのがあります。
30年ほど前からずっと考えてきたことです。
どんなに段位が上がっても、賞をとっても、相手が武器を持って襲ってきたら「怖い」んです。
その怖さがあると身体が緊張し、持っている技がでません。
まわりを見ても、武器を相手に軽やかに、そして、平常心のまま動ける人はいませんでしたし・・・。
自分の練習している技はそんな無力なものでしかないのだろうか・・・と、密かにずっと、思っていました。自信の持てなかったのはこれが理由だったのかもしれません。
 
その難問にヒントが出てきたのがつい先日。
身体を半分に折りたたむように使えば怖さがなくなる、これが答えでした。
 
 
 
なぜこの使い方に気付けたのか。
この技ができるようになる前に、身体が「前進」している術理がありました。
そして身体の前進を足裏に応用すると足裏が床に「密着」が生まれました。
その密着を左右の半身に応用したところ、身体が折りたたまれる感覚を実感したわけです。
ひとつひとつの発見でやれる事が増えていきます。
そのできたことを「ベース」にして「次の動き」を期待するのです。
この流れが非常にいい!
才能のなかった私が動きを変え続けてこれたのは、いつも、ちょっと難しい問題に向き合えたからに違いありません。
おそらく、無意識の中で「ここまでできているのだから」、と気持ちが前を向いているのだと思います。
あと「少し」だと思っていると、ほんのわずかな感覚によって動きが変わります。
自分が求める事が願望になりますが、今の自分の持つできている部分、持っている部分を大切にして願いを立てることが大切なのかな、と気付きました。
 
 
 
例えばいきなり、「空を飛びたい」という願いを立ててもちょっと、どこから手を付けていいかわかりません。
むしろ、その時、無意識には「空を飛びたいと願ってみたけど、自分には飛べないのではないか」という気持ちがありそうです。
もちろん、その前に飛べる気配すらないのですから、「前も飛べなかった」がベースになります。その飛べなかった自分が飛べないかもしれない、と願うのですから、、飛べないかもしれないという願望は叶う事になります。
 
 
 
自分の良い部分、自信の持てる部分をちゃんと見る、これが一番難しいのかも知れません。
いままで、なんとなく、適当に願望を作っていましたが、ちゃんと言葉を作らないと、無意識に自分を振り回されてしまいそうです。
自分が「できる」という気持ちをどう持つのか。
やはり、問題の解決は外ではなく、内側に、自分自身にある事を再確認しました。

成功体験、成功の経験を積むには。

成功体験が大切だ、それはよく言われます。
簡単に成功が体験できるのなら望むところです。しかし、現実にはなかなか、成功は体験できません。成功の体験がないからこそ、今、上手くいかない気持ちが出てきしまいます。
 
 
そもそも、私はなにが「成功」なのかわからなかったのです。これは困りました(笑)
一等賞や人気者、お金持ち、わかりやすいものがあればそこにまっすぐ突き進むことができますが、どの願望も、ちょっと掘り下げてみると、嫌な部分が出てきます。
 
本当の願望を知りたい、もしかしたら、これが願いだったのかもしれません。
でも、それを実現するための「成功体験」とは何でしょう(笑)
こんなことを教えてくれる人はいませんでした。
 
 
 
それでも、いつの間にか、気がついたら、私は毎日、楽しく、考えもしなかった充実感を持って生きているのを感じるようになりました。
なぜ、あんなにネガティブで困っていたのに、こんな変化を得られたのだろう?よく考えています。
 
 
 
考えられるのは、自分で自分の事を調べ始めたから。
自分の事をわかってくれそうな人はいます。しかし、奥の奥までわかってくれる人はやはり、いません。こちらも毎日変化をするし、相手も変化をするし、環境だって変わり続けているから。
その瞬間、そうだ!この人はわかってくれる!と感動しても、場所と時間が変われば、その時の答えはもう、過去のものとなっています。

そして、たいてい、その答えを得るにはお金もかかるので、毎日毎日、そんなところにお金をかけるわけには行きません。自分で自分をわかってあげなくては、いつか、破綻します。これは心だけの問題ではなく、整体のような体の調整でもいえます。バランスを他者に任せては後が大変なのです。
 
 
 
いつの間にか、自分の事を探り始めたのですが、どうやら、それが、成功体験の積み重ねになっていたようです。
できない技と向き合う。これは大変です。できない技は、教わってもできない技ということです。教わってできる技ならいいんてすが、どう練習してもできない、と思える技に向き合うのです。

私の場合はただ手を上げる、という技でした。

しっかり抑えられると上がらないんです。
相手もしっかりとそれを抑えます。遠慮は絶対にしないようにお願いをして。
しかし、どんなに「無理」と、思えることも、追求するとヒントが出てきます。
そのヒントを元に工夫を続けると、絶対に無理、と、思っていたことが解決します。
 
 
 
これ、まさに、「成功体験」でした。
 
 
 
面白いのは、この成功の次にくるのが「飽きる」という体験です。
夢のように感じていた事ができても、すくに面白くなくなります。
この時、組織的なものがあれば、組織の中でちやほやされいい気分になるかもしれませんが、それは私の好みではありませんでした。自分には何ができるのだろう?と思っていましたから。
 
 
 
飽きてしまうとまた、絶対に無理だろう、と思える事がやってきます。
でも、この絶対に無理もやっぱり解決してしまうのです。

また、成功体験を重ねられます。
そして、また、飽きます。
 
 
 
こんな事を20年以上続けてきました。
成功体験を重ねた事でわかってきたのは、絶対に無理は幻想、という事です。

 
 
自分の身体を材料にした研究は自分にピッタリの課題をくれます。
そして、少しずつ、乗り越えさせてくれて、観念をいつの間にか変えてくれます。
そこで体験するのはいつも、成功体験です。
今のところ、絶望体験は出てきません。おそらく、ずっと、出てこないでしょう。
しかし、現実社会を見ると、多くの人が絶望体験をしています。
外を見たとき、ありのままの自分と大きくかけ離れているので、絶望を経験するのかもしれません。
たた、そこで自分の内面を探せば、より大きな目的としてその絶望を使う事ができます。
 
 
 
便利な世の中は自分でなんとかするという経験を奪いました。
身体を探る事はその自分でなんとかする、という経験を与えてくれます。
この経験こそ、成功体験につながるものです。
考えているときが一番怖いです。頭に縛られている瞬間が考えている状態だから。
感覚に目を向け、新しい感覚を探るようにするとこれまで、自分は全然、自分の事を見ていなかった、とわかります。
 
自分がどんなことがやれるのかわからない…そんな気持ちを持ってくれる人が一人でも増えてくれれば嬉しく思います。

経験をいかに積むか、それが問題だ。

私は自信がずっとなかった人間です。

ただ、今は違います。自分に出来る事の限界が今、わからなくなっています。
 
相変わらず「頭の自分」は出来が良くありません。私が自信がなかったのは「頭の自分」しか見ていなかったからです。
「身体の自分」を見続けたおかげで、自信を持つ事ができました。
 
普通、歳を重ねれば老いて、いろいろな事が出来なくなります。
その老いを感じないまま実力を高めていくために大切なのが「経験」です。
しかし、今という時代は、この経験をうまく活用することが出来なくなってしまいました。
 
 
 
経験が軽んじられるようになったのは新しい機械やサービスの能力がいつもとびぬけてしまうからです。
経験がなくても、素人のまま、大きな仕事をする事が出来るようになりました。
うまく行っている時に問題はなかなか目につきません。問題が現れた時、大きな仕事であればあるほど、リカバリーが難しくなります。ババ抜きみたいです。
 
 
 
戦いで言えば、便利な機械やサービスは「武器」のようなもの。
強い武器は簡単に敵を倒します。スイッチ一つで街一つなくなる武器だってあるんですから。
しかし、その強い武器が相手に渡ったら、また、強い武器を使った結果、その結果に心を乱されてしまい、トラウマになってしまう事もあります。
 
単純に「勝つ」ことを願っただけでは、幸せにはなれません。
稽古は経験の大切さを教えてくれるものです。
機械やサービスを作っている側の人は常にいいものをと、研究をしているはず。しかし、利用者としてはなかなか研究しません。研究しようがないほど、機械は専門化しています。
経験の技術を高めるためにどこかで研究をする習慣が必要です。
 
 
 
 
そこで老いです。これが役に立ちます。
日常生活をただ過ごすものにしてしまうのはもったいない!立つ、座る、歩く、そんな普通の事が新しい自分を教えてくれるようになります。
 
自分の身体に生まれる「感覚」。それが研究の材料です。
感覚は人それぞれ、素晴らしい感覚なら何度もそれを感じたいでしょう。しかし、素晴らしい方の感覚はあまり、現れません。
しかし、どこかが痛い、身体が重い、苦しい、などのネガティブな感覚は毎日、私たちを苦しめますね。
 
この「ネガティブな感覚」だって、感覚です。その瞬間、自分の身体の声をはっきりと聴いています。
ただ、そのあとがよくありません。
実はこの感覚は消す事も増やす事も、生かす事も出来るんです。
 
 
 
最近ひざ痛、頭痛、腰痛など、小さな痛みですが、ずっと、続いています。
そして、あぁ、これが老いなのかもなぁ、と思いました。
この言葉だけであれば実に、ネガティブなものですが、この痛みによって気付くことができたことがあります。
痛みという身体からの声を聞いたことで動き方を変えてみました。そして気付いた事は身体を半分、半分、半分にしていく感覚です。
この事でこれまで夢だった動きが現実のものとなりました。いつかできればいいなぁ、と追い求めていたものですが、まさかこんなに簡単な事だったとは・・・。痛みのおかげです。
そして、この自覚がまた、新たな夢をもたらしてくれるはず。自分はいったい、なにを求めているんだろう、そんな事を考えるようになりました。
 
 
 
半分を続けていくと、どんどん、身体が小さくなっていく感覚があります。
身体が小さくなる感覚は意外な事を教えてくれました。相手との間に「衝突」が無くなり、その相手に回り込んだり、動き回ることができるようになります。
しかも、この相手は人でなくても大丈夫。自分が嫌なこと、気になること、「問題」というバーチャルなものに対しても有効なのです。
 
自分の心の中に嫌な気持ちがなくなれば、自分のやりたいことへとまた一つ、一歩足を出すことができるようになります。やはり、研究は運命を自分の手の中に収めることができます。
 
 

学んで試し、身につける

先日読んだ本に「感情のコントロール」というものがありました。

昔、一度読み、そのまま書棚にしまわれていたものです。
 
改めて読んでみると、「わかる」事が増えていました。
理由は簡単、自分自身が自分の事を以前よりも、わかっていたからです。
 
 
 
同じ本を読み、同じ知識を得ても、どう理解をするかで、その知識は役にも立てば、ゴミにもなります。
知識はたくさん、手に入りようになりましたが、自分にぴったりの知識に会えるかどうかはわかりません。
 
その本を読んだとき、自分はどれだけ「わかって」いただろうか?ちょっと不思議になりました。
優しい言葉で書かれている本だったので、すいすいと読み終えたはず。そして、なるほど、とも思ったはず。でも、それが本当に役立てられたかというと疑問です。
 
 
 
多くの人が知識を得ることに一生懸命になります。
問題に対して答えがある、と思っているから。
それで解決をするなら誰も不幸になりません。しかし、現実はちょっと厳しいですよね。
 
知識を得て、うまくいかず、また、知識を探す。
ゲームなら最後の答えもあるかもしれませんが、答えのない問題があるのが現実の世界です。
外を探すだけではなく、自分自身を変える、という方法があります。
 
 
 
感情のコントロールをするには、自分の感情のパターンを知っておかないと、というのがその本でした。
人にはタイプがある。人間をタイプ分けする手法は世界中にあります。その本は四つに分けていました。
今回たまたま読み直したことでわかったのはここです。
 
 
 
四つのタイプがある、と学んでも、それは知識の上だけ、どうやら実感としては少なかったようでした。
身体感覚がすこし磨かれ、細かな変化が感じ取れるようになって、その四つのタイプを改めて「イメージ」をすると、一つ一つのタイプがぐっと身近に感じました。
 
 
 
稽古をする事でわかってくるのは、自分の中にある新しい感覚です。
そして、だんだんと、自分の可能性が増えていきます。
でも、これはポジティブなことだけではありません。
自分の中の見たくないものも見えてきます。たまたま、ほかの要素が大きく、強いから隠れていただけで、もしかしたら、ちょっとした出来事で立場が変わるかもしれない事を教えてくれます。性格が変わるかもしれないのです。
 
 
 
良いことも、悪いことも、自分の中に蓄えられている、それが稽古でわかります。
自分の中に見つけたことだけが外にも見つけることができます。
どんなに素晴らしいものが目の前にあっても、それを見つけることができなければ、まったく意味がありません。
 
自分の感情が動くとき、目の前にはなにかがあります。
その時、反射的に恐れをだしてしまうのか、恐れを自覚し、ちょっと立ち止まり、考え、選択して行動に移すのとでは結果はまるっきり違ってきます。
自分を変えたいのなら、まず、この反射をなんとかします。
 
 
 
まず、自分の中で確かめる。
そのために知識を入れる。その知識はまだあやふやです。しかし、稽古をすると、その知識が本当だった、確かだった、とわかる時がきます。絶対に!(人は自分が見たいものしか見えないそうですから・・・)
その時、やっと、知識を自分のものとして、信頼し、活用できるようになります。
 
 
 
私たち現代人はすでにたくさんの知識を手に入れている、そう考えれば、この先新しいものを探さなくてもいいかもしれません。
ただ、子供達はもう少し、知識を求めた方がいいかもしれません。
自分が自分の人生をどうしたいのか?それを考える機会がないまま大人にさせられてしまっています。まわりの圧力に負けず、子供心を忘れないまま、大人になれればいいですが、もう、それは無理・・・かな。
 
 
 
 
私は教える事は苦手ですが、研究だけは上手になってきました。私にとっての「稽古」は「研究」と同じ意味を持ちます。それまで大切にしているものがなかったようなので、新しいものをどんどんと使えるみたいです。
求めれば必ず応えてくれる。それが私たちの身体です。
 
今日、私が求めていたのは「研究の仕方の研究」だと自覚しました。
なにを研究対象にするにしても、その研究を支えるのは自分の感性です。言われたままをするだけでは研究は進みません。
その自分の感性こそ、身体感覚が生み出すもの。
心と体、どちらが先に反応しているのかはわかりませんが、体に生まれる感覚ならつかむことができます。自分の身体の事をより理解をすれば、求めたいことを加速させることができます。
 
身体感覚の稽古をしって、これは「誰にとっても必要なこと」と直感しましたが、その理由が今一つ分からずにいました。
でも、やっと理由がわかり、ほっとしています。
 
 
 
ずいぶん時間がかかりましたがやっと、運命について真剣に向き合えるようになりました。
大きすぎるテーマにずっと、自分なんかが考えても、求めてもダメだろう、と思っていたから。
それでも、身体感覚の稽古は楽しかったので続けてきました。
結果的に、その稽古のおかげで研究力を養い続けてこれたのだとわかります。
運命とはなんだろう?どうにかできるものなのか、と問いかけた時、沢山のヒントが頭に浮かぶんです。
 
向き合うまでには時間がかかりましたが、それまでの時間は自分にとって必要な時間だったようです。
 
 
 
今週は浜松で大人の武道塾、そして名古屋でワンテーマ研究会です。

進めるのは前だけではなく、後ろにも。

前回、「前」へと進む力についてお話しました。「運」を身体で感じ、それを働きに変える事ができます。

今日は「後ろ」。
後ろへ身体を進ませると、自分の前にすこし隙間ができます。この隙間を使い、自分が受け入れたくないものを捌く事が出来るようになります。
 
 
 
前へ進む流れに乗ると勢いが生まれます。
嫌な事に出会っても、すこし捌けばすぐに過去の事になり、気にならなくなります。
自転車を想像してみてください。大きな穴をギリギリでかわしました。歩いていれば、そこで穴を覗き込み、止まってしまうかも知れません。でも、自転車であれば、ヒヤリとしながらも、前をまた向き、漕ぎ出すはず。いい事も、悪いことも過去へと流してくれる力を持つのが「内観的前進」です。
 
同じように、「内観的後退」が見つかりました。
この後退ですが、感覚的には自分の内面深くに潜っていく感じがします。
 
私たちには身体があります。
この身体が私の心を守ってくれている、そんな感じがします。
汚いものに触れる時、素手よりも、薄いものであってもなにかを介しての方が安心しますよね。身体は心を驚かさないように、揺らさないように、いつも、守ってくれているようです。
 
しかし、いつも守ってくれているわけではありません。
身体よりも、心が先に何かを「見つけてしまう」事があります。
例えば「ナイフ」。触れれば切れる。私たち大人はそれを知っています。そんなナイフを前にすると身体は緊張し、固まります。でも、この時、身体はまだ、ナイフに触れていません。それなのに身体は固まってしまいます。
これは身体よりも先に心がナイフを危ないものとして見つけてしまったから。
本当は見つけない方が自然体で振舞えてよかったかもしれません。でも、見つけてしまいました。
 
 
 
この時、「内観的後退」が役に立ちます。
前へ進もうと思った心は前にナイフという敵を見つけました。怖いものを見つけてしまった心は身動きが取れなくなりますが、それは身体がそこに居ついてしまったから。身体に縛られてしまいました。
 
この時、後ろへと自分を運んでくれる力がありました。
前から後ろへ流れてきます。この流れを見つける事ができたのは、先に前への流れを自覚していたから。同じ感覚の」流れが前後に見つけられたのです。
 
ただ、後ろへ流れていると言っても、身体を後ろへ運べばバランスを崩しますし、壁もやってきます。後ろですから目もありません。うまく身体は運べません。
しかし、身体をそこに止めて見ると、不思議と、実際の肉体と内観的な自分が分離していく感覚がありました。
その僅かな隙間が役に立ちます。
その隙間があるだけで腕や脚がいつもどおり動くようになります。
 
怖いものを前にすると身体は緊張し、本来の動きが出来なくなります。
実はその怖さに対する耐性も実力なのですが、多くの場合、感情の揺れを実力としては見ずに、手足の動きの技術だけを求めてしまいます。
 
 
 
怖さを克服する方法としてメンタルトレーニングがありますが、身体の操作と切り離してしまうと、また、そのメンタルトレーニングの成果を発揮するためのメンタルトレーニングが必要になってしまいます(笑)
 
内観的後退は具体的に肉体を変化させます。
肉体と意識の間に出来た隙間は定規では測れませんが、確実に存在するものです。そして、それは手を合わせた人にも違和感として伝わるのです。
 
二人で試す事のメリットはここにあります。お互いがそこにある感覚を見るので、さらにその感覚がリアルさを増していくのです。最初、それは消えてなくなりそうな感覚だったかもしれません。しかし、それは身体的に生まれたもの、再現性があります。それを育てていくと、いつしか、それは新しい常識になります。
 
 
 
実はこの内観的後退、意外なところで力を発揮しました。
内観的前進を見つけ、うれしくて、つい、無理に試しすぎてしまったみたいです。稽古中に頭痛がしだして、立っていられなくなりました。
代わりに子供たちを見てくれる仲間がいたから余計に気が緩んだのかもしれません。久しぶりの頭痛です。
 
横になり、眼を閉じ、休んでいても、頭は痛みます。
痛みのせいか、感覚も敏感になっている気がします。眼も耳も、触覚も色々なものを受け取り、刺激をしてきます。
 
 
 
こういう状態だったから逃げたかったのかもしれません。
前へと進むことも出来ましたが、身体がそれをぐっと止めているようです。
ふと、もういいや、どうにでもなれ、と力が抜けました。
その時、頭の奥のほう、方向的には下へ落ちていく感覚があったのです。
 
落ちてみると、そこは表面的な肉体からすこし離れた所のようで、それまであった刺激が気にならなくなっていました。
痛みとしての波はありましたが、それを観察していられる余裕がありました。
 
この時の姿勢があお向け。下方向へ落ちていく感覚は顔の向きからすると「後ろ」側です。
前には出られる事がわかっていたので、すぐにこれは「後退」だ、とわかりました。
 
 
 
一つ発見があると、痛みは飛ぶんですね。
痛かったはずなのに、試したくなり、むくりと起きて、実験に付き合ってもらいました。
そして、先ほどの「気にならない」という効果を見つけたのです。
 
 
 
どうやらこれは座禅的、瞑想的な方法のようです。
前進がアクティブに世界を渡り歩くものだとすれば、後退は世界から離れ、自分の世界を作るものです。
いくら自分が一人になる、と決めても、実際にはたくさんの刺激があります。この時、頭だけで無心になれる人はなかなかいません。
しかし、肉体と距離を置く方法があれば、感情を揺らさず、自分のペースを維持できます。
 
 
 
気持ちの力は無限です。自分で決めた力がエネルギーです。
しかい、肉体の力は有限です。無理をすると壊れます。
その肉体を癒す作業が内観的後退ではないか、とにらんでいます。
横になって、後退してしる間、眼は覚めている感覚があるのに、夢のようなものを見ました。しかも、はっきりとそれを感じられるような感じです。
 
人には睡眠が必要です。
ただ、長時間寝ても疲れが取れないときがあります。睡眠の質が悪いからです。
睡眠の質を上げるのに、枕や布団、マットレスに、サプリ、色々なものが出てきています。人生の大部分を占めるものですからね、質を上げたい人は世界中にいます。
ソワソワしながら眠るのは実に前進的です。
眠るんですから、もう諦めて、後退してみる、というのはある意味、理にかなっていそうです。
 
 
 
なにかを変えたい、と願う時、ついつい、外の世界にばかり眼を向けてしまいます。
現代は便利な機械やサービスが外の世界を変えてくれる時代ですから。
運命さえも変えてくれる手帳が今は山ほど売っています(笑)。
それで何とかなるならどうぞ遠慮なく。
 
しかし、私は外にあるもので成功を感じた事がないんです。
内面を変える事で外の世界も変わる。それ「も」わかっておけば、楽しく人生を歩く事が出来ます。
ぜひ、身体感覚の世界を体験し、工夫して、掘り下げてください。

見えない流れを見るには身体に目を向けるのが確かな方法

身体感覚に目を向けるようにだんだんと、視点が広く、大きく、高くなっているのを感じます。

全く手掛かりのないことでも、研究をし始めてみれば、徐々にわかってくることがあります。
それは、もう、どこかで手に入るような情報かもしれませんが、小さなことでも、自分の身体を通して見つかったもの、というのは貴重なものです。
 
 
これまで「運」というものは「重力」なのだ、と考えていました。
自分がなにかをやろうとした時、とんとん拍子に進む時と、障害ばかりの時があります。
その違いはなんだろう?ずっと、考えています。
実際に身体の動きを頼りとして考えてみると、「重力」というのが見つかりました。
 
重力は圧力として、上から、肩にのしかかります。
普通、身体を動かすには、軽くなったほうがいい、と思いますよね。
でも、実は身体に重さがあった方が動きやすい、そして、力強い、という事がわかったのです。
 
 
一つ分かると、たくさんの実例が見えてきます。
例えば、仕事。
 
いつまででもいいから、完成させなさい、と言われれば、後回しになります。宿題もその傾向があります。締め切りがあるから、行動に変わります。
この考えがわかると、嫌なことも身体のためには必要なこと、役に立つことがわかります。反射的に嫌!と目をそむけていた事にも、思考の余地が出来、冷静に行動へと移すことができます。
 
 
 
行動すれば経験を得られます。経験があれば、そこから成長へとつながります。
行動すればいい、とわかっていても、まだ来ていない結果を気にして、行動を止めてしまう場合があります。遠慮気味の人は特に・・・。
その恐れを強くしているのも重力です。身体があるから、それを感じる事が出来るんです。
 
 
もう一度言います。
重力は運です。
運が身体を運びます。
人が行うと、おなじ条件であっても結果が違ってきます。それは、そのぞれの人が運という流れを活かしているかいないのかがカギになります。
 
上から下の力を説明すればこんな感じです。
 
 
 
そして、どうやら、上下だけではなく、前後にも身体を運ぶ流れが潜んでいたようです。
 
先日、その力を発見した時の事を書きました。
その力は前後に働く力です。
身体を前、後ろへと運んでくれる力がありました。
 
 
重力が外からやってくる力だとすると、前後は自分の内側からでてくる力です。
考えてみると、なにかに興味を持った時には、今の自分を心配することなく、そのものへと意識を集中できます。
そのものが動いた時、私の身体は動かされていきます。
子供の頃楽しんだ、昆虫採集なんかはそんな感じがします。
 
 
 
子供の頃はみんな、好奇心いっぱいです。そのまま大人になれれば運を作り出す力に満ち溢れていたでしょう。しかし、ほとんどの人が「大人」になります。
知識を得て、考えて行動するようになります。機械的なものには思考した行動は役に立ちますが、自然なものに対して思考からの行動は少し、遅れます。
 
ときどき、子供のまま大人になってるような人がいますね。
彼らは私たちにはない魅力を発揮し、才能を惜しみなく発揮します。
しかし、そんな彼らも大人の世界で生きている以上、徐々に大人になっていきます。
 
 
 
心でそのギャップを受け止めようとしても、大変です。
心はふわりふわりと、自由に動きすぎるから。
この時にも「身体」が役に立ちます。
 
身体に意識を集中すれば、その身体がどこへ向かっているのかがわかります。
 
 
私はやりたいことがなかったので、動いていない自分が嫌でしたが、今見つかった前へと進みだす力を内側に見つけてみると、自然に、前へと進んでいるのを感じることができます。
しかし、この時の動きはとても小さいんです。なるほど、今まで見つからなかったわけです。
 
 
研究をしてきたからこそ、この力を見つけることができました。
知識だけ得ても、どうせ自分にはわからないだろう、と先送りしていたはず。
身体で得た気づきは共有することができます。
心にあるものも共有できるはずですが、それは感受性が高くないと無理。私が身体を大好きになったのはここです。できる、できない、わかる、わかっていないがはっきり出るから迷わずに済むからです。
 
 
 
身体を前へと進ませる力はやはりというか、臍下あたり、昔から丹田と言われているあたりから生まれてきます。
この力に従うように動くと、次にやるべき事が自然と見えてきます。
そして、自分の中にあるその力線をもうすこしはっきりと自覚できるようになれば、外の世界、つまり、他人の中にもその力線の方向が見えてくるはず。
 
世の中には見えない流れを見ることのできる人が間違いなくいます。
説明をしてもらっても、まったくその意味がわからないのは、見えているものが違うから。
最初の「見えないもの」として、この前方向への力を使えばまた、楽しくなります。
 
 
 
すこし、難しくなりました。
言葉はこれからどんどん増えていきます。こうして、言葉にする場所を作ったから。
ただ、言葉を聞いてもおそらくかわりません。
言葉を知り、やってみる。わからなくても、やってみる。すると、ちょっと、わかることが増える。これが「研究」です。
 
この研究は自分のために行う研究。だんだん、自分の興味に素直に従えるようになります。今、始めれば10年後はもっと、自分の事がわかるようになっているはず。
多くの人はまぁいいや、と先送りにしてなにもしません。
 
ぜひ、自分の身体にある、前方向の力を見つけて下さい。
絶対に見つかりますから。
次回は「後ろ」方向への流れの事を書きますね。
 

身体で「運」は作ることができる!

びっくりする事がありました。

 
それは、この身体で「運」を感じる発見をしたのです。
 
 
 
ずっと、身体感覚の研究をしてきました。
最初、なんとなく始めた研究も気が付けば20年を超えました。
その研究が広がり、結果として、生きること、運命とはなにか、コントロールできないのか、と考えるようになりました。
これまで身体感覚の掘り下げを一番の目的にしてきたので、「運命について」のように、ワンテーマをまとめる事はやってきませんでした。
 
それがどうしても、運命について知ってもらいたい気持ちが生まれ、今、わかっていることをこのブログで言葉にし始めました。
行動を起こしてみると、それに合わせてまた、結果もついてくるのですね。
まさに、ちょうど、伝え始めている「運命」という事を表している身体感覚を見つけたのです。
 
 
 
その感覚は身体が前へと持って行かれる動き。
身体感覚で動くという事をほとんどの方はわからないとおもいます。
動く、というと、自分の手足を使い、前へと進もうとするのが普通です。
自分から一歩二歩と出していけば確かに進むことができます。でも、これは普通です。
 
運に乗りたい、今よりもっと、先に進みたい、そんな願望があります。
この時、自分の力とは違う力が必要です。
機械や他人の力も自分以外の力です。しかし、自分以外の力を自分だけで生むとなると、これは大変です。
 
ひとつ使えそうな力はありました。
それは「重力」です。
力を抜いて脱力した時、身体は下方向へと流れますから、これにうまく乗ると、楽にいろいろなことができます。
長らく、この下方向への力が「運」だと考えてきました。
しかし、どうやら、下だけではなく、「前」方向にもあったのです。
自分が進みたい方向を確かにしたら、自動的に、その方向へと、身体を進めることが出来る事がわかりました。
その時の感覚が「運ばれている」ようなのです。
 
 
 
身体が自然と、行きたい方へと運ばれると、目の前に出てくる障害をやっつけるのではなく、躱せるようになります。
運に乗って勢いを持っている人はひとつひとつの問題に気持ちを取られたりせずに、自分の行きたいゴールをちゃんと、見ているはず。
 
たまたま運に乗る事もあるでしょう。
しかし、たまたま乗った運では、次に乗る時、また、たまたまを求めるしかありません。
自分の身体に運とよべる勢いを作っていれば、それまで怖くて委縮していた事にもチャレンジをする事ができます。
 
 
 
こうして身体に見つかった感覚が徐々にまた、言葉になっていくかと思います。
このブログに発見の記録を残すつもりはなかったのですが、あまりにもピンポイントな発見だったので、まず、お伝えしようと思いました。
 
また、頭を整理してご報告します。

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