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2016年11月

欲しいもの、求めるもの、手に入るもの

自分が欲しいもの、求めているものは時々、確認をしなくてはいけません。

 
世の中にはピカピカと輝くものがいっぱいです。楽しいところも次々と現れます。
それらをみて、反射的に欲しい!と思うかもしれません。
でも、それは本当に欲しいものなのでしょうか?考える必要があります。
 
 
 
あなたの欲しいものは何でしたか?
努力をして求めれば手に入るものでしょうか?
いい学校に入りたい、いい会社に入りたい、やりがいのある仕事をしたい、恋人がほしい、結婚がしたい、お金がほしい、いろいろ浮かんでくるかと思います。
 
 
 
求めれば叶う、という教えが世の中にはたくさんあります。なにを求めているのかをしっかりと意識しておくことは大切な事です。
 
 
 
ここですごいことをお話します。
身体感覚の稽古で手に入ることは、自分が求めている事、考えている事以上の体験と経験です。
旅に出て、貴重な経験をすれば自分が少し大きくなれます。
ちょっと奮発してリッチな旅をしたり、無計画で偶然を楽しむ旅も面白いです。
 
稽古はそんな旅と似ています。
今は安全で、どこに行っても似たような観光地も多いですから、もしかしたら、現実の旅よりも大きな経験をもらえるかもしれません。
 
 
 
旅は「環境」を変えるものです。
稽古は「自分」が変わるものです。
 
最近の稽古で私が見ることができた世界をお話します。
 
 
・鼻の奥
先月の終わり、「鼻の奥」に集中をしました。鼻の奥の自分は「小さな自分」です。自分という大きな身体の裏に小さな自分がいる事を実感しました。
 
小さくなってみると衝突が無くなります。
 
自分が行きたいところへ行ける、これまで行けなかったのは自分が行けない、と思い込んでしまっていたからでした
その理由は自分の身体が大きかったから。
 
責任ある立場になり、有名になったりすればその人は大きくなります。大きくなれば、自然と行動に制限をつくります。その逆もあったのです。自分が小さくなるからこそ、好きなことができるようになりました。
 
 
 
・内側に向ける視線
鼻の奥で自分の「裏側」を実感しました。心の中では「内面」を感じていましたが、身体的に「裏」を感じたことは初めてでした。
 
世界は表に広がるだけではなく、裏にも広がっているのだ、とわかりました。
 
五感の一つである嗅覚にそれがあるなら視覚にもあるのではないか、そう考え、あれこれ工夫をしました。そして、たまたま頭痛で寝込んだ時、その瞬間、自分の視覚は外へではなく、内側に向かっている事に気付いたのです。
自分の内側に視線を向けていても、外には世界が広がっています。
内側の視線と外側の視線は同時に存在していました。そして、内側の視線を意識したまま外側を見た時、風景が大きな一枚の絵になっているのを感じました。
武術の世界では遠山の目付、八方目など、視覚を一つのものに集中させないようにする事をよく教えています。しかし、人が世界をどう見ているかはなかなか感じられません。言葉だけが独り歩きをします。
その夢見ていた世界が視線を内に向ける事で現れてきました。
 
 
 
・反重力の世界
あるテレビ番組で「キツツキ」を紹介していました。彼らは木をつつく時、頭に1000Gもの衝撃を受けるのだそうです。そして、その衝撃を和らげるために「舌」を使うのだ、という事です。
そんな情報を受けて武術の技に試してみようと思う私は変態でしょうか(笑)。
私もなぜ、それを試したくなったのかわかりませんが、とにかく、試したのです。
すると、そこにはっきりとした働きがあり、それまでの動きとは全く別の動きになりました。
 
舌という器官は不思議なことに重力の影響がないのです。
 
それまで見てきた身体はどの部分をとっても、重力の影響を無視できません。だからこそ、重力と喧嘩をするのではなく、積極的に乗り、勢いとして利用してきました。
しかし、舌はそうではなかったのです。
 
最初、舌を折り畳み、上あごにつける事で反重力を使いました。
伝え始めたある日、文化センターでの講座中、受講生の一人から何気なく、「舌の先ですか?奥ですか?」と質問を受け、その瞬間、自分に「舌の奥」がある事を自覚しました。
自覚してみればそこは動かすことができます。舌の奥がぐぅ~と上へと浮いているように感じられるようになると、身体の内面全てが上へと浮いている感覚になっていきました。
 
 
 
 
とにかく、稽古をする事で手に入ることは変な事ばかり、想像もした事がない事ばかりです。
しかし、そのすべては体験、経験ですから、自分にとっては現実、事実です。
もし、新しい自分と出会う事が好きな人ならぜひ、自分の身体と向き合うという事も旅の一つに付け加えてあげてください。
 
 
12/18(日)には名古屋にこの楽しさを教えてくれた甲野善紀先生をお招きし稽古会を行います。有名な先生ですが、遠慮する必要はありません。プロの選手、オリンピックの選手でも、なにも運動の経験のない方も同じように驚く事ができます。世界中のどこに旅するよりも驚くべき体験ができます。
 
ぜひ、ご参加ください。詳細は下記のサイトでご確認を。
 

ワクワクする事だけではなく、ドキドキする事も選ぼう

やりたいことをやりなさい。
 
 
 
多くの人がそれを教えてくれます。
ワクワクする事をすれば夢が叶うからね、と。
 

ここに落とし穴があります。
その「ワクワクする事」は本当にワクワクする事なのか、です。
 
 
 
嫌いな事があったとします。
嫌いな事をやるのにワクワクする人は少ないです。
これを選択肢から外せば可能性は半分になります。
 
 
 
身体感覚の稽古で分かるのは、嫌いだと思わせていたのは「頭」だ、という事です。
以前にそれを「できない」などと経験してしまうと、二度、三度の経験を嫌ってしまいます。
 
頭に従う方法は「普通」です。
 
 
 
身体感覚に従う方法は真逆。
ワクワクするものではなく、とっても怖いものに向き合うのです。
普通なら絶対に選ばない、やらないことを「稽古」で体験するのです。
 
身体はすごいんですよ、嫌々であってもそれもやがて「慣れて」行きます。
慣れてくれば状況をよく見えるようになり、考えることが出来るようになります。
前を向きながら、何度か試すように稽古をすると、ある時、いつもとは違う動きが出て来たりします。
 
 
 
これは完全に「運」なのですが、試さねば力を貸してくれない運の力です。
 
 
 
全く新しい事を行ってみると、それまで苦労していた事があっけないほど簡単に解決したりするのです。
この経験が「成功体験」になっていき、怖い事、嫌な事に出会ったとき、反射的に逃げない強い心を与えてくれるのです。
 
 
 
ワクワクする事をやりなさい。
 
この言葉を私も信じています。かなり、確信があります。
しかし、その後、ワクワクしていて、さらに、ドキドキもしているかどうかがカギになります。
 
ワクワクだけであればそれは頭でっかち。
頭で作った幸せはやがて、身体にかかってくる事にやられます。一番目立つのは「老い」ですね。
 
身体に感じる「ドキドキ」。これも受け止めて、乗り越える。
ワクワクドキドキする事を選んでいれば自然に、色々なことを受け止める強さが身につきます。
 
 
 
世の中ドンドン安全になっていくので、ドキドキが減っているように思えます。
ワクワクするのは新しいゲームを待っていてもするかもしれません。
しかし、ドキドキはそうはいきません。
 
 
 
ドキドキする事を探しましょう。そして、選びましょう。

武術の稽古で得られるもの

身体感覚を手がかりに稽古をし始めて、次々に新しい発見があり、トレーニングをしている暇がなくなりました(笑)
トレーニングからも得るものがあるはずですが、それは常識的に「努力」として認められているので、他でもやれるかな?と思っています。
 
 
 
とにかく、「身体感覚」という世界が素晴らしい!
 
今、ドンドンその世界が私たちの手から離れだしているように思います。
感覚を使わなければ使えない道具は実用品からは消えていっています。
技術者はVRなど、感覚を使った新しい機械を作ったりして研究していますが、私たちの多くは消費者です。自分の身体感覚を使いこなすことなく過ごしています。
 
 
 
身体感覚が分かることでメリットがある。
 
もしかしたら、それがもっと広がれば身体感覚へ興味を持ち、日常生活、仕事を見直す人も増えるかもしれません。
今日は身体感覚の稽古がもたらしてくれるメリットをお話しします。
 
 
 
「身体」を強く意識をして稽古をしますので、つい、「身体が丈夫になる」と考えてしまうかもしれません。
確かに、この技術を身につければ、重いものも軽々と扱えるようになるし、重かった身体もヒョイと軽く動けるようになります。
 
スポーツに使えば記録を伸ばすことも出来ますし、プロの選手なら身体を丁寧に使うことが出来るようになり、現役を続けていくことができます。
 
 
 
しかし、そうじゃない、それだけではありません!
 
 
 
私は幸いにして、身体を大きく、健康に生んでもらいました。
ずっと身体に心配を作らず大きくなってきました。
それでも、その身体に似合わない心の弱さがあり、毎日を悶々と過ごしていました(笑)
 
 
たまたま出会った身体感覚の世界に興味をひかれ、稽古を続けていって、それまで気にもしなかった身体にたくさんの可能性が隠れていることを知りました。
 
そして、稽古、研究を続けていくと身体が動くようになるのと同時に、心がドンドン軽く、広く、大きく、機嫌よくなっていくのを感じました。
 
 
 
心身一如とはよく言われていて、その言葉を知っている人は多いと思いますが、本当にそうだったのだ!と実感することができました。
 
 
 
理由、原因のある問題点なら、その原因を解決していけば幸せになれます。
しかし、私が持ってしまった問題は原因が分からないことばかり。なんとなく、自信が持てない、そんな事ばかりだったのです。
 
 
 
そんな意味不明、原因不明の問題が身体が動くと、解決していくんです。
はっきりと、いつ、それに気づいたのかは分かりませんが、自分の機嫌、心の動きは身体に任せればいいんだ、と今ははっきりと、わかります。
 
 
 
便利な道具や機械、たくさんの細やかなサービスは成果、結果を与えてくれます。
人間の難しさは、うまくいっていても、心に不安が生まれることがあるんです。
 
まだ来ていない未来ですから、気にするな、という言葉一つで片付けられるものですが、気になってしまったものは仕方有りません。
どうしたら、自分の気持ちを変えられるのか、それを困っている人もいると思います。
 
 
 
そんな心に生まれる不安は身体感覚、身体操法、武術の稽古で解決をしていくことが出来るのです。
 
 
 
記録が伸びるのは楽しいでしょう。
出来ないことが出来るようになるのは楽しいです。
それらは目にも見えるので、その成果が欲しい人たちは身体感覚の世界に興味をもってもらえるはず。
 
しかし、心の問題、機嫌を自分の力だけで良くすることができる。そんなメリットも有ることをぜひ、伝えたいと思っています。
 
 
 
心にキズを追うと、それはだんだんと大きくなります。そのキズを癒すのに、身体なんか役に立たない、そう思うかもしれません。
でも、それは今までみてきた身体、身体感覚を捨ててしまった常識が作る体です。
身体感覚を知れば、これまで身体を数字でしか判断してこなかったのが分かりますし、他人からの評価で信頼を左右させていたこともわかります。
 
自分を自分で見て、好きな自分を探し求めて、手に入れる事ができるのが身体感覚の稽古です。
 
困っているなら、チャンスです。
その心に生まれる痛みや苦しみが手がかりとなって、新しい身体感覚に気づき、新しい自分を感じられるようになります。
 
今苦しんでいる、というのは身体感覚を手に入れるのにはチャンスなんです。
 
 
 
私がもらった稽古法は誰に遠慮をするものではありません。
カラダラボの稽古は感覚はお渡ししますが、覚えなくてはいけない手順はありません。
身体で得た感覚を手がかりに、当たり前だと思っていた日常に目を向けるとちょっとずつ、発見が増えてきます。
そして、その何かに気づく力は年齢とともにドンドン増えていきます。年齢を重ねる度に新しい自分が見つかる、そんな楽しさを得ることができます。
 
ぜひ、試して、自分の持っている身体の凄さを実感し、そして、近くにいる大切な人に、それをまた、伝えて上げてください。

カラダラボのウェブサイト

得意技を作ろう(ただし、褒められないもので)

何かができると人生は変わります。

身体感覚の稽古をし始めてずいぶん時間が経ちました。大きな衝撃を受けた経験でしたが、それ自体が直接、仕事や生活に役に立つと思えたわけでもないので、ここまで続けてこれたのは運だったのかもしれません。
 
 
 
私が行った稽古は「ただ手を上げるだけ」です。
よっぽど特殊な人でなければ、手を上げるだけの稽古を喜びません。
 
「それがいったい、なにに役に立つの?」

と、聞かれるかもしれません。
 
 
 
はっきり言って、手を上げる事は人生に「役に立ちません」。
手を上げられるからと言って、困ることはこの日本ではほとんど無いのです。
 
 
 
しかし、それでも、私は手を上げられるようになったからこそ、人生を楽しめるようになりました。
 
それまでの私には「得意」と思えることがなにも無かったからです。
しかし、20年もただ手を上げる事に打ち込み、研究すると、それは「得意な事」になります。
その得意がすごい、と言われることはほとんどありませんが、この技が今の自分にとってのモノサシになっているのです。
 
 
 
手を上げる動き自体はほとんど認められる事はありませんが、それを求める過程の中でたくさんのことに気づくことができました。
きっと、手を上げる事を求めなければみつからなかったものばかりです。
 
 
私が見つけたその多くは「身体」に関すること。
それまでは自分の身体を身長や体重、なにかの成績でしか見てこなかった事に気づきました。
「感覚」という視点で身体を観察してみると、肘や膝、肩や背中、胸、その他多くの身体を適材適所に全然使っていなかった事に気づかされます。
 
 
 
強い部分は強さを発揮するように使えばいいし、弱い部分は弱さを発揮するように使えばいいのです。
何にも使えない、と思ってしまった時にも「目印」ぐらいには使えます。
 
 
 
あれが出来ない、これが出来ない、とつい、諦めてしまっていましたが、自分の事がわかってくるにつれ、もしかしたら出来るのかな?と前向きな気持ちも出てくるようになりました。
 
 
 
 
得意なことを伸ばしていく時、あまり、大勢の人が価値を持っていないものの方がいいかもしれません。
大勢の人が求めるものであると、つい、彼らに合わせた事をやってしまうから。
 
その事によって喜ばれるのが「仕事」になるのかもしれません。
求められる「仕事」以外に自分を高めることをライフワークにできれば無敵です。
 
今は機械、コンピューターの時代です。
どれだけ身体があろうが、結果はあまり変わらない時代です。
だからこそ、身体を得意にするのが「結果以外のもの」を見つけるチャンスになります。
 
口笛や開脚なんかいいかもしれません。私はただ手を上げるだけでした(笑)
やれることで損もないけど、得もなさそうな事がいいようです。
 
 
 
自分なりの得意技を見つけてください。

良いこと、悪いこと、正しいこと、間違ったこと。

私はずっと、身体に頼って生きています。

 
 
 
そんな事をいうと、健康オタクな人から、そうですよね、私も!と言われたりします。
でも、違うんです。
 
身体に頼るというのは健康にするためではありません。
食べ物にも、運動にもほとんど、気を配りません。
インスタントも食べるし、機械にも頼ります。
 
 
 
 
それなのに、なぜ、それが身体に頼っている、というのか。
それを伝えるために、ブログを書き、講座を開いているのかもしれません(笑)。
 
 
 
 
常識的な「身体」ではなく、思考、判断の元となる身体があります。
 
 
 
 
 
 
やはり、言葉は足りません(笑)。
だから、日々、身体を通して感じたことを残します。
その中から、少しでも、あれ?私の思っている身体とは違うなぁ…と思ってくれたらうれしいです。
 
 
 
 
 
最近の稽古の中で「正しいこと、間違っていること」について考えることがありました。
絶対に嫌だ、だめだ、と思っていることが逆にとっても良いことだったんだと思うようになったのです。
 
 
武術の稽古には痛みがつきものです。
対応を間違うとそこには痛みが伴い、記憶に残ります。
 
するとだんだん、失敗する自分を早く見つけられるようになるんです。受けそこなった事で攻撃を受けてしまう、とわかると同時に身体は緊張し、固まります。
この時の身体が「嫌な事、ダメな事」だったのです。
 
 
 
 
数日前、生きる事と死ぬ事は合わせて100パーセントだ、と気付いたんです。
今、生きているのは同時に、死んでいる、という事に納得がありました。
10年生きるというのは10年死ぬ、という事です。
10年死ぬためには10年生きなくてはいけません。
 
この気づきでさきほどの「嫌な事」を見てみると、その瞬間、やられる!倒される!死んでしまう!と怖れを持った自分がいるのが見つかります。
死んでしまうかもしれないのですから嫌なのは当然です。
 
しかし、死んでしまう!と思った瞬間、その裏には生きている自分がいる事に気付いたのです。
 
 
 
 
今、ぼっーとして、なにも嫌なことがない瞬間は自分が生きているのか、死んでいるのかわからない状況です。
金メダルをとった、大統領になった、そんな大きなイベントを実感している瞬間ならしっかりと「生」を感じられるでしょう。
しかし、当たり前で、普通の毎日は生きてもいるけど、死んでもいるわけです。
 
武術は常に、死んでしまうかもしれない緊張感を与えてくれます。
ちょっとの対応の違いでドキッとします。
その瞬間の自分を見逃さないようにすれば、今まさに、生きている自分を見つけられます。
 
 
 
 
今、こんな事を書いているのは、「生きている」事を実感した瞬間、身体、特に首から下がざわざわっとなり、力が湧いてくるのを感じたからです。
ずっと、自信のない生き方をしてきたので、こんなエネルギーは感じたことがありませんでした。
 
 
 
 
死んでしまうかもしれない、それは考えたくないことかもしれません。
でも、考えたくないところにこそ、それまで見てこなかった世界は隠れています。
ちょっとだけ、ちょっとずつ、考え始めてください。

真逆の自己啓発

ある時期、自己啓発の本をよく読みました。

 
ずっと武道をしてきたにも関わらず、自信が持てなかったので、ヒントはないものか、武道以外の世界に答えを求めました。
 
 
 
ほとんど、本を読まない生き方をしてきたので、新しい知識を手に入れると嬉しくなります。一つ一つの知識で強くなっていく感じがありました。
 
ただ、すべきことはわかっても、実際に使おうとすると、これがなかなか難しい、そんな壁に当たるようになりました。
 
 
 
 
そういえば武道の技もそうでした。
型としての技はとっても綺麗です。しかし、実際に戦うと綺麗な技はほとんど出ません。
漫画や映画では華麗に捌き、バッタバッタと敵をなぎ倒しますが、現実の世界では残念ながらお目にかかれないのです。
 
 
 
自己啓発的な知識もそんな感じでした。
自分を信じ、認め、未来をしっかりつくり、生きていく。
その教えは立派で、頭ではそうだそうだ、と完全に受け入れても、実際にトラブルと向き合うとうまくいきません。
 
 
 
まぁ、そんな時のために「諦めない」という保険のような教えも入っているのですが、その諦めない、というのを続けるのも大変です。
 
 
 
本を読み、知識を得て強くなり、それがダメになったらまた本を読む。そんな事を繰り返しましたが、なんだか同じことの繰り返しのようです。
これではダメなのになぁ、と思うようになりました。
 
 
 
 
それと並行して身体感覚の武術の稽古を続けたのですが、意外にも、こちらの方から自分自身を認めるきっかけ、納得を得ることになりました。まさか・・・な出来事です。
 
私が身体感覚の稽古にはまったのは、トンデモナイ技を体験してしまったから。そして、それを身につけるために必要な技が二つしかない、という事だったからです。二つぐらいならなんとかなるかなぁ、と思ったのです(笑)。
 
 
ただ、技を身につけたい、と思って始めたものでしたが、「身体感覚」という世界がものすごいのものでした。
機械やコンピューター、様々なサービスが発展し、自分の感性を必要としなくなっていたからでしょうか、こんな世界あるとは夢にも思いませんでした。
 
 
 
 
多くの自己啓発は自分を信じる事を要求してきました。
自信をつけるためにアファメーションや、宣言など、具体的な行動も教えてくれます。
その頃、イメージトレーニングが流行っていたのかもしれません。自分が想像するものが現実になるんだ、と言われていました。
 
そして、現在はさらに、イメージの重要性は高まっていますね。
脳のトレーニングを行い、イメージ力を高めます。写真やムービーで潜在意識になにかを植え付ける手法も簡単に見つかります。
 
見えない脳ですから、まぁ、それでうまくいけばいいんでしょうが、私にそれらは全く合いませんでした。工夫や努力をすればするほど、うまくいかない自分を見つけてしまうからです。
 
 
 
 
そんな自信が持てない自分でも、身体感覚の稽古はうまく行くのです。
 
 
こうして、改めてなぜ、うまく行ったのだろう?と考えているのですが、それはイメージを作ろうとするのをやめたからではないか、と思います。
 
 
 
 
いいイメージを作ろうとしても、無意識はどうせだめだ、というイメージを作ってきます。無意識には勝てません。
でも、身体感覚はイメージを作っても、作らなくても、関係ないのです。
イメージが働くのは脳です。
身体感覚は脳をのんびりとさせません。次から次へと感覚を見つけ、それに合わせて身体を動かし続けます。
気が付くと、いつのまにか、いいところへと行っているのです。
 
 
 
なんとなく、自転車に似ています。
頭で自転車に乗る人はいません。
自転車はバランスを崩しながら、それでいて、バランスを作り、前へと進みます。
前へと進んでいるのはわかると思いますが、どうして倒れないのはか頭ではわからないのです。
 
 
その瞬間こそ、身体が主役になり、自分を動かしているのではないか、と思います。
 
 
 
 
転ぶことが怖かったから身体が止まってしまっていました。
これは自己啓発でも同じです。
失敗するのが怖くて、無意識にブレーキをかけてしまっています。
こちらが止まってもまわりは止まりません。気が付くと、まわりに倒され、がっかりする、そんな連続だったことがわかります。
 
 
 
 
身体が転ぶこと、失敗することを恐れなくなると、それまで学んできた知識が理解できるようになりました。
知識を得てもうまく使えなかったのは、自分が怖がりだったからです。
その怖がりを持ったままではどんな知識も使えるはずありません。
 
 
 
私の場合はイメージトレーニングをするのではなく、逆にイメージを作らないようにする方法が必要だったみたいです。
結果的に「正しい」と言われていることすべての逆を行ってきました。
 
自分が「できる」とただ信じるのではなく、今のままではだめだ、と疑い、新しいものを探し続けました。
うまくいったとしても、ポジティブにならず、まだまだこんな事では、と探し続けました。
 
 
 
結果として手に入れた力は「研究する力」です。
答えばかりを探していましたが、本当に役に立つのは研究する力でした。
そして、これは永遠に好奇心を失わないですむ力とも言えます。
 
 
 
良く動く身体があれば「どんな教えも正しい」のです。
 
 
今、すでに教えや知識を持っている人はいったんそれを横において、すぐさま、身体の感覚を観る稽古を行う事をお勧めします。
 
人間は歳をとります。老いるのです。
今、できない事が将来勝手にできるようにはなりません。
ただ、自分の身体の変化を数字ではなく、感覚的に見れるようになると、「同じ言葉」から「違った思い」を得ることができます。
 
出来なかったのは教えが間違っていたのではなく、自分が勘違いをしていただけだ、と気付くはずです。
 
 
 
 
感覚は目に見えません。
感覚がなくても、暮らしていけます。
むしろ、機械に任せたままのほうが楽に暮らせる時代です。
それでも、私は感覚を探る生き方を勧めます。
便利になり、いろんな事が出来ても、絶対にそれは飽きます。
しかし、自分を探る生き方に飽きは来ません。
探っていく過程でいろいろな事に気付きます。
そこで気付くことは書店でも、セミナーでも、インターネットにも見つからないことです。
自分の事は自分でしかわからないのです。
 
 
 
 
身体は数字ではありません。
身長体重、診断数値や記録、それらはちょっと、横に置いておいてください。
自分がいま、なにを感じているのか、ちょっとずつ、気持ちを向けていってください。
そのためのお手伝いなら喜んでさせてもらいます。

ショックの和らげ方

人生は「まさか」の連続なのだそうです。

今日のアメリカ大統領選挙でも多くの人にとってその「まさか」が現れたようです。
 
全てが予定通りであれば思い通りのところに行けると思うかもしれません。
しかし、それは個人の想像力によって縛られているのではないか、そう思っています。
 
想像力を鍛えるために「まさか」が使える、そう考えています。
 
 
 
私は20年前、とんでもない技と出会いました。まさしく、「まさか」という技です。
かめはめ波のようになにかが出てきたのであれば、頭はそれをそんな技だ、と認識したかもしれません。しかし、私が出会った技は見た目は全く、変わらない技でした。
何気なく手を出しているだけなのに、その手が見えなくなるし、抑えられなくなるのです。
 
かめはめ波であれば、うん、これは私には「できない」、と答えを出すことが出来たかも知れません。
しかし、私が体験した技の原理は「身体」だったのです。身体なら、私も持っています。その持っているものを生かす事でその技になるのであれば、それを望んでしまいます。
 
 
 
その後、何度も「まさか」という技を受け続けたのですが、気が付くと、自分の技量も上がっていた事に気付きました。
何かができるようになったわけでもありません。ただ、まわりを見渡した時に驚かなくなっていたのです。
 
これは、自分の想像力が増えたことを意味します。目の前のそれは「普通」なのです。
普通なのですから、それに気持ちが負ける事がなくなっていきます。
 
 
 
想像力は常に、今の自分ができるものをベースにして作られます。
純真な子供であれば無限に創造することもできるでしょうが、現実という力にまみれた大人はまず、無理。今の自分を無意識に基準にします。
 
この時の「できる」事がポイントです。
なにかができるには、相手が必要です。相手との共同作業でなにかが生まれているからです。
自分にできる事だけが経験になるのではなく、相手ができてしまった事も自分の経験になります。
 
技で言えばトンデモナイ技で崩された経験がある人はそれが想像力の基準になります。
一度経験してしまえば、次にかけられたトンデモナイ技は「慣れた技」になります。何度も何度もトンデモナイ技をかけられることで、それが当たり前になっていきます。
 
人間には慣れの力があります。余裕がでてくれば、あぁ、またか、となるのです。
その時、ふっと心に生まれる想像。これは大きなショックを受けたことで得られた想像力なのです。
 
 
 
人間には慣れの力もありますが、忘れるという力もあります。いや、忘れたい、のかもしれません(笑)。
忘れてしまうと、何度体験をしてもそれは初めてのように受けられるので楽しいのかもしれません。でも、その忘れているのは表層の意識、心の底の意識は絶対に覚えているはずです。
 
自分には乗り越えられない、と思うと忘れる事を選択してしまいます。
しかし、せっかくのショックです。武術はこのショックと向き合い、新しい自分を見つける手掛かりにしてきました。
 
 
 
人それぞれショックは違います。
今回の大統領選挙でも、大変だ大変だ、という人の意見がニュースになりがちですが、今回の結果を望み、投票した人たちにとってみれば希望になっているはずです。
 
常識は大勢の意見が作ります。気を許すと現代はすぐに誰かの意見が自分の意見のように思わされてきます。
全体の9割の人がそうだ!というと、つい、それに引っ張られてしまいます。
 
しかし、身体を通してみた時には常識は忘れてください。
どれだけ「無理」と言われても、自分の中に求めるものがある時にはそれを求め続けます。
その思い、信念があるから、そこから次のアイデアが出てくるのです。
その変化はとってもわずか。常識側からはやめておけよ、と声がかかるかもしれません。
でも、やめてしまったら絶対に自分の望むところにはいけません。
 
 
 
アスファルトやコンクリートを破って雑草が生えます。
植物に意識があるかどうかはわかりませんが、すごいことですよね。
 
しかし、私たちの常識的な頭は綺麗な花にばかり目が行きます。
諦めなくてもいい、という事を身体は教えてくれています。
ショックを受ける、というのはまさしく、そこに身体がある、という事を教えてくれています。
 
ただ、身体を生かす、身体を観る、という事をみんな忘れてしまいました。目に見える身体しか扱わなくなったのです。
そんな常識に負けて生きるのも自由ですが、私はトンデモナイ技を経験してしまったのでもう無理です。
あの「ショック」があったからこそ、その後、20年以上ずっと、あきらめずに新しい自分を求め続けていく事が出来ました。
 
しかも、その後何度も何度も「まさか」という「トンデモナイ技」を受け続けることができ、この先、死ぬまでずっと、新しい自分を探しながら生きていく事になりそうです。
 
 
 
「攻撃」と「防御」に納得がいって、これからは責任と覚悟を持って「攻撃」もしよう、と思います。
トンデモナイ技を通してショックをお渡ししますので、ぜひ、体験にいらしてください。
 
稽古、講座予定はこちらをご覧ください。

ダメはどこまでいってもダメである。

なにかをうまく生かせるために何より必要なのは自信です。
もし、自信がないままうまくいったとしても、次、うまく行かないかも、という不安が生まれてしまうからです。
 
 
そして、最強の自信は気にもとめない自信。自信が有るかどうかすらわからないほど気にしていない状態。自信という言葉も似合わないような状態があります。
そんなところにまで意識を高められたらいいですよね。
 
 
 
一生懸命努力する、がんばる、という言葉はアチコチで聞きます。がんばりません、とあくびをしながらオリンピックに出場する人はいません。努力は現代を象徴する言葉です。
 
しかし努力は全てではなく、一つの方法です。努力をしたい人はすれば良いし、それができる世の中です。
ただし、努力が似合わない、と思った人は無理してやってもしかたありません。自分に似合う方法があるのですから。
 
 
 
しかし、そんな自分に合う方法は外にはなかなか見つかりません。
世の中は常識が強くなりました。世界中どこにいても、同じ情報を共有できます。ひとりの成功者が多くの人の憧れの的になります。その人の言葉をきき奮い立たせられると、つい、同じ方法を行ってしまいます。
 
 
 
例えばこの時、憧れのカリスマがひたすら人生の全ての時間をかけてなにかを成し遂げると、自分も時間をかけたくなります。
他にやりたいことがあっても、我慢をして、努力してしまいます。
 
しかし、これは、表面的な事だけ。
同じように時間はかけていても、一方は我慢して、もう一方は結果的に、時間をかけていただけかもしれません。
同じ時間であっても、苦痛の時間と、楽しみによって時間が消えていた場合とでは成果は違って当然です。
 
自分に合う方法を見つけなければ、結果的に大変な遠回りとなってしまいます。
 
 
 
最近、私は人は「攻撃型」と「防御型」に分けられる、と気づきました。
私は完全な防御型です。ものごころつく前から、まず守り、それから反撃、と教わってきましたから。
 
しかし、学校や仕事、日常という常識の中で学んできたのは攻撃型の生き方でした。
その違いに気づけなかったので、時々、そのギャップに躓いてしまっていたんだ、そうわかりました。
 
 
 
スポーツの世界は攻撃型です。攻撃をして、点を取らなくては優勝出来ません。
しかし、武術の場合、命を守る、という点からすれば危ない機会を避け続ける事ができればそれが一番の正解とも言えます。
 
 
 
西洋的な考えでは自己主張をし、他者を倒し、願いをかなえることを良しとするかもしれません。
しかし、周りを気にせず、振り回されず、ニコニコと毎日を暮らしても良いはずです。じっと目を瞑り、瞑想をする。一人の世界を作り上げる事も方法の一つです。
 
 
 
あらゆるものには真逆の成功があります。
そのどちらに行きたいのか、それを決めなければ間違ったところに行ってしまったときに待っているのは天国ではなく地獄です。どんなに他人から、いいね!と言われようが自分の居場所ではない、と気づいてしまうと逃げ出したくなります。
 
 
 
最初の一歩を見るには大きな成果に惑わされない心が必要です。
今、大きな成果が誰の前にも有りますよね。これを見ない事が本当に難しい!
 
便利な機械なしでは今の世界は成り立ちません。魚を釣って食べていただけの時代とは違います。
便利な機械、仕組みを嫌って、山にこもる、という事ももう出来ません。どんな山にこもっても、周りには恩恵を受けている人たちがあふれています。
 
 
 
身体感覚は小さなものを見る目を与えてくれます。
最初の一歩を見ることが出来るようになります。
最初の一歩という答えをくれるのではなく、その時、その瞬間の自分の最初をいつも、追い求めさせてくれるのです。
最初の一歩がドンドンバージョンアップされるんです。新しい最初の一歩を見つけた瞬間、心は変わります。自分のやりたいことにあわせて、気持ちの方向を揃えてみると、自信が沸いてくるのです。
 
 
 
今、これを書いている私は「攻撃型」です(笑)。
武術のお陰で無限にアイデアが沸いて出てくる、という武器を手に入れました。
成果を上げることは上手になっても、自分のやりたいことを見つける力をなくした人がいます。
どんなに成功しても、その先にあるのは不幸です。
 
私が手に入れた武器は求めれば必ず答えの得られるという武器です。自分の中からひらめきは出て来ます。
 
自分が本当にやりたいことは何だろう?
 
そんな問いを立てれば答えは出て来ます。答えは五分後にやってくるかもしれません。10年後、20年後かもしれません。
時間はわかりませんが、間違いなく答えはやってきます。
そして、稽古という研究を習慣にしたことで、答えを待っている時間も楽しいものとなりました。
 
 
 
常識的に楽しいものを楽しむのは簡単です。
それにくわえて、病気やケガ、アクシデントなどで人生を迷ったとき、そんな時にも楽しめる事ができるようになりました。私が手に入れたアイデアがあふれてくるという武器は心に、楽しさ、安心を生む防具でもあったようです。
 
 
 
日本人は武器と防具を同じモノとして育ててきたように思います。
片刃の剣を両手で持つ。西洋のように、頑丈な剣も丈夫な盾も鎧も作りませんでした。
薄く細い刀だけで攻撃も防御も行ったのです。
 
常識では考えられない方法で薄い刀に身を隠しました。こんな防御法、ありえません(笑)
 
 
一器多様、一つのモノをアイデアを使い、生活に合わせる。それこそ、日本人の強さのような気がしてなりません。
世の中が西洋化していくのは否定しません。新しいものが増えていく楽しさが得られます。
しかし、社会が変わらなくても、新しい使い方が増えていくのも楽しいのです。
これも、最初の一歩が2つある、という強さです(笑)
 
 
嫌いなものを嫌わずちょっと試す、そんなところから始めてみてください。

カラダラボウェブサイト

衝突は奇跡。

新しい感覚を見つけると動きが変わります。それまで想像もつかなかった精度で動くことができるようになり、十分に抑えさせていたとしても、すり抜ける事が出来るようになります。
 
 
 
それでも、二度三度、繰り返して技を行うと相手はそれについてきます。人間の持つ「慣れ」というすごい力です。
相手についてきてもらうと、このままではダメだ、もっと、なにかを見つけなければ、と思えるようになります。この気持ちがなくては新しい発見はありません。
 
だからこそ、カラダラボでは、先輩後輩や、持っている段位などの気持ちの遠慮が出ないように、入会もなければ受講証もありません。とにかく、研究が第一なのです。
 
 
 
嗅覚を使う方法があることがわかり、技はガラッと変わりました。これまで困っていた技もスルリと行きます。
ただ、うまく動けたときにはその軽やかさがあるのですが、時々、ぶつかるのです。
 
その衝突が頭を働かせてくれます。
動き方は分かっていて、そのようにやっているはずなのに、なにが衝突を作っているのだろうか?そんな疑問が出て来ます。
 
疑問が出れば答えが返ってきます。研究する事の楽しさはここにあります。しかも、その答えはその瞬間の自分さえ納得ができればいいのです。
 
 
 
衝突する時、自分の中のなにが影響しているのだろう?と思い、その瞬間を思い出していると、一つ見つかりました。
 
ぶつかるときには「相手を」考えていたのです。相手をどうこうしたい、相手を動かしたい、と思い動いている自分がいました。
 
 
 
うまく動けたときにはそれはありません。自分が進みたいところへと身体を進ませるだけです。
こちらが自由のまま動いた「結果」、相手は置き去りにされ、勝手に崩れていきます。
 
 
 
新しい世界を見つけた瞬間はその楽しさで相手にかまう暇なく、ただ行きたいところへ進んでいたみたい。
でも少し飽きてくると、今度は相手を気にしてしまっていたわけです。
 
 
 
相手の中にも力があります。
潜在的な力は相手も無限です。相手に向き合い、力を引き出していたのかもしれません。
 
 
 
そう考えると、衝突も楽しい、と思えてきます。
ちょっと思考を広げてみると、ひろい宇宙の中ではほぼ、衝突はありません。星と星が出会う確率はそれこそ、天文学的確率でしょう。
しかし、この地球上では、山ほど衝突があり、それが当たり前になっています。
 
せっかくの衝突です。その衝突を生かし、学び、新たな世界を見つけるために使いたいと思います。

嫌なものと向き合う強さを。

なにかを学ぶと賢くなります。今はそれをどういう時に、どんな風に使えばいいのかも丁寧に教えてくれますし、ロールプレイを通して実践練習もできます。
資格を取ったときにはこれで未来は明るい!そう思えてきます。
 
 
 
そしていざ、実践へと向かったとき、明るい気持ちがなくならなければそのまま望み通りの成功へと行くことでしょう。
しかし、たいていの場合、学んだものはそのまま使えません。
 
どうやらこれは当たり前のことなのですが、丁寧に学びすぎてしまうと、それがわからなくなります。
 
そして、その後、その困ったことを解決するためにエキスパートコースなんかに通ってしまうともう、自立するチャンスを失ってしまいます。
自分の持つ技をどう使うかは、自分の性格によって決まるからです。
 
強気な性格、弱気な性格、臆病な性格、色々ありますが、外と内、とりあえず、簡単に二つにわかれます。
 
自分を信じられるのか、疑うのか、です。
 
 
 
疑ったまま、新たな知識をいれても選択肢を増やすだけ、また、迷います。
ただ、こうして、また、受講生になってくれるとスクールとしてはありがたいものです(笑)。
なかなか、この壁は越えられません。
 
 
 
すべての知識は自信を作るためにあるのではないか、そう思うようになりました。
自信が持てさえすれば、なんとかなる、乱暴ですが、そう思えて仕方有りません。
 
 
 
そして自信の源こそ、「身体」です。心はコロコロ形を変え、自信のある時、自信のない時、色々です。病気になれば普段自信があっても、心は落ち込みます。
 
しかし、身体は自覚したところまでは絶対の自信が生まれます。ケガをしても、病気をしても、それは、当たり前の一つ、それにより自信がなくなることはありません。
むしろ、そこから「上がる」自分を見つけられるので、気分は良くなります。
 
しかし、自分の身体を数字で見てしまうとそれはアタマの自分であり、自信につながりません。
数字は一つのルールに沿って生まれたものです。肉体の衰えと共に落ちていくのが自然です。
 
身体感覚の自分はあらゆる方向へと「動ける」自分です。
目の前に壁があれば、それを様々な方法で乗り越える事ができると見せてくれます。
絶対にもうこれはダメだ、と思うような状態でも必ず「次」があるのですから本当に面白いです。
 
最近見つけた新しい身体は「嗅覚」の自分でした。嗅覚から感じられる身体はモヤモヤとした雲のよう。その雲は存在は感じられるけど、形がないので、相手との衝突がありません。抑えられても、するすると、細いところを通り抜けていけます。
嗅覚の身体にならなくては決して見つからなかったルートです。
 
 
 
この身体感が生きていくときのベースになるのではないでしょうか。
筋肉を鍛え見かけ上頑丈になれば、多少の衝突は怖くなくなります。しかし、より大きな相手にやられてしまいます。
身体が柔らかい人はその柔軟性ですり抜けていくかもしれません。その時、固い身体か、雲のような身体か、無意識にそれがベースとなります。
 
 
 
人間は歳をとります。年代によって身体は変わるはずです。
筋肉が強い時もあれば、肉体に頼れない時もあります。どんな状況でも何とかなる、と、新しい価値観を教えてくれるのが稽古です。
 
おそらく、昔は経験の中で新しい自分を見つけていたのでしょう。危険な状況が日常的にあったはずです。
しかし、現代は安全が第一。しかも、働くのは機械です。活動の場もネットの中に移ってきてますし、肉体的に危険を感じることが少なくなりました。
その結果、身体の多様性、可能性を知らないまま歳をとります。
 
どう考えても、努力による訓練は若者向けです。一時の楽しさはありますが、それで心は強くなりません。
 
 
 
肉体が衰えることを嫌だと思わず、少しずつ、観察を始めてみてください。
口内炎でも、ニキビでも、少し気になるところからそれと向き合うことを始めてみてください。
 
向き合ってみれば、そこから、新しい考え方が出て来ます。
嫌な考え方が出てくるかもしれません。でも、さらに、考えます。するとまた、新しい考え方が出て来ます。
出来るならば、動きとともに考え、考え方次第で動きが変わることも知って欲しいところですが、まずは、向き合うところからはじめてください。
 
新しい知識はもう要らないかもしれません。知識によって振り回されている自分が見つかるかもしれません。
手放すために時間はかかります。それでも、嫌なものに向き合う作業、姿勢が徐々に自分を信頼する力へと変わるのを感じることができます。
 
 
 
嫌なものの中にありがたいものを見つけられれば気分はずっと良いままでいられます。自分勝手で良いんです。間違えても良いんです。どれだけ頭が間違えても身体はなくなりません。常に身体はなにかを教えてくれようとしています。ぜひチャレンジを。

裏の身体の発見

10月31日、突然、鼻の奥に新しい感覚を得ました。

喉の奥に息をぶつけるようにする事で、そこが「ある」という感覚を得たようです。
 
なにかが「ある」というのはとても大切な事です。「ある」と分かるからこそ、それを動かすことができます。
鼻の奥に見つかったものはまだなんの働きもしません。ただ「ある」だけです。それでも、「ある」事がわかったので、動かすことができます。
 
この鼻奥にある部分が動くと、頭全体が動きます。場所的にも頭部分の重心位置に近いようですから当然かもしれません。
このバランスのいい部分が直接動くことで、「結果的に」、末端は大きく動かされていきます。
 
特に技として変わったのは剣です。
剣術はほとんど稽古をしないので素人剣法です。むしろ、剣術を稽古せずに、このまま素人でいたい、そう願っています。
なぜなら、稽古をすれば無意識に上達してしまう事があるからです。
テクニックとして使えるものを得てもそれはその世界の中でしか使えません。私は根本が知りたいと思っています。ですから、剣の素人のまま、自分の中で驚ける動きはないか、と探っているのです。
 
 
 
そして、やっと、自分でもびっくりする動きと出会う事ができました。
剣先を飛ばすのに、どうしても、握っている手、支えている体幹、それらを動かさなくてはいけなかったのですが、頭が先に動くようになり、手や体幹はそのままに、剣先だけが飛ぶようになりました。
 
頭が先に、と書きましたが、これまで認識していた頭は「外」から見たものでした。外の頭を動かすと、つい、首が動きます。首の関節は柔軟なようで、わずかな頭の動きもそのショックを吸収するように動いてしまい、ねじれます。
 
しかし、鼻奥にある部分を意識して、それが動くと、首どころか、手の内も体幹も意識はそのままでいられます。自分の動きを自分の目で追えないのは初めてです。
 
 
 
その鼻奥ですが、どうやらさらに「奥」がありました。
鼻奥に見つかったものは頭の重心です。
そして、それは鼻を使い、匂いを嗅いでいるようにすると意識しやすいようです。鼻ですからね、当たり前かもしれません。匂いがない、匂いがしない事で忘れていました。
 
鼻は匂いを嗅ぐものです。その「嗅ぐ力」を内側に向けます。
そして息がそれをさらに助けてくれる事もわかりました。
鼻奥にある頭の重心は息を「吐く」事で動きが生まれやすいのです。
そして「吸う」息はお腹に入っていく事がわかります。
その息に乗せるように「嗅ぐ力」を使います。
 
食道を通り、胃の中へと鼻の感覚が伸びていくのがわかります。
その時、鼻奥の時と同じように「ある」という事がわかります。
 
 
 
吸う息に合わせたことで見えてくる身体は体幹部です。
体幹部の内側がしっかりと自覚できることでねじれにくい身体となります。
頭ほど速くはありませんが、大きさがある分、力は大きく相手に伝えれます。
 
 
 
身体の内側に気付いてほんの数日なのに、これまでの動きをすべて捨てざるをえない状況になってきました。
ただ、鼻から感じられる身体は「内観的身体」そのもののような気もしています。
視覚、触覚、聴覚は頭で理解しやすい感覚だったのかもしれません。そのわかりやすさが頭がでしゃばるきっかけを作っていたようにも思えます。
 
 
 
感じたままを残すために今、これを書いています。
稽古に来られて試されたときには別の使い方、考え方に変わっているかもしれません。それでも、それは、今の状況を通ってそこに行ったものです。
疑問になったところ、気になったところ、稽古の際、遠慮なく聞いてください。
 

自己肯定感の獲得

運命は変えられるか?

書店に行けば人気のテーマです。
決まっているのか、決まっていないのか、すぐに答えを求めてしまいますが、第3の選択を得て、私は楽に、幸せに、楽しくなれました。
 
それは「研究する」という事です。
 
 
 
運命について答えを持っている人もいるでしょう。
そういう人は自信を持って、たくさんの人にそれを伝えると思います。
そして、それによって救われる人がいます。 
 
 
 
私は答えをいろいろと見せていただきましたが、どれも、ダメでした。答えがダメなのではなく、自分に「合わなかった」のです。
 
答えは信じれる人にとっては便利なものです。迷わなくてもいいですから。
私はどれだけ皆に信頼されている答えを得ても、だめでした。すぐに迷いに振り回されてしまいます。
それは私の性格だったのですが、そのおかげで「研究する」という楽しみを得ることができました。
 
 
 
答えを外に探すのではなく、自分の中に探る方法を見つけてみると、気分は無敵です。
悩みがでてくればそれを研究すればいいことがわかったのですから。
 
 
 
私にとって「運命」は大きな興味を持てるテーマでしたが、もう一つありました。「自己肯定感」です。
一応、「自己肯定感」と呼んでは見ましたが、どうも、この言葉も合いません。
自分をただ信じればいいのに、わざわざそこに言葉はいらないはずです。
 
研究を続けてみればヒントが見えてきます。
 
 
 
最近私はこの身体には三つの指揮系統があるのかな、と考えています。
人間の欲にも三つありますね。睡眠欲、食欲、性欲です。
 
その中の食欲。ここに私は引っかかります(笑)。
食欲は面白いです。食べたいのに、食べれないのです。
美味しそうなものも、お腹がいっぱいでは食べられません。
お酒が好きでも、肉体が壊れれば飲めません。命の危機がやってきますから。
 
その食欲を担当するのが身体の大部分を占める体幹部ではないか、そう思いました。
身体はねじれます。すぐにねじれてきます。
左右にも、上下にも、前後にも、です。
そのねじれやすい身体にこれまで振り回されてきたのか、導かれてきたのか(笑)。
 
 
 
頭を主役に使う方法が見えてきて、今まで、この体幹がねじれる事で悩まされてきたのは嫌な事ではなく、悩むことができる「自由」なのかな、と思えるようになってきました。
 
ダメをダメと見ないで受け入れる事ができるようになる事こそ、稽古の良さです。
自分の中にあるものを全部見ることができる。良いものも悪いものもです。ただ、悪いと思ったものもありがたく思えるように見えたりもしますし、良いと思っていたものも手放すことができるようにもなります。
見えてくる、わかってくるという事が自己肯定感なのかな、そう思っています。
 
 
 
稽古という研究が当たり前になって外への興味は薄らぎました。外にたくさん欲しいものがある人には合わないかもしれません。
しかし、外だけがすべて、という世の中になってしまうと、私のように内側を求めていた人たちはつらくなります。世の中が便利で豊かになればなるほど、自分が置いていかれてしまう気持ちになりますから。
 
 
最近、「鼻に奥がある」という事に気付きました。
その奥に意識を集中してみると、身体の内側、裏側を意識すること、意識をし続けることができます。
多くの場合、敵は外に現れます。自分の潜在的な力を信じていても、実際に目の前に敵が現れると身体は緊張し、動かなくなります。
しかし、鼻奥の身体に集中すると、見る前よりも早く、相手を認識し、受け止められるようになります。
 
身体感覚の稽古で何度もびっくりさせてもらってきましたが、こんな身体があるとは夢にも思いませんでした。
鼻ですから主な感覚は嗅覚かな、と考えています。ただ、匂いはしません。わかりません。
それでも、そこに「ある」という事はわかります。
「ある」を認めただけで技や動きがまるっきり変わりました。
 
求めるものが技であっても、それを成立させるのは身体です。
きっと、この内側に意識を向ける感覚もそれを普段から使っている人がいるはず。ただし、それを自覚しなければ、いつか、ほかの意見に惑わされてしまう事もあるかもしれません。
 
 
稽古を通して得られる自己肯定感は自分が確信したものをしっかりと使いきることができる力です。自分がすべてを選択して生きる、そんな生き方をする事ができます。
 
11月からのワンテーマ研究会ではこれまでの「運命」に加えて「自己肯定感」も始めます。
「自己」を考える時、「身体」は多くの人にとって「未知」の部分。重い軽い、大きい小さい、そんな数字だけではない身体を見つけると、自然と自分への思いは変わります。
 
 

ショックを受けることでいいこともある。

初めて甲野先生にお会いしたのが22歳の時です。

大学を卒業したばかりの事です。
それまで、ずっと、自分なりに練習をしてきて、素手であれば戦った時「なんとかなる」という気持ちになっていました。
 
実はあまり知られてはいないことですが、ルールがある時、勝ちを求めず逃げに逃げまくることで自分の身は案外と守ることができます。経験者と未経験者という状況では突き一つで決まることもあるでしょうが、相手も経験をしていて、ルールがあればなかなか技は決まりません。
 
 
 
本でしか知らなかった甲野先生の技を実際に受けてみると、これがもう、びっくり。
触れて抑えて、十分警戒をしていたにも関わらず、次の瞬間、なぜか、顔の前に手が。
ルールがあれば顔の前に手が来ただけではなにも変わりません。
もしかしたら、次の瞬間、こちらの技が決まり相手を倒す事もあるかもしれません。
 
でも、目の前に自分が理解できない技があるんです。
 
初心者であればすべてが初めての技です。驚くべきばかりかもしれません。
でも、何年も、何十年もやってきて、その道の先生となって、目の前にあるシンプルな動きの仕組みが「わからない」なんて・・・。
 
このショックはそれまで向き合っていたものが大きければ大きいほど大変なことになります。
 
 
 
このショックに対して「見なかったこと」にする人もいます。あまりに多くのショックは受け入れることができません。
私はぺーぺーで、なおかつ、自分に自信を持っていなかったので、守るものはなにもありませんでした。目の前にある「わからないこと」をわかりたいと思い、稽古を始めました。
 
この眼から鱗が何枚も落ちるようなショックが無ければきっと、いい話をきいた、ぐらいで終わっていたかもしれません。
 
 
 
一生懸命やっていれば上達します。
そして、世の中広いので、上には上がいてショックを受けることもあるはずです。
そのショックを活かすことができればさらに、奥が見ることができるはず。
 
ただ最近は「人それぞれ」という考え方が広がってきました。
どんどんと細分化して自分らしく生きることが楽しいよ、という考え方が受け入れられています。
この考え方は私も受け入れていますが、これは見方によっては「ルールの細分化」となって、自分のいいところを伸ばす事が出来なくなります。
衝突を嫌って避けまくると成長はできません。
 
 
 
私は根本となる「身体」を強くする方法を教わりました。
その根本を強くして、自分らしい生き方を見つけることこそ幸せへの道だと思っています。 
 
 
 
衝突は嫌な事だけじゃない、それを身体で経験できることこそ稽古です。
年齢とともに捨てること、手放すことが難しくなる、と言われています。いろんな理由があるんだと思います。でも、できれば、身軽な年寄りになりたいと思っていますので、これからも研究、稽古を続けていきたいと思います。
 
こんな楽しみを求めている人のお手伝いができればうれしく思います。

【再掲】下駄の効用

先日、「願いとプレッシャーはセット」という事を書きました。
その最後で下駄をお勧めしましたが、2年ほど前、下駄の効用に気付いた時の記事を再掲します。その後、さらに研究は進み、下駄でやれる事はさらに増えており、さらに、下からの感覚は「当たり前」として活用しています。
 
ご参考になれば幸いです。
 
 
 
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 今日は「下駄」の話をしようと思う。最近、ツイッターではつぶやいていたけど、あまりの効用にどうこれを伝えようかと考えているうちに時間が過ぎてしまった。
 多くの人が「靴」を履く。しかし、ぜひ、「下駄」を履いてみて欲しい。そして、それを続けて欲しいと思う。そこにはもちろん、意味はあるし、効果もあるんだけど、続けられる人はそんな事を考えずに、普通に、下駄で過ごす時間を過ごして欲しいと思う。
 
 
 
 ただ、私は頭でっかちな性格だ(笑)。意味もわからず、なにかを続ける事ってできない人。だから、今日は昔の自分にあてるような気持ちでブログを書く事にする。なにも考えなくてもただ履いて過ごすだけで、カラダは変わってしまうのだ。
 
 
 
 二階にある道場に手すりを使わないと上がれないほど膝が壊れている仲間がいる。彼に少し冗談めかして下駄を履かせて歩かせた。すると、それまで痛くて気になっていた膝が気にならないみたい。そのまま階段を降り、また、あがってきた。第一声は「なんで、あがれるのか!」だった(笑)。
 
 
 
 下駄をバカにしてはならない。エンジンも歯車も、なにもついていない。しかも高級なブランドでもなければ、たぶん職人が丁寧に魂をこめたものでもない(1500円ぐらいで普通に買ったサンダルのような下駄。鼻緒もついていない。)。
 それでもカラダは変わってしまうのだ。
 
 
 普段、きっと、頭に気づかせないように、このカラダは無意識に変化を隠している。これまでも下駄を履く機会はあったけど、まさか、こんなにも大きな変化が自分の中に生まれていたとは夢にも思わなかった。
 
 
 
 
 下駄を履く事でなにがかわるのか。
 最近の術理に当てはめてみると、「跳ね返る力」、「重力」の力に簡単に乗る事ができる、というところだろう。以前、「今を5つにわけてみた」としてブログを書いたけど、その2番の力、五行で言えば木行の世界に簡単になじめるようになるのが下駄なのだ。
 
 
 
 跳ね返る力の存在に気づき、それを使いこなそうとあれこれ試し、なんとか、一通りの技の中での生かし方を見つける事ができた。それによって、これまで考えもしなかった動きが可能になり、実際に速く、そして、重い動きがでるようになったのだ。
 しかし、これを伝えるのはなかなか大変。まず、なにより、タイミングが違う世界がある事なんて普通は考えないもの(笑)。
 
 
 
 手を合わせてみればそこに普段と違う感覚と、目に見える結果があるので、タイミングが違う世界が「ある」というところまではなんとか理解してもらえると思う。問題はそのタイミングの世界にどう行ってもらうかだ。
 ただ手を上げる、ただ歩く、そんな普通の中にタイミングを変えた世界がある。そして、それを変えることができれば、これまで無理だと思っていた事に光が見えてきて、楽しくなれる。そう確信はしたものの、どうしたらそれを伝えられるんだろう、と考え込んでしまった。
 
 
 
 問えば必ず、答えは見つかるもので、その感覚を自覚し、過ごしてもらうためのアイテムが「下駄」なのだ。
 
 
 
 今、私の中では下駄は「履物」ではなく、「乗り物」と認識している。自転車のように楽に身体を運んでくれるもの、と考えている。下駄は発明なのだ。
 
 舗装道路のなかった日本では下駄が便利。もちろん、それもあるだろう。でも、そうなれば、現代において下駄は必要なくなる。軽い靴でかまわないもの。
 でも、靴では得られないすごいものが下駄にはある。下駄に乗る事で身体を常に楽に動かす事ができるようになる。
 
 
 
 これを武術の技を通して確かめると、もう、靴には戻れない(笑)。
 
 
 
 ちなみに、今私のキャリアは武道暦が40年近く・・・、甲野先生に出会って20年近くになる。これまで、研究、稽古を続けてきて変わり続けてきた、という自負もある。
 
 でも、今、自分のどんな動きよりも「下駄」に乗って動いた技のほうがキレルのだ(笑)。
 
 
 
 甲野先生と出会い、変化こそ大切で、楽しい、とわかった今だからこそ、この状況を楽しく過ごす事ができるけど、きっと、何十年も一つの事を追求してきた人であれば、ショックで言葉もなくなり、さらに追求していく意欲を失ってしまうかもしれない。
 
 なぜなら、何十年の努力が全部、無駄な努力だったのかも、と思えてしまうから。
 
 
 少しでも動きのレベルをあげようと日々、汗をかいている。でもそんな汗を下駄はひょい、と乗り越えてしまうのだ。その現実をどう捉えるか、稽古のセンスはこういう瞬間に試される。
 
 下駄によって身体は変わっているのだ。変わっていない、と思い込んでいるのは頭。現代は頭が強いから、つい、変わった身体をなかった事にしようとしてしまう。でも、身体も大切な自分。しかも、身体がわかる事で精神の事もよくわかるようになる。
 こんなにも豊かで便利で楽に暮らせる時代なのに心につらいものを抱えている人は年々増えてきている。理由の大きな部分はきっと「身体」が使えなくなってきているから。医者も学者も皆現代人、身体を使える人、身体のすごさに気づいている人は少ない。身体のすごさを認めない人が精神の問題を解決できるとはとても、思えない。
 
 
 つい、話がそれてしまった。今日は下駄に戻ります。この記事を読み終わった後、下駄を買いに行ってくれる人が一人でも増えれば、なんて(笑)。
 
 
 
 
 下駄に乗る事で足からくる不安が少なくなっているのに気づく。足からくる不安とは崩れそうになる、不安。その不安定さが無意識の力みを作っているわけ。この力みは4番。筋肉、意思の世界。なにかをやろうとするタイミングは地面からの跳ね返りの力のタイミングに比べて圧倒的に遅い。その「ズレ」が力みになり、身体を硬くしてしまうのだ。
 
 若いうちはまだ、身体にも余裕がある。、栄養も取れるようになったから、筋肉も増えたし。しかし、増えた筋肉は重さにもなり、骨格としての身体、バランスとしての身体に負担をかける。歳をとり、どこかで、負担のほうが強くなるときが必ず、やってくる。
 それがわかっているのに、皆なぜ、平気なんだろう?
 
 
 
 下駄に乗ると、足指、膝の力みが消える。
 どうも、私たちの足元は平らに見えるだけで、体にとっては微妙なバランスを必要とするものらしい。その微妙なものを処理してくれるのが下駄なのだ。
 
 下駄は自分がそこにいていい、と身体で思わせてくれる。いくら、頭の中で「ここ」こそ自分の居場所なのだ、と思っても、実際に身体が緊張していては駄目だ。身体の方から安心がもらえる。ただの木材に紐がついたようなものなのに(笑)。
 
 
 
 舟の船頭さんを考えてみて欲しい。水面のゆれを身体で受け止め、櫓をこぐ。エンジンのように馬力で進むのではなく、身体を使って、舟を導く。この時、水面のゆれに抵抗していては一人前に舟を扱う事はできないはず。舟との一体感があって、初めて櫓を使いこなせるようになるはずだ。
 
 地面との関係もこれと同じ。地面は揺れていないけど、身体はいつも、不安定さを持ち、一体感を失ってしまっている。下駄に乗る事で簡単に一体感が得る事ができる。意味もあるけど、身体にはいらない。下駄で過ごす事が習慣になるように生活の中に取り入れると滑らかな身体、滑らかな気持ちの自分と一緒の時間が増えるはずだ。
 
 問題は仕事のとき。下駄を履いたビジネスマンは明らかにおかしい(笑)。そこが各自の研究テーマだから、勝手にやってください。
 
 
 
 ・・・と、ここまでは私の中では「普通」の話し。下駄を履く事で地面との跳ね返りがスムーズに行われ、身体に力みを作るにくくなり、結果的に自転車のように身体を楽に「動かす」事ができる。身体が気持ちよく動くのだから精神的にもいいはずだ。
 
 ながながと書いてきたけど、上の数行に書いた事がこれまで伝えたい事のまとめ。後はそれぞれ、試してくれれば、と。
 
 
 
 実は、まだまだ、下駄には秘密がある(笑)。
 実は「手に持っても」動きが滑らかになってしまうのだ!
 
 両手を押さえて、歩く事をしっかりと押さえてもらう。この稽古が私は好きだ。目の前の進みたい道を行く、というのが人生と似ているから(笑)。
 どんな手を使ってもいいから前身を止める。それだけをルールにすると、武術武道の高段者、スポーツの才能、身体の大きさとかあまり、関係なくなる。その状況で自分になにができるか、を求めるのがこの稽古。
 
 
 この時、下駄を履くと、身体と地面との関係がよくなり、跳ね返る力が身体を動かすようになる。その跳ね返る力は筋肉のタイミングよりも早いので、結果として身体の大きさのハンデが消えてくる。ここまでは説明したとおり。
 
 
 この時、下駄を「手に持つ」のだ。鼻緒に指をかけ、ぶら下げる。その状態で前に進む。すると、相手がなにもできずに、崩れていってしまうのだから、もう、なんと言っていいやら(笑)。
 ポイントは手に鼻緒がかかっている事。たぶん(笑)。下駄だけを指で挟みこんだだけでは肩に力が「逆流」し、流れない。身体が力んでしまうのだ。
 
 鼻緒でぶら下げるぐらいの時、指先から力が外へと流れていく感覚がある。この感覚が身体の自由さをくれるみたいだ。
 
 
 
 下駄を持っていない反対の手、そして両足。それぞれは下駄を手にしている手に従い連れられていくようにする。すると、身体がスムーズに相手へと向かっていけるようになる。少しずつ理由はわかってきて、使い勝手も上手になってきているけど、下駄を手にしているときの身体の軽さはこれまでに経験した事がない。
 
 
 
 ちなみに、つまむんであれば、他のものでもいいんじゃないか、と巾着やポーチ、ペットボトルとかを試してみたけど、それらは全部、駄目。「下駄」でなければいけないらしい。
 
 
 
 そこで、ふと、思いついた。
 もしかしたら、私たちの中に動物としての心が残っているのかな、と。私たちは手足が大地と触れて生活をする。手足は大切な接点なのだ。その接点の先に不安があるのと、安心があるのとでは当然、違ってくる。
 ついつい、不安を頭にまで上げて解決したくなるけど、接点において安心を作れれば頭は他の仕事に回すことができる。
 
 一見、関係のない手に持つ下駄も、手先から伸びる世界、もしかしたらこれは抽象的なほうの世界かもしれないが、それとの間に安心を作ってくれているのかもしれない。
 
 
 
 遊びながら、笑いながら、この現象を試していて、ひとつ発見があった。
 竹刀でお互いしっかりと打ち合ってみたのだ。
 相手の隙を付くわけでもないし、竹刀を扱う技が伸びたわけでもない。この時、右手の指に下駄をぶら下げ、打ち合ってみた。すると、信じられないぐらいの重さと速さが出てきてしまった。
 
 タイミングも力みがないせいなのか、気配を読めないし、下駄をぶら下げる事でこんなにもかわってしまうだなんて・・・。
 しかも、何人かに試してもらっても、ほぼ例外なく、変わって重さと速さが乗ってきている。この変化で丈夫な袋竹刀が折れてしまったのだから、もう、なにかあるとしか考えるしかない(笑)。
 
 普通に竹刀を持って、右手に下駄をぶら下げる姿を想像して欲しい。一言で言うと、「間抜け」。もう、まじめになんて練習できない、普通の道場では絶対に許されない事だと思う。しかし、頭のまじめさを大切にしてこの速さと重さに気づかないで練習を続けても一生、そこには行けないかもしれないのだ。
 
 
 だからこそ、研究は楽しく、笑いながら、縛りなく行える場所が必要なのだ。権威を大切にするなら、それもいいけど、そんな権威は死ぬ直前には役に立たないものだし、年々、権威の力も小さくなっていっている。
 どうせ生きるんだもの、楽しく生きるためにはどうすればいいのか、そんな事を考えて暮らすのもなかなか楽しいし、身体感覚を使ってみると、意外と簡単にそれを実感する事ができる。
 
 
 
 ずっと、下駄の話をしてきたんだけど、乗るだけで、動きが変わるのだ。その動きは相手が敵役をやってくれるとさらによくわかる。どんなに抵抗をされても、崩していけるこの感覚は自分の中になにか「ある」という気づきに変わってくる。
 高度なテクノロジーの結果の道具は自分の身体にあるなにかを教えてくれない。その「道具」がすごいのだ、と思ってしまう。でも、下駄は「ただの木」だもの。下駄に乗って変わってくる結果の要因は下駄によって変えられた自分でしかないはず。
 
 
 世の中に便利なものはたくさん歩けど、その便利なものって結構飽きる。次にまた、性能のいいものが出てくるだろうし。一瞬満足があっても、すぐに不満に変わっていく。しかし昔の人が発明した下駄はどんどん内側に入っていくのだ。下駄のすごさに気がついて2週間ぐらいかな、毎日、違う自分が見えてくる。その人なりの変化が下駄によってもたらせるはず。
 
 
 身体感覚の世界はマニアックな世界でなかなか上手にその楽しさを伝えられなくて凹むことがあるんだけど、下駄を履いて見れば、意味はわからずとも、軽い身体を先に渡す事ができるとわかった。最近の浴衣下駄なんかは下にゴムが付いているので、まぁ、室内でもそれほど気にせず使えると思う。ぜひ、靴屋さん、和モノ屋さん、浴衣コーナーを覗いて手に入れてきてください。1000円ぐらいのもので十分ですから。
 
 
 
  つい、つい、熱を入れて語りすぎちゃいました(笑)。でも、まだまだ、話し足りません。続きは講座、稽古にて聞いてください。
 
 
 

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