欲しいもの、求めるもの、手に入るもの
自分が欲しいもの、求めているものは時々、確認をしなくてはいけません。
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自分が欲しいもの、求めているものは時々、確認をしなくてはいけません。
やりたいことをやりなさい。
多くの人がそれを教えてくれます。
ワクワクする事をすれば夢が叶うからね、と。
ここに落とし穴があります。
その「ワクワクする事」は本当にワクワクする事なのか、です。
嫌いな事があったとします。
嫌いな事をやるのにワクワクする人は少ないです。
これを選択肢から外せば可能性は半分になります。
身体感覚の稽古で分かるのは、嫌いだと思わせていたのは「頭」だ、という事です。
以前にそれを「できない」などと経験してしまうと、二度、三度の経験を嫌ってしまいます。
頭に従う方法は「普通」です。
身体感覚に従う方法は真逆。
ワクワクするものではなく、とっても怖いものに向き合うのです。
普通なら絶対に選ばない、やらないことを「稽古」で体験するのです。
身体はすごいんですよ、嫌々であってもそれもやがて「慣れて」行きます。
慣れてくれば状況をよく見えるようになり、考えることが出来るようになります。
前を向きながら、何度か試すように稽古をすると、ある時、いつもとは違う動きが出て来たりします。
これは完全に「運」なのですが、試さねば力を貸してくれない運の力です。
全く新しい事を行ってみると、それまで苦労していた事があっけないほど簡単に解決したりするのです。
この経験が「成功体験」になっていき、怖い事、嫌な事に出会ったとき、反射的に逃げない強い心を与えてくれるのです。
ワクワクする事をやりなさい。
この言葉を私も信じています。かなり、確信があります。
しかし、その後、ワクワクしていて、さらに、ドキドキもしているかどうかがカギになります。
ワクワクだけであればそれは頭でっかち。
頭で作った幸せはやがて、身体にかかってくる事にやられます。一番目立つのは「老い」ですね。
身体に感じる「ドキドキ」。これも受け止めて、乗り越える。
ワクワクドキドキする事を選んでいれば自然に、色々なことを受け止める強さが身につきます。
世の中ドンドン安全になっていくので、ドキドキが減っているように思えます。
ワクワクするのは新しいゲームを待っていてもするかもしれません。
しかし、ドキドキはそうはいきません。
ドキドキする事を探しましょう。そして、選びましょう。
身体感覚を手がかりに稽古をし始めて、次々に新しい発見があり、トレーニングをしている暇がなくなりました(笑)
トレーニングからも得るものがあるはずですが、それは常識的に「努力」として認められているので、他でもやれるかな?と思っています。
とにかく、「身体感覚」という世界が素晴らしい!
今、ドンドンその世界が私たちの手から離れだしているように思います。
感覚を使わなければ使えない道具は実用品からは消えていっています。
技術者はVRなど、感覚を使った新しい機械を作ったりして研究していますが、私たちの多くは消費者です。自分の身体感覚を使いこなすことなく過ごしています。
身体感覚が分かることでメリットがある。
もしかしたら、それがもっと広がれば身体感覚へ興味を持ち、日常生活、仕事を見直す人も増えるかもしれません。
今日は身体感覚の稽古がもたらしてくれるメリットをお話しします。
「身体」を強く意識をして稽古をしますので、つい、「身体が丈夫になる」と考えてしまうかもしれません。
確かに、この技術を身につければ、重いものも軽々と扱えるようになるし、重かった身体もヒョイと軽く動けるようになります。
スポーツに使えば記録を伸ばすことも出来ますし、プロの選手なら身体を丁寧に使うことが出来るようになり、現役を続けていくことができます。
しかし、そうじゃない、それだけではありません!
私は幸いにして、身体を大きく、健康に生んでもらいました。
ずっと身体に心配を作らず大きくなってきました。
それでも、その身体に似合わない心の弱さがあり、毎日を悶々と過ごしていました(笑)
たまたま出会った身体感覚の世界に興味をひかれ、稽古を続けていって、それまで気にもしなかった身体にたくさんの可能性が隠れていることを知りました。
そして、稽古、研究を続けていくと身体が動くようになるのと同時に、心がドンドン軽く、広く、大きく、機嫌よくなっていくのを感じました。
心身一如とはよく言われていて、その言葉を知っている人は多いと思いますが、本当にそうだったのだ!と実感することができました。
理由、原因のある問題点なら、その原因を解決していけば幸せになれます。
しかし、私が持ってしまった問題は原因が分からないことばかり。なんとなく、自信が持てない、そんな事ばかりだったのです。
そんな意味不明、原因不明の問題が身体が動くと、解決していくんです。
はっきりと、いつ、それに気づいたのかは分かりませんが、自分の機嫌、心の動きは身体に任せればいいんだ、と今ははっきりと、わかります。
便利な道具や機械、たくさんの細やかなサービスは成果、結果を与えてくれます。
人間の難しさは、うまくいっていても、心に不安が生まれることがあるんです。
まだ来ていない未来ですから、気にするな、という言葉一つで片付けられるものですが、気になってしまったものは仕方有りません。
どうしたら、自分の気持ちを変えられるのか、それを困っている人もいると思います。
そんな心に生まれる不安は身体感覚、身体操法、武術の稽古で解決をしていくことが出来るのです。
記録が伸びるのは楽しいでしょう。
出来ないことが出来るようになるのは楽しいです。
それらは目にも見えるので、その成果が欲しい人たちは身体感覚の世界に興味をもってもらえるはず。
しかし、心の問題、機嫌を自分の力だけで良くすることができる。そんなメリットも有ることをぜひ、伝えたいと思っています。
心にキズを追うと、それはだんだんと大きくなります。そのキズを癒すのに、身体なんか役に立たない、そう思うかもしれません。
でも、それは今までみてきた身体、身体感覚を捨ててしまった常識が作る体です。
身体感覚を知れば、これまで身体を数字でしか判断してこなかったのが分かりますし、他人からの評価で信頼を左右させていたこともわかります。
自分を自分で見て、好きな自分を探し求めて、手に入れる事ができるのが身体感覚の稽古です。
困っているなら、チャンスです。
その心に生まれる痛みや苦しみが手がかりとなって、新しい身体感覚に気づき、新しい自分を感じられるようになります。
今苦しんでいる、というのは身体感覚を手に入れるのにはチャンスなんです。
私がもらった稽古法は誰に遠慮をするものではありません。
カラダラボの稽古は感覚はお渡ししますが、覚えなくてはいけない手順はありません。
身体で得た感覚を手がかりに、当たり前だと思っていた日常に目を向けるとちょっとずつ、発見が増えてきます。
そして、その何かに気づく力は年齢とともにドンドン増えていきます。年齢を重ねる度に新しい自分が見つかる、そんな楽しさを得ることができます。
ぜひ、試して、自分の持っている身体の凄さを実感し、そして、近くにいる大切な人に、それをまた、伝えて上げてください。
カラダラボのウェブサイト
何かができると人生は変わります。
身体感覚の稽古をし始めてずいぶん時間が経ちました。大きな衝撃を受けた経験でしたが、それ自体が直接、仕事や生活に役に立つと思えたわけでもないので、ここまで続けてこれたのは運だったのかもしれません。
私が行った稽古は「ただ手を上げるだけ」です。
よっぽど特殊な人でなければ、手を上げるだけの稽古を喜びません。
「それがいったい、なにに役に立つの?」
と、聞かれるかもしれません。
はっきり言って、手を上げる事は人生に「役に立ちません」。
手を上げられるからと言って、困ることはこの日本ではほとんど無いのです。
しかし、それでも、私は手を上げられるようになったからこそ、人生を楽しめるようになりました。
それまでの私には「得意」と思えることがなにも無かったからです。
しかし、20年もただ手を上げる事に打ち込み、研究すると、それは「得意な事」になります。
その得意がすごい、と言われることはほとんどありませんが、この技が今の自分にとってのモノサシになっているのです。
手を上げる動き自体はほとんど認められる事はありませんが、それを求める過程の中でたくさんのことに気づくことができました。
きっと、手を上げる事を求めなければみつからなかったものばかりです。
私が見つけたその多くは「身体」に関すること。
それまでは自分の身体を身長や体重、なにかの成績でしか見てこなかった事に気づきました。
「感覚」という視点で身体を観察してみると、肘や膝、肩や背中、胸、その他多くの身体を適材適所に全然使っていなかった事に気づかされます。
強い部分は強さを発揮するように使えばいいし、弱い部分は弱さを発揮するように使えばいいのです。
何にも使えない、と思ってしまった時にも「目印」ぐらいには使えます。
あれが出来ない、これが出来ない、とつい、諦めてしまっていましたが、自分の事がわかってくるにつれ、もしかしたら出来るのかな?と前向きな気持ちも出てくるようになりました。
得意なことを伸ばしていく時、あまり、大勢の人が価値を持っていないものの方がいいかもしれません。
大勢の人が求めるものであると、つい、彼らに合わせた事をやってしまうから。
その事によって喜ばれるのが「仕事」になるのかもしれません。
求められる「仕事」以外に自分を高めることをライフワークにできれば無敵です。
今は機械、コンピューターの時代です。
どれだけ身体があろうが、結果はあまり変わらない時代です。
だからこそ、身体を得意にするのが「結果以外のもの」を見つけるチャンスになります。
口笛や開脚なんかいいかもしれません。私はただ手を上げるだけでした(笑)
やれることで損もないけど、得もなさそうな事がいいようです。
自分なりの得意技を見つけてください。
私はずっと、身体に頼って生きています。
ある時期、自己啓発の本をよく読みました。
人生は「まさか」の連続なのだそうです。
なにかをうまく生かせるために何より必要なのは自信です。
もし、自信がないままうまくいったとしても、次、うまく行かないかも、という不安が生まれてしまうからです。
そして、最強の自信は気にもとめない自信。自信が有るかどうかすらわからないほど気にしていない状態。自信という言葉も似合わないような状態があります。
そんなところにまで意識を高められたらいいですよね。
一生懸命努力する、がんばる、という言葉はアチコチで聞きます。がんばりません、とあくびをしながらオリンピックに出場する人はいません。努力は現代を象徴する言葉です。
しかし努力は全てではなく、一つの方法です。努力をしたい人はすれば良いし、それができる世の中です。
ただし、努力が似合わない、と思った人は無理してやってもしかたありません。自分に似合う方法があるのですから。
しかし、そんな自分に合う方法は外にはなかなか見つかりません。
世の中は常識が強くなりました。世界中どこにいても、同じ情報を共有できます。ひとりの成功者が多くの人の憧れの的になります。その人の言葉をきき奮い立たせられると、つい、同じ方法を行ってしまいます。
例えばこの時、憧れのカリスマがひたすら人生の全ての時間をかけてなにかを成し遂げると、自分も時間をかけたくなります。
他にやりたいことがあっても、我慢をして、努力してしまいます。
しかし、これは、表面的な事だけ。
同じように時間はかけていても、一方は我慢して、もう一方は結果的に、時間をかけていただけかもしれません。
同じ時間であっても、苦痛の時間と、楽しみによって時間が消えていた場合とでは成果は違って当然です。
自分に合う方法を見つけなければ、結果的に大変な遠回りとなってしまいます。
最近、私は人は「攻撃型」と「防御型」に分けられる、と気づきました。
私は完全な防御型です。ものごころつく前から、まず守り、それから反撃、と教わってきましたから。
しかし、学校や仕事、日常という常識の中で学んできたのは攻撃型の生き方でした。
その違いに気づけなかったので、時々、そのギャップに躓いてしまっていたんだ、そうわかりました。
スポーツの世界は攻撃型です。攻撃をして、点を取らなくては優勝出来ません。
しかし、武術の場合、命を守る、という点からすれば危ない機会を避け続ける事ができればそれが一番の正解とも言えます。
西洋的な考えでは自己主張をし、他者を倒し、願いをかなえることを良しとするかもしれません。
しかし、周りを気にせず、振り回されず、ニコニコと毎日を暮らしても良いはずです。じっと目を瞑り、瞑想をする。一人の世界を作り上げる事も方法の一つです。
あらゆるものには真逆の成功があります。
そのどちらに行きたいのか、それを決めなければ間違ったところに行ってしまったときに待っているのは天国ではなく地獄です。どんなに他人から、いいね!と言われようが自分の居場所ではない、と気づいてしまうと逃げ出したくなります。
最初の一歩を見るには大きな成果に惑わされない心が必要です。
今、大きな成果が誰の前にも有りますよね。これを見ない事が本当に難しい!
便利な機械なしでは今の世界は成り立ちません。魚を釣って食べていただけの時代とは違います。
便利な機械、仕組みを嫌って、山にこもる、という事ももう出来ません。どんな山にこもっても、周りには恩恵を受けている人たちがあふれています。
身体感覚は小さなものを見る目を与えてくれます。
最初の一歩を見ることが出来るようになります。
最初の一歩という答えをくれるのではなく、その時、その瞬間の自分の最初をいつも、追い求めさせてくれるのです。
最初の一歩がドンドンバージョンアップされるんです。新しい最初の一歩を見つけた瞬間、心は変わります。自分のやりたいことにあわせて、気持ちの方向を揃えてみると、自信が沸いてくるのです。
今、これを書いている私は「攻撃型」です(笑)。
武術のお陰で無限にアイデアが沸いて出てくる、という武器を手に入れました。
成果を上げることは上手になっても、自分のやりたいことを見つける力をなくした人がいます。
どんなに成功しても、その先にあるのは不幸です。
私が手に入れた武器は求めれば必ず答えの得られるという武器です。自分の中からひらめきは出て来ます。
自分が本当にやりたいことは何だろう?
そんな問いを立てれば答えは出て来ます。答えは五分後にやってくるかもしれません。10年後、20年後かもしれません。
時間はわかりませんが、間違いなく答えはやってきます。
そして、稽古という研究を習慣にしたことで、答えを待っている時間も楽しいものとなりました。
常識的に楽しいものを楽しむのは簡単です。
それにくわえて、病気やケガ、アクシデントなどで人生を迷ったとき、そんな時にも楽しめる事ができるようになりました。私が手に入れたアイデアがあふれてくるという武器は心に、楽しさ、安心を生む防具でもあったようです。
日本人は武器と防具を同じモノとして育ててきたように思います。
片刃の剣を両手で持つ。西洋のように、頑丈な剣も丈夫な盾も鎧も作りませんでした。
薄く細い刀だけで攻撃も防御も行ったのです。
常識では考えられない方法で薄い刀に身を隠しました。こんな防御法、ありえません(笑)
一器多様、一つのモノをアイデアを使い、生活に合わせる。それこそ、日本人の強さのような気がしてなりません。
世の中が西洋化していくのは否定しません。新しいものが増えていく楽しさが得られます。
しかし、社会が変わらなくても、新しい使い方が増えていくのも楽しいのです。
これも、最初の一歩が2つある、という強さです(笑)
嫌いなものを嫌わずちょっと試す、そんなところから始めてみてください。
カラダラボウェブサイト
新しい感覚を見つけると動きが変わります。それまで想像もつかなかった精度で動くことができるようになり、十分に抑えさせていたとしても、すり抜ける事が出来るようになります。
それでも、二度三度、繰り返して技を行うと相手はそれについてきます。人間の持つ「慣れ」というすごい力です。
相手についてきてもらうと、このままではダメだ、もっと、なにかを見つけなければ、と思えるようになります。この気持ちがなくては新しい発見はありません。
だからこそ、カラダラボでは、先輩後輩や、持っている段位などの気持ちの遠慮が出ないように、入会もなければ受講証もありません。とにかく、研究が第一なのです。
嗅覚を使う方法があることがわかり、技はガラッと変わりました。これまで困っていた技もスルリと行きます。
ただ、うまく動けたときにはその軽やかさがあるのですが、時々、ぶつかるのです。
その衝突が頭を働かせてくれます。
動き方は分かっていて、そのようにやっているはずなのに、なにが衝突を作っているのだろうか?そんな疑問が出て来ます。
疑問が出れば答えが返ってきます。研究する事の楽しさはここにあります。しかも、その答えはその瞬間の自分さえ納得ができればいいのです。
衝突する時、自分の中のなにが影響しているのだろう?と思い、その瞬間を思い出していると、一つ見つかりました。
ぶつかるときには「相手を」考えていたのです。相手をどうこうしたい、相手を動かしたい、と思い動いている自分がいました。
うまく動けたときにはそれはありません。自分が進みたいところへと身体を進ませるだけです。
こちらが自由のまま動いた「結果」、相手は置き去りにされ、勝手に崩れていきます。
新しい世界を見つけた瞬間はその楽しさで相手にかまう暇なく、ただ行きたいところへ進んでいたみたい。
でも少し飽きてくると、今度は相手を気にしてしまっていたわけです。
相手の中にも力があります。
潜在的な力は相手も無限です。相手に向き合い、力を引き出していたのかもしれません。
そう考えると、衝突も楽しい、と思えてきます。
ちょっと思考を広げてみると、ひろい宇宙の中ではほぼ、衝突はありません。星と星が出会う確率はそれこそ、天文学的確率でしょう。
しかし、この地球上では、山ほど衝突があり、それが当たり前になっています。
せっかくの衝突です。その衝突を生かし、学び、新たな世界を見つけるために使いたいと思います。
なにかを学ぶと賢くなります。今はそれをどういう時に、どんな風に使えばいいのかも丁寧に教えてくれますし、ロールプレイを通して実践練習もできます。
資格を取ったときにはこれで未来は明るい!そう思えてきます。
そしていざ、実践へと向かったとき、明るい気持ちがなくならなければそのまま望み通りの成功へと行くことでしょう。
しかし、たいていの場合、学んだものはそのまま使えません。
どうやらこれは当たり前のことなのですが、丁寧に学びすぎてしまうと、それがわからなくなります。
そして、その後、その困ったことを解決するためにエキスパートコースなんかに通ってしまうともう、自立するチャンスを失ってしまいます。
自分の持つ技をどう使うかは、自分の性格によって決まるからです。
強気な性格、弱気な性格、臆病な性格、色々ありますが、外と内、とりあえず、簡単に二つにわかれます。
自分を信じられるのか、疑うのか、です。
疑ったまま、新たな知識をいれても選択肢を増やすだけ、また、迷います。
ただ、こうして、また、受講生になってくれるとスクールとしてはありがたいものです(笑)。
なかなか、この壁は越えられません。
すべての知識は自信を作るためにあるのではないか、そう思うようになりました。
自信が持てさえすれば、なんとかなる、乱暴ですが、そう思えて仕方有りません。
そして自信の源こそ、「身体」です。心はコロコロ形を変え、自信のある時、自信のない時、色々です。病気になれば普段自信があっても、心は落ち込みます。
しかし、身体は自覚したところまでは絶対の自信が生まれます。ケガをしても、病気をしても、それは、当たり前の一つ、それにより自信がなくなることはありません。
むしろ、そこから「上がる」自分を見つけられるので、気分は良くなります。
しかし、自分の身体を数字で見てしまうとそれはアタマの自分であり、自信につながりません。
数字は一つのルールに沿って生まれたものです。肉体の衰えと共に落ちていくのが自然です。
身体感覚の自分はあらゆる方向へと「動ける」自分です。
目の前に壁があれば、それを様々な方法で乗り越える事ができると見せてくれます。
絶対にもうこれはダメだ、と思うような状態でも必ず「次」があるのですから本当に面白いです。
最近見つけた新しい身体は「嗅覚」の自分でした。嗅覚から感じられる身体はモヤモヤとした雲のよう。その雲は存在は感じられるけど、形がないので、相手との衝突がありません。抑えられても、するすると、細いところを通り抜けていけます。
嗅覚の身体にならなくては決して見つからなかったルートです。
この身体感が生きていくときのベースになるのではないでしょうか。
筋肉を鍛え見かけ上頑丈になれば、多少の衝突は怖くなくなります。しかし、より大きな相手にやられてしまいます。
身体が柔らかい人はその柔軟性ですり抜けていくかもしれません。その時、固い身体か、雲のような身体か、無意識にそれがベースとなります。
人間は歳をとります。年代によって身体は変わるはずです。
筋肉が強い時もあれば、肉体に頼れない時もあります。どんな状況でも何とかなる、と、新しい価値観を教えてくれるのが稽古です。
おそらく、昔は経験の中で新しい自分を見つけていたのでしょう。危険な状況が日常的にあったはずです。
しかし、現代は安全が第一。しかも、働くのは機械です。活動の場もネットの中に移ってきてますし、肉体的に危険を感じることが少なくなりました。
その結果、身体の多様性、可能性を知らないまま歳をとります。
どう考えても、努力による訓練は若者向けです。一時の楽しさはありますが、それで心は強くなりません。
肉体が衰えることを嫌だと思わず、少しずつ、観察を始めてみてください。
口内炎でも、ニキビでも、少し気になるところからそれと向き合うことを始めてみてください。
向き合ってみれば、そこから、新しい考え方が出て来ます。
嫌な考え方が出てくるかもしれません。でも、さらに、考えます。するとまた、新しい考え方が出て来ます。
出来るならば、動きとともに考え、考え方次第で動きが変わることも知って欲しいところですが、まずは、向き合うところからはじめてください。
新しい知識はもう要らないかもしれません。知識によって振り回されている自分が見つかるかもしれません。
手放すために時間はかかります。それでも、嫌なものに向き合う作業、姿勢が徐々に自分を信頼する力へと変わるのを感じることができます。
嫌なものの中にありがたいものを見つけられれば気分はずっと良いままでいられます。自分勝手で良いんです。間違えても良いんです。どれだけ頭が間違えても身体はなくなりません。常に身体はなにかを教えてくれようとしています。ぜひチャレンジを。
10月31日、突然、鼻の奥に新しい感覚を得ました。
運命は変えられるか?
初めて甲野先生にお会いしたのが22歳の時です。