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2017年8月

【稽古録】2017/8/24 許せる姿勢の一線を超える

帯を骨盤下部で強く締めて一日を過ごす。
痛みはあるものの、これまでの痛みとは比べ物にならない。痛みというよりも、締め付ける圧力と言えるものだ。
この帯のおかげでお腹が上へと伸びていく。本来は縮みやすいお腹が伸びていく。その結果、胸が張られ、背中が伸びる。
 
子供の頃から姿勢の悪さを指摘されていた。気持ちでは正しい姿勢、しっかりとした姿勢を作ろう、と思っても、それほどかっこよく座れないし、立てない。こういう地味な経験が自分には出来るものがない、というネガティブな自己評価につながったのだろう。立てもしないのに高度な技なんて出来るはずがない、と考えてしまった。
 
出来る奴は姿勢がいい、かっこいい、そんな事を思っていたらしい。今回の件でそれを自覚した。
今、お腹を伸ばして背筋が伸びたことで、自分の中にある「許せる姿勢」のラインを超えた気がする。この姿勢であれば自分を認められる。
技としてはこれまでの稽古のおかげで考えもしなかった威力を得て、動きも早くなった。本当に夢のよう。こうした技を全く努力なしで得られたのは幸運としか言えない。
ただし、威力は得ても姿勢は気に食わなかった。カッコ悪い自分が相変わらずココにいた。
 
ふと、そいつがいない事に気がついたのだ。どこに行ってしまったのだろう(笑)。
お腹を伸ばす事は苦ではない。屈筋を伸ばす、という努力をするのではなく、屈筋を働かせない、という事なのでもう少し自覚が出来ればむしろ、これまでよりも楽になるのではないか、と思っている。
 
稽古を通して自分自身への認識が変わる、というのはわかっていたがこんなにもそれが劇的に起こるものとは想像もしていなかった。自分の変化をそのまま、これからも見せていこう。それが私の伝え方だと思う。できない自分、かっこ悪い自分でよかった(笑)。

【稽古録】2017/08/23 帯の位置

数年前から着物を着ている。「腸骨も脚」と気づいた時、袴が膝が動くのを抑えてくれる事がわかり、着物の偉大さを知ったから。もちろん、そんな効用は誰からも聞かない(笑)。自分の身体に試して、必要だったからそうしている。
 
着物を着る時に困ったのが帯だ。締め方は調べればすぐにわかるのだが、どうしても伝えられている通りの位置で締めると痛みがでる。
ついつい、着慣れている道着の帯の位置で締めてしまうが、ちょっとこれは高いらしい。もう少し下、骨盤を締めるあたりがいいのはわかるのだが、どうしても、身体がそれを拒否してしまう。
 
まぁ、それでもおしゃれとして着物を着ているわけでもないし、誰に叱られるわけでもない。膝が動かない、というメリットがでるのだからこれでいいや、と「正しさ」は気にしないようにしていた。
 
昨日、突然「伸筋」を活用する事に気づいたのだが、胴体にも伸筋はある。
足につながる筋肉はたくさんあるので、専門化ならばより細かく、伸筋、屈筋がわかるかもしれない。ただ、そういう精度は後でいい。大雑把にお腹は屈筋、背中は伸筋、と認識してみた。
 
この時、お腹を上に伸ばすように手で抑えてみると、身体が内側に縮こまらない。腕で起きた現象と感覚が同じだ。この縮まらない胴体を使うと肩や股関節が回りだす。肋骨の下が伸びるからか、上半身が滑らかに、それでいて、ねじれない身体が現れる。
 
働きは分かるのだが、お腹を伸ばし続けておくのに手を使うのは余りにも面倒。呼吸でお腹を引き上げる方法もあるな、と思いつつ、そのまま無意識への宿題にした。
 
家に帰り着物を脱いだ瞬間、お腹に違和感を見つけた。ずいぶんと緩んでいた帯であるが、それでも、胴体を支えてくれていただと思う。ふと、これまで痛みで続けられなかった腸骨の真ん中あたりで帯を締めてみよう、と思った。
 
ただ締めるのではなく、少し強めに、ポンとジャンプをしながらギュッと締めてみる。これまでなら痛みがでてくるレベル。しかし、締めあげても、力が腹に落ちず、胸へと伸びているせいか楽なのだ。しかも、お腹が伸びている。腕を廻しても身体が捻じれない。
なにが正しいのはわからないが、これまで出来なかったことが出来るようになったのは確かである。しかも、今回は「帯を締められる」という肉体的な努力はまるで関係のない話。お腹が上へと伸びていく事を楽しい、心地よい、と認識しただけで帯が締められるようになったのだ。
 
世の中なにかが「出来る」人は多い。帯の締め方だってそうだろう。この位置での締め方が残ってきたのは、この姿勢でいる事を心地よいと思った人がいたからだ。しかし、伸筋を再確認する前の私にはわからなかった。
ただ、分からなくても、無理をすればその帯の締め方はできた。しかし、それは身体が拒否をしているもの。きっと、私たちの知識はこんな事ばかり。身体で試すことなく、ただ持っているだけの知識。帯はそれを「痛み」として注意をくれる。しかし、全ての知識が注意をくれるとは限らない。気付かない間に身体に無理をさせ、姿勢を崩してしまっているかもしれない。
 
身体が嫌だと言っている事、頭が嫌だと言っている事、心が嫌だと言っている事、おなじ「嫌」にもきっと種類がある。こういう感覚は稽古をとおしてでしか学べない、改めて思った。
 
とりあえず、日常出来る範囲で帯を常に締めていようと思う。自然と胴体の縮みをなくしていけそうな気がする。

【稽古録】2017/08/22 伸筋の再確認

甲野先生に出会い、身体感覚の世界を知った事で稽古を始めた。しかし、甲野先生の言葉は難解過ぎた。初めてお会いした時、先生が言われていた術理は「内観的には後ろに引くけれども実際に手は前へ伸びる」というもの。わかるはずがない(笑)。
 
それでも先生の技は衝撃的だった。自分もその技の世界に行きたいと思ったのだ。良かったのは甲野先生が教えてくれる先生ではなかった事。先生はご自身の稽古を見せてくれる人だった。
 
稽古を見せてくれる、というのは簡単に言うと、自分のできない姿をさらけ出す事だ。これがいかに難しい事かというのは分かる人には分かる。教える事を仕事にしている人ならばなおさらだ。
先生は常に目の前のこんなに対して身体と向き合う姿勢を見せてくれた。そして、その困難に対して、まるで想像もつかないものをきっかけに解決をさせてしまう。その姿を見る事が出来たから、私もいろいろなものに興味を持ち、答えを探せるようになったのだと思う。
 
武道の世界はなわばりが強い。まぁ、それも先生次第、なのだが、あまり自流の形を皆、変えたくないと思っている。そんな気持ちがどうしても研究心を塞いでしまうのだ。
私の場合、頭を抑える師匠はいなかったが、求めたからには結果をださなくてはいけない、という勝手な思い込みを作ってしまっていたので自ら答えを探すことなく過ごしてしまった。
 
その無意識にあった思いを甲野先生はたった一つの動きで壊してくれたのだ。
何が何でも手に入れたい、と願ってからは様々なところにヒントを求めた。とは言え、他流の道場を巡るほど気持ちは強くない(笑)。手掛かりになったのは本だ。
当時すでに数冊の武道系の雑誌が出ており、不思議な技を解説してくれている本もたくさんあった。それらの本を買い、読み漁った。
 
本を読んでいる人は多いだろう。しかし、私が運が良かったのは実際に想像を超えた技を「経験」していた事だ。理想とする技があり、それに近づくために本を読み、情報を得たのだ。
 
何冊も読みこんでいくとそこに共通点がでてくる。どれを正しい、とも思わず読んでいたので、自然と共通点へと興味が惹かれたのだろう。そのうちの一つに「伸筋の活用」というのがあった。当時は「伸筋」という言葉も知らず、本当に無知だったので伸筋の使い方さえ手に入れれば何でもできるんじゃないか、と浮かれていた。
 
実際に試しながら稽古をすると確かにそれまでの動きとは違ってくる。多くの日本人は「屈筋」を使っているらしい。パターンを逆に使うのだから相手からすればフェイントのような形にもなるのだろう、技がかかるのは当然だ。
しかし、ある程度伸筋の感覚をつかんでもどうしても技の限界が来てしまう。
 
触れただけで相手が崩れ、飛ばされる。なかなかそんな技になりそうにない。
いつしか、伸筋の工夫も忘れて、身体にある様々な別の働きを追うようになっていた。
 
しかし、今日、当時夢に見ていた触れた瞬間に相手を崩す動きをこの「伸筋の活用」でたどり着いた。
最近気にしていた動きは「肉体」をまっすぐ相手に入れていく、というもの。その力を発揮するのに手の甲を張り、第一関節を曲げる事で相手と接触しても形が崩れないようにした。
崩れない手を作ったらあとは包丁の刃筋を整えるように角度を気にして切っていくと相手は「瞬間的に」崩れだす。ここまではわかっていた。そこに「伸筋」の働きを加えられるとわかったのだ。
 
その方法とは「二の腕を肘方向へと押し出す」、これだけだ。あまりにも簡単な動作だが、強く二の腕、わきの下から肘にかけて柔らかい部分を押し込めば腕が縮みにくい形になる。屈筋が使いにくい、つまり、伸筋が働きやすい状態になる。
この状態で手を動かすと力の逆流が10分の1ほどになっている感覚がある。これまでとはまるで違う軽さで相手を崩す事ができた。
 
そして、この原因を「伸筋」と見てから、自然と体幹にもそれがあるのではないかと考えた。
二の腕の柔らかい部分に似ているところ・・・そうして探したのが「お腹」だ。お腹の柔らかいところを上へと引き延ばす。自然と背筋が伸びて身体を縮めにくい。
第一印象は「動きにくい」だ。しかし、伸筋の働きに意識をおいて観察をすると、肩、股関節の動きが良くなっているのがわかった。伸筋の働きは身体のあちこちに応用が利きそうである。
 
結果重視で次々に動きを変えているので、検討したいテーマが山のようにたまってしまっている(笑)。それでも今回のように20年をかけて気づく事もあるのだから本当に面白い。
機械やサービスを使えば簡単におおきな結果が手に入る時代になった。しかし、結果ではなく過程を楽しむ事を稽古は教えてくれていると思う。誰もが結果を得られるようになった時、「自分」を取り戻してくれるのは過程だ。改めて研究稽古の重要性を知った。

【稽古録】2017/08/20

個人稽古に当てていた日だったが申し込みもなく空いたのでのんびりな朝。ただ、昨日の徹夜稽古の疲れが残っていたのか、身体は重い。「身体が重い」というのは誰しもが経験する日常の事だと思う。そして、それは歳を重ねれば重ねるほど頻繁に出会う「感覚」。
 
そう、身体感覚は歳を重ねると自然に、どんどんと気付けるようになる。気づきたくなくても気づいてしまうものだ。
ただ、その「重い感覚」というものをネガティブに受け取るのか、ポジティブに受けるのかは感覚への向き合い方のよる。稽古は自分の身に起きた感覚を使いこなす力をつけてくれるものだと改めて感じた。
 
朝から身体が重く、足元がふらついた。きっと、数年でも若いころであれば、このふらつきを持っている筋力が無意識のうちに止めてしまっていただろう。つまり、身体にはゆがみがあり、揺れていても、むりやり筋肉がそれを抑えてしまっていた、という事。根本的な問題を先送りにしていただけなのだ。
 
今日、ふらつきを自覚した瞬間、昨日の徹夜稽古の際に気がついた「サイコロの感覚」が自然と働き出した。ふらついた肉体を両手に作ったサイコロによってバランスをとり、歩いていた。身体は一度経験した「楽になる使い方」は自然と使ってしまう性質があるのだと思う。身体に崩れのない時には必要が無いからわざわざ働かない。無理に使う必要もない。身体に任せていいのだ、と日常を過ごしていく自信を得る事ができた。
 
毎日の生活はそのまま稽古になった。何をしていても、常に、自分の認識と感覚が気になるようになった。特に気になるのが触覚、そして、最近では視覚の働きも観察ができるようになってきたらしい。
 
視覚と言っても視力の事ではない。自分がなにを見て、どう気持ちが揺れているのかを観察できるようになってきたのだ。
今日、時間が出来たので、四日市港ポートビルに行ってきた。地上90メートルから港を一望ができるところだ。
 
展望室に上がり船や車、人の動きを見ていたいつもとは違う自分になっている事に気づく。最近は特にそうかもしれないが、なにを見ていても、常に、意識は自分の身体と心に向いている。絶景を観ながらそれをどう受け止めているのかを気にしている。
 
高い視点から見下ろす景色、風景を見ていると、そこに「動いているもの」と「動いていないもの」に分けられている事が気になった。これはきっと、あまりに高い視点だったからだろう、動いているものと動いていないものの「比率」が極端な事に興味がわく。
 
動いていないものは「背景」だ。広く見渡せる全体のほとんどは動いていない。日曜日という事で港の大半が止まっていた事もあるかもしれない。それでも、背景の大半は動かない。
その中で、ちいさな車、人、船が移動をする。その移動を見ていても、心はそれに引っ張られず、背景全体を見ている事に気づいた。認識のほとんどを動かないものに合わせているのだから心も揺れない、落ち着いたままでいられるようだ。
 
例えばこれが車を運転している時であれば、認識の大半は動いているものになる。運転席から見える風景の中に背景は存在しているが、その背景も常に流れている事になる。止まっているものを探すことの方が難しい。自分が動いているのだから当たり前だろう。
しかし、騒がしい都会の真ん中で立ち止まっていても、ついつい動いているものに目を引かれ、心は動いてしまうはず。
そして、スマホやPC、ネットの世界に意識を集中していても、止まっているものを見続けるのは難しい。もっと落ち着いて、「動かないもの」に集中する事の大切さが教わった気がする。
 
展望台をグルグル回りながら、自分にとっての「動かないもの」はなんだろう?と考えていた。まるで景色を楽しんでいない(笑)。しかし、この瞬間がとっても楽しく、幸せなのだ。問いを持てば必ず答えがでてくる。私たちの脳みそはそういう働きをする。そしてやはり、この問いに対しても答えは出てきてしまう。そう思いつけば、そう思ってしまう。
 
自分にとっての動かないもの。それは内部空間。
空を飛ぶ事で気づいた「重心」、その重心が飛び回れる場所、空間が身体の内側にはある。厳密にこの肉体の内側と言ってもいい。まぁ、今のところ、であるが。
肉体の内面を重心が動く時、そこには動ける「限界」が見えてくる。この空間は肉体によって決まるため、その瞬間においては「動かないもの」だ。
その空間に意識をずっと置いてみると、目の前に動く様々なものが小さく見えてくる。心を落ち着かせておくことができるのだ。
 
考えてみると、第三者的見方はそうかもしれない。
問題の当事者は問題という大きな動くものに心揺らされパニックになる。しかし、その横にいる問題には関係ない人にとっては、その問題はほんの少しの行動でかわせるものに見えているのだ。
パニック状態からいかに早く抜け出すのか、呼吸法などはその為の方法だろう。
 
認識の段階で動かないものをしっかりと持っておくことで、心揺らせる問題に対して冷静でいられそうだ、と分かった。この気づきを道場で武術として試す、それが私の稽古法だ。明日また稽古がある。またきっと、ここからなにかにつながるだろう。

【稽古録】2017/8/19

徹夜稽古を終えてまた動きが変わってきた。いつも、想像を超えた世界が見えてくる。
徹夜稽古は「過ごす」を学ぶ事が出来る。ついつい集中してしまうのが人間だ。2時間ぐらいの稽古であると「自分の望むもの」を見てしまう。しかし、それでは「自分が気づいていないもの」には気付けない。手放す事を求めていてもそうなのだから、人から教わる事に慣れてしまっていれば当然、新しい世界との出会いは少なくなってしまう。
 
 
今日の22時間の連続稽古。ただ、その間しっかり睡眠をとってしまった(笑)。今回は起きていられなかったのだ。しかし、私が眠るすぐ横ではワイワイと稽古が続けられている。そして目が覚めたと同時に気持ちが身体へと向かう。これが「過ごす」という事だ。
食事をしながら身体の話、心の話をする。身体と心をフィルターにすればどんな話題も稽古になる。こうして、四六時中を稽古にするコツを掴めばこれからの時間のすべてが気づきへの入り口になる。
 
今日見つけたのは固く握った拳を「相手の体内に出現させられる」というもの。瞬間移動だ(笑)。この様子をビデオにとれば間違いなく連続的に拳は相手に向かっていく。科学を駆使して研究すればするほど、人間は瞬間移動をしない、という常識ができあがる。
 
人間は想像力を与えられた生き物だ。想像力が創造を生むのだから想像力を強くしなくてはいけない。しかし、その想像が科学によって小さな箱の中に抑え込まれている。
だから「身体感覚」だ。感覚をみて動いていくと時々常識を超える事がある。空を飛ぶのもそう、過去と未来の時間を行き来するのもそうだ。今回の瞬間移動も時間と関係しているかもしれない。
 
固く握った拳が相手の身体の中に出現をすると相手は突然違和感に襲われるようだ。徐々に距離を積めて向かってくる拳であれば予測ができるし、覚悟もできて、準備ができる。しかし、突然お腹の中に拳が「ある」感覚が生まれているのではないか、と思う(まだ、私自身が技を受けたわけではないので想像だけど)。
その違和感に肉体が反射してついつい、飛び下がってしまうというのが仕組みではないか、と考えている。
 
これまで皮膚が相手との境界だった。
肉体と肉体が衝突した時、その接点を意識して、丁寧に入り込む。この時の圧力を滑らかにすればするほど技は決まる。しかし、この時の「常識」に気づかなくてはずっと、この世界にとどまる事になる。
皮膚が境界ではなく、直接相手の体内にいる、という感覚も得られるのだ。
 
固く握った拳はサイコロのようなもの。どんなに潰そうとしても壊れないもの。四角い箱はゴトンゴトンと転がる想像を与えてくれる。この時の「ゴトン」は瞬間移動的なのがわかるだろうか。途中の意思がなくても、存在自体の重さが位置を変えてくれる。途中が生まれないのはそういう事だろう。
 
この気づきによって歩行が変わる。滑らかな移動を求めて稽古を続けてきた。そして「空を飛ぶ」というところまでやってきた。空を飛ぶ動き方は滑らかなもの。壁にぶつかれば動きを変え、風を受けたら方向を変える。どんどん滑らかさが高まる。
しかし、拳の転がりによる歩行はゴトンゴトン。常に自分は塊でいられる。塊を維持するために「固く握る」のだ。
対局にあるものを見つけた時、自分の世界が広がったのを感じる事ができる。
 
「手」に見つかるものは指先にもあるし、胴体にもある。数か月前、横隔膜を落とし腹を自覚した。この時の腹のイメージは「球」だった。この感覚のおかげで腹に圧力がかかり密度が高まっているのが感じられたようだ。
腸骨を横から抑えて立てるようにすれば上下だけでなく、左右から圧力をかけられる。腹の中にサイコロが感じられれば後は手で経験した事を応用できる。
 
そしてさらに感覚は拡大する。こちらに遠慮することなく、力の限り抵抗をして耐えてもらえばまた、自分にとって「できない動き」が見えてくる。この時、頭に浮かぶのは今持っているものでなんとかできないだろうか、という事。
「手」に生まれたサイコロの感覚が「腹」へと移った。箱が転がる事で生まれる力に徐々に慣れてくる。感覚に従うと思いがけない事に気づくのだ。そのサイコロを「地面」へと応用ができるそうだとわかってきた。
 
足元にあるのは水平に広がる地面。動かない地面だから、崩れた瞬間、足元に力が入ってしまう。この足元にある地面がサイコロに見えてくればそのサイコロを動かす事ができるように思えてきた。稽古による変化は面白い、まだ試しても見ないのにできるだろう、と分かってしまうのだ。
当然、最初からうまくいかない事もある。しかし、心の奥底にある自信は揺らがない。出来ないのではなく、ただ、うまくいかなかっただけなのだ。
サイコロをしっかりと意識をしてゴロンと転がす。足元が動くのだからその上にいる私は当然動く。結果として、その動きは相手に伝わり崩れるのだ。
 
徹夜稽古はやはりパワフル。また、これがどんな展開になるのか、楽しみ。

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