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2017年9月

【稽古録】2017/09/09 屈筋を縮ませない

浜松で文化センターの講座と大人の武道塾。
夏休みの影響で一月半ぶりとなった浜松中日文化センターの講座。「屈筋を縮ませない」という事を一番に伝えようと思い向かった。
 
この「屈筋を縮ませない」という術理はこれまでの私の使い方の中で「最短」で効果の出るものになっている。
お腹を胸へと引き上げるだけ。それでけで肩関節が良く廻り、膝が上げやすい。
 
術理は突き詰めていくとどんどん細かくなる。自分の身体を細かく見ることができると嬉しいものだ。ついつい、より細かく、とみてしまうが、時々、それまでの世界とはまるで違うものが見えてくる。その時には思い切って、それまで知っていた細かな事を全部手放してみる勇気があるといい。
 
「屈筋を縮ませない」というのはこれまでの術理からするとどうやら別物、異次元の世界への入り口のようだ。
 
お腹をぎゅっと引き上げるだけだから誰でもできる。面白いのは、あまり身体操作に慣れていない人の方が素直で、効果が出やすいという事。
お腹を引き上げれば屈筋が縮めない。その事によって背中が伸び、関節が楽になるのだから動きが滑らかになるのは当たり前だ。
大勢にそれを試してもらうと、うまくいかない時の理由もわかってくる。身体操作に慣れすぎている場合、無意識に「動かそう」という気持ちが強くなり、屈筋へと力が入ってしまうみたい。お腹自体は手を使い縮まないようにできるのだが、胸が器用に動く人などは胸の屈筋が蓋をしてしまい、背中に抜けないのだ。
 
理由がはっきりとしているのだからそれを伝えればいい。
胸が力めばやはり前かがみとなる。この時、肩を見てみると、肩が前へと巻き込まれるのがわかる。
お腹を引き上げ、肩が背中の側へ落ちればそれで肩は回りだす。もし、後ろへと肩が落ちていなければ胸の力みを疑えばいい。肩をバロメーターにする事で屈筋を縮めないという事はずいぶんと楽になる。
 
単純に胸を張れ、背筋を伸ばせ、と言われてもよくわからなかった。無意識に屈筋が働いている事に気づかなかったからだ。
屈筋が働いてしまえばどんなに伸ばしてもうまくいかない。そもそも日本人は屈筋が強いと言われているぐらいだから。
たいていの場合、指導者というのはその競技、ジャンルの中で結果を残せた人たちだ。ケガや歳をとって引退して指導者になる。こういう人たちは現役の頃「やれていた人」だ。「やれていた人」というのは自然とブレーキを外して、伸び伸びと動けていた人だ。そこに年齢が入りうまくいかなくなって引退したのだから、そもそも、「やれない人」の気持ちがわからない可能性がある。
 
勉強を教える教師にもそれは言える。教師になるためには大学へ行く。忙しいカリキュラムで単位を取得し、厳しい試験を経て教師となる。勉強が好きだったはずだ。
なにかが「好き」というのは、「屈筋が縮んでいない」という事。伸び伸びと向き合えるってすごい事だもの。
しかし、どうして自分が好きになれたのかを知らないと、いつの間にか好きな事も我慢になってしまう。そもそも私のようになにをするにしても最初から「縮んでいる」人間には届かない。
 
ついつい、結果が気になるのは現代の宿命。自分の気持ちに嘘をつかず、伸び伸びと過ごせるように、身体を改めて見ていきたいと思う。

【稽古録】2017/09/08 最長筋の発見

平日夜の稽古は雑談稽古。雑談の中から次の興味が生まれてくる。
筋肉には屈筋と伸筋があり、無意識のうちに屈筋を働かせすぎている、そう自覚して数週間。少し余裕が出てきた。ただ縮めないようにするだけでは飽きてきたのだ。
 
今日の稽古で見つかったのは筋肉の新たな活用法。
背中に「最長筋」というのがあるらしい。最長というだけあって長い。おしりから頭まで伸びている。
ふと、この「大きさ」は人体の中で一番ではないだろうか?と思いつく。
 
背骨も長いがこれは小さな骨が積み重なったもの。全体は長いが一つ一つは独立している。
太ももの骨は大きいが、おしりから頭の付け根までとは比べ物にならない。
 
屈筋を縮めない事で休ませる事に成功し、伸筋への意識が高まったからだとおもうが、この「最長筋」への集注が自然と生まれてきた。
イメージする、想像する、と考えてどれだけリアルに作り上げられるかは人それぞれ。私にはこの「イメージ力」がなかった。
縁ある人の中には「気」の使い方を教えてくれる人も多いが、どれも、生な肉体には敵わないので真剣になれなかった。
 
想像力は欠けていたが、逆に、存在しているものには従いやすかったらしい。眼に見えるものしか信じない性格だったのだ。ふつうこれ、頭が固い、と嫌われる性格(笑)。
しかし、身体を信頼してみると、この性格は力を貸してくれる。
 
「最長筋」という筋肉は間違いなく存在する。だからこそ、その存在を実感として得られれば、それを使う事ができるわけだ。
最長筋に意識が集注するとまるで「背中に刀」がついている感じがする。長さや幅がそんな感じだからだろう。
この長い刀が働きを生む。
手を上げる、下げる、ごく単純な動きに合わせてみると、これまではまるで違う「キレ」がでる。刀をイメージし、刀で斬っているのだから当たり前かもしれない。
 
ずっと、自分に自信が持てずにいた。
身体感覚という世界を知り、自分には「なにもない」のではなく、「見つけられない」のだとわかった。
努力が出来るものなら努力によって働きを最大限にしてもいいが、努力が要らないものもあった。ナマケモノの私にどれだけ稽古は光を与えてくれたかわからない。
 
今、やっと「筋肉」に興味が湧いてきている。
今まで筋肉は努力の象徴だった。しかし、それだけじゃなかった。すでに「形」も備えていたのが筋肉だったのだ。
どんな骨よりも大きな形を持っている筋肉。また稽古が変わりそうだ。

【稽古録】2017/09/07 嘘

「世間」が強くなると意見が言えなくなってくる。
分かっていなくても分かっているふりをしてしまう時があるし、分かっていても分かっていないふりをしてしまう時がある。
これらは「嘘」だ。
 
分かっている嘘ならまだいい。嘘をつく事でメリットもあるだろうから。問題は無意識についてしまう嘘。
自己評価があまりに低いのも嘘。私はそうだったのだが、身体の持つ可能性を知らなかったから頭は「俺はなにもできない」と決めてしまった。心に対して嘘をついたことになる。
 
無意識の嘘は徐々に心を変えて行き、身体も変える。
無意識の嘘から生まれた影響が心地よいものなら構わない。しかし、窮屈にさせているものなら今対処しておかないと、どんどん、それは強くなってしまう。
 
どうもこの「無意識の嘘」と「老い」を混同してしまいやすいようだ。
なにかが出来なくなる、肉体的にはそこに不自由が現れる。この不自由の原因が「嘘」から生まれたのだとすると、もったいない事になる。
 
嘘が悪い、良いという話ではない。
子供に話す時には嘘はダメ、と言ってもいいが、大人になった時、自分の心と向き合って嘘がないだろうかを探す。
嘘に対してもう少しうまく付き合えるようになれば、嘘をポジティブに使う事もできるはず。
 
嘘というのは心の自分、身体の自分、頭の自分のズレだ。
どこにズレてもそれは嘘になるが、そのズレがあるからこそ、ズレをバネにもできる。
老いて行くというのは、それまで頼っていた力が次々と無くなっていく事だろうと思う。「存在している」力は失えばもう戻ってこないが、「ズレ」から生まれる力は「存在していない」力。なにもないところから生まれる力になるのではないか、と考えた。
 
答えのでない話だけれども、こんな話を言葉にして自覚をすると、数年後、パッと気づきが生まれる事がある。これまでなんどもそんな事を経験してきた。勇気をもって自分の感じた事を言葉にする。これも、頭と心のズレを整える作業かもしれない。

【稽古録】2017/09/06 買い物から気づく事

一生のうちに何度もない買い物をする。
頭ではどうなっても大丈夫、と考え、そう願っても、現実の世界に起こることは身体に影響がある。
病気やケガ、実際に生な肉体に負担がかかった時に、その人の持つ心構え、信念が試される。なにも学ばなくても平気な人もいるだろうが、多くの人は少し、心配の方が強く出てしまうのではないかと思う。
 
実は病気やケガはある意味、選ばれた人が得るものだと思っている。こんな言い方をすると実際にその真っただ中にいる人はショックを受けるかもしれないが、当事者でないと学べない事を身体を通して経験できる。
 
心の中にどんな不安があろうが、肉体は常に、感覚としてショックを見せてくれる。その肉体に現れたショックを手掛かりに姿勢を整えると心の中にあった不安も小さくなっているのだから面白い。
心身一如、心と身体は一つ、多くの人がその言葉を知っているが、実際に身体でつながりを経験し、自覚ができていないといざという時に役に立たない。
 
さて、こんな話も「買い物」から気付いた事。
病気やけがは望んでもなかなか自分の力では生まれないものだ。生まれないのだから、肉体にもショックは現れない。
今、平気で幸せなのはストレスになるものがなにもないからだからかもしれないのだ。
 
お金は人が発明したもの。どこかで「発明」と聞いたことがあるが、物々交換では不便だったのだろう。いつのまにかお金が世に出回った。
当たり前に使っているお金だが、ある意味、なにも「ない」ものに対してショックを生んでくれるものになっている。
なにかを「買う」。その瞬間、お金が減る。コーヒーぐらいなら気にはならないが、大きな買い物であれば、その「減った」事が心を縛り、想像の中にある未来に影響を与える。
 
この時、心が大きく動いたことで肉体にも変化が生まれている。
お腹を縮ませない、という事に気がついてから、それまでの動き、技がガラリと変わったが、それは相手の攻撃に対して怖さが減ったからだ。
ちゃんと相手の攻撃を見極めなくてはいけない、崩さなくてはいけない、と緊張しすぎていたのがわかる。
面白い事に、これは「大きな買い物」をした後もそうだった(笑)。
 
水道の故障のように切羽詰まった事に対してならまだ気持ちは落ち着く。選択の余地がないからだ、しかし、わずかでも余裕がある時、自分の選択が間違っていないだろうか、と不安が生まれてしまう。その時、姿勢が崩れるのだ。
 
今日、ハンコを突いた瞬間、姿勢が崩れた、いや、崩れそうになったところをお腹を伸ばし元に戻った。きっと、そこに同席していた人、誰一人にもそれは気付かれなかったと思う。
もし、目の前に悠々と大きな決断をして、行動する人がいればその瞬間、私の心は奪われるだろう。強さを目にして、戦う気持ちも失せると思う。
突いたり蹴ったりの強さではなく、戦う前の大前提を姿勢は作ってくれるようだ。
 
人間は感情を持つ生き物。感情をコントロールする事は人間であることをやめる事かもしれない。生まれてくる感情をコントロールする事はできないが、感情が肉体に現れた瞬間を見極め、それを細かくコントロールする事はできるかもしれない。
 
常に自分の姿勢に目を向けて、整えていく。
外に現れる出来事は多種多様だが、自分の姿勢ならばこの身体だけを見ていればいい。
きっとこの先にも心を揺らす出来事がたくさん起こるだろう。嫌な出来事を嫌い、起こらないように予防をする事もできる。
しかし、どんなに予防をしても、常に心の隙間を縫って嫌な事は起こるだろう。しっかりと身体に目を向け、姿勢だけはきっちりと整えていこうと思う。
 
それにしても、今回の買い物はよく出来た方だと思う。秘かにお腹を縮めない姿勢が良かったのではないか、と思っている。まぁ、まわりからは運が良かっただけだろう、と思われるだろうが(笑)。

【稽古録】2017/09/05 下駄と感謝

久しぶりに「下駄」の話をツイートした。日曜日のワンテーマ稽古で話をさせてもらったおかげだ。改めて、下駄の不思議な効用に驚いているし、考えさせられる。
 
一番気になっているのは、下駄をはいた瞬間、その効果に気づけない、という事。
下駄をはいた事で地面に対する不安が無くなり、バランスが整う。しかし、この瞬間、その変身した自分に気づけない。
おそらく、あまりにも下駄がシンプルな道具であるがゆえに、まさか、自分を大きく変えているとは気づけないからだろう。
 
しかし、変身によって生まれる効用は試してみればすぐわかる。誰もが下駄の影響を受けて丈夫になってしまう。しかし、気づけないから感謝がない(笑)。
 
今日の稽古で気づいたのはこの点だ。
どうやらこの気づきは「感謝」という事を実感させてくれるみたいだ。
例えば「目」。私たちは当たり前に目を使い、生活をしている。年齢や生活習慣によって視力は年々落ちていくのが普通だ。どうしたって老眼が現れる。
 
それまで見えていたものが見えなくなる。これには心が揺らされる。不安になるし、なんとかしたい、と願ってしまう。
しかし、その前に目に対して「感謝」があっただろうか?
私はなかった。当たり前だ、と思っていたのだ。
 
もちろん、言葉の上ではありがたい、と思った事もある。だって、幸せになりたいのなら感謝をしなさい、と本に書いてあるんだもの(笑)。
しかし、実際にそれを全身でやれている気持ちになれない。
 
簡単な実験をしてみた。
目を塞ぎ、相手の攻撃を受ける。当たり前だが、なにも見えないのだからとても怖い。
そして、改めて、目を開き、相手の姿を見ながら攻撃を受けると、良く見える。
しかし、目を塞いでみる攻撃を受ける経験をする前には、相手の攻撃を怖い怖い、と思ってしまい身体が反射的に逃げてしまっていた。攻撃に目が居つき、目が動かなかった。
 
同じように見ているはずなのに、塞いでから目を開けた時には見えるだけでもありがたい、と感じていた。しかし、いつものように、当たり前に相手を見た時には怖い攻撃としか見えなかったのだ。
 
身体を得てこの世界にいる。それを感謝する事ができるじゃないか!と嬉しい気持ちになった。
感謝をしているか、していないか、それはなかなか外からはわからない。もちろん、言葉ではなんとでもいえる。私が望んでいたのは全身で、心の底からの感謝だ。その手掛かりが今日見つかった。そして、そのきっかけは「下駄」なのだからまた、すごい。

【稽古録】2017/09/04 頭痛で稽古

40も半ばになり、身体に無理が効かない事が増えてきた。
昔、年上の先輩から、40過ぎるとガタッとくる、と聞いた覚えがあるが、それは事実だったのだ(笑)。
 
実は最近、ちょっとした事で足元がぐらつく。もちろん、それは見かけではわからないほどの揺れなのだが、間違いなく、崩れている。
おそらく、これまでは筋肉が無意識にその崩れを抑えていたのだろう。その筋肉が落ち、身体が揺れるのだ。
 
実はこの崩れが研究には役に立っていた。
この数年、次から次へと新しい発見がある。それは稽古が上手になった、ともいえるのだけど、身体に無理が効かなくなり、崩れが自覚できる形になって表れているからだろうと思う。
感覚として自覚をすればそれを使いこなせばいい。私が「成果」を求めるのではなく、「研究」を習慣にしてほしいと言っているのはまさにこのため。観察が上手になれば、どんなに歳をとって衰えても、アクシデントによって人生が変わっても、それを実感として得られるのだから。
 
実は今日、朝から頭痛がする。それほど激しいものではないので、気のせいだ、と思えば普通になんでもできるし、薬を飲めばもっと感覚を鈍らせる事もできるはず。
しかし、こんな頭痛の時こそ、今、試したい術理で研究するのだ。
 
頭痛をする場所に意識を向けて観察をしてみれば、そこにも「屈筋」がある事がわかる。ぎゅーっと縮んでいく様子が見つかる。
縮みすぎるとよくない、と分かったのだから伸ばせばいい。指をあて、縮みに対して縮まなくてもいいよ、と意識をすれば、なんだ、普通に頭痛の時に手を当てている形になっているではないか!
 
私たちは誰に教わることなく、自然と行っている動きを持っている。
その動き、姿勢には意味があるのだ。その意味を自覚した時、それまで生きてきた事の嬉しさを得られるのだが、これは私だけだろうか(笑)。
 
そうこうしているうちに頭痛は消えてしまった。
激しい頭痛では反射的に負けてしまうだろうから、ゆるやかな頭痛は大切な研究の機会。身体の痛みを待ちわびるなんて変な話だが、この先、歳をとればとるほどその機会は増えるはず。もう少し、痛みを好きになれればいいなぁ、と思う。

【稽古録】2017/09/03

個人稽古やワンテーマ研究会は高額なのにも関わらず時々申し込みがある。
今日のワンテーマ稽古は参加者が一人。個人稽古状態だったので、これまでに気づいてきた事をいくつか紹介した。
 
たいていの場合、ワンテーマ稽古に参加される方はすでに、ご自身でいろいろと考えられている方が多い。
他にも負担なく、手軽に参加できるものがあるのにも関わらず、時間も、金額も負担の大きい稽古を選ぶのだからそうとうな覚悟だと思う。ただ、その覚悟に応えたいと思って始めたのがワンテーマ稽古なので、その点では狙い通りだった、ともいえる。
 
今の世の中答えを求めたならば簡単に手に入る。その答えが合わないのであればまた、次の答えを探せばいい。恵まれた時代だ。
しかし、問題は次々に答えを得ても、それらがすべて合わない、と感じてしまった時だ。
もちろん、それでも、新たな答えを探す道もある。しかし、無意識がどんな答えも私にはだめなのではないか、と思ってしまうと未来は一気に暗くなってしまう。
 
私の稽古はどれも、ご自身の身体を研究して、と伝えてある。お世話はしません、と。
私自身が答えを求める事を諦め、自分の中に生まれてくるものに従った事で人生が変わった、流れだしたので、それを伝えたいと思っている。
 
今日の稽古のテーマは「空の飛び方」であったが、一対一だったので、脇道にもずいぶんと逸れた。一対一の時にはそれでいいと思っている。なにが彼の心に響くかわからないからだ。
 
もともと身体に興味を持って、感度がいい彼であったが、その中でも特に「肘」の使い方と、「下駄」に乗った瞬間の身体は非常にうまく反応していたと思う。
話の流れの中で久しぶりに肘と下駄の話をしたのだが、今気にしている術理によって身体の制御が上手になっていたのか、以前よりもより細いところへと肘によって入っていける感覚を得た。
 
また、空を飛びながら、肘に意識を向けるとそれまで滑空を主に使っていたのが、肘を使う事で小回りも効くようになった。
 
とにかく5時間の間、何度も、研究の楽しさ、可能性を伝えた。
やればできる、とは子供の頃なら何度も聞いた言葉だろう。しかし、それはいい大人になっても、身体を通してでなら実感が出来る事だ。身体は必ず、求めたならば応えてくれる。
 
多くの人は人生の全てを競技にはかけていない。
仕事をして、日常を過ごしている。その仕事の多くは機械や仕組みが高度に入り込んでいるものだ。肉体がちょっと早く動いたり、力が強く出せるようになったって仕事の成果が出るわけじゃない。出張にナンバ歩きでいく奴はいないもの(笑)。
 
しかし、こんな時代だからこそ、稽古によって得た身体感覚によって身体を整える力が必要だ。身体が整うと気分が良くなる。気分が良くなれば仕事の成果もあがるかもしれない。しかし、上がらなくても、気分良く過ごせれば幸せなはずだ。
人生何が起きるかわからない。勘違いによって、爆発的はヒット商品を生み出す事もあれば、勘違いによって一気に損害へと変わる事もある。波の激しい時代だ。
しかし、そのどんな波に乗っていたとしても、自分の気分がいつも楽しく過ごせるとしたらそれは幸せな生き方だと思う。
 
ワンテーマや個人稽古に興味がある方は遠慮なく、事前にメールをください。そのやり取りの中でご自身の中になにかありそうだ、と感じたならばぜひご参加ください。私が言う言葉が響くかどうかはわかりませんが、あなたの身体に可能性がある事は間違いありませんので。

【稽古録】2017/09/01 ここにいてはいけないという思い

ずっと武器を使わない技を求めてきたので、武器を目の前にするとどうしても緊張が高くなる。
それでも、数年前に武器だって研究できる、と分かってからは少しずつだが、武器に対する捌きや扱い方が上手になった。
それでも、やはり、無意識の奥には「苦手」が染みついている。
 
怖れることなく自然にふるまえれば、と思っても、身体は正直、緊張してしまうのだ。
そしてその緊張した結果現れる現実が固く、どうしようもなく思えてくる。
 
しかし、その不安を伴った現実は幻想。これまで、何度も、無理に違いない、という事をこの身体は壊してくれた。身体が動く事によって、それまでとは違う現実を見る事ができる。研究稽古は現実は幻想、という信念を持つ事ができる。
 
昨日気付いた事、相手との衝突に対してぎりぎりまで待つ、という技はまさに、武器を相手にして気付いた事だった。
武器は触れただけでダメージを追う。まぁ、厳密には刃筋やその後の斬りなどで効果は全く違ってくるのだが、心がやられる。
突きや蹴りならわずかにずれても、我慢もできるし、多少の修正が可能だが、刃のついている武器はその瞬間、身体は崩れてしまう。
 
この時、よく身体を観察してみると目と手と脳が先に予測をして働きすぎている事がわかった。見えてしまう相手の攻撃、ついそれに目を奪われ、反射的に手がかわしだす。もちろん足も捌こうと逃げるのだが、主導権は相手になり、動きをコントロールされてしまうみたい。
 
相手が動くたびにこちらの修正を余儀なくされてしまうのだ。
なぜこの時コントロールをされるのだろう、と考えてみると、そこに間合いがあり、その間合いが頭に余裕を作って、いくつかのプランを作ってしまっている事がわかった。
この事前に作ってしまうプランの中身は自分の動きがあるのはもちろんの事、相手がどう動いてくるだろう、という予測も入っている。この時、相手の動きが100パーセント読めるのならいいのだが、そんなことは決してない。
他者がこう動いてくれたらいいなぁ、という期待をなんとかしなくてはいけないようだ。
 
相手に期待しない方法、それが間合いをギリギリにまでゼロにする、という事。相手の攻撃から逃げるのではなく、むしろ、近づく。この時、身体が反射をしないように気をつけるのだけど、うまく反射をせずに間合いを縮める事ができると、問題は相手ではなく、自分だけのものになる。自分の中に、「ここにいてはいけない」という気持ちが生まれている。
 
どうやらカギになるのは反射をしないで相手の攻撃を受ける事なのだが、これはちょっと前に気がついた「屈筋を縮めない」事が当たり前となってきたから出来るようになってきたみたい。
それまでとは全く違う原理に見える術理も身体を使っているのだから、つながりはある。今、気になっている事も、1週間先にはどうなっているかはわからない。しかし、消えてしまったように見える術理も必ず、また、レベルをかえて現れる。
 
久しぶりに始めたこの稽古録も、こんな稽古の仕方もあるよ、と伝えるためには役に立ってくれると思う。
「唯一正しい術理」はない。そんな事を言うつもりもないし、まだまだ研究を続けたい。組織を作ると結束のために正しい事、正しい手順、正しい形が必要となる事がある。まぁそういうものだ。
どこの世界に行ってもそんな感じだろう。皆なんらかの正しさを押し付けれて生きている。だからこそ、それぞれ個人が常に変わり続けられるものを持つと楽しく過ごせる。研究稽古はまさにそれ。ぜひ、自由な発想で、どんどん、自分を変えていって欲しい。

【稽古録】2017/08/31 動かない事で問題は自分だけの問題になる

無意識の事を考えたり、筋肉の事を考えたり、運の事を考えたり、気にしておきたい事がいくつも出てきて我ながらあきれる。
まぁ、それでも、私自身は身体に生まれてくるそれまで感じた事のない感覚に従っているだけだし、こんなにも雑多なものがでてくると、もう、それに従うしかないな、と覚悟もできるからいい。
問題は話を聞いてくれる縁のある人。この稽古録を読んでくれる人もそうだ。感想も送ってくれるが、困っているのが伝わってくる(笑)。
 
しかし、きっと、これが一人稽古に入るためにはいいのだろう。私はそうだった。甲野先生の言葉が全くわからなかったので、自分の身体に向き合うしかなかったのだ。
向き合ってみれば見つかる。だって、そこに身体があるのだから、探れば何か出てくる。それが最近、ちょっと勢いがつきすぎているだけだ(笑)。
 
今日は8/31。子供達にとっては夏休み最後の日だ。私のこの日の思い出はいつも、宿題のために徹夜をしたことだ(笑)。
夏休みの初め、いつも、一日何ページ、と予定を立てるがそれがうまく行った試しはない。そして、それは今もそう。成長がない(笑)。
しかし、これで良かったのだ、と今日、自らの身体に見つけた感覚に許してもらった。稽古は自己を強力に癒す。他者にやってもらうなんとかセラピーなんかよりもよっぽど強力だ、間違いない。
 
その感覚とはこうだ。
相手の攻撃に対して「動かない」を決めるという事。
この時の攻撃は自分にとって怖いものの方がいい。小刀でも持ってもらい、攻撃してもらう。この時、とってもゆっくりに。
ゆっくりなのだから相手の動きは良く見える。
この時、つい、早めに身体が相手に対して動いてしまっている事に気づいた。
 
これはやはり、怖いから。身体が過敏に反応し、つい、動いてしまう。この時、動きを決断し、迷いなく動ければそれは最高の動き。しかし、相手とのタイミング、交わした後の微調整など、しまった!と思う事が多い。
心に迷いや後悔が生まれると身体は止まる。そして、武術であればこれで終わりだ。次はない。この動き方ではだめだと分かる。
 
この時、とにかくぎりぎりまで我慢をしてみた。
目の前、身体に武器が当たるギリギリにまで動かないと決め、我慢する。
動かない、と決めてもその我慢にも限界がくる。この時、初めて動く事を身体に許すのだ。
すると、意外といい感じに動きが完了し結果として攻撃をかわす事になる。
 
この時の感覚が面白い。余裕をもって攻撃を見ていた時、自分の動きをどうするかを選んでいる時には同時に、相手の動きも見てしまい、そこでまた考えが始まっている。自分と相手、どちらにも集中がし切れていないのだ。
 
しかし、ギリギリまで我慢をした時、もうだめだ、と思った瞬間は相手の事を考えず、自分が「ここにいてはいけない」と感じているらしい。この状態はほぼ100パーセント、自分に集中できている状態だった。
自分がそこにいてはいけない、と感じて、とにかくどこかへ動く、それだけを考えているので動きに迷いがない。結果として、瞬時に少しずれたところへと移動が完了する。
 
夏休みの宿題を徹夜でやっていた時にもそうだったのだ(笑)。
どうやろうかとは考える暇もない、余裕がない。
ただ、自分が動くだけ。やるだけだった。そして、いつも、何とか間に合って胸をなでおろしていた。やったらできると、何度も経験したのだから、夏休みの初めにガンガンやればいいとわかるのだが、やはり、毎年、最後まで残ってしまう(笑)。
 
今、身体を通して得た感覚がすでに、子供の頃から何度も経験していた事だと気付けた。そしてその経験に対してこれまでは「予定を作って達成できない自分」を見ていたのだが、予定通りに終わらなかったからこそ、「100パーセント自分を見ている経験」を得る事ができたのだ、と思えるようになった。
 
あらゆる経験は考え方によって良いものにもなれば悪いものにもなる。それを確信する事ができた。この確信を得る事ができたのも、夏休みの宿題のおかげだ(笑)。

【稽古録】2017/08/30 ツイテル

どうも今、私はツイているらしい。なにが憑いているのかはわからない(笑)。
 
身体感覚的に「ツク」というのがわかったので、忘れないように記録する。
何かを予定した時、予定通りに進んだらいいなぁ、多くの場合、それを求める。私もそうだ。
しっかりと押さえつけられても動きたい、ものすごく「我」の強い話だ。
予定通りに進めるために身体を探り続けている。
 
「ツク」というのは、自分の「我以外」の力によって自分が動かされている事を自覚する事だ、と分かった。
そして、これまでの稽古は「ツイている力」を最大限に使う方法だったらしい。
 
例えば筋トレなら、予測ができる。
栄養を取り、大きくしたい筋肉を狙いトレーニングし、しっかりと休息する。これでかなり、予定通りに成長できる。
これですべてが解決するのであれば私だって筋トレをする(笑)。
しかし、現実の世界では筋トレだけでは叶わない事がたくさんあるのだ。
 
武術の世界ではそれが顕著。しっかりと教えてくれる。
スポーツ武道であればルールがあるので筋トレでも間に合うが、ルールのない場面では筋トレによって生まれる力は役に立たない場合が多い。
 
だから、最初から筋トレには頼らない。稽古をする事で自然とついてくる筋肉だけで考える。
 
私の稽古は「気づき」が大事だ。この稽古録だって、気づきの記録として書いている。
「気づく」というのは予定できない。「運」の要素が大きすぎる。「運」というのは外の力。その外の力をより大きく認め力を借りる事こそ、「ツイている」状態に違いない。
 
ちなみに最近の起こった「偶然」を上げてみる。義母が追突事故にあい、家人が車をぶつけ、市バスに乗っていて追突され、トラクターが壊れ、停電で信号機が消えたというのにも初めて遭遇し、めったに会わない友人とばったり会ったりする。ちょっと忘れてしまったが、気になっている答えが次々に見つかったりもしている。この流れは今まで経験した事がないほどだ。
 
事故が続く、とそれを「不吉」と考える人がいる。お祓いが必要なのではないか、と。私はいつも、身体中心に考えるので、運に良いも悪いもないと思っている。
自分の無意識が考えている方へとまわりの力が強い時、運が強いというのだと考える。
 
この数か月の動きの変化がまた大きい。気づきを一つ得るたび、こんな事ができるようになっていたのか!と驚きの連続。空を飛ぶのだってそう、時間旅行だってそうだ。まさかこんな事が、と次々に起こる。
この身体の変化はすべてありがたい事。動きが良くなり、自由を感じられる。つまり、動きの変化がいい方へと進んでいる時、無意識にはネガティブなものはないと考えられるのだ。
 
そして今、外に流れる強い力がある事がわかる。事故だろうが、病気だろうが、予測のつかないところへと自分が動かされている。
その「予測のつかないところ」も無意識が決めているんだろう、というのがもう少し大きな自分の見立て。
だから、今の状況を楽しみながら過ごせるのだ。
 
もう少し運の強い日々は続きそう。先の読めない毎日はそれだけで身体がゾクゾク、心がワクワクしてくる。

【稽古録】2017/08/29 若さという力

昨日、今日と改めて「若さ」の力に驚かされている。そして、その若さはもう、求めても得られないものだと思うと「老い」に対して無意識に怖れを持つのも仕方ない。
稽古はそんな無意識にある「老い」と向き合わせてくれる。その結果、怖れであった老いがありがたさに代わり、嬉しさに代わる。
 
誰もが若さを持っていて、老いを手に入れる。
この時、「失う若さ」と「のしかかってしまう老い」と考えるとつらくなるが違うのだ。
 
さて、昨日、今日の若者との稽古。いやぁ、これが本当に大変だった。まったく、動かないんだもの。
一人は高校に入り、筋トレに目覚めた子。久しぶりに道場へと顔を出してくれた。身体が一回り、二回りも大きくなっている。手を合わせてみるとこちらが動いた瞬間、ぴちぴちな筋肉が水を弾き飛ばすような感じで跳ね返ってくる。
ただ、それは「普通」の場合。彼と同じように筋肉を使った場合。老いたことによって筋肉の反応が衰えていくのだろう。若い筋肉に負けるのは仕方がない。だからこそ、術があるのだ。彼がお思いもつかない動きをすれば、そこに穴ができて、彼の中に侵入し、崩す事ができる。
 
これまでたくさんの時間をかけてきたのだから彼を崩すことはできる。彼には若さがあるが、経験が足らないのだから穴もたくさんある。
 
そして、もう一人の若者。
彼も強い。しかも、小学生の頃から術の世界に興味もあり、穴も少ない。その彼が高校生になり、成長して帰ってきた。いやぁ、大変だ。
彼が一番耐えられる姿勢を作ってもらい、斬り崩そうとしても、ピクリともしない。技的には片腕の斬り落としとなるが、腕から背中、腰までが一つなり、まるで岩にのしかかっているよう。
 
この得意な形になると穴もなくなるのか、なにをしてもダメだった。
 
不思議なことに、あまりにもダメな状況へと入ると「出来ない理由」がたくさん出てくる。
武術的にはこんな馬鹿力の耐え方をしてはダメ、相手の意識が腕ではなく、体幹にあるのだからそこを攻めないと、無理をする稽古をすれば形が崩れる等々・・・・。自分の中から生まれるこうした言葉は確かにそうだ、と思えるもの。しかし、この自分ができない場面こそ、一番、自分を新たな世界へと連れて行ってくれるものだ。
 
考えてみると、身体感覚的な稽古を始める前、できない、と思っていた事が山ほどあった。相手に強く抑えられた時には当身をして、体勢を作らなくてはダメだ、とかどんなに早く動いても気配で読まれてしまう、とか。
当たり前をお互いに共有したもの通しであれこれ試しあっていたのを懐かしく思う。
 
身体感覚の稽古を知り、次々と新たな使い方に出会ってみると、昔出来るはずがないと思っていた事、やろうとも思わなかったことが出来るようになった。
それも、狙ってそのできない技を解決したのではなく、たまたま見つけた新しい使い方によってできてしまった、という変身を体験した。
 
きっと、今日経験した「出来ない技」もそのうち出来るようになるのだろう。
人のやる事に限界はない、今、私の基盤はそこにある。
機械やコンピューターにはかなわないが、人が人間の肉体を使って行う事であれば誰もがなんとかできる力を持っている事を思い知らされてきた。ただ、それをできない、という観念が強すぎるのだ。
 
それにしても、強かったなぁ・・・、夢にまででそうだ(笑)。

【稽古録】2017/08/28 右足裏の縮み

夏休みも最終週。子供にせがまれ、プールへ行く。しかし、せがまれたのは運転手として(笑)。
友達と少し遠いプールへと行きたいそうなのだ。
 
身体感覚を探る事を覚えてから人生の中から退屈な時間がなくなった。退屈なのはなにも見るもの、見たいものがなくなってしまうから。身体を感覚で探っていくとどこまで行っても新しい世界が見えてくるのだから、退屈などありえなくなる。
 
プールへ行っても、友達がいるのだから私はひとりぼっちだ。水の中で動きを探ってもいいのだが、今日はそれをやめた。見つけたばかりの「伸筋」の活用法と、日常生活との関係を整理したかったのでプール横の売店でコーヒーを飲みながら思考を拡げる事にした。
 
答えのない問題を考えていると不意に答えがやってくる。その答えは自分にとっての答え、しかも、今の自分にとっての答えだ。
お腹を縮ませず、座り、ペンをとり、思いつくまま、紙に気になる言葉を書き出してみる。身体、心、姿勢、無意識、伸筋、屈筋・・・書き殴られた言葉を見ていると思いつくことがでてくる。
 
こんな感じで脳みそを使っていると、自分の中に納得が生まれ、言葉になる事が多いのだが今日は違った。
「右の足裏が縮んでいる!」と気付いたのだ。
 
腹筋が縮んでいる事で背中が曲がり、猫背のようになってしまう。これがお腹を無理に伸ばすのではなく、縮ませない事を意識することで背中の伸筋とのバランスが取れ、結果として通りの良い身体が現れる事に気づいたのだ。
 
腹が屈筋、背中が腹筋。
二の腕の力こぶ側が屈筋、背中側が伸筋。肉体には裏と表の法則があるから応用が利くのだ。
 
連想が自然と生まれたのだろう。足裏がお腹で、足の甲が背中、伸筋だとしたらどうだろう、と意識を足裏に集中してみる。
足裏の屈筋を伸ばしてみた時、今まで感じられない「頑張りの感覚」があった。足裏を伸ばした時に気持ちよさを感じたという事は、普段、この足裏は緊張し、、縮みすぎているという事になる。
足裏に対して「縮まなくてもいいよ」と語り掛けるように、意識をすると、足首の周辺に「流れ」が生まれてくるのを感じる。
 
実は右の足首がこの数年、ずっと気になっていたのだ。
その気になり方がたくさん食べるとむくむ、というようなポジション的な問題ではなかったから対処に困っていた。
その流れの悪さが足裏を縮ませない事によって、膝から下へ、足首を通って、足裏に行き、しっかり地面へと重さを伝えて跳ね返りをもらえるようになっているのが感じられた。
 
そこから数時間、ずっとその足裏の感覚を探っていたのだが、どうやらこれは自分の「癖」だったようだ。
無くて七癖、と言われるように「癖」はたいていの場合気付かない。その気づかせてくれない癖によって、この肉体は少しずつ崩れていくのだろう。私の場合は右足裏が縮みすぎる事によって、地面からの跳ね返りに乗れず、筋肉の力が身体の中心へと逆流している事がわかってきた。
 
この逆流が腹の中にまで通って来ればいいのだが、膝や股関節など、途中の関節で引っかかるようなのだ。その引っ掛かりが崩れを生み、痛みを作る。
崩れとしての膝や股関節、腰は見えるだろうが、源である足裏はなかなか見えない。
 
今、こうして自覚ができたので、この先、何十年かの身体が変わる。力を逆流させず、流し、地面へと返していけるようになる。努力ではなく、自覚するかどうかの問題なのだ。
もし、努力でこの疲れやすい右足を何とかしようとしてしまえば逆流していく力を加速する方へと使ってしまい、消耗してしまったはずだ。
 
人により、持っている「癖」は違う。
その癖を自覚するところに「運」が働くのではないか。
癖を指摘されても、もちろん頭はそれを理解するが、身体的には自覚できているかどうかわからない。忘れてしまうのだ。
しかし、今回、肉体的に気付いた縮みは忘れようがないもの。
 
今回「右足裏が縮みすぎる癖」を見つけらたのは、娘とプールに行き、友達のおかげで娘に相手にされず、ほっておかれた事でできた時間をペンを持ち、紙に頭の中のすべてを書き出したことで気づけたことだ。
では同じような事をもう一度行えばまた何かが見つかるかと言えばそれはわからない。なにがきっかけになって自覚が生まれるかはわからないのだ。
 
身体の感覚を稽古しだして、いつのまにかそれが仕事になった。可能性を感じるために必要なのは努力じゃない、むしろ、頑張ってはダメ、と言ってきた。それはこういう事があるからなのだ。
努力によって得られるのは計算された結果。だから、努力は裏切らない、というのは正しいだろう。しかし、病気やケガ、仕事の忙しさによって我々は時間を奪われ、努力をする事ができなくなる。努力は贅沢なもの、と考えておいた方がいい(笑)。
 
日常の全てを稽古にしてしまえば、あらゆる時間がなにかに気づくためのきっかけとなる。そういう生き方をする事で自分の周りにある「運」に気づく事ができる。
今、ネットの世界には「情報」が溢れている。たいていの場合、発信者それぞれが「正しい」と思っている。それらの情報に振り回されると、つい、頭を使い、努力が始まってしまう。
身体を観察することでそのサイクルから抜け出す事が出来るのだ。まわりからは「変人」として見られてしまうかもしれない。しかし、そこに楽しさを見つける事が出来ると、それは「個性」になっていく。こんな生き方を選んでくれる人たちと今、稽古が出来てとても幸せである。

【稽古録】2017/08/27 屈筋と伸筋に挟まれた空間

名古屋での大人の武道塾。
少し早めに道場へ着いたので、普段やらないストレッチでもするか、と寝ころぶ。実は半分、眠かっただけりもするが(笑)。
 
しかし、こういう普段やらない事から気づきが生まれるから面白い。
寝ころび、ゴロゴロ、ダラダラと過ごしながら、「屈筋を縮ませない」術理を確認する。
寝ころんだだけでも、腹筋には力が入っていたのか、と改めて確認して、これまでの何十年間、それに気づかなかった事の恐ろしさを実感する。
 
たった数日しか検討していないにも関わらず、確信がある。日本人には無意識的に縮こまる性質がある、という事だ。
それでも、機械やサービスの発達していない時代であれば、結果を優先するために、屈筋だけではなく、伸筋の作用も利用をして文化や日常を作ったはず。屈筋ではない動きを「型」、「作法」として作ったのだろう。以前、「型には気持ち、感情を込めてはいけない」と聞いたことがあるが、今回の感覚によって、納得を得る事ができた。
 
話をゴロゴロに戻す(笑)。
ゴロゴロしながら、お腹を縮ませないように伸ばしたり、上腕を伸ばす。数日間個の感覚だけを追ってきたからだろう、気持ちに少し余裕が生まれだした。まぁ、飽きてきたのだ(笑)。
屈筋を縮ませないように伸ばせば、伸筋の進む方向へと力が生まれる。伸筋がアクセルだとすれば屈筋はブレーキ。これまで無意識にブレーキを常に踏んでいた事になる。
屈筋を縮ませない、という意識だけで動きがガラリと変わるのは、当たり前なのだ。
 
余裕が出てきたので、上腕、腹筋だけではなく、胸にも縮む筋肉と伸びる筋肉があるのではないかと探してみた。
正しいかどうかはわからない、ただ、問いを持って探してみると、脳はとりあえずの答えを作り出してしまう。そこを手掛かりに新しい感覚を探してみる。
 
胸の筋肉に意識を置いて動いてみると、大胸筋は縮みやすい筋肉に思えてきた。もちろん、外へと胸は張れる。しかし、胸を張る動きよりも、ぎゅっと締め付け、警戒する動きの方がしやすい、と感じた。
胸が縮むのであれば背中が伸びる。肩甲骨周りの筋肉は胸の収縮と連動し、外へと伸びていくようだ。
 
ただ、この胸と背中の関係は先に見つけた腹筋や上腕二頭筋ほど動きとして確認がしづらい。大胸筋を縮ませない事によって気持ちよく動くものが見つからないのだ。
それでも、寝ころびながら探しているので、気持ちは抜けている。いくら私の稽古や講座が自由だとしても、ダラダラ寝ころび、時折、目を瞑っているこの姿は決して稽古をしているとは思えないだろう(笑)。しかし、これが一人稽古なのだ(私にとっての・・・)。
 
大胸筋を縮ませない事によって生まれる動きがなかなか見つからないものの、そこに意識を集中すれば必ず、なにかが見つかる。そしてその予想は辺り、胸と背中に「互い違い」の感覚を見つける事ができた。
 
腕と腹筋で見つけた動きは伸筋を邪魔しない動き、結果として、伸筋の発力方向へ力は流れる。
しかし、大胸筋を伸ばしたとしても、背中側の筋肉が方向を持っているかというと、動きになるほどのものを見つけられない。
そこで少し考え方は変えてみた。
 
屈筋は縮むのが得意な力。ただ、筋肉なのだから、その得意を発揮し続ければ当然、エネルギーは消耗する。屈筋を縮ませない、というのはそのエネルギーを消耗しない動きなのだから、ある意味、効率的だ。
では、伸筋の場合はどうだろう。
伸筋は伸ばす事によって力を発揮する。伸ばすように使えば当然、エネルギーも消耗してしまう。ならば、屈筋と同じように、エネルギーを消耗しない方へと力を向けてみたらどうだろうか、と考えて試してみた。
 
胸を縮めず、肩口へと力を流し、背中は逆に肩口から、背骨方向へ力が流れるように意識をした。
この時、前と後ろに互い違いの感覚が見つかった。
その互い違いの速度を合わせてみると、「胸」という部位に一塊感が出てきたのだ。動きが少ないからこそ、塊感を得る事が出来たのだと思う。
 
この時の塊を作るものは皮膚ではなく、内部にある。胸と背中でサンドイッチされた間にあるもの。もちろん、物質的には骨があり、内臓があるわけだが、感覚的には「なにもない」ように見えている。空っぽの空洞なのだ。
 
その「空洞」を意識したままゴロゴロと揺れてみる。身体の内部空間といえるものが捻じれず、動きが生まれる。
 
これは、この後、武道塾への参加者との稽古でわかった事だが、私がなにもない空間を意識していると、その身体を相手は止めづらい事がわかった。
恐らく理由はこちらが「空間」として肉体的に頼りにしているものがないため、他者から見ても、こちらを崩すきっかけが作れないのだと思う。
 
そして、その「内部空間」は身体のあちこちにも作れるようで、腰、腕、脚、手足、様々なところに筋肉の互い違いを作り出すと相手からは特定されにく「内部空間」を生み出せる。
 
屈筋を縮ませない術理は「明確な目的に集中する欲深いもの」だとすると、この内部空間の自覚は「努力もしないし、欲も出さない」、という実にナマケモノ的な術理だ(笑)。さすが、ダラダラゴロゴロから生まれただけの事はある。
現代のように夢や目標に対して突き進むことをもとめられる時代には逆行するような術理ではあるが、この感覚を持って動いた瞬間、心に競い合わなくてもいい安心感が生まれてくるのがわかる。競争にくたびれた時には頼りにできる術理になるかもしれない。また一つ、検討する動きが増えてしまった。

【稽古録】2017/08/26 浜松大人の武道塾

浜松での大人の武道塾。午前11時~午後3時までの4時間。
しかし、今回ほど、説明が短く、それでいて効果がパワフルな事はなかったと思う。
 
今日一番に伝えたのはやはり「伸筋」。伸筋がカギになるのだけれど、気をつけなくてはいけないのは「屈筋」の方。
屈筋は日本人のベースとなる筋肉。ついつい、力を入れてしまっている、という事を伝えたかった。
 
無意識に働いている部分だけに、気づいてもらうのには時間がかかるかもしれないけれど、技にするのは簡単、空いている手によって屈筋が縮まないように伸ばしてあげればいいだけだ。
伸筋をアクセルとすれば、屈筋はブレーキ。強制的にブレーキを踏まないように屈筋を伸ばし続ける。
たったこれだけなのだが、その結果、対応する関節の詰まりが取れて動きが良くなり、技になる。
 
長い時間をかけて手に入れた技ばかりだと、どうしても、それを捨てる事、手放す事が難しくなる。
しかし、屈筋の働き、伸筋の働きは努力以前の問題だ。筋肉についての理解が少し深まっただけだ。
こんな単純な働きを知らず、なぜこれまで過ごしてきたのだろう、と思ってくれると嬉しい。
 
仕組みと働きを伝えるためにの時間は5分。残りの3時間55分は新たな自分を検討する時間。号令に合わせて繰り返したりする稽古を捨てた私にとってはある意味、理想的な術理かもしれない。自然と自分の身体に向き合えるようになりそうだ。

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