日曜日に今年最後であろう花火を見た。近くの中京競馬場で打ち上げられたものだ。
さすが天下のJRA、お金のかけ方が半端ない。わずか30分ほどの間、ずっと、打ち上げっぱなしの花火だった。
日頃、渋滞を起こしている地元への還元なのだろう、大きな花火大会とは違う感じだ。コースの中心で上げているのですぐ近くで見える。
そして打ち上げられる花火も少し細め。花火には詳しくないが、打ち上げられる音と、現れる光が細くて鋭い。
なぜ、こんな話を書いているかというと、こんな時にも「身体」の事を考えてしまうから(笑)。
細くて鋭い花火を見ていると言い方は悪いが銃撃のよう。もちろん、実際の銃撃は見たことがないが、撃たれる、という表現がぴったりなのだ。
何発も連続ででてくる花火にいつもと違う身体を見つけられた。
ちょうど、その日、「最長筋」をしっかりと確かめられたことも関係しているのだろう。
爆発音に対して、最長筋が左右へと揺れ、身体が動く。
素早い連撃を「見る」と身体は動くが、これまなら、体幹はその手足の連撃の速さについて行けず休んだまま、その対応は手足に任せていた。この使い方だと、素手の乱捕りぐらいなら何とかなっても、ナイフのように触れたらお終いという状況では使えない。
花火の音は耳に届く。その音に身体の芯がちゃんと乗っていける感覚があった。
もしかしたらクラブやライブで踊れる人は当たり前にやっている事かもしれない。音楽に乗った記憶のない私が初めて音に合わせて身体が反応したのかもしれない。
こんな経験が自分の中の基準を変える。動けるじゃないか、という経験だったのだろう。
今日、短刀を手にしてもらい、すこし自由に振り回してもらった。
「間合いをゼロにする」事はわかっていたが、「間合いをゼロにするまでの間」に最長筋が動くと、身体に勢いという力が蓄えられるようだ。
その蓄えられた力を元にして、手が相手の武器に合わせる微調整を行う。この微調整の作業はこれまでに学んできたたくさんの技が役に立つ。
いくつも技を教わってきたけれど、それを活かせなかったのは、その技以前に自分が勢いを持っていなかったからだとわかった。
おそらく多くの場合、この目に見えない「勢い」は気持ちで出すものだ。
自分よりも攻撃力の高い敵を目にした時、それが心に火をつける性格の人がいる。立って、向き合っているうちに、ふつふつと腹の底からエネルギーを出している。
また、本当に自分が守らなくてはいけない時にも、身体の奥からいつもとは違うエネルギーが出てくるだろう。
残念ながら、私は気の強さもなければ、守らなくてはいけない場面に遭遇した事もなかった。自分の中にエネルギーを感じた事がなかったのだ。
しかし、最長筋はその力のきっかけを教えてくれた。
「身体があるだけでエネルギー」だったのだ。当たり前だが、私たちは重さというエネルギーを持つ。そして、この重さを持つ身体が動く事でエネルギーが外へと発散される。その動きのきっかけを気配なく作ることができるのが最長筋らしい。わずかな動きでバランスを崩せる。
「動く」という事を考えた時、普通に屈筋を使ってしまうと、気配が出る。骨に負担なく、動かすのもいいが、関節が動く事で崩れも大きくなる。
伸筋による動きはその気配が少ない。そして、なにより、最長筋は長さという長所があるのだ。
誰もが最長筋を持っている。しかし、どうやらそれを活かしている人は少ない。反射的にお腹に力がぎゅっと入ってしまう。
頭でわかったとしても、長年作ってきた癖はなかなか取れない。つい、お腹に力が入る。しかし、どうしようもなくなった時、もうお腹には頼れない、と分かった。なにかを「する」時には発散系の動き方でなければダメなのだ。
気持ちの上では発散する事の大切さは多くの人が知り、実践をしている。こうしてブログに気持ちを残すのも発散だ。
しかし、身体はどうだろう。ついつい、内に入れすぎていないだろうか。私は入れていた(笑)。
色々と好き勝手に書いたり、つぶやいたりしているが、いつも、大丈夫なのかな、と不安になる(笑)。この不安を作るのがお腹の屈筋なのだ。姿勢が内に丸まるから背中も曲がり、気持ちが内にこもる。
この心の変化を性格なんだ、仕方がない、だからもっと頑張ろう、とモチベーションにしてきたが、お腹を縮めず、最長筋が伸び揺れる事でそもそもの気持ちが内に向かない事がわかった。
気持ちの変化はなかなか伝えにくいが、伝えたいのは心を身体で扱えるようになる、という事だ。感じた事、思った事をそのまま出させてもらうのも心を伝えるためには有効だと思う。
実は新しい事に気づくたびにこんな事を口にしていいのだろうか、と迷う(笑)。恥ずかしさや不安が身体を包む。この大きな不安も稽古の足しになっていたのかな。お腹を伸ばし、背筋を上へと渡しながら今日も言葉にした(笑)。