フォト
2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ

« 2017年9月 | トップページ | 2017年11月 »

2017年10月

【稽古録】2017/10/10 肉体の前に動くものを探る

少林寺拳法の仲間に身体が大きく、感覚もいい仲間がいる。いつも、彼に新しい気付きを試し、その崩れ方をヒントにまたさらに研究を続けている。
 
日曜日に見てしまった「肉体の前の世界」、それを彼に初めて試した。
お互いの右手を合わせて斬り落とす技。単純な力技ではうまくいかない技なので、チェックをするにはちょうどいい。
先週であればお腹を伸ばし、肩を背中に落とし、背骨の横の最長筋を意識して、左右へと体幹を振り、斬り下ろした。相手の腕に沿わせるように体幹を動かせばさらに、力が相手へと通り崩れる。この動きも、本当に不思議。しかし、どんな動きも、一度体験をして、研究を始めれば不思議ではないものになる。身体がそういう力を持っているのが当たり前となっていく。
 
常に驚くのは自分が知らない世界の動き。「肉体の前の世界」はまさにそれ。手を合わせた時、なるべく身体を動かさないようにする。どうやらこれがポイントになる。
とはいえ、これまでさんざん、身体を動かしてきてしまったので、つい動いてしまう。この動きを止めるのに役立ったのが「神輿の指」。自分の指で自分の身体を神輿として扱ってみるのだ。
すると、だんだん身体から余分な動きが消えてきて、ぽわっと浮いている感じになる。この瞬間、「肉体の前」に目を向けると、少しだけど動きが生まれる。
 
そのわずかな動きを頑丈な彼の腕に乗せる。そして、彼はその力を認識できずに、身体で止めようとする。しかし、身体の力とは出所が違うので止めきれずに崩れる。なんとか、私が甲野先生に崩されたのと似たような現象を出すことまではできるようになったらしい。
後はこれを手掛かりに、この新しい世界の研究をしていくだけ。しばらくは言葉がぐちゃぐちゃになるかもしれないが、ご勘弁を。

【稽古録】2017/10/09 俗物な私

昨日というか、今日、浜松での甲野先生の稽古会を終えて帰ってくる。仮眠をしながらなので家についたのは朝近く。
昨日は昨日で何というか、まるで世の中とはかけ離れた時間を過ごす事ができた。こんな世界を味わえて本当にありがたい。こんな不思議な世界をこんなにも満喫しているのに、この当たり前な世界もなかなか捨てがたい(笑)。
 
友人になったヨガの教師はいつも朝3時頃からヨガを行っているらしい。そして、食べるものも果物や野菜など。お肉もお菓子も食べないと思う。そして、その自らのヨガに役立つ、と言って、遠い遠い海の向こうから私の稽古に来てくれる。ありがたい事だ。
 
しかし、そんな私は本当に俗物。その俗物な心が身体に現れるので、それを一つ一つ観察して、消すのではなく、生かし方を探している。前述のヨガ教師の方もたまにはこんな俗物と手を合わせるのも刺激になって楽しいのかもしれない(笑)。
 
さて、その俗物な私。実は先週あたりからソワソワソワソワしている。この仕事を始めたばかりの頃購入した車をいよいよ手放す事になり、新しい車を購入した。安くない買い物は心を縛る。そして、いざ思いきればやっぱり、ウキウキとする。今日がその納車日だ。
 
10年、25万キロを乗ってきた車はもう手足のよう。運転が特別うまいわけでもないが、自分の車となれば勝手はしっている。車幅の感覚はもちろん、シートにだって私の「形」がもう残っているようだ(笑)。
 
新しい車に乗ってみればいろいろと迷う。頭も迷うがなにより身体が迷っているのがよくわかる。1時間ほどドライブをしたが、緊張した身体はあちこちが強張っていた。
10年ぶりの車にはいろいろと装備が増えている。明らかにボタンの数が多い(笑)。もともと機械や新しいものが好きだったのを思いだした。その新しいもの好き、テクノロジー大好きな私がいま、身体の感覚、身体の使い方を求めている。古いものと新しいもの、その両方を我々は体験し、学べる時代にいる。だからこそ、わかる事もあると思う。
 
しばらくは落ち着かない身体をたくさん観察できそうだ(笑)。

【稽古録】2017/10/08 甲野先生の浜松稽古

甲野先生を招いての浜松稽古会。
甲野先生はバリ帰りとの事。進化した技はもちろんだが、バリという地で受けた心境の変化も今回は楽しみ。
 
今回はいつもとは違い、夕方から。実は始まってすぐに、もう、心をやられてしまった(笑)。
何度もここに書いているように最近の工夫は「お腹を縮ませない」という事。無意識のうちに未来に夢を失くしてしまい、お腹が頑張っている、という事に気づいた。無意識の思いが身体に現れている。
 
時代が我々を変えてしまっている!と自分の中では大発見だったのだが、なんと、それ以上に驚くべきことが。
 
甲野先生の稽古が始まり、みんな、先生の言葉に耳を傾ける。そして、いつものように、一人一人、手を合わせ、その不思議な感覚を体験する。
いつも私はその様子を後ろから、そっと、眺めている。とにかく、甲野先生と手を交えて欲しいと思っているのでなるべく、こっそりしようと思っている(笑)。
ぼーっと様子を眺めていて違和感に気がついた。みんなのお腹が縮んでいないのだ!
 
駅前を歩く人たちをみればみんな、ぎゅっとお腹に力をいれ過ごしている。参加者のみんなだって、始まる前の姿は緊張していた。それなのに、先生を前にした瞬間、そのお腹が緩みだしたのだから、もう、これはいったい、どういう事だろう、と頭を抱えた(笑)。
 
色々と思いつく事があったので、それはまたの機会にして、いつものように先生とホテルのロビーで手を合わせた時の事を書いておこうと思う。
 
先生と手を合わせている時、時間の流れが少し変になる。ひたすら身体の感覚に集中するからだろうと思うが、その集中が感度をいつもとは違うレベルに引き上げてくれて、見えていなかった世界に気づかせてくれる。
 
先生と手を合わせとにかく動きを止める。こちらは、いつもそうだ。お腹を伸ばし、背中にある最長筋を左右に動かし、対応する。実はこの動きは早々と破られた。先生の動きの方がはるかに質が高かったからだ。
抑えるのに役に立たない、となれば次の術理を使うしかない。背中を使うのをやめて、腕に任せてみた。先生の肘を左右に揺らす事で、動きを抑えていく。
この動きは多少有効だったようで、なんとか困らす事はできたものの、すぐにその動きにも対応してくるから面白い。自分がこれだ!と思う術理を簡単に超えてくれる相手との稽古が無ければ術理の研究は進まないからだ。
 
もう一つ、今回は武器があった。
それは「神輿の指」。相手に触れる時、相手を神輿と思い触れる。10本の指がそれぞれ独立し、10人として相手を抑える。この指で触れると相手は敵ではなくなる。結果としてやさしく触れる事ができ、対応が柔らかくなる。
 
先ほどの肘を左右に振る動きよりもさらに小さい動きなので、違和感は与える事は出来たと思う。じっと向かい合いながら、わずかな衝突も逃さないようにして、先生の身体をわっしょいわっしょいと持ち上げた(笑)。
 
触れ合う事数分だったと思う。突然、先生の動きが変わった。
神輿の指で触れていく時、相手の身体の「皮一枚」だけを。皮一枚は相手にとって、一番外側。その外側がわずかにでも動いた瞬間、こちらは対応する。感度はこれまでで一番敏感なものだった。
それが、とつぜん、先生の身体の奥の方から動きが生まれてきたのだ。
その動きが皮一枚という外側を全く動かさずに現れてくる。変な言い方なのは承知でその時の様子を言葉にすると、担いでいた神輿が突然割れて、中から何かが生まれてきたようなものだった。
 
身体を頼りにしているので、あまり神秘的な言葉は使いたくないが、目の前の先生とは違う何かが「降りてきた」ように思えた。
面白いのは先生はそれを真上から落ちてくる刀を鞘で受け止める、という表現された事。こちらは何か別の存在が降りてくるのを感じたのに、先生はものすごく物理的な刀を見ていたのだ。ただ、刀を鞘で受け止める時、その緊張感は「フロー」を感じさせてくれるらしいから、単なるイメージとは違うのだろう。
 
とにかく新しい世界をそこに見つけた。見つけたのは「先生の中」にだが、それは先生だけのものではなく、先生の「身体」に見つけたもの。同じ身体を私も持っているし、誰もが持っている。それをこれまでの20年で見せてもらってきた。
 
自分の身体の奥に、自分ではないものがいる。それを自覚した瞬間、私の動きも変わった。その手掛かりがちゃんとあった。
甲野先生の言われる言葉はわからない。それは私の理解力のせいだが、そのおかげで言葉に振り回されず、身体をひたすらみるという稽古法を得る事が出来た。
明日からさっそく、この新しい世界を研究する。

【稽古録】2017/10/07 舞妓さんと幇間さん

長良川の鵜飼いの近くに池戸という古民家カフェがある。そこで「舞妓」さんと過ごせるイベントがある。今日、それに参加。「芸」を楽しむ世界を見せてもらってきた。
 
まぁ、なんとなくわかっていたが、全国的に舞妓さんが減っているらしい。簡単には遊べないところだし、減っているのはわかるが、なんと岐阜にいる舞妓さんはたった一人との事。そうか、その一人がこうして、頑張っているのか・・・と。
 
舞妓さんを紹介してくれたのもこれまた珍しい男芸者さん。男芸者という言い方以外に幇間、太鼓持ち、とも言うらしい。こちらは今、全国で9人と言っていた。一人一人が芸という伝統を背負っているのだろうなぁ。
 
さて、これほど間近で舞踊を見る事は初めて。もちろん、お腹を見る。まさか、舞妓さんも幇間さんも腹を見られているとは思うまい(笑)。
お腹を見て、肘から先を見て、指の第二関節から先を見る。舞妓さんはこの世界に入って1年、2年。幇間さんは数十年だろう。その違いが面白い!
特に幇間さんが扇子を持って踊る時、その扇子が生きているかのような動きをする。指で掴んでいるのに、掴んでいる指に力みがなく、扇子そのものが動いているかのように舞う。長年の稽古がそれをさせているのだろう。もし、これが剣であればどうだろう。そんな事を思いながら見せてもらった。
 
そして、お座敷の遊びも体験させてもらう。なんだっけな、おちょこみたいなものを使ってグーやパーをだす遊び。
実は私、こういう遊びが苦手。出来る出来ないのはもちろん、そうだけど、楽しんでいる自分を見るのが苦手なのだ。
しかし、ここは「お座敷」、その場を壊してはいけない、という思いが出ているのに気づいた。舞妓さんを前にして金比羅船々~と始まると、その場の雰囲気に乗って遊んでみる。もちろん、負けてしまうのだけど、その楽しんでいる自分を俯瞰しながら見ている感じがしたのが印象に残った。これは何だったのか。
 
なにはともあれ、普段やらない事、そして、これからもやらないだろう事を体験し、帰宅。そして、よくわからない思いで一日を追える。

【稽古録】2017/08/10/06 目と左右

金曜日の1週目はあわただしい。栄中日文化センターを終えた後、すぐに一宮中日文化センターに移動。ご飯もたいてい、コンビニで済ます。
その移動の途中に前回どこまで話したのかなぁ、と確認しながら移動するが、ほんの一月まえなのに、まるで違った事を今、気にしている。
 
普通であれば前回を踏まえて、復習しながら進める方が受講生にも親切でいいだろう。しかし、私は「驚く」事で人生を変えられた側。いかに、これまでの自分が損をしていたかを伝えたい(笑)。機械やコンピューター、サービスが進化をした事で、自分の身体を使う機会が少なくなり、自分自身の力を信じなくても暮らしていけるようになった。その結果、自分自身への勘違いが生まれてきている。その勘違いを壊してくれるものが「驚き」だ。
 
そして、一日の稽古の締めくくりは一人稽古の会。夜12時まで稽古できる環境があったからこそ、ここまでのめり込められたのだと思う。
その一人稽古は決まりがない。準備運動も基本稽古もなにもない。しかし、なにも無いから時々、ブレイクスルーが生まれる。まさかこんな事が出来るだなんて、という動きが現れる。
 
今週、目と動きがつながった。見たところへと身体は運ばれるのがわかってきた。つまり、これは自分がなにを見ているのかをしっかり自覚をしておかないと知らず知らずのところへと連れていかれてしまう。これは、大変な事である。
 
次の日曜日は待ちに待った甲野先生との稽古。おそらく、今回、先生と向き合う時の私の武器はこの「目」だ。

【稽古録】2017/10/05 常に身体を見続ける

東京からこちらへお仕事に来られている方が稽古に来られた。
こんな知名度がない私のところへ、問い合わせをされるだけでも手間だろうなのに、わざわざ稽古に来られるだなんて。私のところへと稽古に来られる方は間違いなく、ご自身の中に強い思いがたまっている。そうでなくては動けない。
 
考えてみると、名前が知っている人のセミナー、講座もインターネットの世界になったので簡単に見つける事ができるし、申込みもできる。知識や経験を得るためのハードルはぐっと下がった。
甲野先生を見つけ、縁が出来たのは大学時代の監督に先生の本を頂いたから。そして、それを読み込み、どうしても技を体験したくなり、書いた事もない手紙を送った事がきっかけ。自分の中に生まれてきたどうしようもないものを行動に移した。お会いする前からもう、気持ちは最高潮だったのだ。その思いが実際の技の体験をさらに、ありがたいものとして受け止められたのだと思う。
 
その後、この感激を友達にも、と思い何人にも声をかけ、参加をしてもらったが、なかなか彼らは続かない。きっと、それぞれの「中に」思いが育つ前に体験をしてしまったからだと思う。体験を頭が理解するのに思いの強さが必要なのだと思う。
 
そういう意味で、今のように無名のままで技や動きを体験してもらえるのは自分の中を探るのにはいいと思う。少しずつ自分の思いを発揮させていけるようになるからだ。
 
私はとにかく、ご自身が持っている「身体」そのものを見直してほしいと思っている。
しかもその身体も鍛える事、努力する事で得られる筋肉の身体ではなく、持って生まれてきた身体をまず、そのまま見直す事が一番だと思っている。そのまま、ありのままを見直すのだけど、それ自体が自分自身への信頼を何倍、何十倍、何百倍に引き上げるものだと確信している。それぐらい、人間は凄い。
 
平日の夜の一人稽古は時間が時間だけにほぼ個人稽古ができる。個人稽古は金額的にもハードルが高くなるので、お勧めもしにくいので都合がつけば一人稽古の会にどうぞ。

【稽古録】2017/10/04 vs大仏

時間が空いたので、ふと思い立ち、奈良へと行く。
いつの頃からか、京都、奈良にはちょくちょくと行くようになった。子供の頃、若い頃にはまるで興味のなかった寺社仏像だけど、なぜか、気になるようになってきた。
それでも、実際に仏像を目の前にして、「なに」をもらっているのかわからないのが気になっていた。わからない事が嫌なのだ(笑)。
 
そんなもの求めても仕方がないし、不自然だ、というのはわかる。多くの指導者はそれを口にする。しかし、自分の中のわけのわからないものに苦しめられてしまったのが私で、そのわからないものに対して答えを得る事ができるようになり救ってくれたのが身体感覚の稽古だ。
求めれば叶う、と気づけたのは大きい。
 
今日、奈良で見てきたのは奈良の大仏。盧舎那仏だ。
余りに象徴的なので、なぜか、これまで、奈良へ行ってもまぁいいか、と他を回っていた。
 
今回大仏廻りをする武器は「腹を縮めない」という事。事前に眺めていた仏像雑誌では当たり前だが力んでいないのは確認済み。実際に見てみたいなぁと思い来てみた。
奈良の大仏を見た時、まずその大きさに目を奪われ、沸き立ってくる思いは大きいなぁというものばかり。思いの目安となる術理がなければ大きさだけでやられていたはず。
 
「お腹」に目を向けてみればやはりというか、文句のつけようがない。そして、その時には気づかなかったが、他の仏像を見てから奈良の大仏を改めて見てみると、お腹だけではなく、「前後左右上下」に対してスキの無い姿勢だった事に気づく。
仏像にはそれぞれ、個性がある、と言われるが、その個性を姿勢が表しているとすればまぁ、当たり前かもしれない。
 
人の中で生活をすると、どうしても、目先のやり取りに神経を奪われる。お互いの姿勢からくる力をやり取りする以前に、感情的なもの、事務的なものを処理していくしかない。
動きをつくらない仏像、仏画はそもそもが持っている姿勢をそのまま見せてくれているのかなぁ、など、あれこれ思いながらあちこち回ってきた。
 
きっと、今日のこの経験も技に生きる。そのために行ったのだし(笑)。

【稽古録】2017/10/03 目だけを左右に動かす

この世は3次元。まぁ、時間があったり、ミクロの世界まで目を向ければ何次元もまだ、あるそうだが、この身体で「簡単に」確かめらるのは3つだろう。心の世界の事は考えない(笑)。
 
身体を通して感じる世界を整わせ、使いきることが出来なければ、その先に広がっている無限の可能性の世界で間違いなくおぼれる。だから私は次元を下げる方に興味を向けて調べている。
 
そして、今感じているのは「左右だけ」になるという事。
上にも意識は伸ばせるし、重力と地面を使えば下からの弾みも使える。そして、もちろん、相手との間合いを利用して勢いを得る事も。しかし、とりあえず、それらを使う事はやめた。
とにかく左右の自由だけに特化して動きをつくってみる。
 
お腹を伸ばせば背骨の左右が見つかる。上腕を縮めず、肘から先だけになれば肘に左右が生まれる。身体のあちこちに左右がある事がわかる。
ふと、「目」はどうだ、と考えてみた。
 
指先にも左右があるのだから、頭にもあるだろう、と。
首の中にそれをまず探して首から上だけを左右に動かしてみた。インドかバリの踊りのよう。その時、頭の中にある「目」が左右へと動き出すのを感じた。
あぁ、この目もいつのまにか、前を見すぎていたらしい。
 
目を「左右だけに」動かしながら相手に向かう。
効果はすぐに現れた。ぱっと見たところに身体が吸い込まれていくような感じがする。
これまで、無意識に敵を見つけ、敵に捕らわれ、敵とぶつかっていたのは自分の目のせいだったか、と思った。
 
目自体は相手を飛ばさない。物理的な力のやり取りはしない。しかし、この目によって、自分と相手との立ち位置が決まるのだ。目が左右に動く事で、自分の世界がぐっと広がるのを感じる。
 
さて、これがまた、どうなっていくのだろう。

【稽古録】2017/10/02 左右だけの次元

浜松での稽古。神輿の指を体験してもらう。感度の良い相手に受けてもらう事で技の精度はまた変わる。そして、それを素早く盗み取ってもらえば、また、新たなものが生まれてくる。秘密を作らないのが甲野先生から教わった稽古法。
盗んでもらう事のありがたさは私もその技の感覚を受け止められる、という事。なんとなく、頭で想像していた感覚と実際の経験を比べる事でさらに理解が深まる。
 
それにしても、朝に研究稽古ができると一日が長い(笑)。夜、いつもの少林寺拳法の練習をしていても、同じ一日とは思えない。
一日かけて見つけた感覚を確かめてみると、感覚は「断ち切った」方がうまく行くという事がわかってきた。
 
どうしても稽古が進むと、成果も増える。自然と、あれもこれも、とやりたい事が増える。そして、いつの間にか、たくさんの事を抱えながらの自分になってしまう。
それでも、何かを発見した瞬間は「それだけ」の自分になれるが、検証を進めて慣れてくると、どうしても、それまでの技と混ざってしまう。
 
どうやらお腹を縮めない事、肘から先になる事、第二関節だけになる事は「左右」だけの世界を作るのにいいらしい。しかし、当たり前だが、この世は左右だけではなく、三次元に広がっている世界だ。ついつい、前へと手を伸ばしてしまうが、理性を使い、左右だけで対処をする。こちらがあえて世界を縮めてみれば相手もこの世界に入らざるを得ない。おそらく、次元を小さくしていくのにはみんな慣れていない。そこに勝ちが見えてくるようだ。
 
次元を小さく、戻していく。世の中の常識からすると逆。でも、それを確かめられるのが稽古だ。

【稽古録】2017/10/01 地面と足と祭り

この土日は地元のお祭り。
九月の連休に妻の地元のお祭りを見に行ったが、こちらのお祭りは発散系。参加している人はもちろん、見ている側もその熱気で気持ちが高揚する。
しかし、私の地元のお祭りは地味だ。数年前、持ち回りでお祭りの「役」が回ってきたが、皆仕方なくその役を受けている人ばかり。結局「祭り」とはなにかを得ることなく、1年半の役を終えてしまった。
 
しかし、今回はちょっと試したい事があり、参加をしてみた。その参加の仕方も皆が法被を着て笛を吹き、山車を引く後ろの後ろをついて行くだけの参加の仕方。はた目には子供の引率についてきた親に見えると思う。しかし、私の身体感覚の感度は最高潮(笑)。これまでわからなかった「祭り」がわかるかもしれない、という期待でいっぱいだった。
 
先週の日曜日に「神輿の指」という使い方を見つけた。今日の祭りには神輿はない。山車だ。まぁ、動力のついていない山車をみんなで引く、というのも似たようなものだが、ちょっと方向を変えて参加してきた。
今日は手指ではなく、足指を意識したのだ。
 
神輿は担ぐもの。「私」が縁の下の力持ちになり、生きていない神輿を動かすもの。自然と「我」は消えて、勢いのある神輿に注目が集まる。
お日様が上で地面が下なのだから、神輿は担ぎやすい。しかし、足指は常に、地面と共にある。神輿の理屈からすれば、足指だって神輿のように動かせないかと、考えた時、地面自体を神輿と捉え、足指で担いでみたのだ。いつも、こんな事を考えているのだ(笑)。
 
怖れ多くも、地面、地球という存在を「私」がワッショイ、ワッショイと動かしている気分。もともと神輿に担ぐものはなんでもいい。神輿自体は動かないのだから、縁の下が頑張ればいいのだ。
 
「地面に元気を渡す者」として今日は参加をした。すると見えてくるものが違ってくる。我が町の祭りは山車が町中をまわり、昔、「辻」と言われたところなどでクルクルと回すもの。お年寄りはそれを優しく見守るがよくわからない。しかし、自分がその場所、我が町を元気にするのだ、と思いまわってみると、なんだか気分が違ってくる。
「神事」がどのような思いで作られてきたのかはわからない。わからないものを何百年も続けているのが神事だ。その神事と自分とをつなぐものが「身体」そう考えてみると、気分が変わる。科学技術の進歩は目覚ましいものだが、内面世界にもまだ、それに負けない大きなものが残っている、と今日は気づいて帰ってこれた。

【稽古録】2017/09/29 左右次元への自由

名古屋駅にある毎日文化センターで講座。
今月、夏休みの影響で3回目となる。お腹を縮ませない術理は毎週のように進化をして、今は指先にまで影響を与えるようになった。どの講座であっても研究稽古型であり、反復練習も復習もないのだけど、やはり、間が空きすぎると関係性が見えなくなり、遠回りになってしまう。今回毎日文化センターの人たちは動きの変化はもちろん、頭が混乱せずにこちらの話を受け取ってくれる感じがあったのできっと、全体を見てきた余裕があったのだと思いう。
 
さて、その余裕の稽古ができると、観察力が上がり、質問も変わる。その質問の中で答えていくと思わね言葉が出てきて面白い。それは「前後に未練を残さない」という事だった。
 
お腹を縮めず、背中の最長筋に任せて左右に振る。
もう、何か月も昔のような気がしてしまうが、ほんの数週間前(笑)。これを肘にも応用する。
上腕を縮めず、肘に入り、肘を左右へと振る。この肘の左右の動きが相手からすると見えないらしい。その軽さに驚き、検討してみると、肘は曲げ伸ばしが得意なため、つい、それをしすぎてしまうからのようだ。
上腕を縮めない事で肘が曲がらず、左右へと自由が広がる。この左右をしっかりと認識してみると、前後の動きを捨ててしまった方がいいように思えてきた。しかし、それが今まで出来なかったのは前後の力があまりにも強く、便利であったためだろう。その便利を捨てる事で新たな世界が見えてくる。
 
背中の動きと肘の動き。ともに「左右への自由」を教えてくれた。肘にあるのなら指にもそうおだろうと思い試してみる。第二関節は肘の関節のように曲げ伸ばしが得意な関節。「第二関節から先だけになる」事によって、第二関節に左右への自由があるか試してみた。すると、これまた予測がしにくい動きがそこに生まれていた。
 
指を掴まれた状態で相手を崩す。そんな技になってしまうのだ。
指を掴まれてもそれを投げるという技が時々出てくる。しかし、そんな技は非実用的でデモンストレーションでしかない、とも言われる。昔、どこかで、指を掴まれるだなんて武道家として失格、と言われるのだ。確かにそうだ。そうならないために当身があり、間合いを整える。
しかし、私の稽古は常に、今自分が嫌だな、と思う状況からの脱出を考えている。もし、そうなったら、というのは状況の問題ではなく、心の問題として捉えている。嫌だと思った事が考え方と動き方ひとつで嫌ではなくなる、というのを何度も経験すれば、新しい嫌な事と出会っても、それを幻想として考えることが出来るようになるからだ。
 
とにかく、新しい動きが出てくるのは面白い。

【稽古録】2017/09/28 湯呑とお腹

我が家は常滑に近い。走りやすい道があるのでちょっと車を走らせるといける。久しぶりにセラモールというやきもの工房がある所へと行ってきた。好きな人に言わせると、製造元だけに素敵なものがお値打ちにあるらしい。しかし、私は常々、そんな世界をわかりたい、と願っていても、まるで分らないほど鈍感な人間だった。
 
しかし、今日、初めて、自分の「好み」がはっきりとわかったのだ。コップに茶碗を買ってきた。好みにあうものを得るのは嬉しいものだ。
 
どんな好みだったかというとこれがやはりというか、「お腹が縮んでいないもの」だった。コップであったとしても、そこに縦横高さがあれば塊として認識できる。この時、上が頭で下が足であり、真ん中はお腹だ。このバランスが取れている感じがしてきた。
そして、形だけではなく「柄」であってもそれはあるよう。ただし、柄の場合はその柄自体ではなく、自分のお腹に写し出されるような感じだからちょっと違うのかもしれない。
 
自分が納得して、買い物をしたものを使う事で気分はいい。そして、その納得は身体ではなく頭の方の納得。身体が返してくれた反応を頭が理解して、それに従っている。頭でっかちだからこそ、こんなモノ選びが出来た事が嬉しい。

【稽古録】2017/09/27 ゆるキャラとお腹

名古屋と大垣で大人の武道塾の日。
実は秘かに確認したい事があった。もちろん、それは「お腹を縮ませない」という術理から始まる一連の流れ。
土日の稽古でたどり着いたのは「神輿の指」。10本の指をがそれぞれ一人一人別人のように思えてきた。その指を使って、モノに触れた時の柔らかさは今までの自分とは大違い。
そして、思いだしたことがある。
そうだ、水曜日の稽古に来てくれている身体調整の先生に触れられた時のあの柔らかさだ、と。この先生の調整を体験すると本当に優しく丁寧に触れてくれる。どう調整されているかはわからないが、もう、丁寧に扱われているだけで、ありがたい。
 
そして、実際にもう一度それを体験してみたが、その直感は当たりのよう。人に触れるというのがこれほどまで難しいとは思いもしなかった。今は国家資格でなければ簡単に手順を習えるし、とりあえずの資格は得られ、開業だってできる。また、難しい国家資格を得たとしても、この他者と優しく丁寧に接するという事を教えてくれるとは思えない。
人の事を思い、優しく丁寧に接する、というのは個人個人に委ねられている。
 
この指を使うようになって、それまで出来ない事、やろうとも思わなかった事が出来るようになった。もし、今、技術に壁を感じている人はさらなる技術、手順を学ぶよりも、動きそのもののあり方を求めたらいいと思う。
 
そして、今日はもう一つ気になる事があった。しかし、ついつい、それを聞きそびれてしまった。
「腹を縮ませない」という事に気がついて、現代人のほとんどが無意識的に腹が縮んでいる、と気になって仕方なくなった。昭和の頃なら逆に皆、緩んでいるのに。つまり、これは自分が勝手に、お腹を緊張させている、と言える。
その見方がどんどん広がるから面白い。実は楽天のキャラクター、「お買い物パンダ」の腹がいいのだ(笑)。
ゆるキャラなんだし、当たり前なのかな、と思って他のゆるキャラも調べてみた。すると、どうやらお買い物パンダの腹は突出している。
 
皆柔らかな風貌でお腹が丸いやつが多い。しかし、そのバランスが影響をしているのか、首や足に負担がかかっているように見えてならない。
こんな見方でゆるキャラを観察している人はいないだろう(笑)。しかし、それが気になってしまったのだから、実際にクリエイターの立場で創作する時の気持ちを聞こうと思ったのに・・・ついつい、聞きそびれてしまった。これは次回までの宿題。自分で答えを一つ見つけて、また、聞きたいと思う。

【稽古録】2017/09/26 毎回全く違う事をやる講座

豊田中日文化センターでの稽古。気がつかなったが、今日は体験日に設定されていたよう。ただ、私の講座は基本的にはいつ、だれが来ても、同じ。
これは、同じ内容を繰り返し行う、という意味ではなく、いつも、「新しい事」を行うからだ。
 
この辺りの事がまず、普通は理解されない。
技であれば繰り返しの稽古がいいかもしれない。しかし、手順を覚えた後、うまくやれる人間とそうでない人間に分かれる。この分かれ目を作っているのが身体感覚だ。
身体感覚を通して、自分自身を再認識すれば、出来ないと思っていた事が出来る事なのだ、とわかってくる。
これまで20年以上稽古をしてきたが、一度たりとも後戻りをした事がない。常に、前へ進み、新しい世界に驚かされてきた。
 
今日の講座はお腹を縮ませない、というところから始まって、その「縮ませない」という考え方を腕の屈筋、手のひらの屈筋へと応用してもらう。
なにかをする、という事だけを考えてみれば指先だけを集中して学べばいいかもしれないが、いかんせん、指先は小さく、細かすぎる。感覚そのものを見ようとしても気づきにくい。
しかし、胴体であれば、縮みゆくお腹と伸びていく背中が大きく、わかりやすい。その結果、骨格のブレーキが無くなり、肩関節が軽やかに動く。また、前後に集中していいた意識が最長筋の働きによって、左右へと流れやすくなるのだ。
 
参加された方が介護をされる方が多かったので、久しぶりに介護の技に「お腹を縮ませない事」、「肘から先になる事」、「第二関節から先だけになる事」などをいろいろと試す。
うまく行った時にはまるで力感がない。出来る時には出来るし、出来る人は出来るのは、自然と身体が動いているからなのがわかる。
ただ、問題は無意識のうちにできてしまうと、ちょっとした身体の変化、環境の変化によってうまくいかない事になってしまう事がある。
こうなった時、「研究」を身につけていればいいが、出来ない自分にはまってしまう時がある。「挫折」だ。
 
今日は体験会だったが、毎月一回、何年も顔を合わせている人たちがいる。自然と頭が柔らかくなっていくし、その柔らかさが困難に出会った時に、ヒラメキという解決策にであうのだ。
 
人間の能力は凄い。努力だけじゃない。歳を重ねても大丈夫。どんなにおいても、それまでよりも自由になる、それが可能だ、とどうしたら伝わるだろうか。いつも、そんな事を考えている。

【稽古録】2017/09/25 一人、二人、たくさん・・・自分が分かれていく感覚

指先、第二関節から先だけになる事によって生まれてきた「スリ」の感覚。そしてその感覚は「神輿」になった。
この「神輿の指」にしたまま動く事で目の前の相手と喧嘩をしなくて済むようになるから不思議だ。
 
心には不思議が生まれてくるが、身体的には当たり前。私はなにかができるようになった時、そこに必ず、理由を持つ。はっきりと自覚した感覚がなければなにもできない。
スリがなぜ神輿へと移ったかというと、「指は10本、10人」だから。
きっと、この稽古録を読んでくれている人は誰もわからない。こうした話を書いている私自身でさえ、疑っているから(笑)。
 
しかし、その疑っている私は一つの胴体を持つ私だし、一つの頭を持つ私だし、一つの名前を持つ私だ。
先週金曜日、「肘から先になる」事に気づいて、この時、自分の中に「二人」を見つけた。
一人だと思っていた私が二人になった経験をした。正確には一人だった私はその両側に二人の子供を持つ親の視点になる事ができて、二人の腕にそれぞれの動きを任せることが出来たのだ。
 
この「1→2」への意識のジャンプがなかったらこの指先の感覚を神輿とは思えなかっただろう。形としては、手のひらの脱力、指先の操作だから、器用な人間なら、それを簡単に行うかもしれない。実際、道具を使っている人などはこの指先をうまく使っている。
おそらく、やろうとしなくてもできてしまう慣れた動きであればその瞬間、一人の私は消えて、10本の指が独立して、連動し、一つの結果を作り上げているはず。それを無意識に、無自覚のまま行っているから、いざとなると一人の私がでしゃばり、うまくできない瞬間が増えていき、引退を考えるのだろう。わかっていれば、ひたすら任せ続ければいいのだ。
 
10本の指が10人に感じ始めてみると、手に持っている剣が神輿に思えてきた。
頭が作る願望は斬り下ろしたい。しかし、相手はその剣を持つ腕を抑えてくる。こんな状況であっても、相手に囚われず、ひたすら、10人の私が神輿である剣をわっしょい、わっしょいと担ぎ上げると、ぶつかることなく、斬り下ろす軌跡を描くようになった。
 
一人なら迷う。二人なら喧嘩をしてしまう。どちらもうまくやらなきゃ、という無意識の怖れが生まれる。
しかし、10人もいると、わっしょいとしていると、いつの間にか動きは始まる。うまくやろうという気持ちも生まれない。一人一人が責任を負わなくても済むので、結果として我が消えていくように思える。
 
こんな変な考え方も、試してもらうと、ちゃんと伝わる。
お腹を伸ばすときのように、あっという間に出来るものではないけれども、身体という間違いなくここに存在するものに頼れば必ず得られるものだ。
 
ここしばらく、屈筋、伸筋、骨格など具体的な「肉体」を手掛かりに稽古をしてきたけど、「神輿」という神事を手掛かりに稽古をしたくなってきた。こちらの方には私は疎いが、幸い神事に詳しい人たちにも恵まれている。きっと、とんでもない発想による技が生まれると思う。

【稽古録】2017/09/24 「神輿の指」誕生!

名古屋の道場で大人の武道塾。
昨日、指先に新しい感覚、動きを見つけたので、早速その研究。
昨日出てきた感覚によって思いついたのは「スリ」だ。なんと、今日参加してくれた方の中にスリの被害者がいた。そのスリにすられた事を心の奥にしまっていたのだろう。もしかしたら、今日の稽古が無意識の心を軽くしてくれるかもしれない。
 
稽古は自分の心の奥にあった出来事を思い出させ、新しい意味を作ってくれる。
未来は変えられないが、過去は変えられる、という考え方がある。常識的には反対だろう。しかし、私はそれを信じている。そして、稽古のたびにそれは、徐々に確信へと近づいている。
 
思い出から連想されることが変わるのだ。
私はすられた経験はないが、この事によって、スリへの印象が変わった。すられたとしても、してやられた、という負けてたまるか、という気持ちが出るだろう。見事な指使いに負けたのであれば、感心もしてしまうかもしれない。
私たちの観念は固い。それを壊してくれるのが経験だが、ネットや失敗のしない機械、コンピューターがあると、どうしても成功ばかりの経験になる。これもまた、失敗への怖れになりかねない。武術は失敗をたくさん、やまほど、経験をさせてくれる。慣れるまでには少し時間がかかるかもしれないが、長い人生の中でみれば、それにかかる時間はほんのわずかなはず。
 
「スリ」から始まった今日の稽古だが、なんと、それは「神輿」へとつながっていった。
「スリ」という犯罪から「神輿」という神事につながるのだからもう、なんといっていいやら(笑)。
しかし、その間を取り持っているのが「身体」なのだ。身体を通して行う事、見る事の楽しさを改めて自覚した。きっと、この「神輿」から違う世界がみえてくるはず。

【稽古録】2017/09/23 「私」が「二人」に

浜松での稽古。昨日、見つけた「肘から先だけになる」という使い方をどう伝えればいいのか考えながら向かう。
浜松への道は2時間ぐらい。流れのいいバイパスは運転がしやすく、頭も心もホッとしながら進める。ついつい頭に身体の事が浮かびやすくなるが、まぁ、仕方ない。
 
「肘から先になる」動き自体はこれまでの動きとはまるで違うもの。しかし、原理は「お腹を縮ませない」という考え方からつながったもの。そしてさらに、「重心から肉体」への大変革を経験していたからこそ生まれたものだ。
 
いつも稽古に付き合ってくれる仲間は私の話を話半分に聞いてくれる(笑)。私が甲野先生に向かう時の姿勢と同じだ。一生懸命聞かない事で自分の身体に目を向ける事ができるようになった。そのいい加減な姿勢を私相手にはやってくれるようになった(笑)。
しかし、初心の方はそうは行かない。こんな私にも敬意を払っていただき、真面目に話を聞いてくれる。
 
もちろん、私もその思いに応えたいので、言葉を尽くして技と感覚を伝える。そこで思わず出てきた言葉がこうして、稽古録を作っている。ありがたい事だ。
しかし、普通に練習をしているならば一生のうちに何度も起こらないような大激変をほんの数時間のうちに何度もするのだ、頭が混乱するのはしかたないはず・・・、いつも初心の方に説明した後は自分の中に葛藤が生まれる。
そしてこれが私の稽古になっていく。
 
さて、今日の稽古はさらに予想外の展開が現れた。
「肘から先になる」という動きはどうやら「二人」になる、という事だ。左右の手が中心の体幹に縛られず、別々に動く事で、相手の身体を「二人がかり」で崩すのだ。結果的に軽く相手を出し抜けるのは相手の予測が外れるから。
 
どう考えても自分は一人だ。しかし、腕は二本ある。俺は二人か!と驚き、受け入れた瞬間、動きが変わる。こういう経験が考え方の大切さを教えてくれる。努力が尊いというのは皆が知っているが、驚きによっても自分は変わるのだ。
その自分をこれまで何度も変えてはきたが、どう変えても、一人のままだった。それが実は「二人」だったのだ。
 
こんな変な話を常連の人たちはニコニコと聞いてくれる。そして、それができないことをくよくよしない。一通り話終わると、もう終わり、次はない?と、余裕を見せてくれるよう。俄然、馬力がでてくる(笑)。
その期待に応えたくなったのか、ふと「肘から先になる」事ができるのであれば、「指の第二関節から先だけになる」事だってできるんじゃないか、と思いつく。
 
思いつけば後は実験。
肘から先になる時と同じように、「それまでの技を捨てる」事に集中する。肘の中に入り込んだのだから、第二関節の中に入ればいいじゃないか、と。
そして、入り込んだ後の自由さはわかっている。
 
木刀を腰に指し「第二関節から先」だけで抜いてみた。
肘に力が入らないように、指でつまみ、指の自由を意識しながら抜いてみた。
その感覚が面白い、これは「スリ」だ!とひらめいた。
 
ネットで検索をするとスリをエンターテイメントにしている人が出てくる。彼らは華麗に盗みを働く。ステージ上というたくさんの人の目が注がれ、これからスリますよ、と言った上で、財布はもちろん、時計、ネクタイ、ベルトにシャツまで盗っていく。
スリにはあった事はないが、気がつかれずに、動きが始まり、終わるのは確かだろう。レベルはまるで違うはずなのだが、木剣を指先で抜いた瞬間、「スリ」を思いついたのだ。こういうひらめきは大切にしている。
 
明日また、名古屋でしっかり稽古が出来る。どんな展開になっていくのだろう。

【稽古録】2017/09/22 肘から先だけになる

今日の夜の稽古はまさに一人稽古。一人だったので、たまには早く家に帰ろうか、と思ったが、思わぬ発見があり、気がつけば一時近く。いつもよりも長い稽古になってしまった(笑)。本当に練習嫌いだった男がこうも変わってしまうのだから興味の力というのは怖ろしい。
 
腹筋という屈筋を縮めなければ外からの力がお腹に入らず、背骨に抜ける。骨格が支えてくれるようになり力みが消える。その結果、肩や股関節の動きが良くなり技になる。私がやれるようになった事にはすべて理由がある。理由がはっきりしているから、次の部位の研究にも応用ができる。
 
背骨に沿って存在する最長筋。この最長筋は左右、横方向へと力が向いている。左右への動きを互い違いに行う事によって、相手の予測を超えて動く事ができる。相手からびっくりされるが、こちらとしては当たり前。最長筋自体の能力がこれなのだ。
 
どんなにすごい動きだったとしても、じっくりと向き合うとそれが当たり前になる。見た事のない働きには目を奪われるが、どんなものでも自然と慣れてくる。底のない欲求が人間にはあるからだろう。その欲に振り回されるとつらいが、その欲をうまく使うと手放す事が上手になる。
 
甲野先生からまたメルマガへの寄稿を頼まれた。本当にありがたい事である。今日の気づきはその依頼があったからこそ、生まれたものだ。前回、空の飛び方から最長筋を働かすまでにどんな「仕組み」があったのかを考えてみた。
全く違う原理を見つけたから今がある。しかし、その中にも共通点があったりする。違うレベルへと変わった時、どのように前の技を手放したかを考えてみた事で今日の動きが見つかった。
 
今日見つけた動きはこうだ。
「肘から先の部分だけになる」という使い方だ。これによって、動きに縛りが無くなり、軽くなる。肘は回り、表も裏も自由自在。なおかつ、腕には総指伸筋という最長筋に似たものもあるから、左右の動きも持っている。もちろん、前腕の中には骨がある。しかも、二つも。大きさから言ったら背骨には敵わないが、裏と表、二系統を持っているのだから切り替えが早い。
 
肘から先になってみよう、と思いついたのは、肘を境に自分の意識が切れている事を事前に聞いていたから。以前、甲野先生から「肘から先は道具」と伺っていた事を思いだしたからだ。ただ、どういう状況で、どんな説明を受けたかがうろ覚えで、甲野先生も野口先生が言われていた、とおっしゃられていた気がする。言葉の真意はわからないが、いつも、勝手に都合よく自己解釈をして自分の技にするのが私のやり方だ(笑)。ただ、ご迷惑だけはかけないように、と一応、気をつけてはいる。
 
相手に木剣をもってもらいゆっくりと打ち込んでもらった。その時、体を捌いてかわす動きをつくるには最長筋に任せたらいい。左右へと素早く動けるので相手の打ち込みにも負けなくなる。
しかし、その刀が小さくなったりすると、相手はその扱いが楽になり、変化をつけられるようになる左右、上下、手首を返しながら多彩な攻撃をしてもらうと、ちょっと間に合わせるのが大変になる。この状態が次のレベルを必要とするときだ。どれだけ最長筋の働きがすごかろうが、間に合わないものは間に合わない。次を考えなくてはいけない。
 
ふと、無意識に相手の正中線に集中しすぎているのではないかな、と思った。実際に動くのは手首から先の道具だ。それなのに、それを持つ相手自身を見すぎてしまっている事に気づいた。自分の敵は相手ではなく、木剣、と設定をし直した時、自然と自分の肘から先が動くようになった。
 
相手は軽い得物のおかげで手首から先で攻撃をしてくる。こちらも、手首を主役に対応する。これでやっと勝負になる。この時、自分の背骨の心配はしない。実際にはそのまま攻撃を受けると、背骨をやられそうなのは分かるが、この時、わずかでも背骨が逃げると身体が捻じれ、全ての動きが止まってしまう。いま、相手に対応できるのは肘から先だけだ。
 
この時、重心から肉体へと意識を変えた経験が役に立った。
7月に甲野先生から受け取った「直線」の感覚。その感覚によって肉体そのものの存在を自覚した。その後ずっと肉体そのものをどう動かすかを考え続けてきた。この時には重心の事は一ミリも考えない。もちろん、重心は存在しているが、肉体の内側にある重心を考えてしまうと、内側から肉体が歪んでしまう感覚があったからだ。身体を高密度にすれば内側の歪みはなくなる。それを意識して稽古をしてきた。
 
つまり、どれだけ有効であったとしても、前の事は忘れ、捨てるのだ。
肘から先の働きに気づいて試したのもそれ。肘から先に意識をどう集中すればいいか、という事。
おそらく、外へと向かう伸筋が手助けをしてくれたのだと思う。上腕を超えて、肘に入った時、肘から先をすっぽりと覆う手袋のようなイメージができ、そこに自分が入り込める感覚がでた。
イメージに頼るのは嫌いだが、自然と生まれたものは積極的に生かす。ダメなら手放せばいい。
 
少しずつ、手袋だけの自分でいられるようになり、相手の木剣をひょいと奪い取れる事も増える。
難しい、という状況がすこしずつ改善していくと観念が変わり始める。絶対に無理、と思っていた事が徐々に壊れ、何とかなる、とわかってくると、そのうち、出来るに決まってるじゃん、となるのだ(笑)。
 
明日からの稽古がまた、変わりそうだ。

【稽古録】2017/09/20 枠を広げていく感覚

「運」という世界がある、と気づかされることで、自然と視野が広がっていく。広がっていった時、そこに確かさを与えてくれるのが身体を通しての感覚だ。
 
「空を飛ぶという」のは重心の自由さを表したもの。その重心は肉体というカゴに閉じ込められている。肉体を内側から観察をするとそこに感じられるのは広い広い「内部空間」。
 
その「内部空間自体を主役」にして動きを作ったものが肉体の世界。肉体は必ず他者と衝突をする。その衝突した瞬間、大きな力が生まれているようだ。肉体そのものを基準にするというのは案外難しい。普段、心の方を主役にしすぎているからかもしれない。きっと、もっと肉体を使って仕事をし、社会を作っていた頃なら自然とやれていた事だろう。しかし、今は肉体は少し休んでいていい時代。頭が働き、心が動く。
 
うまく心を心地よくさせて上げられればいいのだが、どうしても、うまくいかない事だってある。その時、肉体が縮みやすいようだ。反射的にお腹をぎゅっと縮めてしまう。
「お腹を縮ませない」事を意識するだけで、自然と肩が背中へ落ち、骨格の動きを邪魔をしなくなる。そして、骨が骨なりに動く事で背中にある伸筋群が働きを生むようだ。
 
特に背中の「最長筋」だけを意識して動くと身体は実に速く、左右への動きをつくる。これまでとはまるで違うレベルの景色が見えてくる。重心が自由に動かせる世界にも驚いたが、肉体を主役にしてみた時に生まれる力強さにも驚かされた。
 
この二つのまるで違う動きはつながっている。重心に意識を置くのではなく、重心が動ける空間を意識する事で肉体そのものに意識を置く事ができる。
この関係を考えてみると、重心凄い!と思い込んでいたところから、その枠であるカゴには敵わない、と気づく事で次の世界へと進んだ事になる。重心を手放したからこそ、世界が広がったわけだ。
 
肉体自体が動く時に生まれる力は力強く、速い、と分かってきた。
ならば、この肉体を手放せば次の世界へと進めるのではないか、そう考えた。
重心に対しては鳥かごのような内部空間だった。
この肉体を制限するものとはなにがあるんだろう、といろいろと考えてみる。
そしてふと、「道具」というものがそうではないか、と思えてきた。
 
肉体が動いたとしても、現代では肉体だけで何かをする事は少ない。この肉体の先には道具があるぞ、と思ったのだ。
どんなに肉体が動いたとしても、道具そのものの働きを邪魔してしまえば動きは無駄になる。道具に入り込むようにして、肉体を使ってみたらどうだろう、と試してみた。
木剣を持ち斬ってみる。素手であれば肉体が主役になった方が動きやすいが、木剣を持てば肉体主体というよりも木剣そのものに動いてもらった方が滑らかになるようだ。もし、木剣を扱う「技」を持っていたとしたら、非常に滑らかに使えるようになるだろうと思えた。有効である。
 
実は、この感覚から一つ思いついたことがある。
肉体という自分が木剣という自分ではないモノに入り込む感じは、肉体が存在する事で生まれる心の揺れが無くなる感じがした。気持ちがいい。
ここで思考を拡大してみる。道具は自分ではないもの。自分ではないものに入り込む感覚は心が揺れない。自分ではないものは形がないものでもいいはず。技という手順も自分ではないものだ。手順をなぞる時にこれでいいかどうか、と疑いながら行っていたのは、肉体に意識が囚われていたからだ。
手順を行う、と決めたのならば、疑わず、手順に入り込むつもりで行えばいい。重心から肉体に移った時の事を思いだせば、どんなに重心が強くなっても、肉体自体には決して敵わない。手順には肉体は敵わないのだ。
 
たくさんの技をすでに知っていたが、どれも、自分にできるかどうか、それこそ、この技は有効なのだろうか、と疑っていたのだ。その疑いをこの考え方なら取ることが出来る。
外に広がったものには敵わない。それを経験を通して学べたのだから信じる事ができる。
 
「技という手順」に従ってみることで肉体だけを考えて行っていた時よりも気持ちよく動く事ができる。さらに思考を拡大してみれば、「技という手順」を「考え方」としてもいいのではないか、と思いついた。
世の中にはたくさんの、それこそ、無数の考え方が存在する。その考え方の違いによって喧嘩も起こるし、戦争も起こる。この時、自分がどんな考え方に従えばいいのだろうか、と迷いを持つと大変だ。ずっと、誰かに振り回される事になる。
 
子供の頃であれば、答えのある問題ばかりだから、答えに従えばいい。しかし、大人の世界に答えはない。むしろ、どの答えを求めるかで考え方の違いが生まれる。
 
身体的に考えると、「どの考え方でもいい」といいという乱暴な答えがだせる。どの考え方であっても、その考え方に自分の肉体を緊張させずに従わせれば、身体は楽になる、という事を今日の稽古では確かめたのだ。
 
こんな事は2時間ばかりの講座で伝えられない事はわかっている。しかし、すでに、身体と向き合って、身体に従う楽しさを知っている人はぜひ、考えてみてほしい。選んだ考え方を疑わず、従う。この時、肉体がぎゅっと縮まる感覚が見つかればチャンス。その縮こまりを伸ばし、そこで出てきた肉体を頭が作る考え方に憑依をさせるようにするのだ。もしかしたら、ちょっと違った景色が違って見えるかもしれない。

【稽古録】2017/09/19 まだまだ「ツイて」る

以前「ツイている」という話を書いた。どうやらその「ツキ」は続いているようだ。
大きな買い物でタイミング良く気持ちのいい契約が出来た。ただ、良い事ばかりではない。
心が揺れる残念な事も起きている。急な大きな出費は痛いが、自分の周りにある「流れ」がある、と感じられると嬉しくなってしまう。
 
3連休から帰ってみると、我が家のラティスフェンスが壊れ、倒壊していた。台風が来ていたのだから当然と言えば当然。しかし、もうちょっと「ツイて」いるらしい。
この帰省は普段使っているミニバンの調子が悪く、軽自動車で行く事にしたのだ。
軽は小さく、帰省には初めて。それでも、高速、山奥で車が故障をしても・・・と思い、軽で行く事にした。息子が勉強を理由に今回は行かない、と言った事も理由の一つだ。
 
その軽自動車がいつも停まっていたのが、ラティスフェンスが倒壊した場所だったのだ。そのままミニバンで言っていたなら、車の修理代はどうなっていたのかわからない。よくわからないが、ツイている。
 
そしてもう一つ、道場に行ってみてびっくり。おそらく台風だが、入り口ドアのガラスが割れてしまっていたのだ。
 
想像する事が着実に現実になっていけばうれしい。努力をしている人は皆、それを望んでいるだろう。しかし、想像、イメージは諸刃の剣だ。
想像がちゃんと思い通りになっていればいい。しかし、弱気になってしまった時、つい、頭に悪いイメージが出来てしまう事もある。イメージを現実にする力がある人は、それでつらい経験をしなくてはならない。
 
しかし、そもそも、自分のイメージよりも、まわりの流れの方がはるかに強い力がある、とわかっていれば従う事ができる。従うしかなくなるだろう。
自分の身体で出来る事のイメージには限界がある。しかし、自分のまわりへのイメージには限界がない。何が起きたとしても受け入れる力を持っている。自分の「まわり」、「背景」、ここがもうすこしクリアに実感できれば動きはまた変わるだろうと思う。

【稽古録】2017/09/18 ウサギをみても・・・

3連休の帰省にはもうひとつ目的があった。
我が家に家族が増えるのだ。浜松市でウサギのブリーダーをされている方から引き渡してもらった。
 
小さく、丸い赤ちゃんウサギは抜群に可愛い。
もう、可愛い以外の言葉が見つからない。
初めて来た慣れない場所で小さくうずくまっている姿をじっと眺め続けた。
ブリーダーの方によると、一週間はゲージから出さなうように、と注意を受けたので、もふもふと触りたかったのだが、我慢、我慢。
 
久しぶりに我が家に来たペット。可愛いのはもちろんだが、残念ながら私はいつも、なにを見ても、なにをしても、身体とくっつけ、稽古にしてしまう。
素直に現実をありのまま楽しむ事はこの先きっとできない(笑)。
 
ウサギの姿勢だって十分稽古だ。彼らは無理をする事がない。どんなに動き回っても崩れないし、止まっていたって、美しい。力みが人間とは段違いだ。
きっと、これから彼から教わることが増えるだろう。楽しみだ。

【稽古録】2017/09/16 祭りの身体

3連休、妻の実家へと帰省をする。連休初めの土日はお祭りがあり、それがまた、賑やかなのだ。山の奥深い街なので年に一度の発散は爆発的。一緒にもう踊り狂う年齢でもないのだが、雰囲気はとってもいい。そこにいるだけでも楽しくなる。
天気予報では台風の影響でずっと雨。しかし、何とか、山車も出て祭りは行われていた。
 
お酒も入り、雨も降っている。そんな状況もテンションを上げるのだろう。暴れくるっている。
ふと気になった事がある。それはやはり、身体の事。
踊り狂う若者たちは街ではなかなか見る事はない。しかし、この祭りでは手を突き上げ、足を踏み鳴らして踊っていた。
ただ、その激しい動きが「変」なのだ。
 
どう「変」かというと、手足は動いているものの、腹が動いていないという事。体幹が止まっている。
腹の屈筋が知らず知らずのうちに縮まってしまっているのかな、と思い屈筋の問題は根が深い、と感じた。
 
思いついたことがあるので、家に帰り、「昔の祭り」の写真を出してもらった。
そこにはびっくりする姿があった。
40年ほど前、祭りに興じる人たちの腹はまるで縮まず、ゆったりとのびのび、気持ちよさそうだったからだ。
 
もしかしたら、とネットで昭和の古写真を検索してみると、40年代に生きる人たちの腹は「皆」縮まず、ゆったり、のびのびしていた。
 
腹を縮ませない、と気付いたのは8月下旬。そこから検討、研究を始め、西洋人との違いに気づいた。やはり外国人は日本人とは違うのだ、と思っていたが、昔の日本人もお腹を縮ませてはいなかったのだ。(ただ、その縮まない事で活躍する身体はちょっと違う。)
 
40年代の日本はどんな雰囲気だったのだろう。バブルと言われた時代の前、高度成長の時代は未来は明るかったのだろう。しかし、現代は明るい未来が作りにくい時代だ。大人も子供もみんな、「我慢」をしているのだと思う。
その「我慢」が姿勢に現れたのが「お腹の縮み」。
 
未来にもう一度明るさを作ろうと思ってもこれはもう、無理。世界中の情報を得るようになり、問題も対策も規模が大きくなってしまったから。
もし、それらを忘れて、目の前だけの明るさを作れたとしても、それはまわりの大多数からは無責任と捉えられてしまうはず。
ならば方法は一つだ。崩れた姿勢を何とかすればいい。お腹が縮んでいるのだから、縮ませなければいいのだ。
 
縮ませないだけで世界の見え方が変わる。
なにがどう変わるかは人それぞれ。その見方を変える身体を誰もが持っているはずなのに、それを皆忘れてしまっている。
 
時代は変わっていく。これから現れる時代はどんな世界なのだろう。
時代を予測していくのは困難だ。しかし、身体ならなんとかなる。身体の声を聞き、応える事を自分の力としていく事が改めて生きることを教えてもらえるはずだ。

【稽古録】2017/09/15 最長筋と予測の関係

この稽古録を再開する前、8月13日に気づいたことがある。それは「無意識」。
自分が無意識に何をしようとしているのかがわかり、それを活かして技にできるのではないか、と気づいた。
 
具体的に出来るようになった事はこんな事。
まずどこでもいいから打ってみる。その瞬間、無意識に設定していた場所へと剣が打ち込めるようになった。思っていた場所と打ち込まれた場所が違ってきた。
 
この現象がなぜ起こったのかを考えて見た時、出てきたキーワードが「無意識」だった。
気がつかない間に身体が進もうとする場所がすでに決まっていたのか、と驚いた。
ただ、身体が行う事だ。そこにはちゃんと理由があり、納得できる法則がある。
この身体はいつもバランスをとっている。動いていない時にだって、動かないように意識をしているだけで、身体は常に、崩れようとしている。
突然気を失えば誰でも倒れてしまうだろう、そういう事だ。
 
なにかを「打とう」と動いた瞬間、身体のバランスは崩れ、動き出す。その動きを邪魔をしなければ自然と、もともと身体が進む方へと行くのは当たり前だと納得できる。
 
この気づきが一か月たち、最近気にしている「最長筋」とつながった。
今日の稽古で気づいたのは「予測」に関してである。
 
お互い正座をして向き合い、正面から手刀で斬りにかかり崩す技を稽古していた時だ。
最長筋を見つけてから正中線の動きが格段に良くなり、相手に入るのも楽になっていたが、それでも、動きの要を説明しながら何度もその動きを受けてもらうことで、相手はこちらの動きに慣れてきてタイミングが見えてくる。技を盗まれるのだ。
 
この時、当然衝突が起こる。
その衝突を斬り崩していければいいのだが、これがなかなか大変。びくりとも動かせない。
自分の技が効かない、というのを多くの道場は嫌うが、研究稽古はこの「効かない状態」こそ宝なのだ。
 
ぶつかった瞬間、その衝突が軽ければそのまま押し崩す事もできる。しかし、何度やっても、どうもうまくいかない。
ふと、昨日見たカンブリア宮殿の中で軽いバッグを持った時に身体が軽くなって浮いていた姿を思いだした。
 
「予測」があったから、バッグを手にした時、身体はそこに「軽さ」を感じて喜んだのだろう・・・。
今、相手にぶつかって困っている自分が現れるのは、「予測よりも頑丈な相手」を見つけてしまったからではないか。
最初の予測が甘いから、身体の準備が足らないのかもしれない。
 
こんな事を考えながら、何度も衝突を繰り返した。
この時、つい、これまで見つけてきた技を使いたくなる。勝ち負けを競うならばそれもありだが、求めているのは全く違う原理で相手とつながる事だ。今までの技は使わないように、研究をする。
 
相手は強い、と頭で考え、予測を強化しようとしてもなかなかうまくいかない。何度当たっても、自分の身体がびっくりとしてしまい止まってしまう。
そこで相手を考えることを止めてみた。
相手の強さを変えるのではなく、こちらの「スタートライン」を変えてみたらどうか、と考えた。
 
相手を前にした時というのはある意味、自分の中で一番自信のある姿勢。相手と向き合う時には正面からしっかりと向き合い、全力を出し切ろうと準備をする。
この時、あえて、全然別の方向へと身体を運んでみる。文字通り、スタートラインを変えるのだ。自分の身体に崩れが生まれる。
すると身体が崩れた瞬間、「最長筋」が揺れて元の目的である相手へと身体を戻し始めた。ほぼ、無意識、自動的に。
 
その動きは面白い事に、相手の姿勢の一番弱いところへと自然と向かっていくのだ。瞬間的に視覚が一番の答えを出しているのだろう。自動的に身体が運ばれた時、相手との衝突が無くなり、これまでに経験した事のない柔らかさで相手を飛ばす事ができた。
 
一か月前、偶然気がついた「無意識」は「ただ倒れていく」だけのもの。これで技を行う時には事前に設定しておかなくてはならない。デモンストレーションのように余裕があればそれでもいいのだが、実際に使おうとするとちょっとめんどくさい。
しかし、今日見つけた使い方は無意識を設定する必要がなく、動きに柔軟性がある。
 
理由はいつも後だ。よくわからないけど、これまで出来なかった事が出来る、という経験が最初に現れる。
この経験を分析していくと屁理屈が生まれ、納得につながる(笑)。
浮かんでいるキーワードは「予測」。
気がつかない間にあらゆることに対して予測をしながら生きているんだ、そう考えだしている。
こんな面倒な事を考えなくても現代は生きていけるが、これまで考えもしなかった事に向き合る事が本当に楽しい。もちろん、それは必ず納得できる答えと出会えるとわかっているから。身体がちゃんと答えを教えてくれる。
 
また気づいたらちゃんと書きます。

« 2017年9月 | トップページ | 2017年11月 »

山口潤のツイッター