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2017年11月

【稽古録】2017/11/07 人は変わる、変わっていける

ヨガ教師の方との五日間の個人稽古が終わった。今日このまま帰国の途に着くらしい。
早速あちこちの国へとまた教えに行くらしい。
 
彼女のヨガは自由だ。あまり世間一般のヨガを知っているわけではないが、私が甲野先生から見せてもらった世界と共通点があるような気がした。
まぁ、だからこそ、こうして名もない私のところへと生徒として来てくれたのだろう。
 
これまで何回か個人稽古をしてきたとしてもやはり、今回も不安はあった。
しかし彼女は私たちには身体と言う共通言語があるから大丈夫と言い切り、来てくれた。そして、終わってみればやっぱり彼女の言うとおりだった。
 
この心配症はこの先無くなるのだろうか(笑)。おそらく、これは一生続く。しかし、はた目からはそれが見えなくなるのだろう。
この夏、お腹を伸ばし始め初めて胸が張れ、背中が伸びた感覚があった。これまで縮んできたお腹はちょっと意識をして伸ばさないと維持が出来ないほど縮んでいる。
ただ、そうして意識したお腹もまわりからはそれほど奇異には見えないらしい。人間の身体は思ったよりも変わらないのだ。
 
姿勢が変わる事で印象は変わる。今出会う人は私の事をどう思うのだろう。
どう思ってもらってもかまわないが、一月、半年、一年、二年という時間の中で変わっていく姿を見てもらいたいな、と思っている。人間は変わるのだ。そして、それは想像以上に激しく変わる。機械の進歩に負けないように、この世界の事を伝えていこう。

【稽古録】2017/11/04 内臓を触れるようになる

最近、内臓を触っている(笑)。
「神輿の指」を見つけて指に独立感を得た。そのそれぞれの指が動く事でそれまで行けなかったところへと力が届くようになった。
 
初めそれは相手の指をとれる、という技になった。
昔からリアルファイトでは指をとるという技があった。指は細く、弱点なのだ。
しかし、武道が競技化してくると、指をとる事を忘れてしまった。そして、厳しい時代を生き、指をとれた人たちも次々と亡くなっている。
 
当然、知識だけは残る。
目打ち、金的、指取りなど、えげつない技がある事は知っている人は多い。しかし、それを使う機会はもちろん、練習する時間だってほとんどない。
指取りだって取られたら痛いが、相手だってその瞬間に馬鹿力で反撃をするはず。なかなか相手の攻撃が当たる間合いでじっとして指だけをとる事はできない。
 
指をとる事なんてできない、と私は思っていた。しかし、これは間違いだったのだ。
指の第二関節を意識して、力が手首側へと進まないように、抑える。その瞬間、第二関節から先を奪う事ができる。抵抗しようにもなかなか力が入らない。
瞬時に指をとれることがわかると心に余裕が生まれる。高度な崩しは必要なかったのか、とわかるのだ。
 
この指の取り方に全く想像外の使い方が見つかった。
それが「内臓に触る」という事。
第二関節から先だけに意識をして腹に当てる。そしておもむろに左右へと振るように指を入れていく。当然、反射的にお腹に力を入れる。筋肉の壁ができるし、脂肪だって手ごわい(笑)。
しかし、第二関節から先の指はその合間を縫って入り込む。
 
壁を超えた時相手の中に変化が起こる。笑うのだ(笑)。
内臓に触られる、というのは感情のスイッチになっているらしい。
見られたくないもの、触れられたくないものが腹の中にある。その隠しておきたいものをうまく発散させることができればいいが、シャイな日本人はつい、お腹にため込んでしまう。
 
内臓に触れれば感情が動くのだ。
子供達にそれを試せば彼らは激しく興奮する。そして、二度と近寄らせてくれない(笑)。
しかし、それで、彼らは自分が内臓を持っている、と自覚をする。
 
骨格は整えなくてはならない。筋肉は鍛えるもの。肌に至っては他者のものだ。
しかし、内臓はそこに「ある」もの。
自分が内臓を持っているという事を自覚して大人になるのは絶対に必要な事だ。
 
内臓はグロテスクだ。ドラマであっても手術のシーンは直視が出来ない。しかし、間違いなくそこにあり、黙々と働いている。
内臓が自覚できると身が詰まった感覚があり姿勢が変わる。いろいろと不思議なことが見つかりそうだ。

【稽古録】2017/11/02 「わからない」と「ロスト」

半年ほど前から予定を作ってきたヨガ教師の方との稽古を三日間終えた。次は来週、二日間。改めて、普段、言葉に助けられているのを感じた。
そして、普段日本語が使える同士だと言葉に頼って感覚そのものを見る事から離れていた事もわかった。
言葉が通じない者同士の場合、頼りになるのは感覚になる。伝えたい感覚があって、それを向こうが受け取った時、そこに安心が生まれるのか、こちらにも伝わってくる。
一応私は教える側、先生の側だけど、やっぱり、たくさんのものを受け取らせてもらった。
 
そしてもう一つ、良い集中ができる稽古を続けて行う事のメリットも見つけた。
新しいものと出会うと反射的に拒否反応がでる。どれだけ頭が受け入れる、と命令しても、身体はどうしてもそれまでの使い方にこだわる。
 
頭は一度聞いたことをそれだけでわかった、と言いがちだ。
しかし、実際に身体を通してそれを試してみるとそれまでと変わっていない事が多い。
武術はそれをアリアリと見せてくれる。
しかし、スポーツ武道、組織武道が進むと厳しい試しあいはなくなる。どうしたって組織維持、ルールが一番になっていくからだ。
 
この三日間の稽古はずっと試しあい。
言葉が不自由なので、やって見せるしかない。そして、それを盗んでもらう。そして、私がそれを抑える側に。ダメな時には何度やってもダメ。しかし、うまく行った時にはお互いの身体が滑らかに動き、出来た、と分かる。
 
今回の稽古で一つ印象的な言葉があった。
それは「ロスト」という言葉。
彼女が技を試す。一度つかんだと思えた動きもやはり再現性の問題で出来ない時もある。
その時彼女は「ロスト」という。「出来ない」、「分からない」のではなく、「見失った」のだ。
これは観念的には凄い事で、なにかが「ある」という事は完璧に受け入れている事になる。ただ、見失ったのだ。
 
私なんかはついつい、できない、わからない、と人からの教えを捨ててしまう。だからこそ、自分の世界に没頭できたとも言えるが、せっかく教えてくれる人に出会えたのだからもう少し自分を信じて追ってもよかったなぁ、と。
そしてその時、使う言葉が「見失った」と使えればきっと、追い求めやすかったはず。
 
この「ロスト」という言葉を使う事をみんなに教えたい、と思った。
 
残りの稽古は来週から二日間。間を少し開けるのだからきっと、彼女の中にも疑問がでてくるだろう。楽しみだ。

【稽古録】2017/10/30 頭を英語モードに

明日から5日間ほど数年前に友人になった外国人のヨガ教師と個人稽古。
今回の来日は10日ほどと聞いているが、わざわざ5日間も私との稽古に時間を割いてくれる。ありがたい事だ。
 
いつもならどうなってもそれは全て経験になりいつか花開く、と無責任に気付いた事をどんどん口にしているが、それだって、やっとそう思えてきたものであり、最初はとにかく、何とか本質を伝えたい、と思いあれこれ伝え方を模索していた。
しかし、結局、身体の流れに従うしかない、と分かり、今はもう、運任せの稽古になってしまった(笑)。
 
しかし、今回はそもそも「言葉」に壁がある。いや、おそらく、彼女にはない。こちらが勝手にわぁ~外国人だぁと壁を作っているのだ(笑)。もっと気楽に自然体に、と思ってもなかなかそうはならない。不安が先に生まれてくる。
ただ、こういう時こそ、稽古で見つけた身体が生きてくる。
 
明日からの稽古の準備として、普段使っている言葉のいくつかを英訳してみる。実はこの英訳は簡単。スマホを使えば普通に話した言葉をすぐに英語にしてくれる。後は覚えるだけなのだが、あいにく自慢できる記憶力だってないのだ(笑)。
準備をしているだけでも身体がどんどん内側にまがってくる。
 
この内向きの姿勢を見つけたならばすべき事は一つ。お腹を伸ばせばいいのだ。お腹を伸ばして、肩を背中に落とすと体幹が左右へと動きやすくなる。頭もそれにつれられて左右へと動きやすくなる。目の前に広がるわからない言葉に身体は止められなくなる。
ただ、だからと言って瞬間にその言葉が自分のものにはならない(笑)。
気分よく嫌な事、難しい事に向き合える、そんなメリットしかないのだが、長い目でみるならばこれは大切な事になるはず。
 
色々と準備はした。後はどうなるか、やっぱり運任せなのは変わらない(笑)。

【稽古録】2017/10/28 「揃える」という事

昨日の夜見つけた「揃える」感覚、それを伝える事を一番に稽古をした。昨日見つけた事を今日話す、こんな稽古をずっと続けている。頭で考えるタイプの人からは考えられないほどの無責任な伝え方だと思う(笑)。
しかし、なにかを見つけたばかりの時には感情がそこに伴っている。これが伝わるのではないか、と思っている。
 
研究稽古を続けてきて驚く力が養われてきた。いつも身体に見つかるものは驚きだ。これまで見えていなかったものが身体に見つかる、本当に楽しい。そして、それはずっと続いてきた。
 
驚く力は養われる。初めての事を驚くのは簡単だ。だから、驚く力を求める人はいろいろなところへ行く。しかし、それだってやがて尽きる。いや、世界は尽きないのだけれども、あちこちに行くには時間も金も健康だってかかる。このハードルを乗り越えるのが難しい。
 
今、宇宙へと行く人が増えている。そのうち、民間にまで広がるだろう。昔の海外旅行ブームのような事が起こるかもしれない。しかし、それだって、毎日、宇宙と往復をしていれば仕事だ(笑)。
 
身体を探る旅は果てしない。知らない世界、知らない領域に踏み込み不思議なものと出会うという点ではリアルな旅と何ら変わらない。しかし、その旅にお金や時間、健康という問題は発生しない。
どんなに貧乏でも、どんなに時間が無くても、どんなに不健康でも、旅ができる。いや、むしろ、ネガティブに思えることが山ほどあればある時の方が身体という世界の旅はしやすい(笑)。
 
今日稽古したのは「揃える」という事。
肘を合わせ、指先に向かう力を相手の腕と「揃える」。言葉にすればこれだけ。
たったこれだけの意識でそれまで相手と衝突をしていた力が消える。嘘のように・・・。
この感触に驚き、さらに探りを入れている。
 
一度経験した事には驚きはない。徐々にそこにあるものを冷静に見ていけるようになる。だから研究は進む。
しかし、そこで大きく揺れた感情があった事は間違いない。その感情を伝えたいのだ。その感情がエネルギーとなると思うから。

【稽古録】2017/10/27 後ろ向きに進展

後ろ向きに歩くと敵が消える。敵が消えると、歩くだけで外からくる刺激をかわす事が出来る。感情が動かないのだ。
そんな事を考えながら過ごしてきた。
 
しかし後ろ向きというのは使い勝手が悪い(笑)。
何とか「半身」で納得させているが、もうちょっと何とかならないか、と工夫をしていた。
最初、直入身を半身後ろ向きで行った。次に試したのは片手の斬り落とし。
手探りで試していたところ、自然と相手の身体とこちらの身体の向きが揃った。揃ってみたところ、相手の腕が自然と落ちるところがわかったのだ。
 
向き合っていた時には、どうしても戦ってしまう。でも、胸の方向が揃うと自然と相手の腕が落ちやすいところが見えてくる。
この時、胴体を追い越すようにして、慌てて腕を斬りにかかると途端に止まる。ちゃんとそろえて相手の腕に従い降ろす、それを意識して初めて技になる。
 
これまで一生懸命頑張ってきたのは何だったのだろう・・・。こんな事ばかりだから稽古はやめられない。努力をしている暇がない(笑)。

【稽古録】2017/10/25 手のひらを伸ばす

少林寺拳法の大会が次の日曜日に開催される。40支部ほどが参加をするはず。ちょっと賑やかな大会だ。この数か月それを目標に子供達を引っ張ってきた。
 
子供達は素直だ。彼らにどうすれば興味を持ってもらえるか、いつもそれを考えている。
素直だから、すこしきつい言い方をすれば心が委縮してこちらのいう事を聞いてくれるかもしれない。でも、それではダメだ、多少強くはなっても生きていく時の自信につながらない。私はそれを経験した。
 
私が伝えられるのは、私自身が体験した楽しい事だけだ。身体の使い方がそうなのだが、まだ、彼らには私が感じたほどのものが伝えきれなくていつも、反省ばかり。
私は自分の事が嫌いで仕方なく、自分の能力に諦めてしまっていた。しかし、身体を細かく観察することで救われた。とんでもないほどの可能性を秘めている事がわかった。
どんなに困った事に見えたとしても、身体は必ずそれを乗り越えてくれるとわかった。
これがどれだけ生きる事を楽にしてくれるか!
なんとかそれを伝えたい。
 
大会と言うのも一つのストレス、重圧だ。
重圧があれば心がきゅっとなる。それを手掛かりに身体の大切さがわかるはず、そう考えて指導をする。
大会最後の週、彼らに伝えたのは手のひらをしっかりと張る、という事。
この一月、彼らにはお腹を伸ばす事を教えた。それはずいぶん自然に彼らに入っていったので、もうちょっと先を、と手のひらを伸ばさせてみた。
 
少林寺拳法では一字構えという構えが基本。片手をしっかりと開き、身を守る。この姿勢をどうすればかっこよくできるか、いろいろと考えてきた。手の形はもちろんなのだが、やはり、張りが必要。その張りを出すために手のひらを伸ばす。具体的には握力を使わないようにする。
 
やってみるとこれが意外と難しい。
手のひらを伸ばす時にも方向があるようだ。五指を伸ばすようにするとつい、親指と小指に意識が行き過ぎる。それよりも親指と人差し指を伸ばした方がいい感じがする。
 
子供達を見ながら指導して、自分でも納得できる動き方をまた見つける。子供たちとも共に研究をしているのを実感する。

【稽古録】2017/10/24 動き方と考え方

ハンマーモア―を購入した。こんな商品があるとは思いもしなかった。世の中にはたくさんの便利な機械があるのだ。
ハンマーモアーとはトラクターの後ろのロータリーに替えて草木を砕いていくもの。
畑を相続したものの、なかなか手を入れられない。気がつくと、どんどん雑草が育つ。こんな風に野菜がどんどん大きくなれば苦労はないのに(笑)。
 
その大きくなった雑草をロータリーで耕すのは良くないらしい。草がシャフトへ絡まるのだ。小さな絡まりが機械を壊す。知っていればそれをちゃんと対応も出来たと思うけど、そこまで連想が繋がらなかった。
その絡まりによる故障がハンマーモアーなら大丈夫らしい。故障を気にせず、雑草の管理ができる。
 
しかし、このハンマーモアーにもきっと、細かい注意点があるはず。たぶん、うまくは行かない(笑)。
 
機械は手っ取り早く成果を得られる。しかし、その成果はちゃんと機械が動いていればの話だ。歯車一つ壊れただけでその機械は動かない。
機械ならばちゃんとすぐに壊れてくれる。壊れて成果が出ないから直さなくてはいけない、とわかる。
しかし、人間の身体はなかなか壊れない。これがメリットでもあるし、デメリットでもある。
 
うちのトラクターはディーゼルエンジン。軽油を使う。
普段使っている自動車はガソリンだ。
ディーゼルエンジンにガソリンを入れれば壊れる。逆もそうだ。
しかし、人間の身体はちょっとぐらい悪いものを食べてもすぐには壊れない。むしろ、それを取り込み、変化もする。
内臓は食い物で動く。しかし、外にある身体はどうだろう。動き方の方だ。
 
この身体はちょっと無理をしても壊れない。良くない腕の上げ方をしてもすぐには壊れない。しかし、良くない腕の動き方は間違いなく身体を壊している。
この「動き方」は「考え方」だ。
自分が良くない動き方をしている、と考えていないから動き方は変わらない。みんな食い物に関しては詳しくなったのだ。血糖値も上がる食事もわかれば、がんになる食べ物だってわかってきたから注意をする。
しかし、動かし方に関しても本当に無防備。歳をとった時、動き方によって生まれていた不都合に後悔をしないようにしたい。

【稽古録】2017/10/23 頭痛と神仏

強行軍な東京への旅だったので翌日は倒れるように寝ていた。しかし、今日、まだ身体が重い。いや、身体の節々というよりも、なんとなく、頭の奥が嫌な感じがする。きっと、寝不足が原因だろう、と思う。
 
原因の予測はいくらでもできる。そして、私が行うのは素人判断。プロである医者が高性能な機器を使って検査をすればそこに原因と言える何かが見つかるかもしれない。
しかし、それがわかってどうなるというのか。
原因がわかればそれに対して対応ができる。医療ならば薬や手術で回復をはかる。その力はすさまじい。しかし、それでも解決できない病気やケガだってあるはず。
なにものにもすがれない、と分かってしまった時、心が落ち込むのが嫌なのだ。怖い。
 
こういう考えの人間ならばそれこそ「神仏」にすがればいいのかもしれない。実際、少林寺拳法は釈迦の教えを大切にしている。
しかし、そこに至る道がなかった。
 
神仏は未だに見えないかが、この身体はそれに近いのかもしれない。
これだけ医療が進歩をしてもどの身体も作れない。傷だってちゃんと治る力を誰もが持っている。自分は力を持っている、というところを基準にして進歩させてきた医療の力を使えばさらに治りはよくなるはず。医療の進歩はこれからも続くだろうが、こちらにだってまだまだやれる事は山ほどあるのだ。
 
自分の力をとにかく信頼する。そのために稽古をする。

【稽古録】2017/10/21 力士に平面化を試す

稽古を重ねている力士と稽古をするために東京へ。
急に決まったものなので、今回の予定はちょっとキツキツ。金曜日、夜中の稽古を終えた後、車で東京へ向かった。台風が来ている影響で雨風が強くドキドキしながら向かう。
 
この数か月「ツイている」というのを自覚している。ちょっと考えもしないような出来事が増えている。それはいい事ばかりではなく、その後の処理など、大変な事も多々あるのだが、「想像を超えた出来事」を身近に感じられるのは結構楽しい。
そして、今回もまた、それに出会う。
 
横綱について大阪巡業に出かけた付き人がケガをして、急遽彼が大阪へと行くかもしれない、という事になった。当初、別の場所で他の一般の方と稽古を行う予定だったが、そういう事なら、とその稽古が始まる前の1時間ほど稽古をしに彼の相撲部屋へと向かった。
車で行こうか、新幹線で行こうかと迷ったが、新幹線ならこの時間は取れなかった。やっぱり、運がいい。
 
1時間とという時間だったのでとにかく、一番伝えたい事を伝える。それは「平面」という事。お腹を伸ばし、背中を意識した後、前に出ようとせずに身体を左右へと振りながら使う、という事を伝えた。
もちろん、言葉もたくさん重ねてきたが、なにより、その「感触」が伝えたかった。
実際に、私が左右への動きを意識しながら彼に当たると、彼はこちらの動きがわからず、そのまま押し出される。前への力強さがないにもかかわらず押し出されるのだから不思議なのだと思う。
 
考えもしない動きだからこそ技はかかる。逆に言えば、この「考え方」こそ秘密にしなければいけないものかもしれない。無意識的にその動きをしている人もいるかもしれない。しかし、自覚なしに動けてもそれはちょっとしたバランスの変化で消えてしまう。考え方として受け入れなければ役に立たない。
 
まったく常識とは違う考え方はなかなかすぐには身に付かない。それでも、これまでの何回かの稽古で、彼も、こちらの動き方、考え方が「変」だという事はわかっているようだ(笑)。これまでよりも、素直に聞いてくれる気がする。
それでも、その「左右と言う考え方」が技にどう生かせられるのかがまだ疑問だったのだろう。帰り際に一つ質問をもらった。
 
先に相手に左から組まれてしまった時、どうすれば右へと組み替えられるか、という事。
実際に組んでもらい、それを返してみた。すると、その動きはまさに、今日伝えた背中の最長筋を意識した左右への動きで返す事が出来る。
こちらが技を行い、そして彼がそれを真似をする。一、二度、腕を使いすぎて身体が捻じれたものの、一時間左右の動きに慣れてもらったからだと思うが細い隙間へと腕を差し込み、組手を変える事ができるのがわかったと思う。
 
次の相撲場所は九州だそう。これからの二場所はこれまでとは違う緊張になるみたい。頑張ってほしいなぁ。
 
そして、すぐさま、目黒に用意をしてもらった場所へと移動。初めて東京で「仕事」ができる。
今日の東京での仕事にはちょっと思うところがある。それはいつかやりたいなぁ、と願っていた事だからだ。
 
あまり人には言わないが実は私、願っている事は必ず叶う、と思っている。今回の東京での仕事もそう。
ただ、これをそんなことぐらいで、と思う人もいると思う。ただ仕事をするのであればそれを計画していけばそんなに難しい事ではない。場所を借りて告知をすればそれでオッケーだ。しかし、私はどうも、その計画や行動力がないらしい(笑)。基本的にこれまで、運だけで生きてきたみたいなもの。
 
今回もこれまでの縁の延長で稽古をさせてもらった。彼女の力がなければこの稽古はできなかった。そして願いは叶ったのだ。ただ、時間がかかる(笑)。
どんな願いも叶うけれども、まだ、時間は扱えない。この時間までも扱えるようになったら、あふれ出る万能感で倒れてしまうかもしれない。
 
実は今、時間というものを考えるようになっている。時間に対して自分がどちらの方向を向いているか、それが気になりだした。
願いを持って待つ、というのは未来に対して身体を向けている。この時、どうしても、願いが叶うまでの時間をソワソワとしてしまう。すぐ目の前に来そうな願いが逃げて行ってしまうのまで見えてしまう。当然心だって揺れ動かされる。
しかし、もし、未来に対して後ろ向きならどうだろう・・・。そんな事を考えている。
 
やった事のない事はドキドキだ。しかし、一度経験してみればそれは普通になる。二度目はもっと楽なはず。この「普通」というのが強いのだと思う。
願いを持ち続けられればちゃんと叶うが、その願いが無意識のうちにだめかもしれない、という逆に働いてしまう時だってある。自分で夢がかなう事に対してブレーキをかけてしまう。
 
身体は凄い、とわかって願いは必ず叶う、というところまではこれたが、時間に対してもうちょっと足らない。無意識がまだちょっと早いかな、なんて思ってしまう(笑)。
 
こんな無意識の働きまで稽古に入れだしたらもう、何時間かけたらいいのか本当にわからなくなる。しかし、伝えたいのはこういう事だ。自分の中にある無意識と対話をしてみれば誰の助けも使えなくなる。自分の力だけで掘り下げるしかない。
入り口としては身体の使い方で構わない。そこからいかに「ご自身」をみてもらうか、それを考えながらまたのんびり、名古屋へと帰ってきた。

【稽古録】2017/10/20 動き方ではなく考え方が大切だったのか・・・

今月から熱田の文化センターが休講になる。休講は寂しいが、なにより、身体を長年見てこれるようになった方と稽古をする機会が無くなるのが残念だ。
しかし、世の中にはタイミングがあるようで、休講になる前2回ほど参加してくれた方が、ありがたい申し出をしてくれた。
 
その彼は同じ熱田区で鍼灸・接骨院を経営されている方。ご自身の治療院を稽古の会場として使う事を提案してくれた。
同じ曜日、同じ時間に稽古を続けられるようになったのだ。その第一回目が今日。
 
一時間半の稽古の中にこの一か月の間に見つかったたくさんの事をちりばめる。それぞれ別の技に見えるかもしれないが、全ては「身体」が行う事、同じ身体を使って違う働きを出していく、という事がわかる。
 
最近、これまでの考えを改めたことがある。これまで「身体」を研究していたと思っていたのだが、どうも違うらしい、という事。身体を工夫している人は多いが、どうも私は違うらしい。
身体を大好きな人は動く事も好き。アクティブだ。しかし、私はもともと動くのが嫌い。その嫌いは苦手だったから生まれたものだが、苦手でなくなってからだってどうやら運動は嫌いらしい。
 
世の中には何十キロ、何百キロを走ったり、歩いたりする人がいる。命をかけて苦しい山に挑む人だっている。でも、私は相変わらず走るのも、歩くのも嫌いだ(笑)。若い頃には信じられなかった技を得てもそうだ。まぁ、それはまだまだ未熟だから、と言えばそれまでだが、そもそも身体に助けてもらっているのは「動く事」ではなく、「考え方」を変えてもらっていたと思うようになってきた。
 
身体は基本的には「変わらないもの」。心のように形がないわけではない。その形ある身体を使う時、がむしゃらだけではもったいない。身体には使える「部分」がたくさんある。
筋肉に集中すれば努力を学べるし、骨格を意識すれば設計図の大切さがわかる。呼吸をみれば吸う事と吐く事、嫌でも交互にしなくてはいけないものがある、と分かる。
この身体はどれも役に立つもの、ダメなものは何一つない。
 
しかし、うまくいかない時にはつい、ダメだ、と思いすぎてしまう。これは「ダメな考え方がある」という事。しかし、この「ダメな考え方がある」という事が「ある」事だって役に立つ(笑)。
稽古をしていると、その「ダメな考え方」がひっくり返る事があるのだ。
ダメだったはずなのに、出来てしまう時があるのだ。その出来た理由が努力ではなかった時、自分が「ダメな考え方」を持っていた、という事がわかる。
 
考え方を変えるのが得意、好きな人たちがいる。経営者の人たちだ。
もちろん、どんな人の中にも意欲はあるはずだが、最近はちょっと恵まれすぎてしまったのか欲がない。
しかし、今の経営者はのんびりしていると大変な事になるらしく、常に新しいものを作り上げなくてはいけないと思っている人が多い。
 
稽古をしていても武道を何年も修行してきた人よりも、経営者の人たちとの方が話が盛り上がったりする。案外、武道の世界は革新的進化は嫌いなのだ(笑)。
 
そして、今回この場所を用意してくれた方も院長。ご自身で院を運営されている方。だからこそ、身体の持つ可能性に興味を持ってくれて大切な場所を貸してくれたのだと思う。しっかり、恩を返していかないと・・・。

【稽古録】2017/10/18 クルコン

豊橋中日文化センターでの講座。
しかし、文化センターでの講座の話ではない(笑)。
豊橋までの道のりの話。
 
名古屋から豊橋まで、いつの間にか道がとっても良くなった。国道23号線がほぼ全線バイパス化して、スムーズに進める。
最近、車を買い替えた。ミニバンのハイブリッド。これまでのガソリン車に比べて燃費がいいのは確かなのだが、走り方に「コツ」がいるらしい、と聞いていた。
「滑空」という技があり、アクセルペダルをうまく操作する事によって、エンジンを止めてモーターにも負荷をかけないようにすると燃費が向上するらしい、と事前に調べてわかっていた。
 
そのペダルの感覚はなかなかに難しそうであり、どうにも、癖でつい、踏んでしまう。この1週間ほど、あれこれ工夫をしたが、今一つコツを掴めないでいた。
この車、「クルコン」という装備がついている。速度を一定にして走る事の出来る機能だ。
そのクルコンを使い、豊橋までの道のりを行き来してみた。信号のないバイパスではちょうどいい。
 
そして、結果に驚く。燃費がカタログ値を超えて伸びた。これまであれこれ、生足でごそごそしていたのに(笑)。
 
機械は凄い。人間が長い年月をかけて習得する技をひょいと乗り越える。しかし私はこの機械が嫌いじゃない。人間が作り出した機械を私は凄い!と思える。
このクルコンで出した燃費だって、初めてそれを行ったのだから楽しいのだ。これが毎日になれば慣れになり、退屈になる。機械が勝手に進化をしてくれれば、それを見守る親になれて面白いかもしれないが、まだ、そんな成長する機械は多くない。
 
生足でクルコンと戦おうとは思わない。だって、この道中、「ものすごく楽」だったから。クルコンによってもたらされた燃費と言う数字にも驚かされたが、それ以上に、身体を楽なまま過ごさせておくことが出来た事に驚いた。きっと、無意識のうちにアクセルに足を乗せ、コントロールをする、という動きが身体を緊張させてしまっていたのだろう。
 
動けば動くほど身体も心も楽になる、というのが私の理想。能力を「伸ばす」事は大切。しかし、それ以上に「気づいていない緊張に気づく」事が大切だと思っている。お腹に見つけた緊張もその類い。
 
AIがさらに進化して車が自動運転になったらバスや電車のような公共交通機関と同じように、そこにいるだけでいい、ということになるだろう。便利は便利だ。
しかし、そうなった時、自分がそこにいるだけの時、身体を緊張させずに楽に過ごさせる術を持たなければ、気づかないうちに身体を締め付けるようになる。
 
300キロの距離をあっという間に移動できるようになった。ニュースではロケット技術を使いアメリカにだって40分程度で行ける方法まで研究していると言っていた。こんな夢物語もきっと、実現するだろう。でも、その時、身体が窮屈なら心だって面白くないまま。どんなに便利になっても身体が窮屈では生きていく事が楽しくない。
そういう事に気づくにはちょっと辛い事が必要なのだが、どうも、世の中はそれを「先送り」させているように思える。
身体の凄さ、楽しさをみないのは本当にもったいない事。ロケットに乗ってもきっと毎日乗っていたらそれは通勤(笑)。でも、身体を観察したなら、通勤だって、仕事だって、どんな時にだって新しい世界を見つけられるチャンスという時間に代わってしまう。
 
これを伝えるのは大変。それはわかっている。でも、その大変さだって稽古。そこからまた、新しい身体が見つかる。結局、私はずっと、楽しく過ごせるようになるのだ(笑)。

【稽古録】2017/10/17 この前、この後、後ろ向き

新しい世界はいつも突然見つかる。
ほんの一週間前、甲野先生との稽古によって「感情が自分」という世界を見つけた。最初、何が何だかわからなかった感覚が、徐々に言葉になっていく。そして、これは身体を自覚する前に存在していた「心」、「感情」なのだ、と落ち着いた。
 
本当は心でも、感情でもないと思う。しかし、形がないし、その共有だって身体を通してでしかできないのだから、どう名付けるかは自分にかかっている。
これを全く新しい造語で名付けるセンスがあればよかったのだが、どうもまだ、名付ける力はないらしい(笑)。
結局、自分の中では「心」、「感情」なのだ、と思う事にした。
 
一度頭がそれを落ち着けると、そこに「飽き」がやってくる。確かに新しいタイミングで動く事によって新しくできる技は増えていく。しかし、どうやら私は技にはそれほど興味がわかないらしい。それよりも、もっと違う世界がまだまだあるに違いない、と思い、それを求めている。
 
そして、思いがけず、今日、それがまた現れる。
今一つ、なにがきっかけになったのか定かではないが、「後ろ向きに歩いてみた」のだ。
お腹を伸ばしてみると、背中に意識が移る。背中には骨が作る壁があり、それよりも後ろへは行きにくい。この壁に従う事で左右の世界を切り切り拓く事が出来る。
前後への未練をなくせば左右の動きはさらに良くなる。そんな事を考えて、あえて、もう前へはいけないように、後ろ向きで歩いたのかもしれない。
 
良くわからないが、身体はちゃんと、行った動きに対して答えを返してくれる。これが素晴らしい。
後ろ向きに歩いてみた時、お腹を伸ばさなくても、楽々身体が左右へと動くのだ。
 
あっ、今、思いだした(笑)。
なぜ、後ろへと行こうかと思ったのか・・・。
それはお腹を伸ばすのではなく、逆に縮めていったらどうだろう、と考えたからだった。
前へ行くにはお腹を伸ばした方が進みやすい。逆にお腹を縮めてみると重心は後ろへ下がり、前へは出にくい。しかし、これは後ろへは進みやすい、という事だ。
 
そして、ここにもう一つきっかけがあった。
「この前」、「この後」という言葉。この「前」なのに、「過去」を意味するし、この「後」なのに「未来」を指している。日本語の不思議なところだ。
日本人は未来に背を向けて生きている、そう聞いたことがある。
そして、それを身体で、そのままやってみよう、と思ったのだ(笑)。
 
後ろへと進んでみた時、身体は軽やかに進みだす。後ろ向きながらも、望む方向へと身体は進むにも関わらず、左右の自由さまで備えている。そして、気分を表す上下の方向にだって止めるものはない。三つの方向、三次元のどこにもつまりがない事を感じられる。
 
良くわからないまま、身体を抑えてもらう。この時、当然、真後ろには下がれない。相手が見えないからだ(笑)。
自然と、「半身」になり、そして、肩を内側に巻き込み、気持ちは「後ろへ」向けながら歩いてみる。そしてその身体、手を抑えてもらった。
抑えられたことは認識できる。その瞬間、手を振りほどく。その動きにびっくり!どこにも角がなく、滑らかに振りほどけられた。
 
お腹を伸ばして背中に力を渡した動きも滑らかだったが、あれは「平面化」する事によって得た自由。動ける場所は左右しかなかった。当然、「かたくるしい」動きになる。その苦しさが「型」を想像させてくれた。
 
しかし、後ろ向きによって得られる滑らかさは相手を気にしない滑らかさ。とにかく自由だ。よくわからないが、間違いなく、新しい世界。これまで見てこなかった世界。また、研究したい事が増えてしまった(笑)。

【稽古録】2017/10/15 エンライトメント

新しい何かを見つけた時、興奮するのは仕方がない。ただ、だんだん慣れてくる。わかってくると、興奮は覚め、冷静さがでてくる。
しかし、この慣れを嫌う人がいる。不思議なものを不思議なままにしておきたいのだろう。しかし、頭だけが興奮をしていても、必ず、身体は少し、余裕を持ち出す。実はこのギャップが今自分のいる場所をわからせてくれるのだ。
 
先日、「悟り」というのを英語で「エンライトメント」と言うと聞いた。「明るく照らす」という事らしい。
それを聞いた時、思った。なんだ、これまでずっと、やってきたことじゃないか、と。
自分の事がわからないままで生きていける世の中だ。しかしそれが嫌で自分の内面、身体を手掛かりに感覚を掘り下げる事を始めた。
 
それまで意識のできなった動きが見つかった時、人間とはこういうものだったか、と分かる。世の中と自分との関係がすこしわかる。
これ、自分と回りが少しずつ見えていく事と言っていい。明るく照らされてくる。
 
今から思えば最初の気づきなんて本当にわずか。明るさで言えばろうそくでもなく、月明りよりも暗い。しかし、真っ暗だったところにわずかでも照らされるのだ、面白くないはずがない。
その明かりが徐々に大きくなっていく。自分の周りしか見えなかったが、どんどん大きく、さらに時間を超えてまで照らし始めている。なるほど、これが「悟り」か(笑)。
 
英語は軽くていい。日本に暮らしているからだろうか、俺は悟るぞー!なんて言ったらみんな怪訝な顔をする。俺は悟ったぞー!なんて言おうものなら大変だ(笑)。
しかし、エンライトメントなら、ちょっと電灯がついただけだ。その軽さが稽古で得られたのだなぁ、と思った。ちょっと重く考えすぎてしまう私にはちょうどよく、必要な事だったのだと思う。

【稽古録】2017/10/14 感情だってそこに「ある」。

浜松での稽古。
前半は文化センターで女性雑誌の新旧を並べお腹の確認。
最初、雑誌をみて言葉で説明をしてもそれはなかなか伝わらない。みんな「肩パット」を見てしまい、ふふふ、と笑ってしまう(笑)。
 
もし、この時、そうだ、わかった、と言ったとしても、実際にそれが実感を伴っているかどうかはわからない。
普段から素直に人の意見にしたがう良さを持っている人は、頭だけが先行してしまいがちだ。武術は身体と共に行かなくてはいけない。
 
実際にお腹を縮めている自分を見つけたうえで改めて雑誌を見てもらう。徐々にこの30年の間に身体に起こった変化がわかってくるみたい。
いきなり生活全部の姿勢は変わらない。しかし、気づけなければ、ずっと、時代に流されるままになってしまう。
お腹を縮めた事で幸せになっていればいいのだが、そうでないなら、身体を大きく、真逆に使い方を変えてみるのがいいと思う。稽古はそれができるのだ。
 
後半は福祉交流センターに場所を移して大人の武道塾。
もちろん、日曜日に出会った「感情」を研究する。
自分の怖さと向き合い、そのものになる。つい、身体が反射的に動いてしまうが、それが心を身体が追い越した、と丁寧に指摘をすると、徐々に無意識に行われている事がわかってくる。
2時間ばかりの稽古だったが、ちゃんと伝わる事が確かめられたのは大きい。明日また、名古屋で長く研究できる。全く予想のしていなかった世界は驚きでいっぱい。しかし、研究すればそれは当たり前になる。
当たり前になると言葉はたくさん用意されて、私が伝えたい事としての準備は整うが、実は、私自身もよくわからない間に、一緒によくわからない世界を探求してほしいと思っている。そんな稽古をすると、一人で自分の身体と感覚を探れるようになるからだ。
 
こういう時には「これが渡せます」という自信はないけれど、ぜひ、時間を作って稽古に来てほしい。よろしくです。

【稽古録】2017/10/13 理想の指導とは

少林寺拳法の指導での事。
高校生の男の子が初段、黒帯を受験する。実は、今回、4回目。正直、こんなにも落ちない。それは私の指導力不足ではあるのだけど、本人に本気になってもらわないとやはり、受からない。
 
しかし、中には適当だったとしても受かってしまう時もある。実は私はそんな感じだった。よくわからず、ガンガン厳しく指導された。そういう時代だったのだ。
その結果、黒帯を取ったがもともと、強さを求めて少林寺拳法を始めたわけではない。父親が先生だったから、いつのまにか、だ。
だからだろう、黒帯をとってもそれは自信へとつながらなかった。
 
初段でダメなら二段、三段、四段ならどうだ、と目指してもいい。しかし、私はいくら段位を重ねてもダメだった。出来る出来ないが武術武道ははっきりするからだ。
 
そんな私が指導するのだ。ただ、段位をとるだけの指導はやはりできなかった。段位を目指す道からすると寄り道だったと思うが、身体の使い方を小学生の頃からずっと、教えてきた。それも、強制は全くさせず、ただ、その時、自分が一番驚き、興味があった事を伝えてきた。
 
もしかしたらそれは、こんな便利な時代ではほとんど役に立たないものかもしれない。しかし、人生というのは平たんではないはず。その人生を進む乗り物はたくさんできたが、どんなアクシデントがあるかわからない。便利な乗り物を降りて自分の脚で歩きたくなることがあるかもしれない。くるかどうかわからないそんな時のために身体のすごさを伝えてきた。
 
四回目の受験をする彼は実は凄い。少林寺拳法は義務ではない。三回も失敗すれば辞めたくなってもおかしくない。実際、そういう子も多かった。武道なのに、たくさんの「学科」の勉強をしてテストを受けなくてはいけない。気持ちはわかる(笑)。
しかし、彼はチャレンジを続ける。一緒に稽古をしてきた仲間は先月合格した。それがまた、刺激になったと思う。初めて彼から悔しい、という言葉を聞いたのだ。
 
試験は日曜日。自分の事以上にドキドキする。しかし、この「ドキドキしているのが私」なのだ。これは、私の稽古(笑)。

【稽古録】2017/10/12 見えないものを当たり前に。

車が新しくなったのでお祓いに行く。今回はちょっと遠くの犬山の成田山へ。
ただ、私が「お祓い」をどうとらえているかというと、正直どうでもいいと思っている。それは、お祓いが無意味だ、という意味ではなく、起きた事をできるだけそのまま受け止め、生かせるのなら流れに乗り、困るのなら打ち消せばいいと思っているから。
ちょっと前にも「運」の話を書いたが、間違いなく、運はあるのだ。昔の人は生かしていく方法を数多く残してくれたが、あまりにも科学的なものが増えてしまった事で、運を感じる感性が薄くなってしまったのだろう、と思う。
 
今、相変わらず、見えないものはなにも見えない。本当に、ずっと待ち焦がれているのに(笑)。
ただし、その「見えないもの」はどうやら私が小さく限定してしまったものらしい。だって、この自分の中にあるものだって「見えないもの」だもの。
 
肉体の前にあるものを自覚して、なんとかそれに集中する方法はないか、と探している。集中する方法の一番目は言葉にする事、この現象、この感覚に名前を付ける事だ。
肉体の前にあるんだけど、自分だと確信できるこの感覚。つい、心とか、感情など、ありふれた言葉を使ってしまうが、もう、それでいいかな、と思っている。
心や感情と名付けて生まれるデメリットは、これまで書き残してきたものの中にある「心」や「感情」との整合性だけ。同じ言葉を使っていても、その中身がまるで違う、という事だけちゃんと伝えておけばいいかな、と思う。
 
これは「腰」の位置みたいなもの。
現代人がイメージする腰はくびれ、ベルトの位置だそう。しかし、もちろん、昔の人なら着物の帯の位置だろう。いつのまにか、骨盤から腰椎へと、腰の位置が変わった。しかし、言葉は残っている。昔の人たちが残そうとした技術、感覚の中に「腰」という言葉を使って残しているものもあるだろう。その腰は現代人の腰とは違う、それがわかればせっかく残してくれた言葉を変えなくもいい。
 
肉体の前にあるもの。私の場合、それは驚きやすい心、怖れやすい心だ。驚いた瞬間、そこに間違いなく驚いた私が存在する事になる。その驚いた私そのものが動けば圧倒的に速い、と分かってきた。身体は消えて、自然と生まれてくる感じがしてきた。
 
毎日、ちょっとどころではない変化が生まれている。この変化の激しい熱い時期にぜひ、技を受けてほしい。

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