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【稽古録】2017/11/11 感情と肉体とをつなぐ内臓

浜松での稽古。
第2週目は浜松中日文化センターの日。気がつけばこの浜松中日文化センターでの講座もまる10年を過ぎた。初めて文化センターでの仕事を頂いたのがこの浜松だ。
残念ながらこの浜松中日文化センター、来春での閉鎖が決まったとの事。
悲しくもあるが、それとはちょっと離れたところで見ている自分もいる。この自分が分かれた感覚を稽古では磨いてきたのかな、と思う。
 
人間は感情のある生き物だ。その感情によって幸せも得られば、絶望にも近づいたりする。
そんなパワフルな感情は扱いきれない、だから手放したい、と願ってもそう簡単にはできない。
理論、理屈は感情とは切り離されたもの。評論家は自分の事を棚に上げてああすればいい、こうすればいい、と勝手を言うが、現場にいる我々は感情と向き合い生きていかなくてはならない。
 
それでも時々、感情と自分がわかれる時がある。
父が亡くなったのは突然だった。あの日も浜松へ向かっていた。その道中で連絡をもらった。
余りに予想外だったせいだろうか、感情もそれほど暴れずに、文化センターの仕事だけはこなして帰ったが、その後、喪主の役目を言い渡されたりしてまた、混乱した。
悲しい反面、冷静な自分もいるのを見つけると、自分の事がまたわからなくなる。
いま、その時の自分を思い返すと今ならもう少し自分らしく過ごせたかもと思う。
 
経験は大切だ。そして貴重。
しかし、多くの場合、当たり前として、流してしまう。
過去は済んだ事と、研究材料にする人は少ない。
今、稽古の度に新しい発見がある。実はその発見はすでに日常生活で現れていたものが多い。ただ、その時には気付けなかったことなのだ。
 
感情を分ける、というのもそう。
感情と肉体をつなげたままではどうしても恐れが多い場面では動けなくなる。
内臓を触れるようになり、内臓への意識が高まった。するとどうだろう、なにかが起こる前にすでに内臓はそれを感知して反応し、動きを始めていた事がわかった。
内臓の動きと骨や筋肉群の動きが合わなければ当然、そこにつまりが生まれる。
 
身体に現れるのは当たり前の事ばかり。気の世界は自由だろうが、身体は不自由なのだ。
しかし、不自由だからこそ、そこに従える。
従ってみればそれはモノサシのようであり、動きの精度が格段に上がる。
 
今日の稽古は内臓を触りまくった(笑)。
とてつもない技術としてではなく、遊びのように内臓に触れていればそれが当たり前になる。
私の稽古はそんな上達の仕方を望んでいる。特訓は要らない(笑)。

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