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2017年12月

【稽古録】2017/11/21 家庭崩壊は簡単に起こる

内臓と手の関係がわかり「親子」の役割分担がわかってきた。
頭で理論としてわかればそれを応用する事ができる。
その応用がうまく行った時、何十年も無理だと思っていた事、いや、考えもしなかった事が出来るようになる。
今日出来るようになったのは武器を持つ相手から「ヒョイ」とそれを奪い取る事だ。
 
内臓が親の始まり、そしてそれは手首まで。だから腕に力を入れさせず、手だけを相手にする。
この動きがわかって一つ思いついた。
「家庭崩壊は簡単に起こる」という事(笑)。もちろん、その経験がある人には笑い話にはならないと思うが、そこに理由を見つければ、その後の対応に気持ちは前向きになるはず。
 
手首から先「だけ」を動かす相手が現れた時、いくら胴体、腕が力強くても手首から先を抑える事はできない、というのが今見つかった事。
親である腕は手を自分のものとするように力を入れる。しかし、手は簡単に外からの力になびいていく。新しい魅力に手は勝てない。
腕としてはもう、手について行くしかないのだが、これが現実にはなかなか難しいのだろう。どうしたって、それは間違っている!と手を叱りたくなる。しかし、仕方がないのだ。
 
子供という人格の違う存在を相手にすればどうしたって対立してしまうが、自分の身体の中にある親子関係には従うしかなくなる。
たった数日だが、もう、私はあきらめた(笑)。もう、子供を自由にするしかない、と。
 
そう考えて次々にこの術理を当てはめてみると面白い。
手の中にも親子があったのだ。
手のひらの中心にある有名なツボ、「労宮」を内臓と見立てれば指は腕に見えてくる。
その指の先に持っている道具、武器が子供だ。
 
武器を持った相手と対峙するのは難しい。
どうしていいのか、まず、答えが浮かばない。同じやられるにしても、なにをすればいいのかわからないと、心が先に壊れる。
しかし、まず頭ですべきことがわかればそこに全力を投入できる。そのうえでやられるならば、それはうまくやれなかっただけなのだから、次を頑張ればいい。答えがない事が頭には一番辛いのだ。
 
道具、武器を子供と見立てればやる事はおなじ。「子供だけ」を連れていくように奪い取る。
握力を使わないようにすれば意識は相手が持っている道具へと集中していく。すると、相手の手の内でその武器が意志を持ったように動き出すのだ。
結果的に、手指の間をすり抜けて「ヒョイ」と奪い取ることが出来る。
 
「奪い取る」という表現をしたが、それは観察をしている私の視点。ほんの少しでも「自分が」取ろうとすると、手指に力が入り、喧嘩になる。あくまでも、道具に集中し続ける事、それが肝心。
 
理屈はわかった。後はそれをどんな時にでもやれるように稽古を重ねるだけ。疑いのある思考を徐々に手放していくだけだ。

【稽古録】2017/11/20 親子の発見

手首から先を斬り落とす技、どうやらこれは「親子」の関係を教えてくれているようだ。
意識を内臓へとしまっておくと胸や腕に力が入らない。しかし、細かく身体を観察してみれば、手首から先は自由になっているのがわかる。
胸や腕の力みが抜けて、手が使えるのだから当然、相手からは感知されにくいのだろう。
 
相手が抑えてくるのは無意識のうちに腕、そして、それとつながっている土台である胴体だ。
この胴体を捨てるのだ。ついつい、なにかをしたくなり、力を入れてしまっていた。しかし、力を入れれば相手だって力を入れる。感応しているのだから当たり前である。それでも、これ以外の方法がなかったのだから、力を入れたうえでどう動かすかを気にして稽古をしてきた。
 
しかし、違う。もう、胴体から腕の部分には隠居をしてもらい、休んでもらう。手が行う事に文句を言わないように注意をさせるのだ(笑)。
するとこの手は伸び伸びと自由になる。
 
親子の問題で苦労をしている人は多い。
声の大きい人は自分の方法が一番、と子育て法を押し付けてくる。
まぁ、その方法だって合う人には合うし、合わない人には合わない。
これ、武道の世界と同じだ。
 
先生、先輩はそれぞれ正しい、と思った事を押し付ける。
体格や癖が違うにも関わらずやらせる事は同じだ。結果、ほとんどの人はうまくいかない(笑)。
趣味である武道であれば出来なくたって、それを求めている時間自体が楽しいのだからいいだろう。
しかし、子育てとなると、失敗だったなぁ、はとてもつらい。
 
私は何に対しても身体から気づく事を応用している。
子育ての問題だってそうだ。
自分の子育てがいいとは思わないが、その都度、一番納得のいく事をやれている、という安心感はある。
身体に見つかる法則は完璧に信じられるものだからだ。
 
今見つかってしまった法則は子供を信じる、という事。
言葉としては実に簡単。しかし、ついついでしゃばって口をだしてしまう。その時、ぎゅっと内側に閉じ込んでいられる場所が必要なのだ。それが内臓。
内臓にぎゅっと引きこもれば口出しができない。するとトンデモナイほど軽く早く手が動く。
 
もう一度言う。
胴体から手首までが親。手首から先の手が子供だ。
子供を腕が動かしてはならない。その時、頑張っていると、自分は頑張っている、と言う気持ちは得られる。しかし、それは本来の手の能力からすれば自己満足にすぎない。
 
ちょっと前の世界ならばある程度の年齢が来れば親は引退をしていた。自然と子供が主役になれたはずだ。
しかし、今は親も引退なんてしていられない。子供のまま、世界を楽しむ気満々である。
なにが良くて悪いのか、それを決めるのは自分だ。
その時、確信をもって決めるために何かがいる。それが身体だ。

【稽古録】2017/11/17 新たな動き、手首から先だけを斬り落とす

身体がある、と言うのは本当にありがたい事。
今、現代人は身体を忘れて、頭で世界を見ている。広い世界を見続ければ確かに新しい何かと出会う事が出来る。
しかし、余りに大きな世界は頭がシャットアウトをする。引きこもってしまうのだ。
新しい何かを起こそうとする回りが敵に見えてきたなら要注意。
 
身体がある、というのは身体からの影響から逃れられない、という事。身体の事なんて気にしない、と思っていても誰しもが歳をとる。老いるのだ。
また、アクシデントによってケガもするかもしれない。
それまでの身体とはまるで違う身体に突然なるのだ。
 
身体が変われば当然、心も動かされる。
病気によって気の強い人間が良い人間へと変わる事だってある。
きっかけをくれるのが身体なのだ。
 
私はずっと、その身体を見続けてきた。身体の声をもっと細かく聞けないかを追求してきた。
求めているんだから人よりも多く、身体が変わるという瞬間に出会う事が出来る。今日もそんな日だった。
 
内臓を考え「斬り落とし」を稽古していたのだけど、相手もだんだんと腹が出来、丈夫になる。
それでもなんとか崩すのだけど、楽しくない。こちらのやりたい事がばれているからだ。気配を覚られている。
ふと、自分の内臓を意識できるのであれば相手の内臓も意識が出来るのではないか、と思いついた。お互いの身体が感応をしているというのはわかっていたからだ。
 
相手の内臓に気持ちを集中してみると、不思議に胸や腕の力が抜けてきた。そして、手首から先だけがボワッと強調されているように感じる。
その手首から先だけを斬り落とすように動かしてみた。
これまでと全く違う動きに驚いたのか、大きな身体を持つ彼がガクンと崩れていった。
 
2度、3度それを試してみて確信に変わる。これは全く新しい世界だと。
これまで必死になにかをしようとしてきたのが馬鹿らしく思えるほど「軽い」。
自分の中に生まれたこれまでの否定は受け入れざるを得ない。
でも、もし、組織的に定義してしまった基本があればこの現象もなかったことにしてしまうかもしれない。
甲野先生のおかげで「基本なんかない」という考えの元、稽古を続けてこれた。それは学ぶ側からすると大変なようでなかなか伝える事ができないが、自分一人で自分の身体を切り開く、と決めた人には力強い言葉になる。
 
この手首から先を斬り落とす技がどう展開していくのか全く分からない。でも、これまでよりも軽く、速く、大きな働きを生むことは間違いない。

【稽古録】2017/11/15 内臓は膨大な時間を持っている

どうやら私は長距離のドライブと相性がいい。のんびりとしたバイパスを定速で走っていると、頭の中はすぅ~と静かになる。
そして今日も豊橋からの帰り、ひとつひらめいた事があった。
このひらめきによって、何かが生まれるわけではない。しかし、間違いなく私の心はこれで軽くなり、楽しく、幸せになった。
 
そのひらめきとはこうだ。
生まれてからの時間は骨や筋肉を作る。しかし、生まれる前の時間は内臓を作るのではないか、という事。
今、私の興味は内臓に向いている。これまで見てこなかった内臓を見直している。
内臓は考えれば考えるほど、たくさんの事に気づかせてくれる。
これまでとは全く違う、大きな世界を考えさせてくれるのだが、なぜだろう、と思っていたがその理由がわかったのだ。
 
大きな世界を見せてくれる理由とは、内臓が膨大な時間をかけて作られたものだからだったのか、と今日気がついたのだ。
母親のお腹の中にいる時間は10か月。我々が測れる時間としては長くない。しかし、その10か月の間に小さな受精卵は何万年、何億年かの進化をたどる。命の不思議さだ。
 
人になる以前に私たちは猿だったのだろうか。猿になる前、両生類や魚だったのだろうか。それは良くわからない。
しかし、命の始まりから膨大な時間をかけてヒトにまで進んできたのは間違いないと思う。
肉体においてはヒトに生まれたならば、もう次だってヒトだ。後戻りはない。
 
内臓が目に見えなくて、意識がしづらいというのも無意識という領域を想像させてくれる。
内臓を意識した時、その膨大な時間を自分のものと感じることが出来る気がする。
この事が心を楽しくさせるのだ。
 
言葉で説明する事は困難。しかし、身体を通して触れ合えば必ず伝わる。その時、感応しあうのが内臓に違いない、と考えている。いやぁ~楽しい。

【稽古録】2017/11/13 獲得!腹八分目(笑)

今日も内臓を触る。
内臓が「ある」という事に気づいたのは確か、先月末の浜松からの帰り道。車の中でなにげなく触れてみたところ、いつもとは違う感覚を得たところから。
しかし、まさか、あの一触がこんなにも大きな展開になってくるとは夢にも思わなかった。
 
内臓はどうやら、内側から刺激を受ける。
当たり前だが、食物を取り込み、消化、吸収して排泄する。
目には見えない奥、いや、裏側で仕事をする。
 
ふと思いついたことがある。
これまで私は「外側の身体」に注目してきた。その身体が一番見やすかったからだ。
その結果、考えられないような動きを手に入れる事になったが、そこには純然と理屈がある。身体が動く理由が頭で私はわかっている、そう考えた。
そして、それを内臓にも使ってみよう、と思った。
 
もちろん、内臓を前後左右上下に自由へと動かすのにはまだ身体感覚の精度が足らない。
しかし、動きの始まりぐらいは見つけられる。
外側の身体に強い圧力がかかると動けない。もちろん、それに負けずに術理を求めるのだが、最初からあまりに大きな圧力をかけると何が何だか分からなくなる。
これは内臓も同じではないか。
 
内臓にとって敵は食物、食べ物だ。
私は満腹が大好きな人間。そんな自分がこれまで嫌だった。自分がどれだけ食べたらいいのか、食べられるのかがわからないのだ。
私の食事を止めるサインは満腹しかなかった(笑)。
しかし、満腹では動けない。いまの内臓感覚では満腹は強すぎる。
ならば、少し、抑えたらいい。理屈は簡単だ。
 
いつもの食事を腹八分目で抑えてみる。
空腹感もなく、そして、満腹感もない。この状態は実に内臓が良くわかる。内臓を躍らせ、動きのきっかけが作りやすいではないか!
 
40も半ばになって、やっと「腹八分目」を手に入れた(笑)。

【稽古録】2017/11/12 シン・ゴジラと進化と稽古

今日テレビで「シン・ゴジラ」がやっていた。
甲野先生に出会って以来、なにをするにも、なにと出会っても身体から見てしまう。
昨日父が亡くなった時の事を書いたが、喪主でありながら、身体から世界をみて、見送った。これが喜ばしい事なのか親不孝なのかはわからないが、身体感覚によって自分が生きている、という事を実感しながら生きることが出来るようになった。
まぁ、子供が幸せを感じているのだから親も諦めるはず、そんな感じだ(笑)。
 
シン・ゴジラの話だった。
この話もやはり身体というフィルターを通して見る。
海中で生まれたゴジラ。そして陸に上がり、立ち上がり、光線を出して街を破壊する。
ここに進化が描かれているという。
魚から始まり、両生類になり、哺乳類、そして人に向かう。
このストーリーの背景にはあのゴジラから人が生まれ、空を飛ぶというのもあったらしいが、ぜひ、それも見たいものだ。
 
頭で進化を考える事はたやすい。学校で学んだ事を思いだせば、進化は当然、と思えるだろう。
しかし、それを身体で感じた時の喜びを現代人は知らない。本当にもったいない。
今年、私は爬虫類の歩行を手に入れた。歩き方が変わったのだ。
歩く事なんて誰でもできる、と思っているかもしれない。しかし、トンデモナイ。車や電車、ネットがあるから歩かなくてもいい時代になった。だからこそ、我々は歩き方を忘れてしまった。
爬虫類的歩きは重力をフルに活用したもの。この歩行のおかげで重心が前後へと滑らかに動くようになり、夢だと思っていた人を飛ばす突きを手に入れた。
 
漫画や映画の世界のものだと考えていたが、極々、当たり前の現象だった。
この動きをきっかけにしてこれまでの動きを見直してみると、そこに見つかったのが「進化」だった。
手を上げる、という動き一つをとってもまるで違っていた。
本来は楽々自由に上げる事ができたはずなのに、自分勝手な手が相手と衝突を作り、苦労を生んでいた。自らが困難を求めていたとしか思えない。
 
お腹を伸ばして肩を背中に落とせば腕は前に行かなくなる。自然と動きは背中の面に従う二次元的になる。
そして、それを自覚したまま、肘から先を使えばいよいよ三次元的な動きになる。哺乳類が肘や膝を使い立ち上がったのは関係がないところではないだろう。
 
進化を考えるうえで問題は人だ。
ただ動くというのであれば動物で構わない。むしろ、動物の方が人間よりも動きがいい。では人になったという進化はなにを象徴しているのだろう。
ゴジラをみて、ハッとした。
 
身体のあちこちから光線を出すゴジラ。第四形態というらしい。
それを見て、あぁ、これは人だ、と私は感じた。
ただ動くのではなく、世界に影響のあるなにかを「発する」のだ、と。
動物には武器がある。特徴がある。その武器、特徴を世界に発している。
しかし人にはこれと言った武器がない。特徴もない。しかし、頭は働く。自分の思考によってどんな事を世界に発したいかを決める事ができるではないか、と。
 
身体を稽古してきてただ動きを求めるだけでは面白くなくなってきた。なぜ、私がこれほどこの世界にはまれたのかその理由がわかった。
それは研究をさせてもらえたからだ。
 
ものすごい教え上手な人に出会い、よくわからず新しい動きを手に入れてもそれはすぐに飽きてしまったと思う。
副作用なく完全な動きを手に入れる事が出来る薬があってもこれほどまでの喜びは得られなかったと思う。
今の自分をとにかく受け入れ、ほんの少しでも新しい動きがないかを探る事、研究する事がなにより楽しいのだ。
そして、研究によって考え方が変わる。その瞬間から私は別人になる。この繰り返しでずっと来ている。
 
人は可能性の塊。どんな生き方を選択する事も自由だ。
内側に見つけたものを外側に出していく。形あるなにかを求めているわけではないのでなかなか手を出しづらいと思うが、これによって他者との違いを楽に受け入れる事が出来るようになる。きっと、求めている人はいるはずだ。縁ある人に伝えて行こう。

【稽古録】2017/11/11 感情と肉体とをつなぐ内臓

浜松での稽古。
第2週目は浜松中日文化センターの日。気がつけばこの浜松中日文化センターでの講座もまる10年を過ぎた。初めて文化センターでの仕事を頂いたのがこの浜松だ。
残念ながらこの浜松中日文化センター、来春での閉鎖が決まったとの事。
悲しくもあるが、それとはちょっと離れたところで見ている自分もいる。この自分が分かれた感覚を稽古では磨いてきたのかな、と思う。
 
人間は感情のある生き物だ。その感情によって幸せも得られば、絶望にも近づいたりする。
そんなパワフルな感情は扱いきれない、だから手放したい、と願ってもそう簡単にはできない。
理論、理屈は感情とは切り離されたもの。評論家は自分の事を棚に上げてああすればいい、こうすればいい、と勝手を言うが、現場にいる我々は感情と向き合い生きていかなくてはならない。
 
それでも時々、感情と自分がわかれる時がある。
父が亡くなったのは突然だった。あの日も浜松へ向かっていた。その道中で連絡をもらった。
余りに予想外だったせいだろうか、感情もそれほど暴れずに、文化センターの仕事だけはこなして帰ったが、その後、喪主の役目を言い渡されたりしてまた、混乱した。
悲しい反面、冷静な自分もいるのを見つけると、自分の事がまたわからなくなる。
いま、その時の自分を思い返すと今ならもう少し自分らしく過ごせたかもと思う。
 
経験は大切だ。そして貴重。
しかし、多くの場合、当たり前として、流してしまう。
過去は済んだ事と、研究材料にする人は少ない。
今、稽古の度に新しい発見がある。実はその発見はすでに日常生活で現れていたものが多い。ただ、その時には気付けなかったことなのだ。
 
感情を分ける、というのもそう。
感情と肉体をつなげたままではどうしても恐れが多い場面では動けなくなる。
内臓を触れるようになり、内臓への意識が高まった。するとどうだろう、なにかが起こる前にすでに内臓はそれを感知して反応し、動きを始めていた事がわかった。
内臓の動きと骨や筋肉群の動きが合わなければ当然、そこにつまりが生まれる。
 
身体に現れるのは当たり前の事ばかり。気の世界は自由だろうが、身体は不自由なのだ。
しかし、不自由だからこそ、そこに従える。
従ってみればそれはモノサシのようであり、動きの精度が格段に上がる。
 
今日の稽古は内臓を触りまくった(笑)。
とてつもない技術としてではなく、遊びのように内臓に触れていればそれが当たり前になる。
私の稽古はそんな上達の仕方を望んでいる。特訓は要らない(笑)。

【稽古録】2017/11/10 一回稽古制のススメ

先週から夜の稽古に警察官の方が来ている。聞けば一年ぶりになるという。ただ、私にそんな気持ちはなかった。
久しぶりなのはもちろんだが、そんなに経っているとは・・・。
 
多くの習い事は決められた時間に行われる。月謝を払い通う。
仕組みとしてはありがたいものだが、仕事や諸事情で毎月通えなくなるとどうしても、足が遠くなる。気持ちは参加したくても久しぶりの壁はなかなか大きい。
 
甲野先生の道場は変わっていた。常に一回稽古制だったのだ。こんな教え方、教わり方があるとは思わなかった。
そこで刺激を受け、それぞれの街に帰り、それぞれが勝手に稽古をして、また刺激をもらいに先生のところへと行く。
数か月ぶり、一年ぶり、数年ぶり。普通の習い方ではありえない不真面目さがある(笑)。
 
しかし、そこに強制が無いからこそ、それぞれの心の中には自発性が生まれる。
一年ぶりに来てくれた彼もこの気楽さがあるから来てくれたのだろう。
そして一年さぼっていたわけではないはず。自分なりに考え、練習をし、自分の身体で試しに来たのだと思う。
 
しかし、こちらの稽古も止まってはいない。一年前の事は全部忘れていいよ、と伝え、とりあえず漫画のように人が飛んでいく突きを体験してもらった。
その瞬間、「久しぶり」という空気はまるでなくなり、目が白黒して、さっそくこの技はなんですか!と稽古になった。これだから一回稽古制の稽古は楽しいのだ。

【稽古録】2017/11/08 ヒントは日常の中に

何日か前、野球のバッティングの映像を見た。その時、手首を返す動きが印象に残った。
とにかく、力を抜いた普通のスイングだったのだが、手首がくるりと帰っていたのだ。
答えのないものを探っているので気になった事は試している。ただ、それが必ず技につながるかと言うともちろんそうではない。
しかし、今回は違った。新たな技につながった。
 
手刀で相手に斬っていく。気配を消しているわけではないので当然相手は簡単に受け止める。
受け止められた後、つい、力を込めて相手を崩したくなるがここは我慢。
受け止められた後、ほんの少し相手の力に乗って戻ってみる。
そして次の瞬間手のひらを返して再び相手に手刀を入れていく。
単純に手のひらを返しただけなのだが相手はその手刀を抑えきれずに崩れていくのだ。
 
フェイントらしい動きがあるわけでもない。
同じように手刀を相手に入れているにも関わらず、最初の手刀は止められ、二度目の手刀は入っていく。よくわからないが技になった。こういうのは楽しい。研究を続けよう。

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