ドキドキ、ワクワク、ゾクゾク
現代は目に見えないもの、数字として測定できないものはどんどんと排除している感じがありますね。
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現代は目に見えないもの、数字として測定できないものはどんどんと排除している感じがありますね。
ある時期、自己啓発の本をよく読みました。
なにかをうまく生かせるために何より必要なのは自信です。
もし、自信がないままうまくいったとしても、次、うまく行かないかも、という不安が生まれてしまうからです。
そして、最強の自信は気にもとめない自信。自信が有るかどうかすらわからないほど気にしていない状態。自信という言葉も似合わないような状態があります。
そんなところにまで意識を高められたらいいですよね。
一生懸命努力する、がんばる、という言葉はアチコチで聞きます。がんばりません、とあくびをしながらオリンピックに出場する人はいません。努力は現代を象徴する言葉です。
しかし努力は全てではなく、一つの方法です。努力をしたい人はすれば良いし、それができる世の中です。
ただし、努力が似合わない、と思った人は無理してやってもしかたありません。自分に似合う方法があるのですから。
しかし、そんな自分に合う方法は外にはなかなか見つかりません。
世の中は常識が強くなりました。世界中どこにいても、同じ情報を共有できます。ひとりの成功者が多くの人の憧れの的になります。その人の言葉をきき奮い立たせられると、つい、同じ方法を行ってしまいます。
例えばこの時、憧れのカリスマがひたすら人生の全ての時間をかけてなにかを成し遂げると、自分も時間をかけたくなります。
他にやりたいことがあっても、我慢をして、努力してしまいます。
しかし、これは、表面的な事だけ。
同じように時間はかけていても、一方は我慢して、もう一方は結果的に、時間をかけていただけかもしれません。
同じ時間であっても、苦痛の時間と、楽しみによって時間が消えていた場合とでは成果は違って当然です。
自分に合う方法を見つけなければ、結果的に大変な遠回りとなってしまいます。
最近、私は人は「攻撃型」と「防御型」に分けられる、と気づきました。
私は完全な防御型です。ものごころつく前から、まず守り、それから反撃、と教わってきましたから。
しかし、学校や仕事、日常という常識の中で学んできたのは攻撃型の生き方でした。
その違いに気づけなかったので、時々、そのギャップに躓いてしまっていたんだ、そうわかりました。
スポーツの世界は攻撃型です。攻撃をして、点を取らなくては優勝出来ません。
しかし、武術の場合、命を守る、という点からすれば危ない機会を避け続ける事ができればそれが一番の正解とも言えます。
西洋的な考えでは自己主張をし、他者を倒し、願いをかなえることを良しとするかもしれません。
しかし、周りを気にせず、振り回されず、ニコニコと毎日を暮らしても良いはずです。じっと目を瞑り、瞑想をする。一人の世界を作り上げる事も方法の一つです。
あらゆるものには真逆の成功があります。
そのどちらに行きたいのか、それを決めなければ間違ったところに行ってしまったときに待っているのは天国ではなく地獄です。どんなに他人から、いいね!と言われようが自分の居場所ではない、と気づいてしまうと逃げ出したくなります。
最初の一歩を見るには大きな成果に惑わされない心が必要です。
今、大きな成果が誰の前にも有りますよね。これを見ない事が本当に難しい!
便利な機械なしでは今の世界は成り立ちません。魚を釣って食べていただけの時代とは違います。
便利な機械、仕組みを嫌って、山にこもる、という事ももう出来ません。どんな山にこもっても、周りには恩恵を受けている人たちがあふれています。
身体感覚は小さなものを見る目を与えてくれます。
最初の一歩を見ることが出来るようになります。
最初の一歩という答えをくれるのではなく、その時、その瞬間の自分の最初をいつも、追い求めさせてくれるのです。
最初の一歩がドンドンバージョンアップされるんです。新しい最初の一歩を見つけた瞬間、心は変わります。自分のやりたいことにあわせて、気持ちの方向を揃えてみると、自信が沸いてくるのです。
今、これを書いている私は「攻撃型」です(笑)。
武術のお陰で無限にアイデアが沸いて出てくる、という武器を手に入れました。
成果を上げることは上手になっても、自分のやりたいことを見つける力をなくした人がいます。
どんなに成功しても、その先にあるのは不幸です。
私が手に入れた武器は求めれば必ず答えの得られるという武器です。自分の中からひらめきは出て来ます。
自分が本当にやりたいことは何だろう?
そんな問いを立てれば答えは出て来ます。答えは五分後にやってくるかもしれません。10年後、20年後かもしれません。
時間はわかりませんが、間違いなく答えはやってきます。
そして、稽古という研究を習慣にしたことで、答えを待っている時間も楽しいものとなりました。
常識的に楽しいものを楽しむのは簡単です。
それにくわえて、病気やケガ、アクシデントなどで人生を迷ったとき、そんな時にも楽しめる事ができるようになりました。私が手に入れたアイデアがあふれてくるという武器は心に、楽しさ、安心を生む防具でもあったようです。
日本人は武器と防具を同じモノとして育ててきたように思います。
片刃の剣を両手で持つ。西洋のように、頑丈な剣も丈夫な盾も鎧も作りませんでした。
薄く細い刀だけで攻撃も防御も行ったのです。
常識では考えられない方法で薄い刀に身を隠しました。こんな防御法、ありえません(笑)
一器多様、一つのモノをアイデアを使い、生活に合わせる。それこそ、日本人の強さのような気がしてなりません。
世の中が西洋化していくのは否定しません。新しいものが増えていく楽しさが得られます。
しかし、社会が変わらなくても、新しい使い方が増えていくのも楽しいのです。
これも、最初の一歩が2つある、という強さです(笑)
嫌いなものを嫌わずちょっと試す、そんなところから始めてみてください。
カラダラボウェブサイト
世の中は便利になって、自由になって、やれる事は増えたけれども、それが本当にやりたい事かはわからないものですね。
テレビや雑誌、こちらから見れば夢を叶えたような人であっても、そこに満足せずに今を投げ打って新しいものにチャレンジする人もいます。
チャレンジは見ていて楽しいものですが、本当にやりたい事に向かわず、そこに居続けることで魅力を失えていく姿を見ていると、少し、辛いです。
本当にやりたいことは何だろう?
多くの人が「頭」で考えます。
多くの人が考えて、ちゃんと答えに向かえればいいですが、どうやら、これだ!という答えは見つかっていないみたい。
本当にやりたい事はなかなか見つからない、私はずっとそんな思いでいました。
先日の稽古で「立つ」事の理解が広がりました。その結果、見えてきたのは、本当にやりたい事の見つけ方です。
本当にやりたいことは命が尽きる瞬間でも行いたい、と思うことなのだ、そう感じました。
それに気づいたきっかけは肺を半分にし、胃を半分に、心臓を半分にしたとしたら、その瞬間、立っているのも精一杯だろうなぁ、と研究しはじめた事です。
「立つ」という事を本当にやりたい事として表現できた実感があったのです。
武術ですから、自分勝手ではいけません。
目の前に敵がいます。敵がコチラに攻撃を仕掛けてきます。その攻撃をどう受け入れるか、それを考えなくてはいけません。
本当にやりたいこと…を考えてうまく行かないのは自分勝手に自分の事だけを考えるから。おそらく、周りにいる他の人も本当にやりたい事を求めているのでしょう、無意識の中で。そこに衝突が生まれ、より強い意志を持った人の本当にやりたいことが現れます。
武術は常に相手との共同作業です。
「立つ」という事を本当にやりたい事にするために、まず、「立てない自分」を作りました。
これまで考えたことのない肺や心臓の事を考え、これらが働かなくなったときの自分を想像します。この想像、イメージが内観的な稽古のお陰でリアリティを持ち出したのかもしれません。内臓を弱くする事で意識の中で「立てない自分」が生まれました。
この時、他に力がなければそのまま倒れるだけですが、この時、気力が残っているのではないかとひらめきました。
息をするのも精一杯、これは「ドン底」です。
ドン底なのにさらに怖い、というのは本当のドン底ではなかっただけ。
本当にドン底にいたら、相手がいくら邪魔をしてこようが気にする余裕がないのではないか、そう思えてきました。
そういう気持ちで立ってみると、相手がいてもいなくても、自分の意識はひたすら、足元です。バランスを取ることに専念します。
それが気力のようなもの。形としてないけど存在している力です。
その力はバランスを取るだけ。それを動かしてみると、結果的に身体全体が動き、技になる。そんな仕組みを自覚しました。
仕組みがわかれば後は応用。
運命として、人生の中でその仕組みを使うにはどうしたらいいのか考えたくなります。
本当に自分のやりたい事とはなんだろう?
その問い持ったとき、命を意識しない状況ではだめだな、とわかります。
しかし、今の私はそんな命の危機はありません。ただ、稽古でなら内観力を育てる事ができます。少しずつ、身体を手放すことにリアリティを持てば、本当にやりたいことの「精度」が上がるはず。
本当にやりたい事が見つかるかもしれない、それがわかったので、それを、求めること。これも研究の一つになります。
研究を癖にすると、安心はありません(笑)
わかっても、また、次のレベルを求めるからです。
これを楽しむために稽古があります。ぜひ、一度、お試しください。
学校卒業、入学、進学、就職、恋愛、失恋、結婚、誕生…生きている間にはたくさんのイベントがありますね。
そのイベントをきっかけにして「変わりたい」と思う人、実際に「変わった」人、いるかと思います。
イベントが起こると環境が変わるので、その力を借りる事で「変わるぞ!」と強い気持ちが出るのでしょうか。
私はそれらのイベントでは変わらなかった人。いつも、こんな自分は嫌だ、と、変わりたいという気持ちはありましたが、自分から変化に踏み出すことなく生きてきました。
でも、今は信じられないほど変化を受け入れているなぁ、と思いました。
身体の感覚を探り、新たなものを見つけ、それを基準にすると、難しかった事が簡単に見え、嫌いなもの、避けたいものが受け入れられるようになります。
イベントで変わるのではなく、身体で変わるのです。
この方法はとても大きなメリットがあります。
それは毎日が新しい自分になるチャンスになる、という事です。
入学や卒業などのイベントは節目にしかやってきません。毎イベントを逃さないように意識するのは少し、疲れそうです(笑)
しかし、身体を見続ける事はいつでもできる事です。
そして、突然、新しい感覚に気づいたりするのです。
もしかしたら、その変化はイベントでの変身よりも小さなものかもしれません。
新しいコーヒーの飲み方を見つけても、それほど、人生は変わらないかもしれません(笑)。
しかし、その変身の積み重ねが変化に強い自分を作ります。
積み重ねることによって、それまで、見逃していた小さなものを見つけやすくなるかもしれません。
変化なんてしたくない、今、絶好調で強い自分を感じている人はそう思うかもしれません。
しかし、人間は誰もが「老います」、変化をきらっても必ず、変化はやってくるのです。
先日、病気の事を聞きました。肺を切除するかも、というお話です。
また、心肺停止にもなった、という、話も聞きました。病気について考える機会の多い一週間でした。
そして、ふと、思いました。
今、自分がそうなったらどうだろう?
病気を嫌うのは簡単です。命に関わるものならさらに、です。
しかし、物事には嫌なものだけではない、という事を稽古は教えてくれました。
命に関わる病気を通して、それを心から望める気持ちになるには何かないだろうか?と問いが生まれます。
問えば応えてくれるのが私達の脳。それを助けるのが身体です。
今、大切にしている術理は「折りたたむ事」、これは「手放す事」と同意です。
身体を半分手放せば、心配もなくなり、新しく前向きな気持ちが増える事がわかっています。
肺を切る、胃を切る、心臓の力が弱くなる。内臓を「半分」手放してみたときの事を想像すると身体がぎゅ、と小さくなる感覚を受けました。
小さくなる感じが、折りたたみによって生まれる心配の無さと似ているんです。
病気になろう!とおもってもなれないのが人間の不思議。
薄着で寝て、朝方の寒さで風邪を引くこともあれば、真冬に裸で外に出ればより、健康になってしまったりもします(笑)
ただ、手放すことを身につければ、小さくなる、失う、弱くなるという方向にも光が見えそうです。
こんな考え方が出来るようになったのはまさに、稽古、研究のおかげです。
命に関わる病気になるにはもう少し時間があると思います。それまですっと、問い続けて行くつもりです(笑)
たくさんの知識を持つとたくさんの選択肢が生まれてきます。
たくさんの経験はたくさんの見方を作って、迷いも生みます。
子供の頃は皆、素直でシンプルです。私たちはいつの間にか、大人になって世の中を複雑に考えてしまいがちです。
どうしたら子供のように考え、行動できるか?
いつの間にか、そんな事を考えるようになりました。
複雑なものは価値があるように見えます。
機械なんかはそうですね。
成功している人の話はシンプルなものとテクニカルなものとに分かれますが、人気があるのはテクニカルなもののようです。
手順を踏めば自分にもできるかもしれない。複雑であればあるほどそんな気持ちにさせてくれます。
手順を踏める才能があればよかったのですが、私はいつも途中で躓きます。
そんな失敗を積み重ねたおかげでシンプルなものに希望を持つしかなくなりました(笑)
私が追究している身体はシンプルです。
この身体を前後、左右、上下にどう動かすだけかを考えています。
例えば苦手な場面に遭遇したとき、普通はその苦手を解決する答えを求めます。でも、私はとにかく、身体だけを考えます。
嫌なものと向き合い、負けてしまっているから気持ちが嫌な方へと向かいます。
この時、ほんの少し、前後左右上下に動かせば嫌が嫌でなくなる、それを何度か経験したおかけで身体の動かし方だけに集中できるようになりました。
相手は関係ないのですから、とっても楽です。
嫌な相手は悪者です。
悪をそのままにするのは理不尽ですから、頭には怒りが出てきます。
しかし、相手を変えるのは簡単ではありません。ケンカは同じレベルの間にだけ起こる、というのは本当の事です。
自分を動かす事で気持ちが変わる。心身一如を身体の方から行える、とわかると、まずは全力で自分がやれることをやればいい。それで物事が停滞せずに一歩先へと動きます。
最近、前後左右上下に加えて新しい要素が見えてきました。
それは自分の「大きさ」です。
リアルな自分の身体の大きさは瞬間的には変わりません。しかし、内観的、感覚的には小さくできる、それかわかりました。
左右の身体を折りたたむ。すると、意識的な身体の幅は半分です。
これは私が無意識に怖れをたくさん持っているからかもしれませんが、気にしなくてはいけない身体が半分になると、怖れも半分になり、その分、前を向く意識が増えてくれるようです。
実際の身体もバランスを左右のどちらか「だけで」取るようになり、重心のキャッチボールがなくなります。
「迷う」という行動は多くの場合「左右」です。
どちらにしようか、知識があればあるほど迷ってしまっていたのは、身体が左右へと動きすぎていたからです。
夜眠るとき、横になり、意識を内側に向けます。
左右を半分に、そして、上下も半分にします。寝ている姿勢は仙骨を腰椎五番に密着するように折りたたむと、上半身の動きが良くなります。呼吸が深く、大きくなる感じがあります。無意識に下半身の事を考えているのですね。
そして、お腹を背中に貼り付けるようにすると前後も半分です。
普通の動きの中ではまだこれほどの余裕はありませんが、眠るときのようにリラックスできる場所なら、ずいぶんと想像力を働かせられるようになってきました。
無意識領域を理解するのに睡眠は非常に大切だ、と言われます。
多くの流儀で眠る時には「赤子のように」と言われているのも無関係ではないでしょう。
理屈はわかっても、身体的には子供に戻れなければ無意識の力みが夢見を悪くするかもしれません。
夢の世界の話はまだまだ、答えの出ない領域です。だからこそ、自分で研究する事が必要になります。
夜眠らない人はいません。
毎日眠るのです。眠るとは何だろう?そう思い求めるのも運命とはなにか、そこにヒントをくれる気がします。
身体を研究するようになって、たくさんの事に気付くことができました。
昔、マニュアル本にはまったことがあります。
書店に行けば運命を変える本が山ほど並んでいます。