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ドキドキ、ワクワク、ゾクゾク

現代は目に見えないもの、数字として測定できないものはどんどんと排除している感じがありますね。

 
インターネットで人同士が繋がりやすくなったのも原因でしょうか。「共感」を生むものがより、高い価値を得ています。
 
 
 
体の中にも目に見えるもの、測定できるものがいくつもあります。
「筋肉」はその代表です。多くの人が嫌う「贅肉」も重さとして測ることができます。
「骨」もまた、その組み合わせのズレを見える化することができますね。
 
 
 
共感は楽しいですが共感だけでは自分を見失ってしまうかもしれません。私はそうでした。自分に自信を持てないままずっときました。
いつも、「答え」が先にあり、それをいかに早く求めるかを競っていたからです。
 
身体感覚は共感とは真逆かもしれません。ほぼ、自分だけのものです。ほとんど、理解を得ません。
 
 
 
・・・ただし、その瞬間をともにしている相手とだけは同じものを得ているのかも、そう思っています。自分であり、相手でもある瞬間をすこし感じ始めています。
 
 
 
共感の真逆、それが「ドキドキ」であり、「ワクワク」、そして「ゾクゾク」です。
「ドキドキ」は心臓、「ワクワク」は呼吸、「ゾクゾク」は皮膚、ちゃんとそれぞれ、生み出す「身体」がありました。
 
 
 
小人を見つけた!
最近私はそんな言葉で身体感覚と動きを伝えています。
その小人が教えてくれているのが「ドキドキ、ワクワク、ゾクゾク」です。
考えるよりも先に「ドキドキ、ワクワク、ゾクゾク」は生まれています。
一度生まれた「ドキドキ、ワクワク、ゾクゾク」は決してなかったことにはなりません。頭で作る計画段階では予測できないもの、それが「ドキドキ、ワクワク、ゾクゾク」です。
 
 
 
「ドキドキ、ワクワク、ゾクゾク」を手掛かりとして、その後の行動を決める。身体感覚に従えばもうこれしかありません。
 
 
 
この感覚に気付いてみると、毎日の生活の中で意外と「ドキドキ、ワクワク、ゾクゾク」しているな、と気付きました。
先日、名古屋は雪が降りました。その時にも、心は動きました。心の動きを言葉で表せば「ドキドキ、ワクワク、ゾクゾク」です。
 
ついつい、身体を動かす事に一生懸命になるとわかりやすい筋肉や骨を使いすぎてしまいます。しかし、甲野先生は「内観」の大切さを言葉にしてくれていました。内観とはなにか、それを思いながら身体を観ていくと骨や筋肉だけではない身体も見えてくるようです。
 
 
 
稽古は終わりがありませんね(笑)。 
この楽しさを共有できる仲間を募集しています。
今月の終わり、1/28(土)、浜松に甲野善紀先生をお招きし稽古会を開催します。初めての方、運動が苦手な方も参加のできる講習会です。
 
詳細は下記のサイトをご覧ください。

嫌なものと向き合う強さを。

なにかを学ぶと賢くなります。今はそれをどういう時に、どんな風に使えばいいのかも丁寧に教えてくれますし、ロールプレイを通して実践練習もできます。
資格を取ったときにはこれで未来は明るい!そう思えてきます。
 
 
 
そしていざ、実践へと向かったとき、明るい気持ちがなくならなければそのまま望み通りの成功へと行くことでしょう。
しかし、たいていの場合、学んだものはそのまま使えません。
 
どうやらこれは当たり前のことなのですが、丁寧に学びすぎてしまうと、それがわからなくなります。
 
そして、その後、その困ったことを解決するためにエキスパートコースなんかに通ってしまうともう、自立するチャンスを失ってしまいます。
自分の持つ技をどう使うかは、自分の性格によって決まるからです。
 
強気な性格、弱気な性格、臆病な性格、色々ありますが、外と内、とりあえず、簡単に二つにわかれます。
 
自分を信じられるのか、疑うのか、です。
 
 
 
疑ったまま、新たな知識をいれても選択肢を増やすだけ、また、迷います。
ただ、こうして、また、受講生になってくれるとスクールとしてはありがたいものです(笑)。
なかなか、この壁は越えられません。
 
 
 
すべての知識は自信を作るためにあるのではないか、そう思うようになりました。
自信が持てさえすれば、なんとかなる、乱暴ですが、そう思えて仕方有りません。
 
 
 
そして自信の源こそ、「身体」です。心はコロコロ形を変え、自信のある時、自信のない時、色々です。病気になれば普段自信があっても、心は落ち込みます。
 
しかし、身体は自覚したところまでは絶対の自信が生まれます。ケガをしても、病気をしても、それは、当たり前の一つ、それにより自信がなくなることはありません。
むしろ、そこから「上がる」自分を見つけられるので、気分は良くなります。
 
しかし、自分の身体を数字で見てしまうとそれはアタマの自分であり、自信につながりません。
数字は一つのルールに沿って生まれたものです。肉体の衰えと共に落ちていくのが自然です。
 
身体感覚の自分はあらゆる方向へと「動ける」自分です。
目の前に壁があれば、それを様々な方法で乗り越える事ができると見せてくれます。
絶対にもうこれはダメだ、と思うような状態でも必ず「次」があるのですから本当に面白いです。
 
最近見つけた新しい身体は「嗅覚」の自分でした。嗅覚から感じられる身体はモヤモヤとした雲のよう。その雲は存在は感じられるけど、形がないので、相手との衝突がありません。抑えられても、するすると、細いところを通り抜けていけます。
嗅覚の身体にならなくては決して見つからなかったルートです。
 
 
 
この身体感が生きていくときのベースになるのではないでしょうか。
筋肉を鍛え見かけ上頑丈になれば、多少の衝突は怖くなくなります。しかし、より大きな相手にやられてしまいます。
身体が柔らかい人はその柔軟性ですり抜けていくかもしれません。その時、固い身体か、雲のような身体か、無意識にそれがベースとなります。
 
 
 
人間は歳をとります。年代によって身体は変わるはずです。
筋肉が強い時もあれば、肉体に頼れない時もあります。どんな状況でも何とかなる、と、新しい価値観を教えてくれるのが稽古です。
 
おそらく、昔は経験の中で新しい自分を見つけていたのでしょう。危険な状況が日常的にあったはずです。
しかし、現代は安全が第一。しかも、働くのは機械です。活動の場もネットの中に移ってきてますし、肉体的に危険を感じることが少なくなりました。
その結果、身体の多様性、可能性を知らないまま歳をとります。
 
どう考えても、努力による訓練は若者向けです。一時の楽しさはありますが、それで心は強くなりません。
 
 
 
肉体が衰えることを嫌だと思わず、少しずつ、観察を始めてみてください。
口内炎でも、ニキビでも、少し気になるところからそれと向き合うことを始めてみてください。
 
向き合ってみれば、そこから、新しい考え方が出て来ます。
嫌な考え方が出てくるかもしれません。でも、さらに、考えます。するとまた、新しい考え方が出て来ます。
出来るならば、動きとともに考え、考え方次第で動きが変わることも知って欲しいところですが、まずは、向き合うところからはじめてください。
 
新しい知識はもう要らないかもしれません。知識によって振り回されている自分が見つかるかもしれません。
手放すために時間はかかります。それでも、嫌なものに向き合う作業、姿勢が徐々に自分を信頼する力へと変わるのを感じることができます。
 
 
 
嫌なものの中にありがたいものを見つけられれば気分はずっと良いままでいられます。自分勝手で良いんです。間違えても良いんです。どれだけ頭が間違えても身体はなくなりません。常に身体はなにかを教えてくれようとしています。ぜひチャレンジを。

願いとプレッシャーはセット。

何かを願ったとき、同時に、出来るかな?とプレッシャーを感じるはずです。
もし、プレッシャーを感じないなら、その願望は願いと言うよりも、計画、予定に近いかも知れません。予定や計画ならプレッシャーは要りませんから。
 
 
 
自信をなくすと、ついつい、余裕のある願望、つまり、計画出来る程度の事しか行動を起こさなくなりかねません。
本当はもっと、自分には出来るのに、自分で、行動を狭めてしまいます。 
 
 
 
稽古をする事で「プレッシャー」に対して慣れることが出来るようになります。プレッシャーについてよく分かるようになるからです。
 
稽古ではいきなり空を飛べ!という願いはたてません。今出来ることを少しだけ伸ばしていきます。外に大きな目標を持たず、ひたすら、内に意識を向けます。
 
 
 
内面に意識を向けても、それを「やれないこと」と自覚していると「プレッシャー」が生まれます。
稽古は研究です。使えるものは何でも使います。このプレッシャーも使うことが出来ないか?そう考えました。
 
探せば見つかるものです。プレッシャーは上から下へとのしかかってくるものでした。そして、その力は足下にある地面に「跳ね返って」来ていました。
上からの力にそのままのるのは難しいですが、下から跳ね返った後の力であれば乗ることができます。
 
 
 
大きな願いを立てたときにもこの経験は生かすことができます。
 
何かを願う。その時、プレッシャーが生まれるのは「当たり前」です。プレッシャーは願いとセットなのだ、とわかれば最初に出会ったプレッシャーに反射的に行動を止められなくなります。
 
むしろ、プレッシャーがあるから、強い行動にもする事ができます。
どんな願いがあっても、行動に移すことがなければ、運に頼るしかありません。しかし、現代は運という不確かな要素がドンドンなくなっています。行動する力を高めることこそ、運命を自分のものとする近道ではないでしょうか。
 
 
 
ちなみに、プレッシャーの力、上下の力は下駄を履くとよくわかります。冗談みたいなホントの話です(笑)
本当に、これ、試してもらいたいです!日本人の叡智です!

重力と責任、期待、覚悟の関係。

もし、この世界が無重力だったらどうなるんでしょうか?
いきなり変な事を聞きました。そんな事、あるわけありませんよね。
それでも、ちょっと、考えてみてください。
 
無重力の状態はどれも、居場所がない状態です。どこに何があっても許される状態といえます。
しかし、私達の世界には重力があり、モノの位置、自分の位置が決まっています。
決められた場所から動かされればすかさず注意を受けることもあります。
 
あまりにも、当たり前な「重力」。機械がなかった頃は間違いなく、この重力を私達は上手に使っていました。
しかし、今は重いものを持つ機会が少なくなったので、ついつい、忘れがちです。しかし、相変わらず重力は常に、働いています。
 
 
 
身体に重力がどう働いているのか、それがわかると楽に動くことが出来るようになります。
立っているとき、背中や肩に重さを感じる人もいるかもしれません。それらは肩こり、腰痛として痛みや重さを感じさせてくれますね。
この痛みがある時、上半身はなにもしていなくても、辛いです。肩こりのない人にはわからないですが、当事者はただ過ごすだけでも精一杯です。
それなのに、上半身で仕事をしなくてはならない、となると、もう、最初のハードルが高すぎですね。
 
この時、上半身を手放し、下半身に任せる、という選択が出来るとわかれば気持ちは楽になります。
具体的には腰椎の五番を仙骨に密着させるようにすると、上半身の力、力みは取れていきます。それと同時に上半身を動かしにくくなります。この不自由さがおそらく、この気付きを遠ざけていたのだと考えます。
実は上半身を手放してみると、下半身の動きがそのまま上半身を通り力が発揮されるのです。
 
立っているだけ、歩いているだけで不自由なことが自由を与えてくれる経験を得ることができるのです。
 
 
 
そして、座った姿勢では上と下の関係は逆になる事が多いようです。
上半身の重さが椅子や床とで仙骨を潰します。座っているだけで腰が痛くなるのは土台となる下半身がすでに潰されてしまっているからです。
この時、無理に腰を伸ばそうとすればまた、辛くなります。すでに下半身は頑張っているんですから。
ここでも、手放す事が役に立ちます。
 
腰を伸ばすのではなく、仙骨を腰椎五番に密着させるのです。
すると、下半身は座る、という役目から出られるので腰が楽に感じます。
この姿勢は下半身の自由を手放した姿勢。その結果、自由になるのは上半身です。
武道の代表的な練習方法である呼吸法、合気上げが楽になります。なにか特別な技を得るのではなく、ただ、上半身が自由になっただけで技になります。
 
  
 
不自由を得て自由になるのは「断捨離」と似ています。
たくさんのものがあれば、それだけ有利に思えますが、同時に迷いも生み、タイミングを遅らせます。
たくさんの力を手に入れてもうまく行かないのはタイミングがわるいからかもしれません。
あらゆる物事には「良い面」と「悪い面」があるのです。
それをわかっているはずなのに、やはり、手に入れたものを捨てるのは勇気がいりますね。
だから、まず、身体に「捨てる事」、「手放す事」の意義を感じる事が役に立つのです。
 
 
 
どれだけ手放したとしても身体は残ります。そして、重力がある限り、そこに力は生まれます。
重力というプレッシャーと戦うために武器を作り、機械を発達させてきました。
実は重力は精神的には責任や期待、覚悟に形を変えます。大きな夢を持てば同時にプレッシャーも大きくなります。その時、便利な機械があればいいですがその保証はありません。
夢を持てば上からの圧力も変わる。それを知っておけばいいんです。
心が弱くなっている時、つい、反射的には逃げてしまいがちです。しかし、その時、仕組みをわかっていれば行動を選択する事ができます。
 
 
 
誰にも等しく与えられているのが重力です。
これも「エネルギー」として使えるかもしれない、そんな気持ちで探っています。
これを力とする事が出来たら、自然は自分の味方になります。
 
 
 
色々難しく言葉にしましたが、これがわかってできる事はシンプルです。
立つ事、座る事、歩く事が楽になります。どんな仕事をする時にも身体が楽であればいいですよね。
心を落ち着ける瞑想だけではなく、身体を落ち着ける姿勢も探してみてください。

進めるのは前だけではなく、後ろにも。

前回、「前」へと進む力についてお話しました。「運」を身体で感じ、それを働きに変える事ができます。

今日は「後ろ」。
後ろへ身体を進ませると、自分の前にすこし隙間ができます。この隙間を使い、自分が受け入れたくないものを捌く事が出来るようになります。
 
 
 
前へ進む流れに乗ると勢いが生まれます。
嫌な事に出会っても、すこし捌けばすぐに過去の事になり、気にならなくなります。
自転車を想像してみてください。大きな穴をギリギリでかわしました。歩いていれば、そこで穴を覗き込み、止まってしまうかも知れません。でも、自転車であれば、ヒヤリとしながらも、前をまた向き、漕ぎ出すはず。いい事も、悪いことも過去へと流してくれる力を持つのが「内観的前進」です。
 
同じように、「内観的後退」が見つかりました。
この後退ですが、感覚的には自分の内面深くに潜っていく感じがします。
 
私たちには身体があります。
この身体が私の心を守ってくれている、そんな感じがします。
汚いものに触れる時、素手よりも、薄いものであってもなにかを介しての方が安心しますよね。身体は心を驚かさないように、揺らさないように、いつも、守ってくれているようです。
 
しかし、いつも守ってくれているわけではありません。
身体よりも、心が先に何かを「見つけてしまう」事があります。
例えば「ナイフ」。触れれば切れる。私たち大人はそれを知っています。そんなナイフを前にすると身体は緊張し、固まります。でも、この時、身体はまだ、ナイフに触れていません。それなのに身体は固まってしまいます。
これは身体よりも先に心がナイフを危ないものとして見つけてしまったから。
本当は見つけない方が自然体で振舞えてよかったかもしれません。でも、見つけてしまいました。
 
 
 
この時、「内観的後退」が役に立ちます。
前へ進もうと思った心は前にナイフという敵を見つけました。怖いものを見つけてしまった心は身動きが取れなくなりますが、それは身体がそこに居ついてしまったから。身体に縛られてしまいました。
 
この時、後ろへと自分を運んでくれる力がありました。
前から後ろへ流れてきます。この流れを見つける事ができたのは、先に前への流れを自覚していたから。同じ感覚の」流れが前後に見つけられたのです。
 
ただ、後ろへ流れていると言っても、身体を後ろへ運べばバランスを崩しますし、壁もやってきます。後ろですから目もありません。うまく身体は運べません。
しかし、身体をそこに止めて見ると、不思議と、実際の肉体と内観的な自分が分離していく感覚がありました。
その僅かな隙間が役に立ちます。
その隙間があるだけで腕や脚がいつもどおり動くようになります。
 
怖いものを前にすると身体は緊張し、本来の動きが出来なくなります。
実はその怖さに対する耐性も実力なのですが、多くの場合、感情の揺れを実力としては見ずに、手足の動きの技術だけを求めてしまいます。
 
 
 
怖さを克服する方法としてメンタルトレーニングがありますが、身体の操作と切り離してしまうと、また、そのメンタルトレーニングの成果を発揮するためのメンタルトレーニングが必要になってしまいます(笑)
 
内観的後退は具体的に肉体を変化させます。
肉体と意識の間に出来た隙間は定規では測れませんが、確実に存在するものです。そして、それは手を合わせた人にも違和感として伝わるのです。
 
二人で試す事のメリットはここにあります。お互いがそこにある感覚を見るので、さらにその感覚がリアルさを増していくのです。最初、それは消えてなくなりそうな感覚だったかもしれません。しかし、それは身体的に生まれたもの、再現性があります。それを育てていくと、いつしか、それは新しい常識になります。
 
 
 
実はこの内観的後退、意外なところで力を発揮しました。
内観的前進を見つけ、うれしくて、つい、無理に試しすぎてしまったみたいです。稽古中に頭痛がしだして、立っていられなくなりました。
代わりに子供たちを見てくれる仲間がいたから余計に気が緩んだのかもしれません。久しぶりの頭痛です。
 
横になり、眼を閉じ、休んでいても、頭は痛みます。
痛みのせいか、感覚も敏感になっている気がします。眼も耳も、触覚も色々なものを受け取り、刺激をしてきます。
 
 
 
こういう状態だったから逃げたかったのかもしれません。
前へと進むことも出来ましたが、身体がそれをぐっと止めているようです。
ふと、もういいや、どうにでもなれ、と力が抜けました。
その時、頭の奥のほう、方向的には下へ落ちていく感覚があったのです。
 
落ちてみると、そこは表面的な肉体からすこし離れた所のようで、それまであった刺激が気にならなくなっていました。
痛みとしての波はありましたが、それを観察していられる余裕がありました。
 
この時の姿勢があお向け。下方向へ落ちていく感覚は顔の向きからすると「後ろ」側です。
前には出られる事がわかっていたので、すぐにこれは「後退」だ、とわかりました。
 
 
 
一つ発見があると、痛みは飛ぶんですね。
痛かったはずなのに、試したくなり、むくりと起きて、実験に付き合ってもらいました。
そして、先ほどの「気にならない」という効果を見つけたのです。
 
 
 
どうやらこれは座禅的、瞑想的な方法のようです。
前進がアクティブに世界を渡り歩くものだとすれば、後退は世界から離れ、自分の世界を作るものです。
いくら自分が一人になる、と決めても、実際にはたくさんの刺激があります。この時、頭だけで無心になれる人はなかなかいません。
しかし、肉体と距離を置く方法があれば、感情を揺らさず、自分のペースを維持できます。
 
 
 
気持ちの力は無限です。自分で決めた力がエネルギーです。
しかい、肉体の力は有限です。無理をすると壊れます。
その肉体を癒す作業が内観的後退ではないか、とにらんでいます。
横になって、後退してしる間、眼は覚めている感覚があるのに、夢のようなものを見ました。しかも、はっきりとそれを感じられるような感じです。
 
人には睡眠が必要です。
ただ、長時間寝ても疲れが取れないときがあります。睡眠の質が悪いからです。
睡眠の質を上げるのに、枕や布団、マットレスに、サプリ、色々なものが出てきています。人生の大部分を占めるものですからね、質を上げたい人は世界中にいます。
ソワソワしながら眠るのは実に前進的です。
眠るんですから、もう諦めて、後退してみる、というのはある意味、理にかなっていそうです。
 
 
 
なにかを変えたい、と願う時、ついつい、外の世界にばかり眼を向けてしまいます。
現代は便利な機械やサービスが外の世界を変えてくれる時代ですから。
運命さえも変えてくれる手帳が今は山ほど売っています(笑)。
それで何とかなるならどうぞ遠慮なく。
 
しかし、私は外にあるもので成功を感じた事がないんです。
内面を変える事で外の世界も変わる。それ「も」わかっておけば、楽しく人生を歩く事が出来ます。
ぜひ、身体感覚の世界を体験し、工夫して、掘り下げてください。

見えない流れを見るには身体に目を向けるのが確かな方法

身体感覚に目を向けるようにだんだんと、視点が広く、大きく、高くなっているのを感じます。

全く手掛かりのないことでも、研究をし始めてみれば、徐々にわかってくることがあります。
それは、もう、どこかで手に入るような情報かもしれませんが、小さなことでも、自分の身体を通して見つかったもの、というのは貴重なものです。
 
 
これまで「運」というものは「重力」なのだ、と考えていました。
自分がなにかをやろうとした時、とんとん拍子に進む時と、障害ばかりの時があります。
その違いはなんだろう?ずっと、考えています。
実際に身体の動きを頼りとして考えてみると、「重力」というのが見つかりました。
 
重力は圧力として、上から、肩にのしかかります。
普通、身体を動かすには、軽くなったほうがいい、と思いますよね。
でも、実は身体に重さがあった方が動きやすい、そして、力強い、という事がわかったのです。
 
 
一つ分かると、たくさんの実例が見えてきます。
例えば、仕事。
 
いつまででもいいから、完成させなさい、と言われれば、後回しになります。宿題もその傾向があります。締め切りがあるから、行動に変わります。
この考えがわかると、嫌なことも身体のためには必要なこと、役に立つことがわかります。反射的に嫌!と目をそむけていた事にも、思考の余地が出来、冷静に行動へと移すことができます。
 
 
 
行動すれば経験を得られます。経験があれば、そこから成長へとつながります。
行動すればいい、とわかっていても、まだ来ていない結果を気にして、行動を止めてしまう場合があります。遠慮気味の人は特に・・・。
その恐れを強くしているのも重力です。身体があるから、それを感じる事が出来るんです。
 
 
もう一度言います。
重力は運です。
運が身体を運びます。
人が行うと、おなじ条件であっても結果が違ってきます。それは、そのぞれの人が運という流れを活かしているかいないのかがカギになります。
 
上から下の力を説明すればこんな感じです。
 
 
 
そして、どうやら、上下だけではなく、前後にも身体を運ぶ流れが潜んでいたようです。
 
先日、その力を発見した時の事を書きました。
その力は前後に働く力です。
身体を前、後ろへと運んでくれる力がありました。
 
 
重力が外からやってくる力だとすると、前後は自分の内側からでてくる力です。
考えてみると、なにかに興味を持った時には、今の自分を心配することなく、そのものへと意識を集中できます。
そのものが動いた時、私の身体は動かされていきます。
子供の頃楽しんだ、昆虫採集なんかはそんな感じがします。
 
 
 
子供の頃はみんな、好奇心いっぱいです。そのまま大人になれれば運を作り出す力に満ち溢れていたでしょう。しかし、ほとんどの人が「大人」になります。
知識を得て、考えて行動するようになります。機械的なものには思考した行動は役に立ちますが、自然なものに対して思考からの行動は少し、遅れます。
 
ときどき、子供のまま大人になってるような人がいますね。
彼らは私たちにはない魅力を発揮し、才能を惜しみなく発揮します。
しかし、そんな彼らも大人の世界で生きている以上、徐々に大人になっていきます。
 
 
 
心でそのギャップを受け止めようとしても、大変です。
心はふわりふわりと、自由に動きすぎるから。
この時にも「身体」が役に立ちます。
 
身体に意識を集中すれば、その身体がどこへ向かっているのかがわかります。
 
 
私はやりたいことがなかったので、動いていない自分が嫌でしたが、今見つかった前へと進みだす力を内側に見つけてみると、自然に、前へと進んでいるのを感じることができます。
しかし、この時の動きはとても小さいんです。なるほど、今まで見つからなかったわけです。
 
 
研究をしてきたからこそ、この力を見つけることができました。
知識だけ得ても、どうせ自分にはわからないだろう、と先送りしていたはず。
身体で得た気づきは共有することができます。
心にあるものも共有できるはずですが、それは感受性が高くないと無理。私が身体を大好きになったのはここです。できる、できない、わかる、わかっていないがはっきり出るから迷わずに済むからです。
 
 
 
身体を前へと進ませる力はやはりというか、臍下あたり、昔から丹田と言われているあたりから生まれてきます。
この力に従うように動くと、次にやるべき事が自然と見えてきます。
そして、自分の中にあるその力線をもうすこしはっきりと自覚できるようになれば、外の世界、つまり、他人の中にもその力線の方向が見えてくるはず。
 
世の中には見えない流れを見ることのできる人が間違いなくいます。
説明をしてもらっても、まったくその意味がわからないのは、見えているものが違うから。
最初の「見えないもの」として、この前方向への力を使えばまた、楽しくなります。
 
 
 
すこし、難しくなりました。
言葉はこれからどんどん増えていきます。こうして、言葉にする場所を作ったから。
ただ、言葉を聞いてもおそらくかわりません。
言葉を知り、やってみる。わからなくても、やってみる。すると、ちょっと、わかることが増える。これが「研究」です。
 
この研究は自分のために行う研究。だんだん、自分の興味に素直に従えるようになります。今、始めれば10年後はもっと、自分の事がわかるようになっているはず。
多くの人はまぁいいや、と先送りにしてなにもしません。
 
ぜひ、自分の身体にある、前方向の力を見つけて下さい。
絶対に見つかりますから。
次回は「後ろ」方向への流れの事を書きますね。
 

プレッシャーや責任も身体感覚にしてしまえ!

目的を決めれば、自然と心にプレッシャーが生まれます。

特に私は、自分への信頼度が低かったので、いつも、できるかなぁ・・・というものに困らされてきました。
 
 
精神的なものを教えてくれる本では簡単に、信じろ、大丈夫、と書いてありますが、そもそも、それができないからこちらは困っているんです(笑)。
身体感覚はそれをも乗り越えさせてくれました。
 
 
 
目標が出来た時に生まれる重圧は「上下」の力です。
ちなみに迷った時は「左右」、目の前の障害は「前後」、自分の中の頭と体のちぐはぐさは「ねじれ」。
身体感覚は形にならないものを形にしてくれます。
形になれば手掛かりになり、何とかなります。
 
 
やはり、行動する、という事が大切みたいです。
そしてその行動を止めてくる力に無意識が止められないようにします。
 
重圧、責任は上下の力を作ります。
その上下は足元にきます。
無意識に足元に踏ん張りを作っています。
その無意識の踏ん張りに気付ければ、上下のリズムを作ることができます。
 
 
 
言葉になると、なんとなく、あぁ、あぁとわかった気持ちになります。しかし、この時、ちゃんと、実際の力に対して身体が止まらないでいられる「経験」が大切です。
この経験が現代は得られにくくなりました。
便利な機械やサービスが増えたから。自分がやらなくてもいい世界は楽ですが、楽しいかどうかはわかりません。
 
 
ちなみに、上下の軽さを簡単に実感できるものすごいパワフルなツールがあります。
 
 
 
それは「下駄」です。
 
 
理由はまた、いつか、書きます。
普段、時々、下駄を履いてみて下さい。
そして、下駄を履いて歩きだした時の身体の軽さに気付いてください。
下駄はあまりにも日本に溶け込んでいるので、誰もそれに気づきません。
 
下駄をはけばプレッシャーに負けずに行動をつなげていく事ができます。
さて、あなたは使いますか?(笑)

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