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ドキドキ、ワクワク、ゾクゾク

現代は目に見えないもの、数字として測定できないものはどんどんと排除している感じがありますね。

 
インターネットで人同士が繋がりやすくなったのも原因でしょうか。「共感」を生むものがより、高い価値を得ています。
 
 
 
体の中にも目に見えるもの、測定できるものがいくつもあります。
「筋肉」はその代表です。多くの人が嫌う「贅肉」も重さとして測ることができます。
「骨」もまた、その組み合わせのズレを見える化することができますね。
 
 
 
共感は楽しいですが共感だけでは自分を見失ってしまうかもしれません。私はそうでした。自分に自信を持てないままずっときました。
いつも、「答え」が先にあり、それをいかに早く求めるかを競っていたからです。
 
身体感覚は共感とは真逆かもしれません。ほぼ、自分だけのものです。ほとんど、理解を得ません。
 
 
 
・・・ただし、その瞬間をともにしている相手とだけは同じものを得ているのかも、そう思っています。自分であり、相手でもある瞬間をすこし感じ始めています。
 
 
 
共感の真逆、それが「ドキドキ」であり、「ワクワク」、そして「ゾクゾク」です。
「ドキドキ」は心臓、「ワクワク」は呼吸、「ゾクゾク」は皮膚、ちゃんとそれぞれ、生み出す「身体」がありました。
 
 
 
小人を見つけた!
最近私はそんな言葉で身体感覚と動きを伝えています。
その小人が教えてくれているのが「ドキドキ、ワクワク、ゾクゾク」です。
考えるよりも先に「ドキドキ、ワクワク、ゾクゾク」は生まれています。
一度生まれた「ドキドキ、ワクワク、ゾクゾク」は決してなかったことにはなりません。頭で作る計画段階では予測できないもの、それが「ドキドキ、ワクワク、ゾクゾク」です。
 
 
 
「ドキドキ、ワクワク、ゾクゾク」を手掛かりとして、その後の行動を決める。身体感覚に従えばもうこれしかありません。
 
 
 
この感覚に気付いてみると、毎日の生活の中で意外と「ドキドキ、ワクワク、ゾクゾク」しているな、と気付きました。
先日、名古屋は雪が降りました。その時にも、心は動きました。心の動きを言葉で表せば「ドキドキ、ワクワク、ゾクゾク」です。
 
ついつい、身体を動かす事に一生懸命になるとわかりやすい筋肉や骨を使いすぎてしまいます。しかし、甲野先生は「内観」の大切さを言葉にしてくれていました。内観とはなにか、それを思いながら身体を観ていくと骨や筋肉だけではない身体も見えてくるようです。
 
 
 
稽古は終わりがありませんね(笑)。 
この楽しさを共有できる仲間を募集しています。
今月の終わり、1/28(土)、浜松に甲野善紀先生をお招きし稽古会を開催します。初めての方、運動が苦手な方も参加のできる講習会です。
 
詳細は下記のサイトをご覧ください。

欲しいもの、求めるもの、手に入るもの

自分が欲しいもの、求めているものは時々、確認をしなくてはいけません。

 
世の中にはピカピカと輝くものがいっぱいです。楽しいところも次々と現れます。
それらをみて、反射的に欲しい!と思うかもしれません。
でも、それは本当に欲しいものなのでしょうか?考える必要があります。
 
 
 
あなたの欲しいものは何でしたか?
努力をして求めれば手に入るものでしょうか?
いい学校に入りたい、いい会社に入りたい、やりがいのある仕事をしたい、恋人がほしい、結婚がしたい、お金がほしい、いろいろ浮かんでくるかと思います。
 
 
 
求めれば叶う、という教えが世の中にはたくさんあります。なにを求めているのかをしっかりと意識しておくことは大切な事です。
 
 
 
ここですごいことをお話します。
身体感覚の稽古で手に入ることは、自分が求めている事、考えている事以上の体験と経験です。
旅に出て、貴重な経験をすれば自分が少し大きくなれます。
ちょっと奮発してリッチな旅をしたり、無計画で偶然を楽しむ旅も面白いです。
 
稽古はそんな旅と似ています。
今は安全で、どこに行っても似たような観光地も多いですから、もしかしたら、現実の旅よりも大きな経験をもらえるかもしれません。
 
 
 
旅は「環境」を変えるものです。
稽古は「自分」が変わるものです。
 
最近の稽古で私が見ることができた世界をお話します。
 
 
・鼻の奥
先月の終わり、「鼻の奥」に集中をしました。鼻の奥の自分は「小さな自分」です。自分という大きな身体の裏に小さな自分がいる事を実感しました。
 
小さくなってみると衝突が無くなります。
 
自分が行きたいところへ行ける、これまで行けなかったのは自分が行けない、と思い込んでしまっていたからでした
その理由は自分の身体が大きかったから。
 
責任ある立場になり、有名になったりすればその人は大きくなります。大きくなれば、自然と行動に制限をつくります。その逆もあったのです。自分が小さくなるからこそ、好きなことができるようになりました。
 
 
 
・内側に向ける視線
鼻の奥で自分の「裏側」を実感しました。心の中では「内面」を感じていましたが、身体的に「裏」を感じたことは初めてでした。
 
世界は表に広がるだけではなく、裏にも広がっているのだ、とわかりました。
 
五感の一つである嗅覚にそれがあるなら視覚にもあるのではないか、そう考え、あれこれ工夫をしました。そして、たまたま頭痛で寝込んだ時、その瞬間、自分の視覚は外へではなく、内側に向かっている事に気付いたのです。
自分の内側に視線を向けていても、外には世界が広がっています。
内側の視線と外側の視線は同時に存在していました。そして、内側の視線を意識したまま外側を見た時、風景が大きな一枚の絵になっているのを感じました。
武術の世界では遠山の目付、八方目など、視覚を一つのものに集中させないようにする事をよく教えています。しかし、人が世界をどう見ているかはなかなか感じられません。言葉だけが独り歩きをします。
その夢見ていた世界が視線を内に向ける事で現れてきました。
 
 
 
・反重力の世界
あるテレビ番組で「キツツキ」を紹介していました。彼らは木をつつく時、頭に1000Gもの衝撃を受けるのだそうです。そして、その衝撃を和らげるために「舌」を使うのだ、という事です。
そんな情報を受けて武術の技に試してみようと思う私は変態でしょうか(笑)。
私もなぜ、それを試したくなったのかわかりませんが、とにかく、試したのです。
すると、そこにはっきりとした働きがあり、それまでの動きとは全く別の動きになりました。
 
舌という器官は不思議なことに重力の影響がないのです。
 
それまで見てきた身体はどの部分をとっても、重力の影響を無視できません。だからこそ、重力と喧嘩をするのではなく、積極的に乗り、勢いとして利用してきました。
しかし、舌はそうではなかったのです。
 
最初、舌を折り畳み、上あごにつける事で反重力を使いました。
伝え始めたある日、文化センターでの講座中、受講生の一人から何気なく、「舌の先ですか?奥ですか?」と質問を受け、その瞬間、自分に「舌の奥」がある事を自覚しました。
自覚してみればそこは動かすことができます。舌の奥がぐぅ~と上へと浮いているように感じられるようになると、身体の内面全てが上へと浮いている感覚になっていきました。
 
 
 
 
とにかく、稽古をする事で手に入ることは変な事ばかり、想像もした事がない事ばかりです。
しかし、そのすべては体験、経験ですから、自分にとっては現実、事実です。
もし、新しい自分と出会う事が好きな人ならぜひ、自分の身体と向き合うという事も旅の一つに付け加えてあげてください。
 
 
12/18(日)には名古屋にこの楽しさを教えてくれた甲野善紀先生をお招きし稽古会を行います。有名な先生ですが、遠慮する必要はありません。プロの選手、オリンピックの選手でも、なにも運動の経験のない方も同じように驚く事ができます。世界中のどこに旅するよりも驚くべき体験ができます。
 
ぜひ、ご参加ください。詳細は下記のサイトでご確認を。
 

武術の稽古で得られるもの

身体感覚を手がかりに稽古をし始めて、次々に新しい発見があり、トレーニングをしている暇がなくなりました(笑)
トレーニングからも得るものがあるはずですが、それは常識的に「努力」として認められているので、他でもやれるかな?と思っています。
 
 
 
とにかく、「身体感覚」という世界が素晴らしい!
 
今、ドンドンその世界が私たちの手から離れだしているように思います。
感覚を使わなければ使えない道具は実用品からは消えていっています。
技術者はVRなど、感覚を使った新しい機械を作ったりして研究していますが、私たちの多くは消費者です。自分の身体感覚を使いこなすことなく過ごしています。
 
 
 
身体感覚が分かることでメリットがある。
 
もしかしたら、それがもっと広がれば身体感覚へ興味を持ち、日常生活、仕事を見直す人も増えるかもしれません。
今日は身体感覚の稽古がもたらしてくれるメリットをお話しします。
 
 
 
「身体」を強く意識をして稽古をしますので、つい、「身体が丈夫になる」と考えてしまうかもしれません。
確かに、この技術を身につければ、重いものも軽々と扱えるようになるし、重かった身体もヒョイと軽く動けるようになります。
 
スポーツに使えば記録を伸ばすことも出来ますし、プロの選手なら身体を丁寧に使うことが出来るようになり、現役を続けていくことができます。
 
 
 
しかし、そうじゃない、それだけではありません!
 
 
 
私は幸いにして、身体を大きく、健康に生んでもらいました。
ずっと身体に心配を作らず大きくなってきました。
それでも、その身体に似合わない心の弱さがあり、毎日を悶々と過ごしていました(笑)
 
 
たまたま出会った身体感覚の世界に興味をひかれ、稽古を続けていって、それまで気にもしなかった身体にたくさんの可能性が隠れていることを知りました。
 
そして、稽古、研究を続けていくと身体が動くようになるのと同時に、心がドンドン軽く、広く、大きく、機嫌よくなっていくのを感じました。
 
 
 
心身一如とはよく言われていて、その言葉を知っている人は多いと思いますが、本当にそうだったのだ!と実感することができました。
 
 
 
理由、原因のある問題点なら、その原因を解決していけば幸せになれます。
しかし、私が持ってしまった問題は原因が分からないことばかり。なんとなく、自信が持てない、そんな事ばかりだったのです。
 
 
 
そんな意味不明、原因不明の問題が身体が動くと、解決していくんです。
はっきりと、いつ、それに気づいたのかは分かりませんが、自分の機嫌、心の動きは身体に任せればいいんだ、と今ははっきりと、わかります。
 
 
 
便利な道具や機械、たくさんの細やかなサービスは成果、結果を与えてくれます。
人間の難しさは、うまくいっていても、心に不安が生まれることがあるんです。
 
まだ来ていない未来ですから、気にするな、という言葉一つで片付けられるものですが、気になってしまったものは仕方有りません。
どうしたら、自分の気持ちを変えられるのか、それを困っている人もいると思います。
 
 
 
そんな心に生まれる不安は身体感覚、身体操法、武術の稽古で解決をしていくことが出来るのです。
 
 
 
記録が伸びるのは楽しいでしょう。
出来ないことが出来るようになるのは楽しいです。
それらは目にも見えるので、その成果が欲しい人たちは身体感覚の世界に興味をもってもらえるはず。
 
しかし、心の問題、機嫌を自分の力だけで良くすることができる。そんなメリットも有ることをぜひ、伝えたいと思っています。
 
 
 
心にキズを追うと、それはだんだんと大きくなります。そのキズを癒すのに、身体なんか役に立たない、そう思うかもしれません。
でも、それは今までみてきた身体、身体感覚を捨ててしまった常識が作る体です。
身体感覚を知れば、これまで身体を数字でしか判断してこなかったのが分かりますし、他人からの評価で信頼を左右させていたこともわかります。
 
自分を自分で見て、好きな自分を探し求めて、手に入れる事ができるのが身体感覚の稽古です。
 
困っているなら、チャンスです。
その心に生まれる痛みや苦しみが手がかりとなって、新しい身体感覚に気づき、新しい自分を感じられるようになります。
 
今苦しんでいる、というのは身体感覚を手に入れるのにはチャンスなんです。
 
 
 
私がもらった稽古法は誰に遠慮をするものではありません。
カラダラボの稽古は感覚はお渡ししますが、覚えなくてはいけない手順はありません。
身体で得た感覚を手がかりに、当たり前だと思っていた日常に目を向けるとちょっとずつ、発見が増えてきます。
そして、その何かに気づく力は年齢とともにドンドン増えていきます。年齢を重ねる度に新しい自分が見つかる、そんな楽しさを得ることができます。
 
ぜひ、試して、自分の持っている身体の凄さを実感し、そして、近くにいる大切な人に、それをまた、伝えて上げてください。

カラダラボのウェブサイト

得意技を作ろう(ただし、褒められないもので)

何かができると人生は変わります。

身体感覚の稽古をし始めてずいぶん時間が経ちました。大きな衝撃を受けた経験でしたが、それ自体が直接、仕事や生活に役に立つと思えたわけでもないので、ここまで続けてこれたのは運だったのかもしれません。
 
 
 
私が行った稽古は「ただ手を上げるだけ」です。
よっぽど特殊な人でなければ、手を上げるだけの稽古を喜びません。
 
「それがいったい、なにに役に立つの?」

と、聞かれるかもしれません。
 
 
 
はっきり言って、手を上げる事は人生に「役に立ちません」。
手を上げられるからと言って、困ることはこの日本ではほとんど無いのです。
 
 
 
しかし、それでも、私は手を上げられるようになったからこそ、人生を楽しめるようになりました。
 
それまでの私には「得意」と思えることがなにも無かったからです。
しかし、20年もただ手を上げる事に打ち込み、研究すると、それは「得意な事」になります。
その得意がすごい、と言われることはほとんどありませんが、この技が今の自分にとってのモノサシになっているのです。
 
 
 
手を上げる動き自体はほとんど認められる事はありませんが、それを求める過程の中でたくさんのことに気づくことができました。
きっと、手を上げる事を求めなければみつからなかったものばかりです。
 
 
私が見つけたその多くは「身体」に関すること。
それまでは自分の身体を身長や体重、なにかの成績でしか見てこなかった事に気づきました。
「感覚」という視点で身体を観察してみると、肘や膝、肩や背中、胸、その他多くの身体を適材適所に全然使っていなかった事に気づかされます。
 
 
 
強い部分は強さを発揮するように使えばいいし、弱い部分は弱さを発揮するように使えばいいのです。
何にも使えない、と思ってしまった時にも「目印」ぐらいには使えます。
 
 
 
あれが出来ない、これが出来ない、とつい、諦めてしまっていましたが、自分の事がわかってくるにつれ、もしかしたら出来るのかな?と前向きな気持ちも出てくるようになりました。
 
 
 
 
得意なことを伸ばしていく時、あまり、大勢の人が価値を持っていないものの方がいいかもしれません。
大勢の人が求めるものであると、つい、彼らに合わせた事をやってしまうから。
 
その事によって喜ばれるのが「仕事」になるのかもしれません。
求められる「仕事」以外に自分を高めることをライフワークにできれば無敵です。
 
今は機械、コンピューターの時代です。
どれだけ身体があろうが、結果はあまり変わらない時代です。
だからこそ、身体を得意にするのが「結果以外のもの」を見つけるチャンスになります。
 
口笛や開脚なんかいいかもしれません。私はただ手を上げるだけでした(笑)
やれることで損もないけど、得もなさそうな事がいいようです。
 
 
 
自分なりの得意技を見つけてください。

ショックの和らげ方

人生は「まさか」の連続なのだそうです。

今日のアメリカ大統領選挙でも多くの人にとってその「まさか」が現れたようです。
 
全てが予定通りであれば思い通りのところに行けると思うかもしれません。
しかし、それは個人の想像力によって縛られているのではないか、そう思っています。
 
想像力を鍛えるために「まさか」が使える、そう考えています。
 
 
 
私は20年前、とんでもない技と出会いました。まさしく、「まさか」という技です。
かめはめ波のようになにかが出てきたのであれば、頭はそれをそんな技だ、と認識したかもしれません。しかし、私が出会った技は見た目は全く、変わらない技でした。
何気なく手を出しているだけなのに、その手が見えなくなるし、抑えられなくなるのです。
 
かめはめ波であれば、うん、これは私には「できない」、と答えを出すことが出来たかも知れません。
しかし、私が体験した技の原理は「身体」だったのです。身体なら、私も持っています。その持っているものを生かす事でその技になるのであれば、それを望んでしまいます。
 
 
 
その後、何度も「まさか」という技を受け続けたのですが、気が付くと、自分の技量も上がっていた事に気付きました。
何かができるようになったわけでもありません。ただ、まわりを見渡した時に驚かなくなっていたのです。
 
これは、自分の想像力が増えたことを意味します。目の前のそれは「普通」なのです。
普通なのですから、それに気持ちが負ける事がなくなっていきます。
 
 
 
想像力は常に、今の自分ができるものをベースにして作られます。
純真な子供であれば無限に創造することもできるでしょうが、現実という力にまみれた大人はまず、無理。今の自分を無意識に基準にします。
 
この時の「できる」事がポイントです。
なにかができるには、相手が必要です。相手との共同作業でなにかが生まれているからです。
自分にできる事だけが経験になるのではなく、相手ができてしまった事も自分の経験になります。
 
技で言えばトンデモナイ技で崩された経験がある人はそれが想像力の基準になります。
一度経験してしまえば、次にかけられたトンデモナイ技は「慣れた技」になります。何度も何度もトンデモナイ技をかけられることで、それが当たり前になっていきます。
 
人間には慣れの力があります。余裕がでてくれば、あぁ、またか、となるのです。
その時、ふっと心に生まれる想像。これは大きなショックを受けたことで得られた想像力なのです。
 
 
 
人間には慣れの力もありますが、忘れるという力もあります。いや、忘れたい、のかもしれません(笑)。
忘れてしまうと、何度体験をしてもそれは初めてのように受けられるので楽しいのかもしれません。でも、その忘れているのは表層の意識、心の底の意識は絶対に覚えているはずです。
 
自分には乗り越えられない、と思うと忘れる事を選択してしまいます。
しかし、せっかくのショックです。武術はこのショックと向き合い、新しい自分を見つける手掛かりにしてきました。
 
 
 
人それぞれショックは違います。
今回の大統領選挙でも、大変だ大変だ、という人の意見がニュースになりがちですが、今回の結果を望み、投票した人たちにとってみれば希望になっているはずです。
 
常識は大勢の意見が作ります。気を許すと現代はすぐに誰かの意見が自分の意見のように思わされてきます。
全体の9割の人がそうだ!というと、つい、それに引っ張られてしまいます。
 
しかし、身体を通してみた時には常識は忘れてください。
どれだけ「無理」と言われても、自分の中に求めるものがある時にはそれを求め続けます。
その思い、信念があるから、そこから次のアイデアが出てくるのです。
その変化はとってもわずか。常識側からはやめておけよ、と声がかかるかもしれません。
でも、やめてしまったら絶対に自分の望むところにはいけません。
 
 
 
アスファルトやコンクリートを破って雑草が生えます。
植物に意識があるかどうかはわかりませんが、すごいことですよね。
 
しかし、私たちの常識的な頭は綺麗な花にばかり目が行きます。
諦めなくてもいい、という事を身体は教えてくれています。
ショックを受ける、というのはまさしく、そこに身体がある、という事を教えてくれています。
 
ただ、身体を生かす、身体を観る、という事をみんな忘れてしまいました。目に見える身体しか扱わなくなったのです。
そんな常識に負けて生きるのも自由ですが、私はトンデモナイ技を経験してしまったのでもう無理です。
あの「ショック」があったからこそ、その後、20年以上ずっと、あきらめずに新しい自分を求め続けていく事が出来ました。
 
しかも、その後何度も何度も「まさか」という「トンデモナイ技」を受け続けることができ、この先、死ぬまでずっと、新しい自分を探しながら生きていく事になりそうです。
 
 
 
「攻撃」と「防御」に納得がいって、これからは責任と覚悟を持って「攻撃」もしよう、と思います。
トンデモナイ技を通してショックをお渡ししますので、ぜひ、体験にいらしてください。
 
稽古、講座予定はこちらをご覧ください。

衝突は奇跡。

新しい感覚を見つけると動きが変わります。それまで想像もつかなかった精度で動くことができるようになり、十分に抑えさせていたとしても、すり抜ける事が出来るようになります。
 
 
 
それでも、二度三度、繰り返して技を行うと相手はそれについてきます。人間の持つ「慣れ」というすごい力です。
相手についてきてもらうと、このままではダメだ、もっと、なにかを見つけなければ、と思えるようになります。この気持ちがなくては新しい発見はありません。
 
だからこそ、カラダラボでは、先輩後輩や、持っている段位などの気持ちの遠慮が出ないように、入会もなければ受講証もありません。とにかく、研究が第一なのです。
 
 
 
嗅覚を使う方法があることがわかり、技はガラッと変わりました。これまで困っていた技もスルリと行きます。
ただ、うまく動けたときにはその軽やかさがあるのですが、時々、ぶつかるのです。
 
その衝突が頭を働かせてくれます。
動き方は分かっていて、そのようにやっているはずなのに、なにが衝突を作っているのだろうか?そんな疑問が出て来ます。
 
疑問が出れば答えが返ってきます。研究する事の楽しさはここにあります。しかも、その答えはその瞬間の自分さえ納得ができればいいのです。
 
 
 
衝突する時、自分の中のなにが影響しているのだろう?と思い、その瞬間を思い出していると、一つ見つかりました。
 
ぶつかるときには「相手を」考えていたのです。相手をどうこうしたい、相手を動かしたい、と思い動いている自分がいました。
 
 
 
うまく動けたときにはそれはありません。自分が進みたいところへと身体を進ませるだけです。
こちらが自由のまま動いた「結果」、相手は置き去りにされ、勝手に崩れていきます。
 
 
 
新しい世界を見つけた瞬間はその楽しさで相手にかまう暇なく、ただ行きたいところへ進んでいたみたい。
でも少し飽きてくると、今度は相手を気にしてしまっていたわけです。
 
 
 
相手の中にも力があります。
潜在的な力は相手も無限です。相手に向き合い、力を引き出していたのかもしれません。
 
 
 
そう考えると、衝突も楽しい、と思えてきます。
ちょっと思考を広げてみると、ひろい宇宙の中ではほぼ、衝突はありません。星と星が出会う確率はそれこそ、天文学的確率でしょう。
しかし、この地球上では、山ほど衝突があり、それが当たり前になっています。
 
せっかくの衝突です。その衝突を生かし、学び、新たな世界を見つけるために使いたいと思います。

ショックを受けることでいいこともある。

初めて甲野先生にお会いしたのが22歳の時です。

大学を卒業したばかりの事です。
それまで、ずっと、自分なりに練習をしてきて、素手であれば戦った時「なんとかなる」という気持ちになっていました。
 
実はあまり知られてはいないことですが、ルールがある時、勝ちを求めず逃げに逃げまくることで自分の身は案外と守ることができます。経験者と未経験者という状況では突き一つで決まることもあるでしょうが、相手も経験をしていて、ルールがあればなかなか技は決まりません。
 
 
 
本でしか知らなかった甲野先生の技を実際に受けてみると、これがもう、びっくり。
触れて抑えて、十分警戒をしていたにも関わらず、次の瞬間、なぜか、顔の前に手が。
ルールがあれば顔の前に手が来ただけではなにも変わりません。
もしかしたら、次の瞬間、こちらの技が決まり相手を倒す事もあるかもしれません。
 
でも、目の前に自分が理解できない技があるんです。
 
初心者であればすべてが初めての技です。驚くべきばかりかもしれません。
でも、何年も、何十年もやってきて、その道の先生となって、目の前にあるシンプルな動きの仕組みが「わからない」なんて・・・。
 
このショックはそれまで向き合っていたものが大きければ大きいほど大変なことになります。
 
 
 
このショックに対して「見なかったこと」にする人もいます。あまりに多くのショックは受け入れることができません。
私はぺーぺーで、なおかつ、自分に自信を持っていなかったので、守るものはなにもありませんでした。目の前にある「わからないこと」をわかりたいと思い、稽古を始めました。
 
この眼から鱗が何枚も落ちるようなショックが無ければきっと、いい話をきいた、ぐらいで終わっていたかもしれません。
 
 
 
一生懸命やっていれば上達します。
そして、世の中広いので、上には上がいてショックを受けることもあるはずです。
そのショックを活かすことができればさらに、奥が見ることができるはず。
 
ただ最近は「人それぞれ」という考え方が広がってきました。
どんどんと細分化して自分らしく生きることが楽しいよ、という考え方が受け入れられています。
この考え方は私も受け入れていますが、これは見方によっては「ルールの細分化」となって、自分のいいところを伸ばす事が出来なくなります。
衝突を嫌って避けまくると成長はできません。
 
 
 
私は根本となる「身体」を強くする方法を教わりました。
その根本を強くして、自分らしい生き方を見つけることこそ幸せへの道だと思っています。 
 
 
 
衝突は嫌な事だけじゃない、それを身体で経験できることこそ稽古です。
年齢とともに捨てること、手放すことが難しくなる、と言われています。いろんな理由があるんだと思います。でも、できれば、身軽な年寄りになりたいと思っていますので、これからも研究、稽古を続けていきたいと思います。
 
こんな楽しみを求めている人のお手伝いができればうれしく思います。

願いが叶わないのではなく、叶っているとしたら…

左右の密着によって気づかされた事があります。こんなにも自分は迷っていたのだなぁと言うことです。無意識の部分なので気づきませんでした。
 
左でも右でも、好みの方に密着させる。すると身体は窮屈になります。動けなくなりますが、実際に仕事をするのは腕や脚です。
これまで、腕や脚の自由を奪っていたのが体幹なのだ、とわかりました。
 
もしかしたら、筋肉、特にインナーマッスルを鍛えて成果を上げようとする試みはこれと似ているかもしれません。
ただ、左右の密着は筋トレが要りませんから、楽々です(笑)
 
 
 
迷いがなくなってきた事で一つ、ひらめく事がありました。
それは願いをどう叶えるのか?と言う問題です。
願えば叶う、それが願望実現の力です。そのためにありがとうを言ったり、笑顔を作ったり、みんな、努力をしています。
 
 
 
でも、もしかしたら、もう、叶っているのが「今」ではないか、という事です。
 
なにかを「手に入れたい」という願望があって、願う、でも、手には入らない。この時、教えは間違っていたのか?と疑いを持ちます。
 
でも、もう、叶っているとしたら。
 
 
 
アタマの中では手に入る、入った!(完了形で行うのがメジャーですよね(笑))、と願ったつもりでも、無意識、心の奥では無理かもなぁ、と思ってしまっているわけです。
 
今、無理が現実になっているところで、努力をして、また、願っても、無理に無理を重ねるのですから、さらに無理が強力になりかねません。
 
まず、この無理の連鎖を止めなくてはいけない、そう思いました。
 
 
 
稽古を通してわかった事は人間は成長すると言うことです。これは人はすぐに飽きちゃう、という意味でもあります。
夢にまで見た世界を手に入れたとしても、すぐに普通になり、飽きるのです。
 
この力を使わない手はありません。
稽古を通した研究は成長力を自分の中に見ることができます。自分には出来る、どこまで出来るようになるのか分からない、という気持ちを得ることが出来るようになります。
 
 
 
一旦うまく行かなかった事に出会ったときは、出来るところまで気持ちを戻します。
一気に戻してもかまいません。
形有るもの、特に値段がついているものであればお金を基準にしてもいいでしょう。
 
とにかく、悪い循環に入っている事を自覚し、その流れを変えることに目を向けるのです。
 
 
 
これはドン底の自分を見つけるという作業かもしれません。
その底からであれば、少し楽になるための方法は見つかりやすいし、うまくいきます。失敗したとしても、ドン底に戻るだけ、また、チャレンジができます。
 
 
 
身体は行動する事の大切さを教えてくれました。
武術の世界では肉体的な行動ではなく、思考的な行動で相手を倒す技も存在しますが、それは、武術で学ぶよりもビジネスなどの世界の方が学びやすいです。
 
行動するときの姿勢、それが思考を助けてくれます。思考的によく分からなくても、納得できる姿勢をとり、行動する。
これも一つの答えです。迷いは特に身体に出ます。その迷いを取ることができたら望んでいた循環に入ることが出来ます。
 
姿勢の力はもっと、見直されてもいいんだけどなぁ。姿勢よりも、成果の方に注意が向けられているのが現代です。
姿勢だなんて、後回し!そんな事を思わず、姿勢を整え、好きなことにチャレンジしてみてください。

分かる言葉、分からない言葉に要注意

ブログを書き出した事で、思っても見なかった言葉が山ほど出てきて自分でも驚いています。作文がなにより、苦手だったのに(笑)
面白いのは、自分が書いた文章を読み返したとき、本当に自分が書いたのかよくわからない時があります。その瞬間、身体に生まれている感覚に従って書いているからでしょうか(笑)
 
 
 
さて、書きまくってきてふと、思った事があります。
それは「分かる言葉」と「分からない言葉」についてです。
 
最近書いた記事に「左右の密着」というのがあります。
体幹を左半身と右半身と分けて考えて、右半身を左半身にぴったりとくっつけるという使い方です。
それによって、重心は左半身の右断面に沿って落ちることになります。
言葉は理解できなくても、動きとしての働きはわかりますので、そこでまた、頭は混乱します。

 
こんな説明をすると百人が百人、「分からない」といいます。その「分からない」を手がかりに稽古を進めるのですが、徐々に理解は進みます。求めれば、必ず、答えは得られます。
 
 
しかし、ここで一つ疑問が生まれます。
「分からない」という言葉は分からない、という興味を持たせてくれて追求する事ができます。
しかし、「分かってしまった言葉」はどうでしょう。
分かってしまったから、スルーされてしまいます。
 
 
 
左右の密着と関係させてみると、「正中線」がそれに当たります。
正中線を「分からない」と考え求めている人がどれだけいるでしょう。武道、スポーツの世界ではあまりにも当たり前の言葉です。つい、わかった、わかった、と「分かったつもり」になってしまったかもしれません。
「分かったつもり」になり、追求を止めてしまった言葉がどれだけあったのでしょう。

言葉は難しいですね。しかし、面白いです。丁寧に向き合わなくては。

問題の答えはいつも二つある

答えは常に二つあります。
今の時代は問題に出会った時、すぐに答えが見つかります。
昔なら「秘伝」として秘密にされたことが今は商品として売られているわけですから。
書店に行けばたくさんの答えがあるので、運が良ければ一つ目の答えで問題が解決してしまうかもしれません。
 
 
 
しかし、また、新たな問題が出て来ます。それは問題を解決する答えに出会えない時です。
一つの問題に対してたくさんの答えがあるので、答えを試し続ければ良いのですが、何度もうまく行かないことを経験すると、諦めが生まれてしまったりしますよね。
私はこの「自分を信じられない」という問題に苦しめられました。
 
 
 
たまたま、私は「稽古」に出会い、「研究」をし始めました。
研究が教えてくれたのは自分は変わっていく、という事です。
答えを一つでも手に入れていれば、後はそれに合う自分に「変わっていけばいい」という事になります。
時間はかかるかも知れませんが、確実に答えへと近づくことができます。
 
 
 
新しい自分をいくつか見ていくと面白い事がわかります。
それは「答えは二つある」と言うことです。
 
ある問題を解決するのに速く動いてもうまく行くし、遅く動いてもうまく行きます。
大きく動いてもうまく行くし、小さく動いてもうまく行きます。
相手の事を考えてもうまく行くし、自分の事を考えてもうまく行きます。
 
最近見つけたのは、自分のバランスを足裏の下でとってもうまく行くし、頭の中、脳みその辺りでとってもうまく行くという事です。
 
 
 
人間には「飽きる」という能力が標準装備されています。
飽きているのにそれをやることは自分に嘘をついていることです。
ただ普通は仕事として結果を求められますから、飽きていても、同じ事をしてしまうものです。
 
 
 
研究をすれば結果が得られます。
その結果があれば生きることを「楽に」する事ができるかもしれません。
しかし、それが「楽しい」かどうかは自分に問いかけなくてはいけません。
飽きてはいないだろうか?ワクワク楽しんでいるだろうか?
 
 
 
研究が上手になる、というのは結果に囚われなくなる事かも知れません。
気づいたことを隠すことなく、全部伝える。カラダラボの稽古はそれを行えるようにしてあります。
 
秘密にしておけば技はかかり続けるので勝ち負けで言えば気分は良いかもしれません。
でも、心の奥にはもっと新しい自分を見たい〜という気持ちがあるかもしれません。まだまだ、すごいことが出来る自分が必ずいるんです。
 
 
 
実は研究上手になって秘密を全部伝えると良いことがあります。
それは自分の中に新しい問題が生まれると言うこと。
秘密、秘訣を伝えるのですから、相手はそれを抑えてきます。技がかかりにくくなるのです。でも、この経験、体験が心になんとかしたい!という必然性を生みます。

どうしても解決したい、そういう思いがなくては答えは見つかりません。
なかなか、外の世界、日常生活の世界でこんな体験は難しいです。
あまりにも便利になったので、どうしてもしたいことが減ったからです。
研究上手になるために稽古をする。そんな思いで来てくれると私もやる気がでます(笑)
 
 
 
各地でいろんな稽古、講座、研究会を行っていますので、興味に従いお越しください。

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