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発見

研究は楽しい

ブログを再開した時、タイトルも変えました。

 
 
 
「研究者になればいい」
 
 
 
それが強く伝えたかった事です。
 
世の中はサービスの社会です。求めるものがあった時、必ず、それを与えてくれる人がいます。
モノだけではなく、性格を変えたい、という事だってセミナーなどの形で山ほど開催されています。
 
 
 
探す、という事が現代においてはとても重要なスキルなのは間違いありません。
しかし、答えを探していってもいつか、行き止まりにいきます。
私が探しているのは「内面」です。外側を探してうまくいかなかったのです(笑)。
 
 
 
昨年末、自分の内面にとんでもないものを見つけました。
 
 
 
「小人」です。
 
 
 
自分とは違う人がいたんです(笑)。
こんな事、誰かから教わったって信じる事はできません。
自分の中に見つかったからこそ、信じる事ができるのです。
 
 
 
研究をすれば発見があります。自分で発見したことは信じる事ができます。
研究癖をつけて新しい知識を生かす事を楽しんでください。

裏の身体の発見

10月31日、突然、鼻の奥に新しい感覚を得ました。

喉の奥に息をぶつけるようにする事で、そこが「ある」という感覚を得たようです。
 
なにかが「ある」というのはとても大切な事です。「ある」と分かるからこそ、それを動かすことができます。
鼻の奥に見つかったものはまだなんの働きもしません。ただ「ある」だけです。それでも、「ある」事がわかったので、動かすことができます。
 
この鼻奥にある部分が動くと、頭全体が動きます。場所的にも頭部分の重心位置に近いようですから当然かもしれません。
このバランスのいい部分が直接動くことで、「結果的に」、末端は大きく動かされていきます。
 
特に技として変わったのは剣です。
剣術はほとんど稽古をしないので素人剣法です。むしろ、剣術を稽古せずに、このまま素人でいたい、そう願っています。
なぜなら、稽古をすれば無意識に上達してしまう事があるからです。
テクニックとして使えるものを得てもそれはその世界の中でしか使えません。私は根本が知りたいと思っています。ですから、剣の素人のまま、自分の中で驚ける動きはないか、と探っているのです。
 
 
 
そして、やっと、自分でもびっくりする動きと出会う事ができました。
剣先を飛ばすのに、どうしても、握っている手、支えている体幹、それらを動かさなくてはいけなかったのですが、頭が先に動くようになり、手や体幹はそのままに、剣先だけが飛ぶようになりました。
 
頭が先に、と書きましたが、これまで認識していた頭は「外」から見たものでした。外の頭を動かすと、つい、首が動きます。首の関節は柔軟なようで、わずかな頭の動きもそのショックを吸収するように動いてしまい、ねじれます。
 
しかし、鼻奥にある部分を意識して、それが動くと、首どころか、手の内も体幹も意識はそのままでいられます。自分の動きを自分の目で追えないのは初めてです。
 
 
 
その鼻奥ですが、どうやらさらに「奥」がありました。
鼻奥に見つかったものは頭の重心です。
そして、それは鼻を使い、匂いを嗅いでいるようにすると意識しやすいようです。鼻ですからね、当たり前かもしれません。匂いがない、匂いがしない事で忘れていました。
 
鼻は匂いを嗅ぐものです。その「嗅ぐ力」を内側に向けます。
そして息がそれをさらに助けてくれる事もわかりました。
鼻奥にある頭の重心は息を「吐く」事で動きが生まれやすいのです。
そして「吸う」息はお腹に入っていく事がわかります。
その息に乗せるように「嗅ぐ力」を使います。
 
食道を通り、胃の中へと鼻の感覚が伸びていくのがわかります。
その時、鼻奥の時と同じように「ある」という事がわかります。
 
 
 
吸う息に合わせたことで見えてくる身体は体幹部です。
体幹部の内側がしっかりと自覚できることでねじれにくい身体となります。
頭ほど速くはありませんが、大きさがある分、力は大きく相手に伝えれます。
 
 
 
身体の内側に気付いてほんの数日なのに、これまでの動きをすべて捨てざるをえない状況になってきました。
ただ、鼻から感じられる身体は「内観的身体」そのもののような気もしています。
視覚、触覚、聴覚は頭で理解しやすい感覚だったのかもしれません。そのわかりやすさが頭がでしゃばるきっかけを作っていたようにも思えます。
 
 
 
感じたままを残すために今、これを書いています。
稽古に来られて試されたときには別の使い方、考え方に変わっているかもしれません。それでも、それは、今の状況を通ってそこに行ったものです。
疑問になったところ、気になったところ、稽古の際、遠慮なく聞いてください。
 

【再掲】下駄の効用

先日、「願いとプレッシャーはセット」という事を書きました。
その最後で下駄をお勧めしましたが、2年ほど前、下駄の効用に気付いた時の記事を再掲します。その後、さらに研究は進み、下駄でやれる事はさらに増えており、さらに、下からの感覚は「当たり前」として活用しています。
 
ご参考になれば幸いです。
 
 
 
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 今日は「下駄」の話をしようと思う。最近、ツイッターではつぶやいていたけど、あまりの効用にどうこれを伝えようかと考えているうちに時間が過ぎてしまった。
 多くの人が「靴」を履く。しかし、ぜひ、「下駄」を履いてみて欲しい。そして、それを続けて欲しいと思う。そこにはもちろん、意味はあるし、効果もあるんだけど、続けられる人はそんな事を考えずに、普通に、下駄で過ごす時間を過ごして欲しいと思う。
 
 
 
 ただ、私は頭でっかちな性格だ(笑)。意味もわからず、なにかを続ける事ってできない人。だから、今日は昔の自分にあてるような気持ちでブログを書く事にする。なにも考えなくてもただ履いて過ごすだけで、カラダは変わってしまうのだ。
 
 
 
 二階にある道場に手すりを使わないと上がれないほど膝が壊れている仲間がいる。彼に少し冗談めかして下駄を履かせて歩かせた。すると、それまで痛くて気になっていた膝が気にならないみたい。そのまま階段を降り、また、あがってきた。第一声は「なんで、あがれるのか!」だった(笑)。
 
 
 
 下駄をバカにしてはならない。エンジンも歯車も、なにもついていない。しかも高級なブランドでもなければ、たぶん職人が丁寧に魂をこめたものでもない(1500円ぐらいで普通に買ったサンダルのような下駄。鼻緒もついていない。)。
 それでもカラダは変わってしまうのだ。
 
 
 普段、きっと、頭に気づかせないように、このカラダは無意識に変化を隠している。これまでも下駄を履く機会はあったけど、まさか、こんなにも大きな変化が自分の中に生まれていたとは夢にも思わなかった。
 
 
 
 
 下駄を履く事でなにがかわるのか。
 最近の術理に当てはめてみると、「跳ね返る力」、「重力」の力に簡単に乗る事ができる、というところだろう。以前、「今を5つにわけてみた」としてブログを書いたけど、その2番の力、五行で言えば木行の世界に簡単になじめるようになるのが下駄なのだ。
 
 
 
 跳ね返る力の存在に気づき、それを使いこなそうとあれこれ試し、なんとか、一通りの技の中での生かし方を見つける事ができた。それによって、これまで考えもしなかった動きが可能になり、実際に速く、そして、重い動きがでるようになったのだ。
 しかし、これを伝えるのはなかなか大変。まず、なにより、タイミングが違う世界がある事なんて普通は考えないもの(笑)。
 
 
 
 手を合わせてみればそこに普段と違う感覚と、目に見える結果があるので、タイミングが違う世界が「ある」というところまではなんとか理解してもらえると思う。問題はそのタイミングの世界にどう行ってもらうかだ。
 ただ手を上げる、ただ歩く、そんな普通の中にタイミングを変えた世界がある。そして、それを変えることができれば、これまで無理だと思っていた事に光が見えてきて、楽しくなれる。そう確信はしたものの、どうしたらそれを伝えられるんだろう、と考え込んでしまった。
 
 
 
 問えば必ず、答えは見つかるもので、その感覚を自覚し、過ごしてもらうためのアイテムが「下駄」なのだ。
 
 
 
 今、私の中では下駄は「履物」ではなく、「乗り物」と認識している。自転車のように楽に身体を運んでくれるもの、と考えている。下駄は発明なのだ。
 
 舗装道路のなかった日本では下駄が便利。もちろん、それもあるだろう。でも、そうなれば、現代において下駄は必要なくなる。軽い靴でかまわないもの。
 でも、靴では得られないすごいものが下駄にはある。下駄に乗る事で身体を常に楽に動かす事ができるようになる。
 
 
 
 これを武術の技を通して確かめると、もう、靴には戻れない(笑)。
 
 
 
 ちなみに、今私のキャリアは武道暦が40年近く・・・、甲野先生に出会って20年近くになる。これまで、研究、稽古を続けてきて変わり続けてきた、という自負もある。
 
 でも、今、自分のどんな動きよりも「下駄」に乗って動いた技のほうがキレルのだ(笑)。
 
 
 
 甲野先生と出会い、変化こそ大切で、楽しい、とわかった今だからこそ、この状況を楽しく過ごす事ができるけど、きっと、何十年も一つの事を追求してきた人であれば、ショックで言葉もなくなり、さらに追求していく意欲を失ってしまうかもしれない。
 
 なぜなら、何十年の努力が全部、無駄な努力だったのかも、と思えてしまうから。
 
 
 少しでも動きのレベルをあげようと日々、汗をかいている。でもそんな汗を下駄はひょい、と乗り越えてしまうのだ。その現実をどう捉えるか、稽古のセンスはこういう瞬間に試される。
 
 下駄によって身体は変わっているのだ。変わっていない、と思い込んでいるのは頭。現代は頭が強いから、つい、変わった身体をなかった事にしようとしてしまう。でも、身体も大切な自分。しかも、身体がわかる事で精神の事もよくわかるようになる。
 こんなにも豊かで便利で楽に暮らせる時代なのに心につらいものを抱えている人は年々増えてきている。理由の大きな部分はきっと「身体」が使えなくなってきているから。医者も学者も皆現代人、身体を使える人、身体のすごさに気づいている人は少ない。身体のすごさを認めない人が精神の問題を解決できるとはとても、思えない。
 
 
 つい、話がそれてしまった。今日は下駄に戻ります。この記事を読み終わった後、下駄を買いに行ってくれる人が一人でも増えれば、なんて(笑)。
 
 
 
 
 下駄に乗る事で足からくる不安が少なくなっているのに気づく。足からくる不安とは崩れそうになる、不安。その不安定さが無意識の力みを作っているわけ。この力みは4番。筋肉、意思の世界。なにかをやろうとするタイミングは地面からの跳ね返りの力のタイミングに比べて圧倒的に遅い。その「ズレ」が力みになり、身体を硬くしてしまうのだ。
 
 若いうちはまだ、身体にも余裕がある。、栄養も取れるようになったから、筋肉も増えたし。しかし、増えた筋肉は重さにもなり、骨格としての身体、バランスとしての身体に負担をかける。歳をとり、どこかで、負担のほうが強くなるときが必ず、やってくる。
 それがわかっているのに、皆なぜ、平気なんだろう?
 
 
 
 下駄に乗ると、足指、膝の力みが消える。
 どうも、私たちの足元は平らに見えるだけで、体にとっては微妙なバランスを必要とするものらしい。その微妙なものを処理してくれるのが下駄なのだ。
 
 下駄は自分がそこにいていい、と身体で思わせてくれる。いくら、頭の中で「ここ」こそ自分の居場所なのだ、と思っても、実際に身体が緊張していては駄目だ。身体の方から安心がもらえる。ただの木材に紐がついたようなものなのに(笑)。
 
 
 
 舟の船頭さんを考えてみて欲しい。水面のゆれを身体で受け止め、櫓をこぐ。エンジンのように馬力で進むのではなく、身体を使って、舟を導く。この時、水面のゆれに抵抗していては一人前に舟を扱う事はできないはず。舟との一体感があって、初めて櫓を使いこなせるようになるはずだ。
 
 地面との関係もこれと同じ。地面は揺れていないけど、身体はいつも、不安定さを持ち、一体感を失ってしまっている。下駄に乗る事で簡単に一体感が得る事ができる。意味もあるけど、身体にはいらない。下駄で過ごす事が習慣になるように生活の中に取り入れると滑らかな身体、滑らかな気持ちの自分と一緒の時間が増えるはずだ。
 
 問題は仕事のとき。下駄を履いたビジネスマンは明らかにおかしい(笑)。そこが各自の研究テーマだから、勝手にやってください。
 
 
 
 ・・・と、ここまでは私の中では「普通」の話し。下駄を履く事で地面との跳ね返りがスムーズに行われ、身体に力みを作るにくくなり、結果的に自転車のように身体を楽に「動かす」事ができる。身体が気持ちよく動くのだから精神的にもいいはずだ。
 
 ながながと書いてきたけど、上の数行に書いた事がこれまで伝えたい事のまとめ。後はそれぞれ、試してくれれば、と。
 
 
 
 実は、まだまだ、下駄には秘密がある(笑)。
 実は「手に持っても」動きが滑らかになってしまうのだ!
 
 両手を押さえて、歩く事をしっかりと押さえてもらう。この稽古が私は好きだ。目の前の進みたい道を行く、というのが人生と似ているから(笑)。
 どんな手を使ってもいいから前身を止める。それだけをルールにすると、武術武道の高段者、スポーツの才能、身体の大きさとかあまり、関係なくなる。その状況で自分になにができるか、を求めるのがこの稽古。
 
 
 この時、下駄を履くと、身体と地面との関係がよくなり、跳ね返る力が身体を動かすようになる。その跳ね返る力は筋肉のタイミングよりも早いので、結果として身体の大きさのハンデが消えてくる。ここまでは説明したとおり。
 
 
 この時、下駄を「手に持つ」のだ。鼻緒に指をかけ、ぶら下げる。その状態で前に進む。すると、相手がなにもできずに、崩れていってしまうのだから、もう、なんと言っていいやら(笑)。
 ポイントは手に鼻緒がかかっている事。たぶん(笑)。下駄だけを指で挟みこんだだけでは肩に力が「逆流」し、流れない。身体が力んでしまうのだ。
 
 鼻緒でぶら下げるぐらいの時、指先から力が外へと流れていく感覚がある。この感覚が身体の自由さをくれるみたいだ。
 
 
 
 下駄を持っていない反対の手、そして両足。それぞれは下駄を手にしている手に従い連れられていくようにする。すると、身体がスムーズに相手へと向かっていけるようになる。少しずつ理由はわかってきて、使い勝手も上手になってきているけど、下駄を手にしているときの身体の軽さはこれまでに経験した事がない。
 
 
 
 ちなみに、つまむんであれば、他のものでもいいんじゃないか、と巾着やポーチ、ペットボトルとかを試してみたけど、それらは全部、駄目。「下駄」でなければいけないらしい。
 
 
 
 そこで、ふと、思いついた。
 もしかしたら、私たちの中に動物としての心が残っているのかな、と。私たちは手足が大地と触れて生活をする。手足は大切な接点なのだ。その接点の先に不安があるのと、安心があるのとでは当然、違ってくる。
 ついつい、不安を頭にまで上げて解決したくなるけど、接点において安心を作れれば頭は他の仕事に回すことができる。
 
 一見、関係のない手に持つ下駄も、手先から伸びる世界、もしかしたらこれは抽象的なほうの世界かもしれないが、それとの間に安心を作ってくれているのかもしれない。
 
 
 
 遊びながら、笑いながら、この現象を試していて、ひとつ発見があった。
 竹刀でお互いしっかりと打ち合ってみたのだ。
 相手の隙を付くわけでもないし、竹刀を扱う技が伸びたわけでもない。この時、右手の指に下駄をぶら下げ、打ち合ってみた。すると、信じられないぐらいの重さと速さが出てきてしまった。
 
 タイミングも力みがないせいなのか、気配を読めないし、下駄をぶら下げる事でこんなにもかわってしまうだなんて・・・。
 しかも、何人かに試してもらっても、ほぼ例外なく、変わって重さと速さが乗ってきている。この変化で丈夫な袋竹刀が折れてしまったのだから、もう、なにかあるとしか考えるしかない(笑)。
 
 普通に竹刀を持って、右手に下駄をぶら下げる姿を想像して欲しい。一言で言うと、「間抜け」。もう、まじめになんて練習できない、普通の道場では絶対に許されない事だと思う。しかし、頭のまじめさを大切にしてこの速さと重さに気づかないで練習を続けても一生、そこには行けないかもしれないのだ。
 
 
 だからこそ、研究は楽しく、笑いながら、縛りなく行える場所が必要なのだ。権威を大切にするなら、それもいいけど、そんな権威は死ぬ直前には役に立たないものだし、年々、権威の力も小さくなっていっている。
 どうせ生きるんだもの、楽しく生きるためにはどうすればいいのか、そんな事を考えて暮らすのもなかなか楽しいし、身体感覚を使ってみると、意外と簡単にそれを実感する事ができる。
 
 
 
 ずっと、下駄の話をしてきたんだけど、乗るだけで、動きが変わるのだ。その動きは相手が敵役をやってくれるとさらによくわかる。どんなに抵抗をされても、崩していけるこの感覚は自分の中になにか「ある」という気づきに変わってくる。
 高度なテクノロジーの結果の道具は自分の身体にあるなにかを教えてくれない。その「道具」がすごいのだ、と思ってしまう。でも、下駄は「ただの木」だもの。下駄に乗って変わってくる結果の要因は下駄によって変えられた自分でしかないはず。
 
 
 世の中に便利なものはたくさん歩けど、その便利なものって結構飽きる。次にまた、性能のいいものが出てくるだろうし。一瞬満足があっても、すぐに不満に変わっていく。しかし昔の人が発明した下駄はどんどん内側に入っていくのだ。下駄のすごさに気がついて2週間ぐらいかな、毎日、違う自分が見えてくる。その人なりの変化が下駄によってもたらせるはず。
 
 
 身体感覚の世界はマニアックな世界でなかなか上手にその楽しさを伝えられなくて凹むことがあるんだけど、下駄を履いて見れば、意味はわからずとも、軽い身体を先に渡す事ができるとわかった。最近の浴衣下駄なんかは下にゴムが付いているので、まぁ、室内でもそれほど気にせず使えると思う。ぜひ、靴屋さん、和モノ屋さん、浴衣コーナーを覗いて手に入れてきてください。1000円ぐらいのもので十分ですから。
 
 
 
  つい、つい、熱を入れて語りすぎちゃいました(笑)。でも、まだまだ、話し足りません。続きは講座、稽古にて聞いてください。
 
 
 

外からの動き、中からの動き。

気づきはいつも突然現れます。
最近、その気づきが多くなった、と感じていますが、きっと、これまでも、気づくチャンスは同じようにあったのだろう、と思います。
 
今朝、浜松への移動中、口にクッキーを頬張りながらふと、気づいたことがありました。
それは、息に対して身体が動いている、と言うことです。
もちろん、呼吸は身体を動かします。しかし、今朝気づいた動きは、ただ動いた、というのではなく、息に対して、ぴったりと身体がついてくる感覚でした。
 
そして、すかさず、息と身体を意識をしましたが、これまで感じたことのない速さがあり、ゾクゾクとしました。
面白いのは、この発見をまだ、なにも、誰にも確かめてもらっていないにも関わらず、「確かだ」と認めている自分がいたことです。
 
 
 
これまで何度も気づきを得てきましたが、実際に誰かに抑えてもらう、と言うことで「確かさ」を得ていました。しかし、今日は気づいたことで身体が違うことを感じたのです。
 
 
 
実際にそれは確かに違う、と言うことがその後の稽古でわかりましたが、なぜ、そう感じたんだろう?と、帰りの道中ずっと、考えていました。
 
そして、一つ自分の中でこれまでとの違いを見つけました。
それは外から動くのと、中から動くのとの違いです。
 
 
 
これまでも、身体感覚を「中に」探ってきましたが、その感覚は「外に」ありました。
視覚、触覚、聴覚。これらの感覚を高めて、それまで気づけなかった動きを見つけ、扱う。そんな稽古です。
 
骨の感覚は中にありそうなものですが、それを探っている自分は骨の外にいました。
今日気づいた息は「鼻」です。鼻を意識するというのは「嗅覚」を意識すること。
その嗅覚をこれまで、外に向けていたのですが、口の中にある味覚から嗅覚につながったのではないか、そう思います。
 
 
 
嗅覚を中に向けて意識をする事で、鼻の奥に動きが生まれます。その動きが身体を動かしました。鼻の奥に生まれた動きは僅かですが、末端にたどり着いた時には相手を崩すには十分な動きとなります。
 
 
 
どんなに抑えられても動きたい。それが私の願望ですが、嗅覚から得られる情報は止められません。
視覚的なもの、触覚的な自分はびたりと合わせられると心に不安が生まれますが、匂いを遮断するのは簡単ではありません。僅かな隙間を見つけ、入り込む事ができます。
 
 
 
息をすることで生まれている動きに気づくことが出来たのも、息をするのも精一杯という、死にそうな立ち方に気づいたから。フラフラの肉体だから、息をするだけでも動いてくれました。これまでは、健康すぎる肉体がしっかりと、その揺れを抑えてしまっていたみたいです。
 
 
 
今週は大人の武道塾はありません。一人稽古の会にてしっかり確かめ、また、ご報告します。

稽古の記録 2016/10/28

あまりにも次々と新しい事が出てきます。

稽古の記録として、残していこうと思いますので、気になるものがあった方は遠慮なく聞いてください。
 
ひとつひとつの気づきはそれだけでそれまでの動きを一変させるほど、パワフルなものですが、すぐに、別の形に変えてしまいます。ほとんどがなにかに気付くためのきっかけの役目をおっているかのようです。
 
備忘録として残します。
 
 
2016/10/28(金)
・頭だけになる感覚を確かめる。
頭に全身が隠れるように意識をすると、遠い足元への切込みに対しても反応ができる。
 
・ヒモの力を始めて実感する
いい感じのひもが道場にあったので頭に巻く。すると、頭が常に先に動き、剣を躱しやすい。また、斬り込みなど、体術においても、気配なく動くせいか威力が上がる。
 
・ヒモは3次元、刀は2次元、下駄は1次元か。
平紐を頭に巻くと丸紐に比べて動きにくい。ただ、平紐の時には、頭に前後の奥行きが生まれるのを感じる。頭に着物を着て刀を差した時の感覚が生まれた。その感覚にそって動くとよさそうだ。
また、下駄シールを貼ってみると、頭の奥に小さな点が感じられてこれも、いいかも。丸紐が頭蓋骨なら下駄は脳に響く。
 
・動きの元は頭、上半身、下半身。
それぞれ、役割が違う。主役を決め、あとは従うように。
 
 
以上。

「立つ」ということについて、その2

先週、「立つ」ということについて新たな感覚があったのでそれを報告しました。
ちょうど、翌日が甲野先生の稽古だったので、恐らく、新たな気づきをもらえるはず、と書きました。
 
そして、それは予想通り出てきたので、また、ご報告いたします。
新たなもの見せてくれる、それは予想通りでしたが、中身はいつも、予想外!まさか、こんな方法があるとは…、でした。
 
 
 
前回お知らせした「立つ」ですが、前提として「死にそう」な時と、設定しました。その上で「立つ」となれば、立つために相当な意味、覚悟、気力が必要だろう、と。
生な肉体で立つのではなく、肉体とは違う気力で立てることが分かったのです。
 
今回の気づきも、「死にそうな」という前提は同じなのですが、バランスをとる新たな場所が見つかりました。
倒れそうだ、と意識をして立ってみると、足裏の意識が強くなります。自然と肉体と地面との間でバランスをやりとりする事になります。
 
しかし、もう一つバランスをとれる場所がありました。
それは「頭」それも「脳」です。
フラフラな時、もう立ってもいられない状態で脳を動かすと、バランスが取れるのです。
 
ただ、この時の「動かす」は脳の持つ高次元的能力ではなく、位置としてです(笑)。
 
 
 
脳が五感からの情報を受け取り現実を作っている、というのは実に夢のある話です。ただ、今回はそこには触れません。むしろ、それじゃない脳の使い方があったのでびっくりしています。
 
足裏のバランスに気がついてすぐでしたが、しっかりと、受け止めて稽古をしてもらったので、それに対応する動きも少しずつ見えてきました。
肉体ではなく気力で立つ、という突飛な考えも、しっかりと観察をすれば動きが見えてきます。
足裏の地面に従うように動いているので、そこを注意してもらうと、対応ができそうな気もします。
しかし、脳は外からは見えません。
わずかに脳が動いたとき、瞬時に肉体は動きます。そもそもが倒れそうなのですから、すぐに動きます。
見えない部分が初動になるのですから、相手もちょっとやりにくいわけです。
 
 
 
前回のブログで「浮いているよう」と書きましたが、下と上、それぞれでバランスがとれることがわかり比べてみると、やはり上でバランスをとった方が「浮いている」ようです。このあたりはここで訂正しておきます。
 
 
 
今後、この動きがどう展開していくのか、全く分かりません。
今、一つのヒントがあります。どうやら、この脳と指先には強い連動がありそうだ、ということ。
指先の動きに従い脳が場所を変えれば、その瞬間、体幹部の位置も動き、まとまりそうです。
これまでよりも、正確で、速い動きが可能になるかもしれない、そんな予感があります。
 
そして、なにより、この脳が動く感覚は「頭痛」との関係が深そうです。
激しい頭痛がある時、それは、細かな脳の動きに対して、頑固で動かない肉体を作ってしまった結果、アタマの中で衝突が起きているかもしれないなぁ、と考えました。
 
 
 
全く新しい動きがでると俄然やる気がでます。
それを追い求めた結果、一時的にも下手になったとしても全然気になりません。それよりも、この新しい動きは自分をどう自由にさせてくれるのだろうか、とワクワクします。
また、気になることがみつかれば報告します。

臆病の効用

私の性格の一つに「臆病」というのがあります。
一応、子供の頃から武道を行ってきたので、強くなければ、と思っていました。しかし、技は身についても、それを使い切る気持ちがなかなか持てませんでした。
中途半端な自分を嫌い出すきっかけになっていた性格かもしれません。
なんとかしようとあれこれ、工夫や勉強もしましたが、「基本的」な性格はなかなか変わらないのです。
 
 
 
変わる性格もあれば変わらない性格もあります。
変わらない性格には活かし方を変えればいい、稽古はそう教えてくれます。
そして、昨日の稽古で「臆病」を使う新たな身体操法が見つかったのです。まさか、こんな効用があったとは!

今まで、思い切りが良く、勇気がある人をみて羨ましく、憧れていましたが、彼らにはこの臆病から生まれる力がきっと、わからないだろうなぁ(笑)うまく伝えることができるだろうか?今、そんな心配をしています。
 
 
 
臆病者の私は怖いものが来たとき、「指先」が迷います。
どこに指を置けばいいのか、居場所がなくなります。
この指先のまま相手の攻撃を受けると、大抵、衝突した際、力みが生まれます。なぜなら、ぴったりと寄り添っていないから。
しかし、この「ズレ」に今まで気づくことはありませんでした。理由は「全てがそうだったから」です。

自分の動きだけではなく、他者からの動きもズレがあるからケンカになります。
ズレているのが当たり前なのですから、誰も問題にしません。
 
 
 
このズレを解決するにはぴったりと合わせる、それが一つの答えです。
しかし、それを行うには無数のズレの中からぴったりとあうという奇跡的なポイントを見つけなくてはいけません。
この時、臆病による、指先の迷いが役に立つのです。

指先の動きを迷いと考えるとそれは無駄に見えます。
しかし、その細かい動きを予測と考えれば相手とぴったりと合う確率はグンと上がります。
 
 
 
コーヒーカップをつまんでみました。
普通に取るときと、臆病さを再現し、指先を見えないほど振動させ、そぉ〜と取ります。
振動させながらカップを取るとその瞬間、体のまとまりを感じます。
カップを取るだけですから、多くの人は必要としない精度です。しかし、この精度は相手と触れた瞬間崩す技になり、どんな場所でも、自分らしくいるための精度です。
自分の中にこんな力が隠れていただなんて、その喜びは研究する事でしか得られません。
 
 
 
実はこの動きに気づくためにもう一つ大切な感覚があります。
それは指先と目線が繋がっている、という事です。
指先の先に目線が行きます。その目線が頭を導き、身体全体を動かします。
古い伝書に技は手に導かれるように、というのがあったそうです。中心からの動くのではなく、指先から動く、それを実感しました。
 
もう少し確かめて、また、言葉にします。

「立つ」ということ

さっき書いた心臓の事、肺の事、内臓が弱っていたとしたら…、それを思い、身体に表し、稽古をしてみました。
 
改めて「立つ」という事を当たり前に受け入れてしまっているんだなぁ、と。
 
 
 
今のわたしは「立つ」事を苦にすることはありません。
もちろん、長く立っていたり、邪魔する相手が出てきた時には「立てなく」なります。
しかし、普通に「一秒立つ」のに「苦しさ」は感じません。
 
でも、もし、その一秒も立てないほど肉体が弱っているとしたら…。
その時、やりたい事がなければ横になったままでもいいでしょう。
しかし、心の中に立ちたい、立って何かやりたい、という思いがあれば、肉体を補うように内観的な力が必要になるかもしれない、そう思いました。
肉体で立てないからこそ、内観が働かせる事ができる、そう思っています。
肉体と内観、合わせて100%なんです。
 
 
 
生な体、肉体で立てない時、意識は足裏に行くように思えます。重力があり、地面とぶつかっているのですから。
その地面との接触をどうするのか、感覚はいつも、そこにあるのではないでしょうか。
この時、他者が襲ってきても、もともと、気にする必要があるのは足裏の地面です。敵を敵として見ない、それを身体で表現する事ができそうです。
 
 
 
この立ち方を試してみると、なんだか、ずっと、浮いている感じがします。相手に押されてもそれは維持をし続けるような。相手までも、足元の力が抜け、浮いているそうです。
積極的に肉体を捨てるように意識をする、というのは変な話です。
病気の話を聞いたからこそ、想像するきっかけを得ることができました。
この「手放す感じ」は身体があってこその感覚。単なるイメージとは全く違うことです。
手放すのですが、なくてはならない、そんな思いが出てきます。
 
明日、甲野先生からまた、たくさんのものを受け取るはず。そこに化学変化がおきて、今考えているものとは全く違う術理になってしまうのだろうと思います。
今の動きは「超しょんぼり」。研究できるのもあとわずかの命かも知れません(笑)
明日、みんなに受けてもらい、感想を集めてみたいと思います。ご協力よろしくお願いします。

見えない流れを見るには身体に目を向けるのが確かな方法

身体感覚に目を向けるようにだんだんと、視点が広く、大きく、高くなっているのを感じます。

全く手掛かりのないことでも、研究をし始めてみれば、徐々にわかってくることがあります。
それは、もう、どこかで手に入るような情報かもしれませんが、小さなことでも、自分の身体を通して見つかったもの、というのは貴重なものです。
 
 
これまで「運」というものは「重力」なのだ、と考えていました。
自分がなにかをやろうとした時、とんとん拍子に進む時と、障害ばかりの時があります。
その違いはなんだろう?ずっと、考えています。
実際に身体の動きを頼りとして考えてみると、「重力」というのが見つかりました。
 
重力は圧力として、上から、肩にのしかかります。
普通、身体を動かすには、軽くなったほうがいい、と思いますよね。
でも、実は身体に重さがあった方が動きやすい、そして、力強い、という事がわかったのです。
 
 
一つ分かると、たくさんの実例が見えてきます。
例えば、仕事。
 
いつまででもいいから、完成させなさい、と言われれば、後回しになります。宿題もその傾向があります。締め切りがあるから、行動に変わります。
この考えがわかると、嫌なことも身体のためには必要なこと、役に立つことがわかります。反射的に嫌!と目をそむけていた事にも、思考の余地が出来、冷静に行動へと移すことができます。
 
 
 
行動すれば経験を得られます。経験があれば、そこから成長へとつながります。
行動すればいい、とわかっていても、まだ来ていない結果を気にして、行動を止めてしまう場合があります。遠慮気味の人は特に・・・。
その恐れを強くしているのも重力です。身体があるから、それを感じる事が出来るんです。
 
 
もう一度言います。
重力は運です。
運が身体を運びます。
人が行うと、おなじ条件であっても結果が違ってきます。それは、そのぞれの人が運という流れを活かしているかいないのかがカギになります。
 
上から下の力を説明すればこんな感じです。
 
 
 
そして、どうやら、上下だけではなく、前後にも身体を運ぶ流れが潜んでいたようです。
 
先日、その力を発見した時の事を書きました。
その力は前後に働く力です。
身体を前、後ろへと運んでくれる力がありました。
 
 
重力が外からやってくる力だとすると、前後は自分の内側からでてくる力です。
考えてみると、なにかに興味を持った時には、今の自分を心配することなく、そのものへと意識を集中できます。
そのものが動いた時、私の身体は動かされていきます。
子供の頃楽しんだ、昆虫採集なんかはそんな感じがします。
 
 
 
子供の頃はみんな、好奇心いっぱいです。そのまま大人になれれば運を作り出す力に満ち溢れていたでしょう。しかし、ほとんどの人が「大人」になります。
知識を得て、考えて行動するようになります。機械的なものには思考した行動は役に立ちますが、自然なものに対して思考からの行動は少し、遅れます。
 
ときどき、子供のまま大人になってるような人がいますね。
彼らは私たちにはない魅力を発揮し、才能を惜しみなく発揮します。
しかし、そんな彼らも大人の世界で生きている以上、徐々に大人になっていきます。
 
 
 
心でそのギャップを受け止めようとしても、大変です。
心はふわりふわりと、自由に動きすぎるから。
この時にも「身体」が役に立ちます。
 
身体に意識を集中すれば、その身体がどこへ向かっているのかがわかります。
 
 
私はやりたいことがなかったので、動いていない自分が嫌でしたが、今見つかった前へと進みだす力を内側に見つけてみると、自然に、前へと進んでいるのを感じることができます。
しかし、この時の動きはとても小さいんです。なるほど、今まで見つからなかったわけです。
 
 
研究をしてきたからこそ、この力を見つけることができました。
知識だけ得ても、どうせ自分にはわからないだろう、と先送りしていたはず。
身体で得た気づきは共有することができます。
心にあるものも共有できるはずですが、それは感受性が高くないと無理。私が身体を大好きになったのはここです。できる、できない、わかる、わかっていないがはっきり出るから迷わずに済むからです。
 
 
 
身体を前へと進ませる力はやはりというか、臍下あたり、昔から丹田と言われているあたりから生まれてきます。
この力に従うように動くと、次にやるべき事が自然と見えてきます。
そして、自分の中にあるその力線をもうすこしはっきりと自覚できるようになれば、外の世界、つまり、他人の中にもその力線の方向が見えてくるはず。
 
世の中には見えない流れを見ることのできる人が間違いなくいます。
説明をしてもらっても、まったくその意味がわからないのは、見えているものが違うから。
最初の「見えないもの」として、この前方向への力を使えばまた、楽しくなります。
 
 
 
すこし、難しくなりました。
言葉はこれからどんどん増えていきます。こうして、言葉にする場所を作ったから。
ただ、言葉を聞いてもおそらくかわりません。
言葉を知り、やってみる。わからなくても、やってみる。すると、ちょっと、わかることが増える。これが「研究」です。
 
この研究は自分のために行う研究。だんだん、自分の興味に素直に従えるようになります。今、始めれば10年後はもっと、自分の事がわかるようになっているはず。
多くの人はまぁいいや、と先送りにしてなにもしません。
 
ぜひ、自分の身体にある、前方向の力を見つけて下さい。
絶対に見つかりますから。
次回は「後ろ」方向への流れの事を書きますね。
 

身体で「運」は作ることができる!

びっくりする事がありました。

 
それは、この身体で「運」を感じる発見をしたのです。
 
 
 
ずっと、身体感覚の研究をしてきました。
最初、なんとなく始めた研究も気が付けば20年を超えました。
その研究が広がり、結果として、生きること、運命とはなにか、コントロールできないのか、と考えるようになりました。
これまで身体感覚の掘り下げを一番の目的にしてきたので、「運命について」のように、ワンテーマをまとめる事はやってきませんでした。
 
それがどうしても、運命について知ってもらいたい気持ちが生まれ、今、わかっていることをこのブログで言葉にし始めました。
行動を起こしてみると、それに合わせてまた、結果もついてくるのですね。
まさに、ちょうど、伝え始めている「運命」という事を表している身体感覚を見つけたのです。
 
 
 
その感覚は身体が前へと持って行かれる動き。
身体感覚で動くという事をほとんどの方はわからないとおもいます。
動く、というと、自分の手足を使い、前へと進もうとするのが普通です。
自分から一歩二歩と出していけば確かに進むことができます。でも、これは普通です。
 
運に乗りたい、今よりもっと、先に進みたい、そんな願望があります。
この時、自分の力とは違う力が必要です。
機械や他人の力も自分以外の力です。しかし、自分以外の力を自分だけで生むとなると、これは大変です。
 
ひとつ使えそうな力はありました。
それは「重力」です。
力を抜いて脱力した時、身体は下方向へと流れますから、これにうまく乗ると、楽にいろいろなことができます。
長らく、この下方向への力が「運」だと考えてきました。
しかし、どうやら、下だけではなく、「前」方向にもあったのです。
自分が進みたい方向を確かにしたら、自動的に、その方向へと、身体を進めることが出来る事がわかりました。
その時の感覚が「運ばれている」ようなのです。
 
 
 
身体が自然と、行きたい方へと運ばれると、目の前に出てくる障害をやっつけるのではなく、躱せるようになります。
運に乗って勢いを持っている人はひとつひとつの問題に気持ちを取られたりせずに、自分の行きたいゴールをちゃんと、見ているはず。
 
たまたま運に乗る事もあるでしょう。
しかし、たまたま乗った運では、次に乗る時、また、たまたまを求めるしかありません。
自分の身体に運とよべる勢いを作っていれば、それまで怖くて委縮していた事にもチャレンジをする事ができます。
 
 
 
こうして身体に見つかった感覚が徐々にまた、言葉になっていくかと思います。
このブログに発見の記録を残すつもりはなかったのですが、あまりにもピンポイントな発見だったので、まず、お伝えしようと思いました。
 
また、頭を整理してご報告します。

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