研究は楽しい
ブログを再開した時、タイトルも変えました。
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ブログを再開した時、タイトルも変えました。
10月31日、突然、鼻の奥に新しい感覚を得ました。
気づきはいつも突然現れます。
最近、その気づきが多くなった、と感じていますが、きっと、これまでも、気づくチャンスは同じようにあったのだろう、と思います。
今朝、浜松への移動中、口にクッキーを頬張りながらふと、気づいたことがありました。
それは、息に対して身体が動いている、と言うことです。
もちろん、呼吸は身体を動かします。しかし、今朝気づいた動きは、ただ動いた、というのではなく、息に対して、ぴったりと身体がついてくる感覚でした。
そして、すかさず、息と身体を意識をしましたが、これまで感じたことのない速さがあり、ゾクゾクとしました。
面白いのは、この発見をまだ、なにも、誰にも確かめてもらっていないにも関わらず、「確かだ」と認めている自分がいたことです。
これまで何度も気づきを得てきましたが、実際に誰かに抑えてもらう、と言うことで「確かさ」を得ていました。しかし、今日は気づいたことで身体が違うことを感じたのです。
実際にそれは確かに違う、と言うことがその後の稽古でわかりましたが、なぜ、そう感じたんだろう?と、帰りの道中ずっと、考えていました。
そして、一つ自分の中でこれまでとの違いを見つけました。
それは外から動くのと、中から動くのとの違いです。
これまでも、身体感覚を「中に」探ってきましたが、その感覚は「外に」ありました。
視覚、触覚、聴覚。これらの感覚を高めて、それまで気づけなかった動きを見つけ、扱う。そんな稽古です。
骨の感覚は中にありそうなものですが、それを探っている自分は骨の外にいました。
今日気づいた息は「鼻」です。鼻を意識するというのは「嗅覚」を意識すること。
その嗅覚をこれまで、外に向けていたのですが、口の中にある味覚から嗅覚につながったのではないか、そう思います。
嗅覚を中に向けて意識をする事で、鼻の奥に動きが生まれます。その動きが身体を動かしました。鼻の奥に生まれた動きは僅かですが、末端にたどり着いた時には相手を崩すには十分な動きとなります。
どんなに抑えられても動きたい。それが私の願望ですが、嗅覚から得られる情報は止められません。
視覚的なもの、触覚的な自分はびたりと合わせられると心に不安が生まれますが、匂いを遮断するのは簡単ではありません。僅かな隙間を見つけ、入り込む事ができます。
息をすることで生まれている動きに気づくことが出来たのも、息をするのも精一杯という、死にそうな立ち方に気づいたから。フラフラの肉体だから、息をするだけでも動いてくれました。これまでは、健康すぎる肉体がしっかりと、その揺れを抑えてしまっていたみたいです。
今週は大人の武道塾はありません。一人稽古の会にてしっかり確かめ、また、ご報告します。
あまりにも次々と新しい事が出てきます。
先週、「立つ」ということについて新たな感覚があったのでそれを報告しました。
ちょうど、翌日が甲野先生の稽古だったので、恐らく、新たな気づきをもらえるはず、と書きました。
そして、それは予想通り出てきたので、また、ご報告いたします。
新たなもの見せてくれる、それは予想通りでしたが、中身はいつも、予想外!まさか、こんな方法があるとは…、でした。
前回お知らせした「立つ」ですが、前提として「死にそう」な時と、設定しました。その上で「立つ」となれば、立つために相当な意味、覚悟、気力が必要だろう、と。
生な肉体で立つのではなく、肉体とは違う気力で立てることが分かったのです。
今回の気づきも、「死にそうな」という前提は同じなのですが、バランスをとる新たな場所が見つかりました。
倒れそうだ、と意識をして立ってみると、足裏の意識が強くなります。自然と肉体と地面との間でバランスをやりとりする事になります。
しかし、もう一つバランスをとれる場所がありました。
それは「頭」それも「脳」です。
フラフラな時、もう立ってもいられない状態で脳を動かすと、バランスが取れるのです。
ただ、この時の「動かす」は脳の持つ高次元的能力ではなく、位置としてです(笑)。
脳が五感からの情報を受け取り現実を作っている、というのは実に夢のある話です。ただ、今回はそこには触れません。むしろ、それじゃない脳の使い方があったのでびっくりしています。
足裏のバランスに気がついてすぐでしたが、しっかりと、受け止めて稽古をしてもらったので、それに対応する動きも少しずつ見えてきました。
肉体ではなく気力で立つ、という突飛な考えも、しっかりと観察をすれば動きが見えてきます。
足裏の地面に従うように動いているので、そこを注意してもらうと、対応ができそうな気もします。
しかし、脳は外からは見えません。
わずかに脳が動いたとき、瞬時に肉体は動きます。そもそもが倒れそうなのですから、すぐに動きます。
見えない部分が初動になるのですから、相手もちょっとやりにくいわけです。
前回のブログで「浮いているよう」と書きましたが、下と上、それぞれでバランスがとれることがわかり比べてみると、やはり上でバランスをとった方が「浮いている」ようです。このあたりはここで訂正しておきます。
今後、この動きがどう展開していくのか、全く分かりません。
今、一つのヒントがあります。どうやら、この脳と指先には強い連動がありそうだ、ということ。
指先の動きに従い脳が場所を変えれば、その瞬間、体幹部の位置も動き、まとまりそうです。
これまでよりも、正確で、速い動きが可能になるかもしれない、そんな予感があります。
そして、なにより、この脳が動く感覚は「頭痛」との関係が深そうです。
激しい頭痛がある時、それは、細かな脳の動きに対して、頑固で動かない肉体を作ってしまった結果、アタマの中で衝突が起きているかもしれないなぁ、と考えました。
全く新しい動きがでると俄然やる気がでます。
それを追い求めた結果、一時的にも下手になったとしても全然気になりません。それよりも、この新しい動きは自分をどう自由にさせてくれるのだろうか、とワクワクします。
また、気になることがみつかれば報告します。
私の性格の一つに「臆病」というのがあります。
一応、子供の頃から武道を行ってきたので、強くなければ、と思っていました。しかし、技は身についても、それを使い切る気持ちがなかなか持てませんでした。
中途半端な自分を嫌い出すきっかけになっていた性格かもしれません。
なんとかしようとあれこれ、工夫や勉強もしましたが、「基本的」な性格はなかなか変わらないのです。
変わる性格もあれば変わらない性格もあります。
変わらない性格には活かし方を変えればいい、稽古はそう教えてくれます。
そして、昨日の稽古で「臆病」を使う新たな身体操法が見つかったのです。まさか、こんな効用があったとは!
今まで、思い切りが良く、勇気がある人をみて羨ましく、憧れていましたが、彼らにはこの臆病から生まれる力がきっと、わからないだろうなぁ(笑)うまく伝えることができるだろうか?今、そんな心配をしています。
臆病者の私は怖いものが来たとき、「指先」が迷います。
どこに指を置けばいいのか、居場所がなくなります。
この指先のまま相手の攻撃を受けると、大抵、衝突した際、力みが生まれます。なぜなら、ぴったりと寄り添っていないから。
しかし、この「ズレ」に今まで気づくことはありませんでした。理由は「全てがそうだったから」です。
自分の動きだけではなく、他者からの動きもズレがあるからケンカになります。
ズレているのが当たり前なのですから、誰も問題にしません。
このズレを解決するにはぴったりと合わせる、それが一つの答えです。
しかし、それを行うには無数のズレの中からぴったりとあうという奇跡的なポイントを見つけなくてはいけません。
この時、臆病による、指先の迷いが役に立つのです。
指先の動きを迷いと考えるとそれは無駄に見えます。
しかし、その細かい動きを予測と考えれば相手とぴったりと合う確率はグンと上がります。
コーヒーカップをつまんでみました。
普通に取るときと、臆病さを再現し、指先を見えないほど振動させ、そぉ〜と取ります。
振動させながらカップを取るとその瞬間、体のまとまりを感じます。
カップを取るだけですから、多くの人は必要としない精度です。しかし、この精度は相手と触れた瞬間崩す技になり、どんな場所でも、自分らしくいるための精度です。
自分の中にこんな力が隠れていただなんて、その喜びは研究する事でしか得られません。
実はこの動きに気づくためにもう一つ大切な感覚があります。
それは指先と目線が繋がっている、という事です。
指先の先に目線が行きます。その目線が頭を導き、身体全体を動かします。
古い伝書に技は手に導かれるように、というのがあったそうです。中心からの動くのではなく、指先から動く、それを実感しました。
もう少し確かめて、また、言葉にします。
さっき書いた心臓の事、肺の事、内臓が弱っていたとしたら…、それを思い、身体に表し、稽古をしてみました。
改めて「立つ」という事を当たり前に受け入れてしまっているんだなぁ、と。
今のわたしは「立つ」事を苦にすることはありません。
もちろん、長く立っていたり、邪魔する相手が出てきた時には「立てなく」なります。
しかし、普通に「一秒立つ」のに「苦しさ」は感じません。
でも、もし、その一秒も立てないほど肉体が弱っているとしたら…。
その時、やりたい事がなければ横になったままでもいいでしょう。
しかし、心の中に立ちたい、立って何かやりたい、という思いがあれば、肉体を補うように内観的な力が必要になるかもしれない、そう思いました。
肉体で立てないからこそ、内観が働かせる事ができる、そう思っています。
肉体と内観、合わせて100%なんです。
生な体、肉体で立てない時、意識は足裏に行くように思えます。重力があり、地面とぶつかっているのですから。
その地面との接触をどうするのか、感覚はいつも、そこにあるのではないでしょうか。
この時、他者が襲ってきても、もともと、気にする必要があるのは足裏の地面です。敵を敵として見ない、それを身体で表現する事ができそうです。
この立ち方を試してみると、なんだか、ずっと、浮いている感じがします。相手に押されてもそれは維持をし続けるような。相手までも、足元の力が抜け、浮いているそうです。
積極的に肉体を捨てるように意識をする、というのは変な話です。
病気の話を聞いたからこそ、想像するきっかけを得ることができました。
この「手放す感じ」は身体があってこその感覚。単なるイメージとは全く違うことです。
手放すのですが、なくてはならない、そんな思いが出てきます。
明日、甲野先生からまた、たくさんのものを受け取るはず。そこに化学変化がおきて、今考えているものとは全く違う術理になってしまうのだろうと思います。
今の動きは「超しょんぼり」。研究できるのもあとわずかの命かも知れません(笑)
明日、みんなに受けてもらい、感想を集めてみたいと思います。ご協力よろしくお願いします。
身体感覚に目を向けるようにだんだんと、視点が広く、大きく、高くなっているのを感じます。
びっくりする事がありました。