心と体

反省とギフト

日本人は反省しすぎる。
もちろん、全ての日本人がではない(笑)。
少なくとも、私の場合、外へ目を向けるよりも、内側へと気持ちを向けてしまうのだ。

外国人は反省しない、というと怒られるだろうか(笑)。
しかし、まぁ、こういう話もあるかな?と軽く聞いてください。
私のように、反省癖のついている人たちにはいい話だと思う。

外国人は肩が凝らないらしい。
そもそも、言葉が無いとのこと。痛いところ、気になってくるところは肩ではなく、背中なんだとな。

しかし、日本に馴染んで生活をしていくと、立派な肩こりが生まれてくるらしい。ご愁傷様(笑)。
 
 
 
肘の使い方を丁寧にし出して、原因がわかった。
そもそも、肩へと力が流れないのだ。
肩へと力が流れると、当然その力を処理できなければ、肩に余分な力が居座り続ける。それが肩こりの原因だ。

日本人は、内側へと力を使う癖がある。
外国人は逆に、外側へと力を使う傾向がある。それこそ、文化の違いなのかもしれない。表面的なものだけをみて違いを分析しても、ケンカの種しか生まれないだろうなぁ。

 
 
 
外へと力を出していく動き方。実はこれ、私たちにとっても、馴染みの深い動きなのだ。決して、自分と「違う」動きではない。
 
 
 
実は、子供は外へと力を使っている。
その子供の動き方、考え方こそ、肘から外へと力を出している動き方だった。
 
 
 
肘を意識して、前に出そうと動いてみると、なんだか、懐かしさが湧いてくる。
あぁ、30年ほど忘れていたぞ、と(笑)。
 
 
 
動き方が変わると、考え方も変わる。
反省しない、というと、勝手な奴だ、と思われるかもしれないが、外へ出していく自分勝手なエネルギーを「プレゼント」と考えてみたらどうだろう?
 
 
プレゼントやギフトに衝突は生まれない。
力を奪い合い、引っ張り合いをして、生まれた歪みをなかったものとして、体にため込むのが、「日本的」病気の原因かもしれない。
 
プレゼントとギフトの送りあいの衝突は楽しそうでしょ。
  
 
 
日本人がいけない、というのではない。
内に向けた意識が途中で止まって、堀下がる事が止まってしまうと「我慢」になることがよくないのだ。
途中で居着かせず、ドンドン掘り下げていくと、限りなく、奥へと入っていける。
自分の知らない世界は外だけではなく、内側にも広がっているのだ。
 
 
 
これはまるで、宇宙のよう。
外へ広がっている宇宙。
そして、ミクロの世界に広がっている宇宙。
相対性理論の世界と、量子論の世界を体で味わえるかもしれない。

 
まとまりがなくなってしまったが、最後にこんな動画を紹介して、終わろう。よく、紹介するので、またか!と思わないで欲しい(笑)
肘を意識して、眺めると、違った気持ちになれるかも。


 
Power of ten

楽しいってどういう事かわかるかな?

楽しいってどんなこと?

楽しいってどういう事かわかる?
幸せってわかる?

お金があったり、友達の数じゃないんだ。
もちろん、お金がなくて、仕事もなくて、友達もいなければ不安だよね。
だけど、そんなどん底から、抜け出した時、当たり前だった事が幸せってわかるでしょ?

サッカーして楽しいのはなんで?
点が入るから?
違うよね。

勝つか負けるかわからない相手と、ドキドキ試合をするから楽しいんだよね。
日本代表が素人の中学生と試合しても、楽しくないでしょ?

みんなわかっているはずなのに、なぜか、間違えちゃうんだ。安心を先に求めちゃう。

ゲームや漫画は楽しいでしょ。
でも、それは、切磋琢磨して、競い合ってるから。楽しいものが残っているだけ。
野球マンガなら、絶対流行るなんてものはない。大切なのはバランス。ドキドキできるかどうかなんだ。

つまり、楽しい、幸せってのは自分の限界から、ちょっと先を見れる時に感じられるものと言えるんだ。
決して、安心から生まれるものではないんだよ。


どんなときにも、ニコニコ楽しく、充実している人がいる。失敗に負けずに、バネにして、また、頑張っている人が。
とっても楽しそうだし、幸せそうだ。
そんな人になりたい!
そう思っても、なかなか、なれないのが、現実。


その理由は限界を出し切れないからかもしれないよ。


でも、その理由は君のせいじゃない。
世の中がそういう仕組みになっちゃったんだよね。
限界を感じさせずに、安全に、暮らせる世の中がいいと思って、僕たち大人が作ってきたんだ。


今はとっても便利になってしまったよね。
限界を出し切らなくても、ボタンを押せば、機械が動く。
知りたいことができても、図書館や人に聞かなくても、インターネットからすぐ、答えが出てくるようになった。
全力を出したくても、出せなくなってしまったんだ。


昔、僕が子供の頃はたくさん遊ぶ時間があった。
それこそ、全身を使ってクタクタになるまで遊べた。
でも、今は遊ぶ時間も勉強時間にやっつけられている。
ドキドキする危ないことも、やれないくらい、安全だ。

限界をしらないままで大人になっちゃってるんだ。
限界を知らないって事は本当の楽しさも知らないって言うこと。

すると、いい大学にいけば楽しいはず、お金持ちになれば楽しいはず、残念ながらそんな単純ではないんだよね。

多くの大人が健康が第一、って言ってるよね。
でも、その健康も怪しいから、気をつけて。


難しい事を話してるけど、大切なのは限界が楽しいってことに気づくこと。
武術の稽古はまさに、その限界を教えてくれてるんだ。

だって、いつも一人だし、武器もないでしょ。
その状況で「もう、ダメだ」って思うかもしれないけど、ちょっと頑張って力を入れたら、なんとかなるかも、ってわかるよね。
そうやって、自分の中の限界を取っていくんだよね。

大人には難しい事でも、子供の心を持っている君たちならすぐわかるはず。
自分を信頼しながら、諦めない大人になってください。




と、珍しく子供達に語っている事を書いてみました。
簡単すぎました?

3年後、後悔しないために

稽古会は驚きの場である。
カラダラボで開いている稽古会。
ただの体を動かす体操の会とは全くちがう。
そして、理想だけ高い稽古でもない。
なにも考えずに体を動かしても、無意識の自分はなかなか、変わらない。

何年も何十年も変わらない自分をみて、自分に出来ることと、出来ないことを作ってしまっていないか?

自分の中にこうなったらいい、ああなったらいいのに…と、期待や希望はあっても、それを自分で解決してやろう!という気持ちが少なくなってはいないだろうか?

昔の自分はそんな感じだった。
そして、いつしか、自分がやりたいことを考える事もやめてしまった。考えなければ、がっかりもしなくていいから。

身体を動かすことで、感性がグングンと高まっていくことを知って、ようやく、やりたいことをしてみよう、という気持ちがわいてきた。

人間らしい行動ってなんだ、と難しい事も考えるようになった。

いつの間にか、その他大勢の一員としてでしか、自分を見れなくなっていたわけだけど、それにすら気がつかずにいたわけだ。いや、これもまた、考えたくなくって目をそらしていたのかもしれない。

身体って、すごい。
頭でっかちになってしまった現代人だけど、身体はちゃんと、残っている。
手足を改めてみてみれば、そこに心を見つけることができるのだ。

丁寧って事はどういうことだと思う?
黙々と疑いを持たずに練習する事が良い事、と思わされている。
でも、それは考えると言うことを放棄したことかもしれない。
教科書を通して、先生の言うことに文句を言わずに聞く、という勉強法に洗脳されてしまったからだろうか?
時間だけはドンドンすぎていく。
3年後、自分が向き合った時間を納得したものにするためには、今の自分の生き方に向き合う必要がある。

私が甲野先生に出会ったのは22才。失うものはなにもなかった。
だからこそ、全く新しい動き方、考え方にも入っていくことができた。

大人であればあるほど、捨てることは難しいかもしれない。
でも、今の自分の考え方、決断が未来の自分を作ってしまうのだ。

言葉で反省をしたりするのは簡単…。
しかし、なかなか、それを身体で感じるのは難しい。
武術はそれを自然に感じさせてくれる。

私の思い描いている稽古会は、ひたすら、動きの質を高めていく事だけ。
言葉だけを見ると、心の通わない冷たい稽古のように思えるかもしれない。
でも、実際は全然違う。身体が動き、感性が高まるにつれて、自分の心を見ることができる。

普通の練習会にある上下関係や損得の関係は、どうしても、余分な頭を働かせてしまう。
先生に遠慮し、聞きたいことも聞けない練習。
まさに、それが、自分の可能性を閉じ込めてしまっている。

練習の仕方を一気に変えるのは怖いかもしれない。
私自身、今の考え方で練習を始めたとき、道場で浮いてしまった。
道場の空気も読まずに、勝手な事をしてたら、そりゃ、そうなる。
でも、それに負けずに、稽古を続けてこれたからこそ、今、自分の体に正直でいられるようになった。

勝手な事をしても追い出されなかったのは、正直、ラッキーだったからだと思う。
普通では考えられない。
あれから、周りを見渡しても自由を許してくれる稽古の場を私は知らない。

周りにないのであれば、作るしかない。
それが今の稽古会。

とにかく、なにからなにまで、普通の練習とは違うと思ってください。
教える技術はありますが、そんな事はどうでもいいんです。
大切なのは、一人一人の体が教えてくれることがある、と言うこと。

つまり、自分をどう信じるか、という事です。
どんな悩みを持っていても解決していく方向が見つかります。
なぜなら、自分の身体に問いかければいいのだから。
もう、知識はいりません。
逆に、今、持っているたくさんの知識が、身体の感性と合体する事によって、考えていた以上に働く事ができます。

稽古会に参加しても、形に残るものはなにもありません。
段位のような資格もありません。
たくさんの段位を持ってきても、誰も、スゴいとほめてさえくれません(笑)
しかし、それらを手放すことで、ようやく、身体そのものと向き合うことが出来るのです。

新しい感覚、世界を感じさせてくれるものは多くありません。
ただ、手を挙げる。
そんな動きだけで、自分を掘り下げるのです。
簡単ですが難しいです。
でも、そこに、楽しさがあります。

近々の稽古会は下記のとおり。
参加される方は直接メールをください。

3/13 午後5時〜大垣(途中参加OK)
3/14 午後6時〜名古屋(途中参加OK)
3/15 午後1時〜名古屋(途中参加OK)
3/17 午後3時〜名古屋(途中参加OK)
jun@karadalab.com


3/20は浜松にて、甲野善紀先生を招いて稽古です。こちらも、募集中です。

jun@karadalab.com

甲野先生とのご縁がつながった話

ちょっと昔の事を書いてみようかな、と思います。
気がつけば、当たり前のように心と身体の一体感を伝える仕事をしていますが、こんな未来は当時、まったく描く事ができませんでした。
人生どうなるかわかりません。
 
 
 
今日は師匠である甲野先生とどう、ご縁ができたのか、それをお話しようと思います。
少しは役に立つかな^^

甲野先生と出会ったのは1995年。大学を卒業した年でした。
阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件などがあった年ですね。
ただ今考えると、学生気分が抜けない自分はそんな大きな出来事、事件も自分の「事」として考えていなかったなぁと思います。

この年、卒業したわけですが、実は就職をしませんでした。
今考えると、ニートのはしりだったのかも(笑)
なぜ、就職しなかったかといえば、少林寺拳法の本部で仕事をしたかったから。
少林寺拳法はとても大きな団体です。
しかも財団法人、宗教法人、学校法人をもつ、ちょっと特殊な組織です。
普通の就職とは違って、その年、募集そのものがなかったんです。

しかし、募集がないからといって、諦めるわけにはいきません。だって、仕事は一生の選択ですから。

募集がないなら、来年まで待ちますから。
そう言って、就職浪人として、大学を卒業してしまったのです(笑)。
 
 
 
しかし、この「募集がなかった」事が、今、この仕事をしているきっかけになっているのだから不思議です。
もし、募集があって、そのまま仕事をすることができていたら、甲野先生には会えていたかもしれませんが、これほどまでに、自分の身体と心への理解が深まる事はなかったはずです。

その就職浪人中、暇だったんでしょうね、きっと。
ほとんど本を読まない自分でしたが、卒業時に拳法部の恩師から頂いた甲野先生の本に惹かれ、本を頼りにその技の研究を始めたんです。

研究を始めた・・・と言っても、なにから手をつけていいか全く分かりませんでした。
膝を抜いてみたり、丹田を意識してみたり、試行錯誤でチャレンジしてました。
ただ、なにも「できない」んです。

当時の研究していた技は、いたってシンプル。
抑えられた手をただ、上げるだけ。そんな技です。
やってみるとわかりますが、武道のキャリアとかまったく意味をなさなくなる技です。
こんなもの絶対不可能だ、と思っていた技なのですが、本の中の先生は相手に悟られる事なく、あげているんですからね。
ホントかよ、と思いつつ、稽古していました。
 
 
 
少しでも自分の中に進歩している感じがあればよかったのですが、これが全く、分からないんです。
まぁ、これが「才能」というやつでしょうが、才能がない事が幸いしました(笑)。
 
 
 
才能がない事がよかった・・・?

どう言う事かと言えば、あまりの分からなさに、ついに行動を起こしたんです。
なにをしたかと言えば、甲野先生に手紙を書く、という事をです。
 
 
 
なんだ、手紙か。
と思われるかもしれません。でも、それは手紙を書いた事がない人間の気持ちを分かっていません(笑)。
そんな面倒で、恥ずかしい事、普段なら絶対にやらないです。
でも、書いてしまった・・・。

当時、インターネットはまだ普及していません。
本を出すような人にコンタクトをとる方法なんて、全く分かりません。
ただ、当時の本の最後に先生のご住所が書いてあったのです。(平和ですねw)

自分よりも目上の方にどう、書けばいいのか・・・。
迷いながらも手紙を書こうと決め、送らせていただきました。
 
 
 
すると、驚いた事に、1週間もたたないうちに、お返事をもらったんです。
しかも、そこには私が出した手紙に、熱意を感じました、との言葉が添えられていました。
天にも昇る気持ちだったなぁ・・・。

考えてみると、幸運でした。
手紙を書いた事がない自分でしたが、特殊な手紙は幾度となく書き続けていたからです。
それは「欠席届」(笑)。

大学時代、わが少林寺拳法部には、ある伝統が残っていました。
それは遅刻、早退、欠席をする際には主将宛に手紙をだす、という伝統です。
その手紙はメモではなく、「ちゃんと」書く事が決められていたのです。
早春の候など、時候の挨拶から始まり、一通りの流れを面倒でもちゃんと書かなくてはいけませんでした。もちろん、日時も入ります。その日欠席するためにはちゃんと書かなくてはいけなかったんです。

一枚で収まる時にはもう一枚、ちゃんとつけ、きれいに三つ折りし、新品の封筒に入れて、提出です。休むほうが面倒なくらいです(笑)。

形式ばった固い手紙しかかけなかったのがよかったのかな?
その気持ちを先生は情熱として受け取っていただきました。
そういえば、もちろん、返信用の封筒も入れました!
 
 
 
その手紙にタイミングよく、関西に行く仕事があり、もしよければ名古屋に寄って技を体験されますか?と書いてあったからもう、驚きです。
なにをどう準備し、お迎えしていいかわからなかったものの、急いで会場を取り、連絡の取れる仲間を呼んで先生をお迎えする事となったのです。
 
 
 
今思うと、なぜ、この時、こんな行動力があったのだろうか?と不思議になります。
私の事をご存知の方はお分かりでしょうが、あまり、外へは出て行かない性格なんです。
ずっと、地元の名古屋に住んでいますし・・・。

もちろん、仕事であれば、ドコへでも伺います。遠いから、と遠慮した事はありません。
でも、講座やセミナー、展覧会など、どこかへ行って学ぶ、というのはほとんどしません。
今でもその性格は変わっていないんです。でも、この時だけは違っていました。

ひとつ思い当たるフシがあります。
少林寺拳法の本部は四国、香川にあります。
この就職浪人を決めた年、生まれ育った名古屋を離れ、四国にいき、骨をうずめる決心をしていたからではないかと。
気持ちが遠くへ行こうとしていたんでしょうね。
だからこそ、甲野先生という人の技をしりたい、会いたい、と行動させてくれたのかもしれません。
 
 
 
そして、甲野先生の技を受けてからはもう、身体の不思議、心の不思議の解明に一直線です。
もともと自信のない性格でしたから、自分でなにかをする、求める、という事は考えもしませんでした。
でも、身体を通して気づかされる新しい自分を感じていると、もっと知りたい、そんな気持ちにあふれてくるようになったんです。
気がつけば、自分の中に見つかる新しい自分が自分の中の大きな決心を変えていました。
少林寺拳法の本部へ行き、組織の中で働きたい、という気持ちよりも、地元にある、父の道場を継ぎ、一人一人の身体の感覚を頼りに稽古し、生きる事の楽しさを伝えたい、と思うようになりました。
 
 
 
今はインターネットが当たり前の時代です。
すごい人を探せばどんどん見つかります。
そして、そのすごい人と縁を作るのも簡単です。

また3月にも甲野先生にお越しいただきますが、毎回、たくさんの人が来てくれます。

実は、もったいないなぁ・・・と思っている事があるんです。
それは、あまりにも簡単に出会え、教えを受けれる事で、自分が得た感覚を普通の事だと思ってしまっていないか、という事です。

これまで、17年、甲野先生の背中を追ってきていますが、途中、よくわからなくなる時がたくさんありました。
本当に甲野先生ってすごいのか?とかです。
なぜなら、もっと派手に技を見せる人はたくさんいますからね。
それこそ、手を触れずにヤーと投げ飛ばす人まで。

そんな浅はかな自分を救ってくれたのが、最初のご縁に至るまでにあった苦労と幸運です。
奇跡的な出会いと思えるものがあったからこそ、心が浮気をしそうになった時に、いやいや・・・ちょっと待てよ、と稽古を続ける事ができました。

今でこそ、武術の稽古が身体と心が一つである、という事を学ぶ事ができる最高の方法だ、と分かりますが、これが直接、仕事や資格に役立つわけではありませんからね。
結婚し、仕事が変わり、ばたばたして来れば稽古する余裕をなくし、離れていてもおかしくありませんでした。
それでも、続ける事ができたからこそ、今があります。
 
 
 
甲野先生には、自分とはなんだろう?という問いを自分で考えていいんだよ、という事を身をもって教えていただいた気がしています。
今、私自身がそれを伝える事を一生の仕事として選択しました。

自分の身体ってなんだろう?心ってなんだろう?自分の限界ってこんなものなのかな?って感じている人は諦めてしまう前に、一度体験してみてください。
私がそうだったように、自分ってよくわからない・・・と驚くことができますからね。

お呼びいただければどこへでもいきますから、そちらも、ご遠慮なく。

久しぶりに、昔話をしました。
変な話にお付き合いくださり、ありがとうございました。

なにかありましたらご連絡ください
jun@karadalab.com

3月の甲野先生の名古屋・浜松講座
名古屋
浜松

カラダラボ(私)の講座
2/14 大垣
2/19 名古屋
2/26 浜松

四年以内にくるらしい地震が持ってくる不安

二月に入りました。
噂は噂、余分の話は聞くまい、と思いつつも、情報はドンドン目から、耳から、入ってきます。
一説によれば、私達が一日に得る情報は江戸の時代を生きた人の一生分、といわれているそうです。
すごい!

で、その噂ですが、この1月から2月にかけて、また、大きな地震がくるのではないか?と聞こえてきます。
怪しげな情報であれば、そうそう、振り回されませんが、テレビ、ラジオ、新聞、地震研究機関の発表となると、もしかしたら…と真実味が増えてきます。

 
 
 
ん、ちょっとまてよ?
今、感じているこの「不安」はなんだ?
果たして、不安しかつくれないのだろうか?

そんな事を「身体の感覚」と合わせて考えてみます。
なぜ、不安が生まれるのか?
究極的には死ぬのが怖いからなのかもしれません。
でも、死なないとしたら?
災害にあう確率、事故にあう確率、そんな確率は微々たるものじゃないかな?

昨年の地震でも、助かっている人の方がはるかに多い。
だとすれば、死ぬ不安はなくなるかもしれない。
 
 
 
では、なんだろう?
今持っているものを失う不安だろうか?
家、食事、健康、車、お金…そういうものを失う不安だろうか?
友達や家族も大切なもの。その大切なものを失うと考えたりすれば、やはり、不安にもなる。

でも、これも、まだ、そうとは決まっていないこと。
決まってもいない事を、今から不安に思い、考え、落ち込んだとすれば、それは、取り越し苦労。あまり、役に立つとは思えない。
 
 
 
色々と考えているうちに、武術的思考法とは、今の時代にぴったりな考え方だな、と思った。
なぜなら、不安なところをスタート地点にかんがえられるから。

あれがあったら楽しい、これがあったら楽しい、娯楽って楽しいところから始めるものだ。スポーツも近年では、相手を調べ上げ、自分にとって、より、有利な状況を作り、戦う事のほうが重要。

でも、これは、今の時代のように、明るさよりも不安の方が多いときにはあまり、役に立たない。特に、自分のように、つい、自虐的になってしまう性格の奴には(笑)
 
 
 
 
それでも、今、不安がきても、なんとなく、まあ、大丈夫、これをバネにして、なにが出来るんだろうと考えられるようになったのは、これまでの稽古のおかげというしかない。

武術(というよりは、甲野先生が、だけど)の研究稽古はひたすら、捨てにいく稽古。どれだけ、重要に思えるものをみつけたとしても、次の瞬間、感ずるものがあれば、遠慮なく、捨てる。
失う怖さを手放させてくれるのだ。

これは、技術というよりも、習慣なのかもしれない。
奥義を教えてもらってありがとう、というのではなく、稽古を続ける事、そういう考え方をする人を間近で感じ、供にすることで、優柔不断、自虐的な人間でも、前にドンドン進んでいく力を身につけられるのだ。
 
 
 
証拠は俺(笑)。
やっぱり体を通して、自分自身の持っているものを認識し、感性を高めていくしかないと思う。

これまでは、楽しさを与えてもらうだけで、充分楽しく明るくいけた時代だ。
私の年代はちょうど、ゲームやマンガの文化が爆発した時代。
週刊マンガなんか、600万部とか出てたもんなぁ

でも、だんだんとそういう、与えてもらう楽しみは、間に合わなくなる。楽しさを見つける力も必要なんだと思う。

探そう!と決めて、毎日を過ごしてみると、信じられないぐらい、予想不可能な楽しい事がたくさんあるのに気づく。

なんとなく、感じた事を書き連ねました。
グダグダですね(笑)

今だからこそ、気づける事

震災から1ヶ月。
時間が解決してくれる・・・とはよく聞く言葉ではありますが、今回はそうも行かないみたいです。
昨日も大きな余震(M7で余震ってのも・・・すごいです。)がありましたね。

私は今回の地震で、生まれて初めて、体で恐怖を感じました。(事故も病気もなにも無かったんです・・・)

考えてみると、生まれてから、ずっと、人が作ったシステムの中で平和で、安全に暮らしてきました。世界的にはたくさんの災害、戦争がありますが、全て、ニュースとして頭に入ってくるものばかりでした。大変な事が起こっている・・・と思っていただけで、実際には「恐怖」というものをカラダでは感じていなかった事に今回初めて気づかされました。
 
 
 
3/11の地震の後、体中から力が抜けて、動く事ができなくなりました。頭ではこういう時こそ、頑張らなきゃ、笑顔でいなきゃ、と思いつつ、目の前に拡がる世界はそれをさせてくれませんでした。情報を探して、朝も昼も夜もない数日が過ぎましたが、「目覚めると悪夢」という世界がある事を知りました。
 
 
 
先の見えない恐怖に押しつぶされそうになりましたが、救ってくれたのはやはり、この自分のカラダでした。幸い、予定していた講座がありましたので、気分は乗りませんでしたが、稽古する事ができたんです。そこで、カラダを動かし、感覚を言葉にしていると、「今、自分に出来ること」というのが感じられてきました。甲野先生が言われていましたが、まさに、恐怖とは「体」が生み出すものだったんです。つまり、体が動かないからこそ、心はそこに恐怖を感じてしまうわけです。

私自身、今まで何度もそれを言葉にもして伝えてきました。それでも、目の前の大きすぎる恐怖にはなす術がなかったのです。・・・でも、やっぱり、我々は今、生きています。生きていれば、必ず、体がまた動いてくるようです。これまで、稽古してきたものはまさに、「今」使うためのものだったんです。そして、今を生きるのは、今大変な事が起こっているからではなく、これまでもずっと感じてこなければいけなかったのを改めて学びました。一生懸命生きているつもりでしたが、全然生きる事に向き合えていなかったのを痛感しています。もっと気づいていれば、この試練は経験しなくてもすんだのか・・・今はもう、わかりません。
 
 
 
この地震が無かったとしても、この日本では年間3万人もの人が自ら命を投げ出しています。その事について、具体的な解決策はありませんでしたね。後へ後へと問題を先送りにしていたのかもしれません。しかし、この震災を経験し、今なら、真剣に自分はどうこれからの人生を生きていくべきか、そう考えている人が多いはずです。
 
 
 
自分がこの先、どう生きていくのか?この問いに「正しい答え」はありません。それでも答えを出していかなくてはなりません。そう、私達一人一人がです。この数十年で私達は「幸せとは○○でる。」と押し付けられてきました。学歴や仕事、お金や名誉・・・今自分が求めたいものはそれでいいのだろうか?本当に求めているもの、必要なものはなんだろう?そう問いを発してみてください。「今だからこそ」気づく事ができるかもしれません。
 
 
 
きっと、数年もすれば、また日本は復興を遂げ、人間の持っている底力を感じるようになるはずです。でも、それは自分の中にある底力ではなく、自分とは違う誰かもものと見えるかもしれません。
 
 
「自分には出来るはずが無い・・・」
 
 
そんな事をずっと、考えてきました。
でも、今はちょっと違ってきています。
「自分に出来る事をするしかない・・・」
 
 
 
これまで、カラダの事を伝えようとしても、それは必要ないよ、といわれる人も少なくありませんでした。便利な機械やサービスがありましたからね。でも、この震災で人はいつでも、全てを失う事もある事を知ったはずです。なにも無くなってしまっても、自分は笑顔でいられるかどうか?その事を問いながら、また、稽古に励みたいと思います。
 
 
 
人間が生きるべき道の答えをくれる人はたくさんいます。聞きたい人は彼らからどんどん聞けばいいと思います。その中で、まさに、自分がそう思っていた、という答えに出会える人もいるかもしれません。
私自身は甲野先生に出会い、自分の中を掘り下げる、という方法を知りました。
自分の中を掘り下げるのですから、必ず、自分にピッタリの答えが出てきます。
そして、それは歳を重ねるごとにまた深くなり、どんどん自分らしくなっていきます。

当たり前の毎日はない、それを地震は教えてくれました。
今、自分が一番したい事はなにか?それを体にどう問えばいいのか?それを出会った人に伝えて行きたいと思います。長々と書きましたが、お付き合い下さり、ありがとうございました。

そういえば、思うところがあって、ブログのタイトルを変えました。
これからも、よろしくお願いします。

山口 潤

自分らしさと心と体

昨日の天使のサロンでの講座とは打って変って、日曜日は少林寺拳法の道場を借りての定例稽古。参加者も男性5人に女性1人。同じことを伝えているつもりなのに、こうも違うかなぁ・・・と驚きつつ、よく考えてみると、全く「違う」ように見える人たちが「同じ」ものを稽古できるってすごい!

きっとそれは心と体が一つのものだから。心と体が一つ、という事はよく聞くけれどもなかなかそれを「実感」できる事ってありません。昔であれば、とにかく体を使ってくたびれれば休む、という自然の流れがあったはずです。

体を使っていくことで気持ちのいい疲れ、というのを最近は感じる事が少なくなっている気がします。小さな子供達は全身をしっかり使って、疲れたらばたっと眠ります。小学生ぐらいになると、ちょっと眠るのが下手になりますね。そして、大人はもっと下手です。

武術を通して体を実感し、心と体が一つになってくるにつれて良く眠れるようになりました。そして喜びや楽しみ、幸せも以前よりも感じられるようになりました。感度が高まるにつれ、不安や悲しみも大きくなりますが、そこは武術の一番得意なところです。どんなマイナスな状況でも、そこからプラスへと発想を変えていく訓練をさせてくれますから。

どんな状況も自分の見方次第でプラスにもマイナスにもなるんです。そういうことは「知って」いましたが、最近ようやく、体でそれを感じるようになりました。なかなかそれを上手く伝えられずに、困っていますが、これもやっぱり稽古だし、自分と縁が出来た人たちがその人らしく生きているのを見聞きする事でまた、元気をもらうことが出来ます。いい循環もすぐそばにあるんですね。

心と体が一つだ、とわかれば自分らしさ、その人らしさが生まれてくるのかもしれませんね。証明はできませんが、感じることはできるはず!それを信じてこれからも一生懸命に生きていこうとおもっています。

そういえば、甲野先生の2次会の会場決まりました。
いつものしゃもじ屋さんに無理をいい、営業時間前に入れていただける事になりました。ありがたいことです。
今回懇親会にも20名を超える方がみえそうで、盛り上がりそうです。みんな待ってたんですね。

では、また!

古武術に学ぶ身体感覚 その5

さて、それでは身体感覚から生まれてくるもう一つのもの「幸せ」について考えて見ましょう。武術においての幸せ感って単純です。武術の場面においては、自分のカラダがイキイキとして力がみなぎってくるのか、恐怖でカラダが固まってしまうかのどちらかなんです。そして、もちろん幸せとは力がみなぎっている状態です。

自分の体に力がみなぎってくる状態をじっくり体験する事ができるのが稽古です。普段、忙しい生活の中ではどうしても流されてしまって気づく事ができません。自分の感性にあっているかどうか、という判断よりも、より「結果」がともなう事を選択してしまう事ってないですか?

体を使うこと、意識を変える事、そんな方法で自然と体に力がみなぎってくる事にぜひ、気づいてください。

古武術に学ぶ身体感覚 その4

とはいえ、私たちはストレスに対してあまりにも無知です。ストレスに対して「良くないもの」という先入観を持ちすぎてしまいました。ストレスに対して学ぶ機会として「武術」を使うことが出来るのです。でも、「戦う事」にしか使えないと思っている人も多いですよね。こんなもったいない事ありません。

とにかく世の中にあるものほとんどが今自分にとって不便なもの、大変なものを無くすために作られています。快適さを求めるのもそうです。車はただ、移動するものというよりも、より快適に移動できるように進化していますよね。

新しく生まれているものもあります。携帯電話やインターネット。ほんの少し前にはありませんでした。しかし、もう、この社会には無くてはならないものになってしまいました。便利でしかも、楽しくて、さらにまだまだ進化をし続けています。

ただ、この便利なものを通しての豊かさは本当の強さ、幸せとはちょっと違うと思うのです。幸せとはなんだろう、というのはまた後にお話しする事にして、まずはストレスへの見方を変えて行きましょう。

今、ストレスってありますか?どんなストレスを持っているでしょうか?このストレス、いくつ合っても、一番大きなストレスに私たちの意識は向かうようになっているとしたらどうでしょうか?

ストレスをとる事にがんばって、怖れや不安がなくなって幸せになれれば良かったのですが、世の中こんなに便利に快適になっても、新たな不安が止まりませんよね。そろそろ逆の方から考えてみた方がいいかもしれませんよ。私の「感覚」でいえば、どんどん恐れや不安が無くなっていっているんです。なんとか、この逆発想を伝えたいのですが・・・感覚の事だけに、一人一人に手渡しでしか伝えられません。

今日、この場を共にし、感覚を伝えられる事を嬉しく思います。

さて、ストレスの見方ですけども、ストレスが外からやってくるのが一番嫌ってしまう原因です。もし、ストレスを自分で作ったとしたら、どうでしょうか?簡単な実験をして見ます。

どんな実験かといえば、「ただ手を上げる」実験です。もちろん、ただ上げるのであれば誰でも出来ます。この上げる手をしっかりと抑えてもらいます。普通、この状態になると、「上がらない」という気持ちになります。そういう気持ちになると、力を入れたくなります。この時の相手が抑えてくる力がストレスです。そのストレスが無けりゃ、上がるのに・・・そういう状況です。

この時、そんなストレス気にしなきゃいいのに・・・と考えてみてもなかなか、そこに「ある」ものを消す事は簡単ではありません。でも、私たちは他人のことになると、よくこの手を使います。嫌いな相手や苦手な事に向かっている人に「気にしなければ」とか「楽しんでこればいいのよ」、なんて、軽く言ってしまいます。なかなかそれってキツイ言葉かもしれません。

気にしてしまったものをどうすれば、気にしなく出来るのか・・・。その方法の一つがストレスを生み出してみる方法です。これまで、ストレスは嫌なもの、と定義づけてきました。それをまず、変えてみます。今、相手に抑えられている力が気になっています。具体的に「痛み」という形で出ているかもしれません。これは、今、自分の中に気になるところ、つまり「痛み」や「圧力」がない平和な状況だったからこそ、相手からの力が気になっているんです。

もし、相手からの力以上に、自分の中に問題があるとしたらどうなると思いますか?例えば、こんな状況です。隣に大嫌いな人がいるとします。でも、外は台風です。今にも家が飛ばされそうな状況だとしたら・・・嫌いな人よりも、まず、自分の安全の方が気になると思いませんか?「より気になるもの」に人の意識は向かうのです。

自分が平和だったからこそ、自分の持っている本当の強さが発揮されていなかった、と考える事ができます。あなたのカラダはあなたが考えている以上の力を持っているのです。今は信じられないと思いますけど・・・。

実験を続けましょう。相手に抑えられてます。今、相手の力が気になっています。自分の中が平和だからです。そこで、「圧力」を作り出してみましょう。抑えられている手ですが、もう一つの手を使って、自分で自分の手を力いっぱい抑えてみてください。

左手と右手は釣り合うように出来ています。釣り合ったところでちょっと状況を感じてみてください。相手からのストレスはどうなっていますか?自分も相手と一緒に抑える側になったわけですが、意外と丈夫ですよね、反対側の手は。なかなかつぶれないのです。

・・・でも、相手だけの力だった時には弱気が出ていたはずです。頭が働きすぎて、本当はその体は耐えられるはずなのに、ダメだ!と勘違いしてしまっていたのです。

釣り合いを保ったまま、手を上げてみると、さっきまでぶつかっていた力がどこかへ行ってしまったようです。

ポイントは自分の中に、自分でストレスを作り上げる事です。今、反対の手で抑えてもらいましたが、もっと小さく、コンパクトにする事も出来ます。具体的には抑えられている手の親指で、人差し指の先をギュ-っと潰してみるのです。これは、結構痛いです。でも、自分で作った痛みですからね、大丈夫なんです。相手からの力を忘れちゃうぐらい、ギュッとやって下さい(笑)

今、具体的に体に刺激を与える事で、相手からの力を忘れる工夫をしましたが、もしかしたらアタマの中でより強いストレスを作っても可能かもしれません。例えば、人生の問いになるような重いもの。生きるとはなんだろう・・・運命って決まっているのかなぁ・・・なんて、答えの無い問いを真剣に持っているとしたら、目の前の力なんかは気にならなくなるかもしれません。なんとなく、ストレスが小さくなっていく気がしています。

この辺りは私も研究中です。また、面白い発見があればお知らせしますね。

古武術に学ぶ身体感覚 その3

さて、身体感覚という言葉を頭だけで考えていても始まりません。身体感覚から次に来るものがあります。ストレスと幸せです。自分にとって心地良いのか、排除したいものなのか、プラスかマイナスかを考えて見てください。

例えば、武術的な場面、戦いの場面で考えると、よほど戦いでワクワクする人以外は戦いの場面で得る感覚(怖さとか不安ですね)はストレスだと思います。精神的なものだけでなく、直接痛みとしてやってくるストレスもあります。武術においてはこのストレスをどう扱い、自分にとって力に変えて行くかがポイントなんです。

ストレスはどう扱っていけば良いのか・・・。今はストレス社会という言葉も当たり前すぎて使わなくなってきました。現代に生きる子供達はたくさんの習い事、自由の無い遊びなどで、常にストレスにさらされてきます。それでいて、ストレスをどう考えるのか、という事について学ぶ機会はほとんどありません。

社会全体でストレスは悪だ、との認識で、ストレスを溜めずに、どうとっていくかを追い求めています。でも、その効果はといえば・・・ほとんどありませんし、むしろこれだけがんばっても・・・と出口が見えない状況です。

このストレスも私たちが持っている先入観によって出来ている、としたらどうでしょうか?武術で考えると、ストレスというのはとっても簡単に見えてきます。自分にとって嫌なものをどうすればありがたいものに変えていけるかだからです。武術は常に一番ネガティブな所から考えます。どういう事かといえば、不意打ちに会うかもしれませんし、相手が大勢かもしれません。ルールがないのが武術であり、その稽古は常に自分の中にある余裕を消しながら行くのです。

もうそれ以上、ネガティブに考えられないところからスタートするからこそ、ポジティブに考える事ができるようになるのです。

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