心と体

気持ちを交換できると楽しい

今日は「交換」という事をお話します。

ある人は「交換」は人間の条件ノ一つだと言いました。交換の定義はたくさんあるでしょうが、確かにお金を通して交換をするのは人間だけですし、自分の元気を相手に分け与えていく事、もらっていく事で次の新しい世代を生み出していっている、とも考えられます。
 
 
 
最近、何度もお話している「力」で考えてみると、これがすごくよくわかります。交換できると楽しいんです。動物がこの楽しさを知っているのかは分かりません。人間だけなのかもしれませんし、そうで無いかもしれません。

まぁ、どちらでも構いません。大切なのは「自分が」その楽しさをちゃんと実感をしているのか・・・という事でしょう。

私の場合、どうも今まではそれが「なんとなく」、だったわけです。もちろん人間ですからもらったらうれしい、という気持ちがありました。ただ、それをしっかりと受け止め、渡していたか、と言えばあんまり上手にはやれていなかったような気がするんです。

基本的に自分の事を内向的だと思っています、周りはどう思っているかは分かりませんが(笑)。うまく表に出していけないんですね。まぁ、毒を吐くように外へ文句をつけていくよりはいいじゃないか、と言えばそうですが、こと、交換する、という点から考えると、上手に受け取っていない、というのは良いことではありません。

貰い下手なんですね。

この仕事を始めるようになって、たくさんの「感謝」を頂くようになりました。言葉や態度を通して頂くその気持ちはとってもうれしくなりますが、これまであまり経験がなかった事ですので、どうも恥ずかしいんです。自分が渡したと思っているもの以上に感謝をされるとつい、感謝をされるのを抵抗しちゃうんですね。

謙虚でいいじゃないか、という考え方もありますが、こちらから出した元気を受け取ってもらって、それに対してありがとう、という感謝を相手はしているわけですから、それはしっかり受け取らなくてはダメでしょう。いや、むしろそれをしっかりと受け止める事で、もっと「繋がる」という気持ちが生まれるのではないかと思います。
 
 
 
どうして恥ずかしいのかな、と思ってすこし考えて見ました。

これまでの仕事は自分の気持ちに対して感謝をされると言うよりも、自分の持っていた商品やサービス、技術に対してお金を払い、その上にあった少しの気持ちに対して有難う、という言葉を貰っていたと思うんです。

これは仕事に対する姿勢だと思いますが、自分の与えられている分だけを働けばお給料はもらえます。ただ、商品にプラスをして気持ちをこめて仕事をすれば相手にもその気持ちは伝わっていくのではないかと思うんです。「通常ありえない」程の気持ちがその商品やサービスに乗ってくれば同じものを買っても、ちょっと違うはずです。
 
 
 
先日ディズニーランドで働いていた人の本を読みました。そこに書いてあったのはゲスト(お客さん)に対するとても大きな気配りです。ディズニーがすごい、と言ってもなにがすごいんだろう・・・とずっと考えていました。それこそ「同じような」テーマパークはたくさんあります。バブルの頃だと思うのですが、各地に「同じような」ものが作られました。でもどうも、よくない。違うようです。

姿、形は似ていても、中身が違うんでしょう。では中身ってなんだろう・・・と言った時に考え方だよ、と言われてもピンときません。一生懸命やる、というのは当たり前です。ただ、私の場合、一生懸命やっていても、どうも上手くやれていない感、を持っていたんです。自分が何をしていいのか、わからない、そういう人って少なくないんじゃないかと思います。
 
 
 
具体的に繋がっている「力」をカラダで感じられるようになって、ディズニーのすごさが分かりました。これは違う・・・と。そこにあったのはとにかく思いなんです。誰にでも1万円と言うものさしがあります。損した、得した、というのは自分のものさしでの価値観です。形あるものであれば原材料や手間賃から大体の値段が決まってきます。テーマパークで一日遊んで1万円、というのはまぁ、普通でしょう。

しかし、形のない「思い」というのがあります。
 
 
 
「連鎖」の話にも繋がりますが、嫌なものを見たときには自分の力を「奪われた」という感じがします。逆に奪いに行った時、与えてもらえば元気として力が増えていきます。

例えばテーマパークで働いている人が楽しそうに働いていればこちらにその楽しさが伝わってきます。貰っているんです。でも、「時給」という考えで、ただ、切符を切るだけだよ~と、「役割」だけの仕事をしていればこちらの中に嫌な気持ちが生まれます。奪われちゃうんです。
 
 
 
今の時代は目に見えるものに価値が認められる時代です。同じ時間を働いているのだから、同じ給料を貰う、というのはまぁ、当たり前に思えます。でも、嫌な顔をして働いている人と、楽しそうに働いている人がいれば当然お客さんとの間で交換している力は全然違ってきますよね。

多少のボーナスはあっても、それで給料が何倍にもなるようなシステムはほとんど聞きません。でも、そういうのってあると思うんです。お金を払ってでも、こいつは使いたくない・・・というような人が。
 
 
 
目に見えるものだけを考えてしまうから、一生懸命になれないのかもしれません。でもカラダで感じられる「力」というのを基準にして、笑顔を貰えばうれしい、ブスッとしていたらとられちゃったなぁ、と分かれば、どんどん渡してあげればいいじゃないですか。むしろ、どんどんと渡してあげたくなります。

・・・で、最初の話です。渡した時に喜んでもらってくれればうれしいんです。ちゃんと届いているのですから。だからこそ上手にしっかりと受け止めたいなぁと思ったんです。
 
 
 
昨日の浜松の中日文化センターでは感謝というありがとうの気持ちも自分の力になるんじゃないか?というお話もしました。集中力の話の中での事です。

ココロの力は見えない力です。カラダを動かす事で生まれてくるココロがあります。私は感性を育てない生活を長くおくってきました(笑)。でも、女性は特にその感性というかココロの力を強く持っていると思うんです。ただ、そのココロの力をカラダに力として変換できていないんだろうなぁ、とお話しました。

目に見えない力をお話しするのは「怖い」です。誤解が生まれてしまう時もあるから。それでも、伝えておかなければいけない事です。見えないけど、あるんですから。
 
 
 
うれしかったのは、その話を受け取ってくれた人がいると言う事です。それも何人も。ある女性は昨日の講座に来るのを止めようか、と思っていたそうです。精神的につらかった事が続いていたそうです。自分で鏡をみたら鬼のようだった、と言っていましたからかなり辛かったんでしょう。でも、数日前から責めるだけではなく、相手の事を思って感謝してみようと始めていたらしいんですね。すると、ちょっと「楽」になりだしたそうです。だからこそ昨日の講座で私の話がすごくよくわかる!と笑顔で話してくれました。

自分が渡したもの以上に、喜んでくれたんです。精一杯の感謝の言葉をいただけたわけですが、これが恥ずかしい(笑)。昨日の私はちゃんとそれを受け止めれたのでしょうか(笑)。
 
 
 
上手に受け取り、渡したい、というのはやまやまですが、なかなかそれは上手く出来ません。それでもそういう「力」が元になって、「交換」されていくんだと知っていれば、ちょっと態度が違ってくるかもしれません。

こういうのを価値観がかわる、と言うのかもしれませんね。アタマだけでそれを望んでできる人はいいですが、私には無理でした。でも、「よく動く身体は稽古を通して作る事ができます」。カラダが動くようになってくれば自然とココロの働きにも敏感になってくるみたいです。やっぱりココロとカラダは「同じもの」なんですね。

女性の方であれば、花を見てきれいだな、という感性をカラダで力として表現できるんだ、という事を目標にすると早いかもしれません。そういうお手伝いもしていきたいと思います。
 
 
 
ありがとうございました。

|

悪意と善意の連鎖の話

力にはカラダから出る力だけでなく、ココロが受け止めたことで、カラダに現れてくる力があります。その元となるものを「興味」と名づけて稽古をしていますが、集中力の事を考えるようになり、ココロが受ける力もしっかりと集めて使っていかなくては、と思うようになりました。

「力」として認識できる概念が拡がったからなのでしょうか、自分から生まれている力が繋がってまた、戻ってくる事に気づきました。
 
 
 
今日は、力は連鎖していく、というお話です。
 
 
 
チョット前に山田ズーニーさんの本を貸していただきました。小論文の書き方だったかな?普段あまり読まないジャンルの本です。書き方、といってもそこにあったのは気持ちを伝える、という事でした。そのためには自分の気持ちに正直にならなければなりません。

その本の中に悪意の連鎖、という事が書いてありました。正確な中身は思い出せませんが、意図しない中で繋がって「しまう」ものがあるんだ、と言う事を教えてもらいました。

無意識に働いている力が小さなものなら構いません。ただ、どうも知らなかったでは済まない話しかもしれないのです。もちろん、読み終わったときにはなにも変わっていませんでした。ただ「連鎖」という言葉はココロに残りました。なにが、どうやって繋がっていくのかな・・・?と。

本に出会ってから数ヶ月、ようやくカラダを通して理解が出来たのか、「連鎖」という言葉がぴったりの感覚が生まれてきたんです。カラダに現れている力は恐ろしいほど相手に向かっているし、自分も気がつかないうちに受け取っているみたいなのです。連鎖しているんですね。
 
 
 
もう一度言います。力は連鎖していくんです。この時の力は具体的な力ともいえますし、言葉や態度を介して行われるココロが生み出す力でもあります。
 
 
 
例えば自分が応援されることで力をもらうとします。楽しい気分で他の人に会えば、その人にも楽しさは伝わって行くはずです。

もしこの時、自分の楽しい気持ちを相手が受け入れずに、ヤキモチのような気持ちを持ったとします。「いいなぁ、お前は気楽でさぁ・・・」なんて。これは、こちらの楽しい気持ちが繋がらながった、と言うことです。相手に不快な思いをさせてしまった事も問題ですが、それは自分の楽しさの表現がまだ足りなかった、という事なので、もっと向上させていくしかありません。

問題は相手がイヤな気持ちを持っていたことに対して、自分がイヤな気持ちを持ってしまった事です。これは相手からのイヤな気持ちがこちらに伝わってしまった、と言うことになりますよね。

こちらの楽しさの感染力よりも、相手のイヤな気持ちの方が強かった、と言うことです。
 
 
 
問題はここから。相手からもらったイヤな気持ちはどこに行くんでしょう?気がつかない間に相手からの嫌な気持ちをもらってしまい、自分の機嫌が悪くなった状態で人に会えばそのイヤな気持ちが関係のない第三者に自動的に伝わってしまう可能性があります。
 
 
 
例えば機嫌がよければ子供が片付けをしていなくて遊び回っていても、それは元気だなぁー、とにこやかに過ごせます。しかし、機嫌が悪かったのなら、片付けのしない子に向かって怒ってしまうかもしれません。

ここで確認をしておきます、どんなに機嫌が悪くても優しい気持ちを持ち続けられる人には話しをしていませからね(笑)。そういう人になりたい気持ちはとっても強いですが、どんなに優しく、見守りたい、と言う気持ちがあってもなかなか機嫌の力には勝てないんです(泣)
 
 
 
ただ、それは無意識の力を理解していなかったから。自分が機嫌悪くいることに対してそれほどの罪悪感を持っていなかったからなんですね。

でも、自分は悪くない、というのはどうやら大間違いみたいです。愚痴を言ったり、怒ってみたり、自分の不快を自分がそのまま出してしまえば、周りにいる人にその姿、態度を見せてしまう事になってしまいます。自分自身は怒りや不満を外に出すことで、発散できて満足が出来るかもしれません。無意識的にも。でも、自分の自覚のない態度がこんなにも人に嫌な気持ちを持たせてしまっているとは・・・気づいてしまった以上ほっておくわけにはいけません。
 
 
 
悪意も善意も、とにかく、自分の中の気持ちは周りにいるたくさんの人に繋がっていってしまうんです。
 
 
 
この時、相手に悪いから機嫌を悪くしておくのはやめよう、と言うのもひとつの理由です。

でも、そうすると自分の中に敵と味方を作ってしまいます。味方だと思った人にはどんなに機嫌が悪くても、大切な人ですから、気分良く接したい、そう思えるのは普通です。その伝わる気持ち良さが、また他の人に巡っていくからです。

しかし、それが敵だと思ってしまった人ならどうでしょうか?自分の中の嫌悪感が、その人を経由して、また誰かにぶつけられるかもしれません。そのだれかはまた自分よりも弱い立場の人に自分の中のイヤな気持ちをぶつけていくことになります。例えば、その人の子供とかに・・・

この悪意の連鎖はどこまで続くのかな?どこかで止まる、というのが「確か」であればまだいいのですが、他の悪意とつながり合ったりして、もっと巨大なものになるかもしれません。ずっと存在したままと考えると怖いです・・・

どこで使われる用語だったかな?バタフライ効果、というのがあります。アメリカで蝶々が羽ばたいたことで生まれた風がめぐり巡って世界の天気まで影響を及ぼす、と。巡っていく間に色々な要素が絡み合い、どうなるか予測が不可能になるわけです。
 
 
 
連鎖の力を認める事で自分が無意識でしている悪さに気づきました。言葉や行動はもちろんですが、態度もそうです。ただ「立つ」という姿も、イヤな気持ちで立つのと気分良く、楽しく立つのとでは、それをみている人の気分は変わっているはずです。

イヤな気分で立ち、なにもしてないだろ?と言われても、イヤな気分にさせられました、と言いたくなります(笑)。じゃあ、気分良く立つってどんな風?と考えてみると、結果的にこれまで工夫をしてきた、より力のこもった立ち方なのです。

心と身体は一つのもの、といっていますが、本当にそうなんだ、と実感します。
 
 
 
普段の生活を考えれば、そこにある動作や行動はじつに複雑です。どんな言葉を使うか、というのもそうですね。

これは正しいか正しくないかではないんです。どんなに正しい事であってもそれを受け取っている人がイヤな気持ちを持ってしまえば、そこから機嫌の悪さが繋がって行きます。むしろ、自分が正しい事を言っている、と信念を持ったときこそ大変かもしれません。正しい事だからといって、相手に嫌な気持ちを生まれさせてしまえば、恨みにも変わってしまうかもしれませんから。

理論の成否ではない、というのは現代ではかんがえにくい事かもしれません。それでも不機嫌はつなげてはいけません。
 
 
 
だからこそ、伝え方を考えなくてはいけないのです。目の前の相手を敵として認識をして向き合ってしまってはどうしても厳しい言葉や態度になります。

難しいのは当たり前、それを理解した上で大切な人と思う事が出来ればいいですよね!
 
 
 
ここで、一つ嬉しいお知らせがあります(笑)

実は相手のために機嫌良くするのではありません。自分の力は出せば出すほど帰ってくる力が多いのです。この辺りのことはまた別の機会にまとめたいと思います。とにかく出したものは帰ってくるんです。
 
 
 
応援されている力を意識すると、そこには元となる種があるように感じます。自分の力に賞味期限がある、というのはお話しましたでしょうか?奪われまい、としてカラダの中に力をためてしまえば、やがてそれは腐ってしまい、お荷物になってしまいます。

自分の持っているモノを手放せば手放すほど、また戻ってくるんです。この時、恨みや呪いとして外に出し続けるのは大変です。イヤな気持ちは身体を緊張させますから。そんな状態を続けたら倒れちゃいますよね。嫌な気持ちを続けるのはカラダにとって負担ですが、楽しい気持ち、応援する気持ちはその逆で自分のカラダをリラックスさせてくれます。
 
 
 
相手のためなんだけども、自分のため。矛盾していますが、つながつているんです。矛盾を、矛盾無く、矛盾のまま、というのは甲野先生から教えていただいた言葉です。どうしても答えを求めてしまうのはアタマの癖なので、仕方ありません。難しい問題ですが、カラダに聞く事が出来れば何とかなりそうです。
 
 
 
自分のために、というのであれば行動も起こしやすいのが人間です。それが元になって行動を始められたときに、相手のために、と考えてみるんです。これまで考えた事がない「相手のため」と。見方が180度変われば当然、考え方が変わります。考え方が変われば動きが変わってきてもおかしくありません。

興味のあるものと興味のあるものの間に興味がないものが見つかった、と言うお話をしましたが、視点が変わる事で考え方は全く変わってしまうのです。実は今日の話はちょっと前にお話をした「眼差し」についての展開なんです。

どうしたらもっと、喜ばせてあげられるんだろう。そう考えています。今までは自分の事で精一杯でした。余裕ができたら…じゃないんですね。

悪意が連鎖する、というのは恐ろしいことですが、楽しい気持ちも繋がってくれる、と思うと嬉しくなります。今こうして楽しく仕事が出来るのも楽しい気持ちやありがとうと言う言葉を頂いているからです。こちらこそ、本当にありがとうございます。
 
 
 
・・・う~ん、それにしても全然まとまっていませんね。普段の文化センターの講座でもうちょっとしっかりしていますのでご安心を(笑)。こんな稽古をしているのはアクテノンと定例での稽古ぐらいですから。

なにかあればお便りください
jun@karadalab.com
http://www.karadalab.com/

|

集中力をつけろ!その3

今日は相手をおなか一杯にしてやろう!というお話です。

集中力が大切ですよ、という当たり前の話にもそろそろ飽きてきた頃かもしれませんね。ただ、いまこうして、当たり前とも思える集中力の話をこんなにもしているのは、僕がそうであったように、先入観で大きな気づきを得る事ができなかった悔しさがあるからです。

いまこの日記を書いている僕は「凡人」です。体だけは大きいけれども、感受性や手先の器用さ、リズム感等は恐らく人並み以下。子どもの頃からずいぶんと劣等感を育ててきました(笑)。

それでもいま各地で講座や仕事をいただくようになり、先生、と呼ばれています。以前の事を思えば気分のいいものとも言えますが、同時に、先生しかできない、と思われる事があり、困ります。

凡人、と書きましたが、人間には素晴らしい能力が与えられている、稽古を続けて来れたおかげでそう確信しました。いま、こうして恥ずかしながらも色々と外に出しているのも、誰にでも備わっている力を伝えていきたいからです。

言葉で伝わるのなら、いくらでも書いていきます。ただ、言葉では伝わらないモノもあるのが現実です。その微妙なニュアンスの違いが怖くてこれまで、出してこれなかった部分も、それを認めて必要としてくれる人もいる事もわかり、こうして言葉にしようと思いました。

そうココロに決めて日記を書くようになってうれしいメールもいただくようになりましたが、それ以上に分からない!といっている人も多いはずです。でも負けません(笑)。
 
 
 
講座の中では「話半分で聞いてください」と言っていますが、これは冗談ではありません(笑)。自分流にドンドンと作り変えて行ってくれればうれしいです。
 
 
 
さて、改めて集中力のお話です。これまで気づかなかった力があるよ、というのはお話しました。結果として、自分の中により大きな力が存在するという事があると思ってください。この力の大きさを「体感」するのとしないのとでは自分に対する信頼が全く違ってくるんですね。
 
 
 
相手と向かい合い、なにかをするというのは自分の力と相手の力がぶつかり合うという事です。つまり、力の奪い合いです。

これがゲームであれば自分のエネルギーと相手のエネルギーとを目でみて比べ合う事ができます。そしてそのエネルギーのゲージがゼロになれば負けになりますよね。それと同じような事が、実際の場面でも行われているんです。
 
 
 
いつものように、そういうものだと仮定して話を進めますね(笑)。
 
 
 
とにかく、相手は力をよこせ!と襲い掛かってきます。自分が対応できる間は余裕を持って対応ができますが、自分の限界を感じるようになれば、必死に自分の身を気にするようになります。当たり前ですよね。
 
 
 
この時、なぜ自分に焦りがでてくるのかといえば、自分の持っている力がなくなる事を感じてしまうからです。どんなにアタマで「相手の為」と思ってもいざ、自分の身に自分の認識している以上の力が降りかかってきた時には逃げたくなるのが人間らしさですよね。自分を犠牲にして行動できる人って多くありません。

武術に魅力と可能性を感じているのは、アタマでわかっている事を身体で体感できると思うからです。

師匠の甲野先生はできねば無意味、と言われました。言葉どおり受け取ると乱暴なようにも聞こえます。しかし、どんなに正しいと思える事をアタマで考えたとしても、それを身体で表現ができなければこの世の中では意味がありません。

良い事悪い事は小学生でもわかります。しかし、大人になって悪いとわかっていてもやめられない事は山ほどありますよね(笑)。

人間はそういう弱い存在なのかもしれません。それでも、稽古を重ねて行くと、自分が成長している事を実感できます。歳を重ねて行くと、衰えも感じますが、それ以上に自分の中にある力の使い方が上手になるんです。
 
 
 
また話が脱線してしまいました(笑)。
 
 
 
とにかく、よこせ!という要求があるわけです。集中力を実感して力を集めていたら心境の変化がありました。ようやく、今日の本題にたどり着きました(笑)。
 
 
 
欲しいならいくらでも持って行って…
 
 
 
そんな気持ちが生まれていました。

相手は奪いにくるのです。でもこちらには余裕があります。力がたくさんあるような気になっているんです。

この集まった力は筋力や構造の力はもちろんですが、自分は応援されている、恵まれている、といった背中を押してくれるココロの力も含みます。むしろ、ココロの力の方が大きいのかもしれません。
 
 
 
力の在庫が多いからこそ余裕がでたんですね。根が大雑把、という事もありますが、きっちりと自分の力は自分のもの!として扱いたい人はどうかわかりませんが(笑)。
 
 
 
余裕で対応したい、と念じても実際にその余裕を身体で感じていなければニセモノになってしまいます。

あっ、でもプロ並の演技力があればそれも可能なのかな?しかし、そんなものは私にはありませんでしたから(笑)。演技は苦手、という人用の話だと思って聞いてください。
 
 
 
問題は力の在庫の量ですが、考え方によってはとてつもなく大きな力になりそうです。どこまで幸せを拡げていけるかですからね。それこそ自然を相手に高い感受性を持っているのなら無限に近いかもしれません。

改めて書きますが、思っているだけで力にならなければ全く無意味です、厳しいようですが。環境破壊と科学の恩恵のようなものです。どんなに弁が立っても、実際にどう動いているか、つまりどんな変化がカラダに起きているかが大切です。。この矛盾した考えを受け入れているかどうか不安になりますが、そこを確かめられるのがカラダなんですよね。

相手が求めるだけ全てを与えてみると、相手にも心境の変化が生まれているようです。「お腹いっぱい!」という表現でわかりますでしょうか(笑)。どんなに求めたとしても、自分の中に蓄えられる力には限りがあります。奪ったつもりであっても、それを使いきれずに蓄えてしまった事で、逆に身動きが取れなくなってしまうような感じです。
 
 
 
こういう喩えはどうでしょう。嫌がらせをしてくる相手に、敵対せずにニコニコまっすぐに付き合っていたら、自然と争う気持ちが相手から抜けてしまっていた。

相手を打ち負かせて勝負を決めるのとは違った終わりの形です。

相手にも感謝をしなさい、自分が許せない相手も許す努力をしよう、というのはこんな感じなのかな?と考えました。
 
 
 
稽古とは研究だと思っています。自分の知っている知識をフルに活用して、より納得の行く生き方を探して行く事が楽しいんです。もちろんそこには答えはありません。理想はあるかもしれませんが、その理想を受け止めるだけの器が求められている気がします。

せっかくメールを頂いてもうまくお返事を返せない事もあるかと思います。それでも頂いた言葉一つ一つがこの先の気づきにつながっていると思っています。感謝します。ありがとう!

|

暖かい眼差し

集中力の話が続いていますが、ちょっと気になることがあったので、聞いてください。

昨日の稽古の後、共同研究者のI君が身体を回す時に視線が外れるのが気になる、といってきました。

彼はいつも唐突です(笑)。その斬新な指摘にどれだけのヒントをもらっているかわかりません!とりあえず、目の使い方というか、目を通して感じられる力のことかな、と解釈したんですね。

ちなみに彼とは幼稚園の頃からの付き合いです。普通とは違う発想力にはこれまでも驚かされていました。ただ、若かった頃はその発想力に驚いて、認める、というよりは仲間全員でその発想はおかしい!と非難していました。おかしかったのは普通の発想しかできなかった僕の方なんですね。ようやく、彼の発想についていけるだけのアタマの柔らかさを手に入れることができました(笑)。どんなアイデアもまずは受け入れるところからスタートしたほうがいいみたいです。 
 
 
さて、話を戻してその目の力ですが、モノからモノへと視線を移す時に違和感があるというのです。

なんだろう?どんな違和感なんだろう?そのことを考えながらモノからモノへと視線を移しました。

そこにあるのは「認識」です。好きなモノ、気になるものであれば自然とそこに興味がわきますよね。いや、嫌いなものもそうかもしれません。自分が作っている世界から排除したいもの、それが嫌なものです。

好きなモノも嫌いなモノも、興味が湧く、という点では共通しています。

そして、今違和感を持っているのはその間です。その間にはなにがあるのか…?
 
 
 
アタマの中だけで考えるのではなく、実際に身体を使ってその違いを求めていけることがカラダラボの強みです。今まで気にならなかった部分になにがあるのか、カラダの変化を意識しながら動いてみました。

浮かんだアイデアを言葉にして、その言葉からまた次のアイデアに結びつけます。そして一つの答えにたどり着きました。
 
 
 
それは、興味のあるものと興味のあるモノの間には興味のないモノがある、という事です。
 
 
 
こうして言葉にして見るとあまりにも当たり前で、この興奮が伝わるのかなぁ~という気になりますが、いつもの稽古を御存じの方であれば、なんとなわかってもらえるのではないか、と期待して話を続けますね(笑)
 
 
 
興味のないモノとはなんでしょう。もしかしたら興味がないモノは、存在しないものとおなじ事なのかもしれません。これまで、その興味のないモノを考えて動いた事はなかったわけですから。

実はここで、これまで話をしてきた集中力がポイントになるのですが、興味がないモノを身体を通して考えてみます。つまり、力というモノサシで違いを体感するわけです。
 
 
 
答えを先に書いておくと、興味のないモノを認識して、そこに「も」力を集めて行くと、もっと大きな力が帰ってくる事がわかりました。理論的にどうかはわかりませんが、具体的な力としてつかえるわけですから、これを見逃すわけにはいきません(笑)。頑張ってこれからつじつまを合わせていきますので、期待してください!
 
 
 
ではなぜそんな力に変換する事ができたのか説明します。それにはまず、こういう考え方の前提が必要です。この前提に同意ができない場合はこの先の理論は全く意味をなしません(笑)。

その前提とは、力を相手に与えれば与えるだけ自分の身体に力が戻ってくる、という事です。相手を敵視して壁を作ると力が壁で衝突します。そうなれば単純に力の大小で勝負が決まります。
でも目の前の相手を友達のように認めてみれば自分の力に相手の力を合わせた力を使う事ができるのです。

昨日、向かい風と追い風の話をしました。興味のあるモノは追い風です。そして興味のないモノは向かい風になります。その風の強さは自分の興味の大きさによるんです。ですから、常に全力で興味を持てるように意識して、認識するつもりで動いていました。頑張っていたんです。

好きなモノでも嫌いなモノでも認識には変わりありません。嫌いなモノをプラスに変換できるようになってきたなぁ~と感じていましたが、まだまだそれは未熟だったわけです!深すぎますね、カラダの世界は(笑)
 
 
 
興味のあるモノと興味のあるモノの間にある興味のないモノ。どちらが大きいと思いますか?ちょっと考えてみてください。
 
 
 
僕の場合は「圧倒的に」興味のないモノでした。どんなに認識を細かくしても、この興味のない世界の事は忘れていました。

具体的なモノとして名前をあげれば、その興味のないモノの一つは「空気」です。本当は空気ではなく、ないと思っていたもの全部ですからもっと抽象的なんですけどね。

とりあえず話をつなげていきたいので空気としておきます。
 
 
 
具体的なモノには自分の持っている力を渡す事ができます。じぃ~と一点を見つめるのであればそれほど違いはないかもしれませんが、生活は認識を絶えず動かす事で成り立ちます。

この時、認識と認識の間に隙間が生まれていたんじゃないかなぁと思ったんです。武術的にいえばそこは隙になります。自分が認識していない空間と時間が出来ているわけですからね。いくら一生懸命にやろうとしても、気づかない間に出来てしまった隙はどうしようもありません。

自分の全力が注げないからこそ隙になるわけです。今、興味のない世界に気づく事ができました。気づいた事で自分がこれまで行ってきた事がかわるかといえば全く変わりません。なぜかといえば、自分が認識しているモノ全てに分け隔てなく、全力を注いで行くだけだからです。

自分の目の前に広がるもの全てに自分の力を注いで行く事が結果としてより大きな力になって戻ってきます。
 
 
 
本来であればもう少し検討をして伝えるべきだったかもしれません。でも、自分の中で生まれて来た気づきをリアルタイムにそのまま伝える事も面白いかもしれない、そう思いました。もしかしたら、この先研究を続けると、今とは違った認識に変わって行くかもしれません(その可能性は大です^^;)。それはそれでより精妙な動きに気づく事ができたという事ですからハッピーな事なんです。
 
 
 
ただ、もう少し、集中力について考えている事があるので、次回はまた集中力のお話です。たぶん(笑)

ありがとうございました。

|

集中力をつけろ!その2

いきなり日記が長くなり、読みにくくなったりしたかもしれません(笑)。それはちょっと心境の変化があったから。

もともと書く事に関してコンプレックスがあったわけですが、自分が感じたことを伝えればいい、と思ってからは書く事に関して抵抗が少なくなりました。ただ、上手に、伝わるように書こう、書きたい、という気持ちがありました。無いものねだりの欲みたいなものです。

もともと私の講座でも、上手に伝えよう、というのはありません。押し付けることはほとんどありません。だからこそ、教えてくれ~と助けが欲しい方にはちょっと不満が残るかもしれません。ただ、もっと自分の事を知りたい、楽しい可能性を感じたい、という人にはこのスタイルが好評のようです。

普段稽古の中で試行錯誤しながらより楽しいことを探しているように、日記の中でもそれをすればいいや、と思ったんですね。普段稽古に来ることが出来ない人に稽古の雰囲気が伝わればなおいい、と思いました。

少ない文字数で美しく伝えることは諦めました(笑)。

その分、思っていること、感じていること、思いついたことをこれでもかぁ~と残していければと思います。自分にとって都合のいいところを取っていっていただければうれしいです。
 
 
 
それでは集中力について続きを始めます。

集中力をテーマに発想を広げていますが、こうして色々と考えた事を言葉にしてみると、なんとなくすっきりします。自分の中のこだわりを話すことで手放しているようです。ブログを通して付き合ってくれている皆さんにとってこの話がメリットになっているかはわかりませんが、気に入ったところが一つでもあればうれしく思います。

さて、今日は集中力についての2回目の話です。前回は集中力という言葉をしってはいても、「どんな」力を集めてこれるんでしょうね、という問いかけでした。そこで筋肉の力や骨による構造の力、そしてココロの力までも自分の力と認識すればこれまでよりも大きな力を発揮できるんじゃないか、という事でしたね。

ではもう使える力って残っていないんでしょうか?

いやいや、そんな事はありません。

自分の中に力をたくさんの力を認識してもらいました。その力は自分特有のものでしょうか?自分だけが神様から得たスペシャルな力でしょうか?違いますよね。みんな同じ人間です。自分に備わっている力は相手の中にも存在しています。

簡単に・・・とは言いませんが、自分の中に見つかった力はまだ自分のものですから集めて一つの大きな力の塊に出来そうな気がします。でも相手が自分を攻撃してくる力も自分の力にする、というのはどうでしょう?
 
 
 
頭の中では無理だ~の合唱が始まっているかもしれません。ここで諦めてしまえば普通の人です(笑)。ちょっと考えて、試して、工夫するぐらいは「アリ」じゃないですか?

まず、自分のカラダででも感じたように具体的なカラダの力から確認してみます。例えば腕を抑えてもらった時に感じる圧力があります。この時の圧力の元の一つが筋力ですね。目の前にいる人は「敵」だからこそ、抑えてくるわけですが、「敵」だと認識してしまっている以上、相手の力は自分に向けてくる攻撃であり、なかなかそれを自分の力としては考えにくいですよね。

しかし、この認識を乗り越えてこそ、稽古の意味が出てくるともいえます。なぜ、今、稽古が必要なのか、なぜ、武術が必要なのだろうか・・・、決してもしもの時のためだけではありません。むしろ、稽古を通して自分自身を見つめ、当たり前の生活をより豊かに過ごすためにあると考えています。

ついつい、話がややこしくなってきますが、型稽古になってくればそれはシンプルな結果があり、自分の迷いもはっきりとしてきますから、いいんです。相手の抑えてくる力をちゃんと受け止め、自分の力として、集められている、そういう思いをもてるかどうかです。つい自分に意地をはり、評価が甘くなることもありますが、それは勘弁してあげましょう(笑)。いつまでもウソはつきとおせませんからね。
 
 
 
・・・話を動きに戻します。相手の抑えてくる力があります。その力をまずは自分のカラダにまで流し込んでいくようにします。お腹や背中あたりを意識すると「受け止めている」という感覚を得られやすいかもしれません。とにかく「拒絶」するのではなく「受け止めて」見てください。その力が相手の力の一部であっても構いません。自分以外の力があり、それも自分の力に混ぜて使うことが出来るかもしれない、その可能性に気づくことの方が大切です。

相手の力は筋力だけではありません。構造の力もそうですが、「体重」という力もそこに存在しています。試しに相手に寄りかかってもらってください。腕にずっしりと相手の「重さ」が乗ってきているはずです。ただ、腕にかかる圧力は腕力の時と力の大小、方向のずれはあっても質は同じなはずです。元となる力の出所は変わっても、自分のカラダに現れてくる力は同じなんです。これ大切な事です!

カラダにとっては同じ圧力ですから、相手の体重そのものも自分の力として認めることができそうですよね!ねっ、次に進みますよ(笑)。
 
 
 
問題はここから、あまり意識されずに、つい見逃している大きな力の話です。

人が二人集まれば、そこに「関係」が生まれます。良くなったり、悪くなったり、ややこしい人間関係というものです(笑)。この時、心地のいい関係ならばいいんです。そのままその心地よい空間と時間を楽しみながら動けばいいのですから。

問題は嫌な関係が表れてしまったときです。その関係から逃れたくて、もがいて苦しんでしまうんです。目の前に「苦手」というカベが現れるんですね。

例えば仕事で失敗をして叱られた時、その気まずさを「嫌」という認識で受け止めると、どうしてもカラダが強張ってしまいます。この状態、とてもプラスになっているとは思えません・・・。問題はこのマイナスの力をプラスに変換できるかどうかです。自分のココロに起こった事と同じ事ですよね。自分の中で苦労して試したことがそのまま応用できますので、じっくり味わって見ましょう。

このココロの力の感じわかりますか?そんな力はないよ~なんて言わせません。マイナスのカベもわかりやすいマイナスの力ですが、プラスの力もあるんです。例えば応援される力があります。ガンバレ♪ガンバレ♪と言われれば気分がいいものです。
 
 
 
昨日、道場で実験してみました(笑)。一人の男の子に、「〇○君、ガンバレ♪」と大合唱させてみました。言われていた男の子は照れていましたが、楽しそうなんですね。アタマでは否定するかもしれませんが、外から見ればすぐにわかるんです、元気が出てるんですね。応援されたら力になるんですよ。

野球やサッカーだとよくわかりますよね。やっぱりホームグラウンドは強いですよ。周りが全部相手チームのファン、っていう状態であればやりにくそうですよね。そんな状態で燃える選手ってそんなにいないんじゃないかなぁって思います。コンサートなんかも応援ですよね。お客さんが少なければやっぱりやりにくいかもしれません。

自分が歌手の立場であればファンはありがたいですよね。でも、ただ仕事でプレゼンをしなきゃいけない、となった時にはちょっとプレッシャーです。同じ「見られる」という状態でも、自分がその見られる状態をどうとらえるかで全然違ってしまうわけです。

とはいっても、ココロの変化はわかっても、その変化がカラダに「力」となっていなければなかなかメンドクサイ変換作業へのチャレンジまで行動に移せないかもしれません。ドキドキした時、嫌な気持ちになった時、生活の中でココロの変化はめまぐるしいはず。その細かな変化をじっくりと観察するところから始めましょう。
 
 
 
今ヨットの話を思い出しました。甲野先生はよくヨットの例えを出して説明をしてくれます。ヨットは向かい風をも推進力に変えて進むことができると・・・。

そう聞いて、ヨットの仕組みを調べてみると確かにそう書いてあります。風が吹いてくる方向へもジグザグに舵を切りながら進むことが出来るらしいです。もちろんその仕組みは
物理的に説明されています。

昔、理系だったにもかかわらず、じっとその説明を見ても実感が湧きません(笑)。だからこそ相手の力、つまり向かい風ですね、だからこそ、相手よりも、つい、自分の力ばかりを見てしまっていたのかなぁ、と思います。

ヨットに乗ったことがある人なら、その力を「カラダ」で実感しているじゃないですか。アタマだけではなく、カラダ全体で、というのがやはり大切なようでう。

ココロが感じる力というのもそう。これまでは繊細すぎて、カラダで受け止めるところまで行っていなかったんです。ようやくココロの変化をカラダで感じられるようになってきたからこそ、応援のココロは追い風として、プレッシャーは向かい風として利用できるようになってきたんだと思います。

今日も、だらだら、誰のための日記か分かりません(笑)。
まだまだ思いつくことがたくさんあります。またもう少し、集中力の話が続くと思います。

では、今日もありがとうございました。

|

集中力をつけろ!その1

集中力が大切、というお話は誰でも一度は聞いたことがあるはず。

聞いたことがあり、それを納得してしまった事で、それ以上求めることを忘れてしまっていませんか?

集中して仕事や勉強に打ち込もう、と考えて、なんとなくそれを「出来ている」と思っているかもしれません。完全に集中は仕切れていないけれどもまぁ、机には向かっているからなぁ・・・と、妥協していませんか?

子供の頃の集中力を思い出して・・・と言われてもそれは無理かもしれません。小さなお子さんを持たれている方なら、集中して声も聞こえないほどテレビやマンガに夢中になっている姿を想像できるかもしれませんね。人間は好きな事には集中できるようになっているんです、きっと。

そしてこの「集中」というのはおそらく好きなことでなくてもいいはずです。例えば身の危険を感じている時など、自分の全身全霊が恐怖の元へと向かっているはずです。ただ、恐怖で固まっている時にはその集まった力を意識的に使うことが出来ないだけなのです。

でも、本当に使いこなせないんでしょうか?ちょっと自分のココロとカラダに起こっている事を見直してみると少しはなんとかなるかもしれません。今日はそんなお話です。

 

 

 

集中力というありふれた言葉。その言葉の意味を今日、考えました。

集中「力」なんだけれども、この時、どんな力が集まっているんだろう?自分の中の「力」ってなんだろう?これまで真剣に考えたことが無かったなぁ・・・超、基本的な問いかもしれません(笑)。

カラダラボでは武術をベースにしていますので、相手と対峙した時の状況で考えてみますが、まず思いつく力は筋力です。では、どの筋肉を働かせて力を得ているのか?考えてみてください。

腕力、背筋力、腰の力、腹の力、脚力・・・詳しく知っている人であればもっともっと挙げられるかもしれません。これまで稽古してきたところを思い出しながら挙げてみると・・・

指の力(指アーチ)
肘の力(肘の回旋)
肩の力(肩の出し入れ)
背と胸の落とし
腰の力(腰を入れる)
踵の力(踵で踏み込む)
膝の力(絞り込み)
腹の力(丹田)
胸を開く力
手首の力(手首に流れを作る)
手の平の力(掌を細かく動かす)

カラダラボではこんな感じで研究が進んできました。今では懐かしい使い方もありますね。覚えてくれてますでしょうか?

一つ一つ、カラダで確かめながら気づいてきたものです。理屈を言えば、人間は細かい筋肉が山ほどあります。名前のついている筋肉の数ってどれぐらいなんでしょうか?その一つ一つを意識して使える人がいれば、もう、もろ手を上げて教えを請いたいぐらいです。

アタマではたくさんの筋肉が備わっている。でも、実際に一つ一つがどんな働きを持っているのかを意識できなければ集中「しよう」と思った時に力として集めきれない、そう思いませんか?

一つ一つの働きを見れば、指の力を知っただけでもかなりの事が楽になります。単純に力が無くて困っている、と言う人であれば、自分の中に力がこんなに眠っている、という事がわかっただけで世界が開けて見えると思います。

ただ、実際には「困っている」状況と言うのは複雑です。自分の中の悩みと言うのは簡単に解決してもらいたくない、という裏の望みを人間は持っていますから。

とにかくどんな力が自分にはあるんだろう、と言うのを考えてみました。

先にあげた筋肉の話もそうです。

そして骨の力もあります。構造の力です。

あと、カラダが動くことで生まれてくる勢いの力もあります。

今実感できるカラダの力ってそんなところです。

 

 

 

ではココロの力はどうでしょうか?
ラッキーで幸せを感じている時、ムクムクとやる気が起きてきます。
不運が続いてしまった時にはがっかりします。それが自然です。
締め切りに追われてでしか仕事や宿題が出来ない人がいます。僕がそれです(笑)。
締め切りはきついですが、結果的に締め切りが行動を後押ししてくれています。
ココロにもたくさん「力」があるじゃないですか!

全部自分の中にあって、自覚をしている力ですが、改めて考えてみないとみんなバラバラでしか使っていないようです。

そう、こういう力を集めることができないだろうか・・・今日の集中力のお話の目的はそれです。

 

 

 

筋肉の力や構造の力をあつめるという作業はこれまでの稽古でおなじみです。

ただ、目的を「技を成功させる」事においてしまうと、集めなくても出来てしまうことも多いために集めることを忘れてしまう場合もあるかもしれません。

逆を言えば、これまで集めなくては出来なかった事が、自分の中のただ一つの気づきでできてしまうわけですから、人間が本来持っている力がそれほどすばらしい、という事ですよね。

ですから「集める」事を意識して出来るようになれば、もっと大きな力が出せていけるわけです。

 

 

 

この時、一つ疑問が湧くかもしれません。

果たして大きな力は必要なのか?

例えばペンを持ち上げるという動作の中にココロとカラダ、全部の力が必要とはとても思えません。

それでも、私は全部の力を集めることを薦めます。なぜなら、自分の力を集め、それを自覚できた時の喜びは何ものにも変えがたいからです。コンビニにはもちろん、高級デパートでもそんな楽しいものは売っていません!

 

 

 

というわけで勝手に話を続けます(笑)。

カラダの力の集め方はそれだけで十分、講座として成り立ってしまうほどのものですが、まぁ今日はいいでしょう、集めることができたと仮定します。

問題はココロの力です。自分の中のやる気、がっかりと言うプラスとマイナスの力です。そんな力は存在しない、ときっぱりと口に出せる人がどれだけいるのでしょうか?私はこれまであったことが無いし、存在していたとしてもちょっと会いたくないなぁ(笑)。

好きな人といる時には元気になるし、苦手な人といれば疲れます。そんな力だと思ってください。ココロで感じたことがちゃんとカラダに現れている、そこを認識してくれればうれしいです。

ではこのココロが感じた力を集める事は出来るのでしょうか?

 

 

 

今、僕はなんとなく、それが出来るかもしれない・・・そう思い始めています。例えば講座をしていて、勢いが乗ってきた時にはつい、いつもよりも深く話しすぎてしまうこともありますし、逆にコミュニケーションが取れていない・・・と思ってしまった時など、プレッシャーを感じて言葉が続かなくなってしまう時がありますから。

今、書いていて思いましたが、こんな事、当たり前でみんな経験があると思います。ポイントはその力を自覚しているかどうか、という事です。

ココロの力が「ある」という事を前提にもっと突っ込んで考えてみます。

例えば健康という力。

はたして今の自分の健康に喜びを感じているでしょうか?自分のカラダの状態、ココロの状態に喜びを感じていれば、十分それを追い風に変換できるはずです。

しかし、健康って失った時で無いとそのありがたみを感じることが出来ませんよね。先日、ほんの一日、寝込みましたが、たったそれだけでも「普通の一日」のありがたさを感じました。ましてや自分の生死にかかわるほどの病気やケガを通り抜けてきたのであればなおさらです。そんな経験をされた方なら、「今」の当たり前に感謝や喜びを感じられるんじゃないでしょうか?

そんな人に比べたら、大病も大怪我もした事の無い僕が実感できる感謝や喜びはまだまだ不十分ですが、こんな小さな経験からくるありがたみでも、動きに変えてみると大きな力にする事ができるんです。

力を「集める」事のコツがちょっとでもつかめれば一気に技ができるようになってもおかしくありません。

 

 

 

技ができる、できない、にとらわれるのはよくないかもしれませんが、今日はあえて「結果」にこだわってみたいと思います。

実は僕はかなり頑固なんです。

目に見えないものはなかなか信じきれません。だからこそ、自分の動きを通してそこに「違い」を実感した後で無いと納得しきれないのです。不器用なんです、カラダもココロも固いんですね。

あったかい気持ちを持って幸せを感じられればそれでいい、と思っても、自分がそのあったかい気持ちをもっているのだろうか・・・というところに疑問が湧きます。昔から自分自身に対しての評価が低いんです。

その出来ない自分に対して自信を持つのには苦労しました。本を読んで勉強しても、それはアタマにまでしか届きませんでした。稽古を通してカラダを一つ一つ認識していった事で、自分の中にある力を体感していったのです。気がつけば自分に対して自信がもてるように変わっていました。

ちなみに自信って、「自分はできる」と思えるから自信になると思っていましたが、今持つことの出来た自信は「できてもできなくても」どちらでも自分を信じていけるという自信でした。ずいぶん考えていたものとは違っていました(笑)。

 

 

 

話があちこちに飛んでいるみたいです、すいません。

ともかくココロの力もカラダの力に合わせていけるわけです。ここでもう一つ考えてみたいことがあります。それは今目の前にある自分にとって「嫌なこと」は本当に「嫌なこと」なのか・・・という事です。

嫌なことであればココロはそこで「がっかり」します。マイナスの力になってしまいますよね。これをプラスに変換できれば、どうでしょう?

いきなり、そんな事、無理!と言わないで下さいね。出来たら・・・と考えてみたらワクワクします。今まで邪魔だと思っていたものが宝物になるのですから。

問題はその「変換」ができるのか・・・という事です。最近は「ありがとう」という言葉を口癖にしなさい、という話をよく聞きます。どんなことがあっても、それを「ありがとう」と受け止める、といいます。斎藤一人さんあたりが有名ですね。ただ、それは新しいものではなく、ずっと前から積極的に生きなさい、という教えは説かれていたようです。

ただし、現実には「ありがとう」、と口にしてそれをカラダにまで持っていけるかが問題です。全身全霊でありがとう、と感謝できるレベルにまで行くのが修行なのかもしれません。ありがとうをいいなさい、という人たちは「百万べん」を目標に持っていますから、そこまで繰り返し、口に出せたらきっと変わるんでしょう。

実は、私はそこに行くまでに挫折をした人間です。それは武術の世界で自分を考えてきたからかもしれません。目の前に自分を倒しにくる人間がいるわけです。その状況でどうすれば助かるのか・・・考えるよりも先にカラダとココロが相手に対して敵対してしまいました。

まぁ、言い訳ですからね、出来なかった事には変わりありません(笑)。とにかく、百万べんを口にする事はできませんでした。ただ、以前は口にしてどう変わるのかをイメージすら出来ませんでしたが、ようやく今、大切なのは感謝というココロの働きをどう、カラダに力として表すのか、という事にたどり着きました。

風邪や捻挫程度の小さな経験からでも健康のありがたさは感じることが出来るはずです。それを思い出しながら、今、自分がここに存在していることの喜びをわずかですが、感じ始めています。

 

 

 

先に書いたように、こんな頑固で感性の鈍い僕が感じられるのも、ココロの変化をカラダで受け止め、力として認識できたからです。カラダと共にある、武術ならではの方法だったのかもしれません。

ありがとう、と口に出したけれども、よくわからなかった、という人はカラダの面からアプローチをしてみるのも良いかもしれません。ココロとカラダは同じものですからね。

 

 

 

アタマで考えると自分の身に起きたどんなこともプラスに変換する、という作業はとても難しいように思えるかもしれません。しかし時間が経ち、昔感じた「不運」を「運命」だった、と感じることも少なくありません。私自身、甲野先生と出会うきっかけをもらったのは、どうしても進みたかった進路に新規の募集が無かったために就職浪人を決めた事が原因でした。当時、試験すら受けさせてもらえない自分は「不運」だったかもしれません。でも、それがあったからこそ甲野先生に出会えたわけです。では、あれは「不運」だったのか・・・先が見えていれば「幸運」であり、「運命」だったはずです。

未来を見通すことを望んでもそれは無理というものです。だとすれば、今目の前にある「不運」や「嫌なこと」をプラスに変換してもいいじゃないですか。最初はじっくり考えなくてはいけないかもしれません。カラダの感覚が鈍いうちは自分がプラスに変換できているのかすら、わからないかもしれません。でも、大丈夫!技を通して、うまく変換できていれば結果が目に見えて、カラダを通してわかりますからね。

とにかくあらゆる力を集める事を考え、意識してみるとまだ諦めなくてもいい、という事がわかりました。そして、この「力」は自分だけにとどまりません。目の前にいる「敵」「嫌な人」からも「力」を借りて、自分にとっての追い風に変換して行くことが出来るかもしれません。

この続きはまた後日・・・
長くなってしまい、申し訳ありません。
ここまでお付き合いしていただき、ありがとうございます。

|

積極的に生きる

中村天風師の自伝小説を借りた。真夜中、少しだけ眺めるつもりで読み始めたら、ページをめくる手が止まらない。気がつくと、一気に全部を読み終えていた。

このところ、天風師の本を読み漁っている。そこに書いてある言葉は「当たり前」の事ばかり。積極的に生きろ、という事。子どもの頃から、親や先生から散々言われてきた事ばかりだ。

ただ、大人になってみると、積極的に生きなければいけない、と分かっていても、つい口にするのは消極的な言葉ばかり。

救いを外に向けてみれば口癖を変える事が大切、とのこと。まだ世間を知らなかった若い私はなんとなく始めてみた。しかしその思いは長くは続かず結局またそれまでの自分に戻ってしまっていた。

今カラダが少し動くようになり、それまで知らなかった感覚を意識できるようになって、自分の意識の向いていた方向が間違っていた事に気がついた。

言葉から始める、というのも同じなんだ!やっとそこにたどり着いた感がある。自分が嫌なところにフォーカスをすれば、どうしても嫌な気持ちが出てくる。嫌な気持ちが出てきたところに前向きな言葉はつかえない。弱かったから。

カラダの稽古を通じて見てきたものも、フォーカスの移動だった。抑えられた手を見て、イヤだな、と思う。どうしよう、困ったな、とも思う。稽古を始める前までは「光」が無かった。でもそこにはまだまだ可能性があった。カラダはちゃんと動くんだ、という光が。

アタマは消極的だったかもしれない。でもカラダはちゃんと動くように出来ている。ただ、その動くカラダを見てあげていなかっただけ。

カラダのどこをみるのか、その方向。ココロのどこをみるのかその方向。その舵取りをするのはアタマであり、言葉なのかもしれない。

|

友達になる3つの方法

最近「友達間合い」の事について話をしているけれども、その「友達」の間合いにあわせるのに何をしたらいいのか・・・、気になりますか?

気にならない人、もうこの後は読まなくても大丈夫です(笑)必要ありません^^

友達になるにあたって、テクニックやノウハウなんてないほうがいいし、あってもそれは「不自然」でしょう。

ただ、今ここで必要なのは、自分を抑えてくる相手、つまり敵を友達と思う技術です。どうしたら、敵だと思ってしまう人を友達だと思ういことが出来るのか・・・。

この時、敵は敵でいいじゃないか、無理に敵を好きになる必要はないじゃないか、という意見もありますが、今日は聞きません(笑)。選択肢の一つとして、敵を敵と思うよりも、友達だと思ったほうが自分のカラダやココロが居着かないでうまく動くこともあるんだ、という事を実感したからですので、こんな話もあるよ、と聞いてくれれば結構です。

その3つの方法は「歩み寄る」「胸襟を開く」「腹を割る」という方法です。昔から言われてきた言葉そのままに仲良くなって通じ合うときにはこれらの方法がいいみたいです!

友達だ!と思っただけでそれが出来る人は結果として、胸や腹が緩んで開いているでしょうし、距離感も近づいて感じられるはず。私は出来なかったので、身体操法の力を借りたわけです。

嫌だな、と思ってカラダを硬くするのではなく、友達だと思って見る事を試してみてください。

・・・ちなみに、「胸襟」を「胸筋」だと思っていた私は実にいい加減です^^胸を開けばかわる!と喜んで口先だけではダメ・・・と思っていましたが、襟だったんですね。着物は自分の意思でなくても開けます。ただし、着物を開いても、カラダを閉ざしてしまうとストレスになるでしょうね。形から入ってココロを開くということなんでしょうか。

|

頭痛と共に

台風の後片付けなど、連休を普段やらない仕事で忙しく過ごしたからか、久しぶりに頭痛がひどかった。
「興味」の観点から見れば、頭痛が気になるのは、それが一番気持ちが集中するから。
この週末、ついつい暴飲暴食をしてしまい、胃がくたびれていたのも原因かもしれない。

早めに布団に入っても気になるのは頭痛の事ばかり。ただ、薄く削った木を持ってみると多少頭痛から離れられるので不思議。

この頭痛も「友達」と思って受け入れてみると、それもまた良し。
まぁ、なんでも有りなんですね。いい加減です(笑)

しかも最後は腕のかゆみで頭痛が気にならなくなっていたりもする始末。

具合の悪さも稽古にできる事の幸せをご報告しておきます^^

|

上から下へ求めていけばいい

台風一過の木曜日、今日から始まる予定だった瀬戸中日文化センターの講座は4週目の22日に変更になりました。
昨日の時点で休講が決まりましたが、良かったと思います。
本日午後からの桃花台の講座は予定通り行いました。ただ、休まれた方も見えたので、申し訳ないなぁと感じるのは自分のアタマの常識の部分です。

実はカラダラボで伝えたいことは「積み上げていくものではない」から全然大丈夫です。

つまりだんだんと「大切なもの」が分かってきているんです。今見つかっているものが一番大切なものに近いんですね。(もちろん私の中でですよ。)ですから、「今」が伝われば「過去」は一緒についてきていて、それを丁寧に覚える必要が無いわけです。

例えば今、分かったこと、ほんの数日前です。なにより目の前の人を「友達」に思うこと。これだけです。友達と思い、大切に、自分の一部として扱うことで、動きが変わり、気持ちも変わります。これをうんうん、と納得してもらえれば、それだけでもう大丈夫です。

もし、それが分からなくても大丈夫!先月分かったことが理解を助けてくれます。先月って、なんだっけ・・・そう、「無心」です。ほんの一瞬でも、無心になる感覚をつかめればそれが助けてくれるはずです。

そしてそれも分からなくても大丈夫!これまで歩んできた足跡をどんどんと遡って行けば全然大丈夫です。

気体があって、勢いがあって、骨があって、ズレがあって、元気があって、気配があって、胸鎖関節があって、カカトがあって、指のアーチがありました。多分まだ抜けているものもいくつかあると思います。

自分が分かるところ、つまり楽しいな、と思えるところから入っていけばいいと思っています。

そしてどんどんとこの先の理解は進んでいくはずです。気がついたら、世の中で言われている「当たり前」な事に行き着くかもしれません。多分、それを私は望んでいるんだと思います。突拍子も無い「すごい」技でも使い方でもなく「当たり前」な事。それをカラダを通して実感できたときに、なんでこれが今まで分からなかったんだろう・・・そんな事を待っているんだと思います。

明日はアクテノンです。
最近、今楽しんでいる事をどうすればもっと伝えられるか、広められるかをずっと考えています。たった2年でこれだけ仕事をさせてもらえるようになり、縁がつながってきました。感謝しています。

この楽しさを伝えるには既存の枠組みの中ではどうも物足らない気がしてなりません。なにかひらめけば、またお知らせします。力を貸して下さい。

|

友達間合い

間合いについて考えていたことが昨日、動きを通してつながった。

コトバのやり取りからくる違和感や安心感、同じ言葉であってもどうして人が違うだけで大きな違いが出てくるのか。人だけではない、自分の気分の違いからでもそう、振り回されているともいえる。

そのやりきれなさを何とかしなければ・・・と思ってヒントになりそうだったのが「間合い」です。人と人との間に存在するものが間合いなのは分かっている。ただ、それをどう感じて、使っていくかというとなかなか具体的な「術」にはなりません。

甲野先生との光岡師範との出会いがきっかけだったのか分かりませんが、とにかく「考える」時間だけはたっぷりと頂いた1週間でした。今まで向き合わなかった部分を見つけた事で何かが変わったのかな?

何が変わったのかは分かりませんが、「動き」を通して変わったことを感じられることが武術の良さです。人と対峙し抑えてもらったときにその人との間に存在していた間合い、この間合いが自分と相手との立場を自動的に作ってしまうんだ・・・そんな事に気づきました。

ある人が敵になるのではなく、友達になることが一番の方法、と言われていました。友達になるのと、なろうとするのと違い、そこが大きな問題だと思います。最初に聞いたときには良くある言葉ですので、つい、流してしまいましたが、昨日の稽古を通して一歩進めた気がします。

他人の間合い、敵の間合い、そして友達の間合い・・・なにかをしようとする時に生まれる不安や下心は友達の中に無いんじゃないだろうか、そう感じています。友達だからこそ、腹を割って自分の一部のように向き合っていけるかもしれません。

いつものようにコトバにしていくつもりですが、カラダを通じて体感したい人は各地の文化センターでの講座18日の定例稽古会にお越しください。しばらくはこの「友達間合い」の稽古になると思います。

|

決意

甲野先生との濃い二日間を通して、やはり大きな変化が生まれていたようです。
今回は特に「動き」から、というよりも「気持ち」の方での変化が大きかった。

自分が何かをしようとする時に生まれる「気配」、それをどう受け止めていくのかをずっと考えていました。なにかを「しよう」という気持ちは仕方ない、そういう意見もあるでしょう。しかし現実に気配の無い自然な動き(もちろん甲野先生はそれを自然とは認めていないでしょうが・・・)を体験し、その存在を知ってしまった以上、求めずにはいられません。

さらに、武術としての稽古を通しての動きならば「型」ですから、条件を限定し、詳しく自分を見つめていく事ができても、日常生活という社会の中では自分のなにか「しよう」「したい」という気配を消すことなどとても無理じゃないか・・・と感じます。

昔、甲野先生とであった頃、先生の著書の中に稽古を通して身体感覚が養われてくると、それに伴って人のどろどろとした部分が気になってきて、稽古を続けていくのが難しい、というようなことが書いてありました。

今感じている気持ちがそういう類のものなのかは分かりませんが、やはりココロとカラダは1つのものなのだな、という思いは強くもてるようになりました。

今感じている不安もおそらく動きを通してカラダを見直すことで自然と乗り越えていけるような期待感はあります。これまでもそうやってきましたから。

ただ、それが本質的に自分を見直していることなのか、問題を先送りしているもの中は分かりません。それでも稽古を通じてでしか「自分」に向き合うことは出来ません。

明日から一宮中日文化センターで新しく開講いたします。
私という人間に出会い、武術の楽しさを知ってどんな変化が生まれるのか・・・責任は重大ですが、学ぶ気持ちを忘れずに、変化の様子を伝えることを一番に考えて行きたいと思います。

受講の申し込みは直接中日文化センターへ申し込んでください。
http://www.chunichi-culture.com/ichinomiya/index.html

|

甲野先生との二日間

土曜日、日曜日と甲野先生のそばでお手伝いをさせていただき、「濃い」時間を過ごさせていただきました。

土曜日は名古屋での稽古会、これはカラダラボの主催です。今回は場所、2次会、ホテルなど、普段と違うことばかりで、落ち着く暇が無かったのか、先生の話も満足に聞けずに気がついたら一日終わっていた・・・そんな感じがしました。

ただ、この土曜日、大きな出来事が。
韓氏意拳の光岡師範が偶然名古屋へ来られていたので、2次会に参加をしていただいたのですね。光岡師範とはこれまで2度ほどお会いした事があります。その2度があまりにもインパクトがあったせいか、目の前にすると、一体何を話していいのやら・・・なにも考えられなくなってしまいます。聞きたいことはたくさんあったはずなのに。

そんな様子を察してくれたのか、「挙式」という手を上げる練習をみてあげる、と言ってくださいました。実は出来れば触りたくない・・・そんな思いでいたのを見抜かれたのか!と気持ちが揺れまくりです。

もう、最近の研究課題である無心どころではありません(笑)
じかに手をとってもらい、お店の人に外でやってくれ、といわれるまでのおよそ3分、この感触はきっとこの先の稽古に生きてくると思います。とにかく何を得たか、というよりも、やはり出来なかったか・・・という事を実感するには十分すぎる時間でした。

2日たち、ようやく出来ない自分をしっかりと見つめなおすところまで回復したわけですから。(回復するきっかけになったのはやはり稽古であり、話を聞いてくれる仲間がいるからです。ありがとう!)

とにかく落ち込んでしまった土曜日ですが、それを引きずるわけにはいけません。せっかく甲野先生が日曜日の鈴鹿の講座に同行を許してくれたのですから。この日曜日は講座までの時間が十分にあったことから、普段とはまた違った雰囲気でお話しを聞くことが出来ました。特に「違和感」という事が上達のためには必要なんだ、という事を改めて感じられたのは助かりました。土曜日のショックも大きな「違和感」です。この大きな違和感が形にならないはずがありません。

この2日間、甲野先生と手を合わせたのは白子駅での電車を待つまでの15分程度です。その15分の間にもご自身の感覚に浸り、技を変え続ける姿勢と感覚はどんな言葉を頂くよりも大きな稽古になりました。腹へと向かっていく力、その力は今の私にはありませんが、技を受けたことで、その力を求めずにはいられません。ここでも大きな宿題を頂いてしまいました。

また11月に福井の稽古会にあわせて名古屋へ来ていただく約束までさせて頂き、ありがたく思っています。そちらはまたホームページやメールで案内をさせて頂きますのでお待ちください。

|

9/25 アクテノンでの気づき

シルバーウィークで稽古は一休み。
今日久しぶりの稽古をアクテノンで行いました。
アクテノンの稽古には珍しく体験の方が2名ほどお見えになりましたが、予定ではあと3名見えるはずでした。
重なるときには重なるものです・・・。

それでもアクテノンはアクテノン。
安易になにかをするための動きの手順を伝えることはやめました。
つい、簡単なコツを教えたくなりますが、それでは大きく変われない、なにを変えていけばいいのかを探すためにアクテノンの稽古はあると思っています。何度も不思議な顔をされ、その度にココロが揺れたりもしましたが、そこはぐっと抑えて・・・手探りを楽しむ事を伝えたつもりです。

体験の方が帰られてからはいつも以上に突拍子もない研究が進み、外の人が見れば何の練習をしているのだかおそらくわからないでしょう。でも、この自由な稽古から今まで気づく事もなかった発想へとつながるのです。

ちなみに今日の稽古は私が削った板の上にたまたまアクテノンの入り口の前で拾ったどんぐりを置いて、そのどんぐりをこれまた私が削った箸でつかむ、という事を私ではない人たちが熱心に取り組んでいました(笑)

つるつるのどんぐりに、つるつるの箸、まさか摘めないだろう・・・というのもそこに「使い方」が見つかると出来るようになるもので、取り組んでいた二人はしっかりとものにしていましたから・・・置いていかれてしまいました。

私も負けずに、1歩で3歩の歩き方から1つ大きな発見がありました。
この歩き方をするときには腰を落としたほうがより早く歩けるのですが、このシルバーウィークに作った棒のお陰か、腰の辺りに1つ基準になるものが生まれていました。その基準を意識して、それこそしりもちをつくようにすると、より速く下半身が前へと滑り込みます。相手との間に生まれたカベに対してスッともぐりこむことができるようになりました。

その感覚は「斬る」というコトバが似合います。
これまで私の動きには「斬る」感覚はありませんでした。どちらかといえば重さと強さばかりでした。それが腰が滑り込むこの動きは「斬れる」んです。ちょっとは速くなったのかな?そうであればうれしいですが・・・明日からの変化に期待します。

明日といえばいよいよ甲野先生を招いての名古屋稽古会。
満席になってしまい、お断りもしなくてはいけませんでした。
ぜひまた年内に開催できるようにお願いしておきます。

|

「板」と「棒」と「なにげなく」のまとめ

最近は「板」と「棒」を使った稽古をしています。
キーワードは何かといえばやはり「無心」という事になるんだろうと思います。
すこしまとめをしておこうと思いますね。

以前、甲野先生も言われていましたが「人がふと、なにげなく」する動きを再現したいわけです、意識的に。
「意識」をした時点でそれはもう「ふと」でも「なにげなく」でもありません。
そういうココロの動きはちゃんと受けをとってくれる人にはわかるはずです。
自分が「なにげなく」を言い張ってもメリットはありませんから、自分の弱さをしっかりと受け止めて稽古しましょうね。

さて、心の動きはこれまで日々の生活の中で何度も経験してきたはずです。
例えば、好きな人、好きな食べ物、好きな遊びだったり、逆に嫌いな人、ストレスのたまる仕事、怪我や病気もココロをうごかします。
この時、自分のココロの動きを意識で逆にしようと思っても、痛みは倍増するし、好きな人嫌いな人には余計気にしてしまってギクシャクしてしまった事ってありませんか?

この時、意識してしまったこと以上の事に気持ちが向かえば自然と意識していたものに囚われることがなくなります。当たり前ですが。
この当たり前の事を意識して行うことが難しい「と思っている」訳です。

どんなにケガが痛くても、目の前で火事があったり、車に惹かれそうになったりすれば「驚き」の方へと気持ちは向かいます。この時、痛みは意識できなくなっています。

好きな人からの電話であっても、目の前で火事がおきそうであれば、電話どころではありません。

つまり、大きな興味をもてる「なにか」を意識できるかにかかっているんです。
ここで「板」と「棒」の登場です。
相手に手を抑えられていると、どうしてもその手を意識してしまいます。自分を攻撃してきていますから当たり前ですね。この時、意識しない、といって横を向いていれば倒されてしまうという矛盾も武術にはあります。

この時、反対の側の手や足の下に板や棒を置いて触れておくと、気持ちが自然とそちらに向かうのです。
カラダが「なんだろう?」と「無意識に」探っていきます。この時、同じような板だったり同じ太さのマジックなどでは全く興味がわかないですから、やはりこの形や手触りでないとダメかもしれません。

よく分からない形、手触り、木だという事は分かっていても、なんだろうという疑問が生まれているのです。すると、抑えられているところの意識が薄れていくんですね。

目付け、目の使い方が大事といわれます。相手を恐れて、一点を見るのではなく、一点を集中するようで、しかも全体を把握するような目の使い方。遠くの山を見るような・・・とも言われますが、それをカラダの中の「無意識」でやってきるようなものかもしれません。

稽古のいいところは、何度も繰り返して感覚を確かめられるところです。
実践の場である生活の中でだけでは、どうしても気持ちに振り回されて、気づけません。
でも稽古は分かるまで、実験を繰り返すように研究することが出来るのです。
疑問を持ったらそのまま私にぶつけてください、一緒に解決していきましょうね。

※お知らせ

9/26の甲野先生の講座に参加される方には懇親会の案内を送付しました。

月曜までにお返事をいただければうれしいです。

ちゃんととどいてますか?

|

9/18 栄中日文化センター、熱田の森文化センター

第3金曜日は栄の中日文化センターと名鉄、熱田の森文化センターのダブルヘッダー。
2講座あるときは前の講座に引張られがちになり、困ります。

・・・というのは、先の講座で手ごたえが良かった事をどうしてもそのまま伝えてしまうから。
でもこれはアタマで良かれと思ったことだと思います。
そもそも手ごたえとして残ったのは、そこにいたメンバーと私の話と動きがピタリとあったからこそ、「理解」に拡がったわけです。その喜びについ、甘えてしまうと流れに乗れずに苦労することが多いような気がします。

今日の講座は体験会でもありましたが、時間の半分はS君に任せ、意識的に流れを作ることをやめてみました。
結果は・・・わかりません。
ただ、自分でもなにを伝えたのか分からない、というぐらいでないとダメな気がします。

ちょうど今の稽古が「板」と「棒」をどう考えるか、という事ですから、自然と自分に向かうはずです。
本当に板に乗っただけ、棒を触っているだけでカラダが変わるのか?
アタマで考えると、それはただの暗示ではないか?という疑問も出てきます。

しかしそれはこう考えてはどうでしょう?
すでに自分の中には「自分にはできない」という暗示があるかもしれません。
その暗示のおかげで、どうしても力が入ってしまうわけです。
でも、消しゴムやペンを持つのに、がんばる人はいませんよね。
板に乗ったり、棒を持つと、無意識と意識が板や棒に向かいます。結果として抑えられている部分にまで気がまわらないと言う事です。

この現象が暗示であっても構わなくないですか?
そもそもの暗示を壊してくれるわけです。これでゴールではありません。
今の自分から少しだけ本当の自分に近づいているかもしれないなぁ・・・
そういう時にこそ喜びがあります。

|

9/17 知立カルチャーセンター

木曜日は知立カルチャーセンターにて講座。
最近ようやく男性の方が参加されるようになりました。
非力さを実感している女性にこそ・・・とは思うものの、やはり女性ばかりではやりにくかったりします。(照れ屋なもんですから^^;)
思い切った動きもなかなか見せれないのもどうかなぁ、と思っていたので助かりました。

実は今日の稽古、新しい「工夫」をもって出かけました。
最近の日記に良く出てくる「板」ですが、少しずつ仮説が立てられるようになってきました。
形にこだわらなくても「働き」が消えないような構造があればいいのではないか・・・と考え、まるっきり違うものを作ってみました。

「板」の次は「棒」です。
大きさは・・・刀の柄を二回りほど小さくしたぐらいかな?
思いついてすぐに工作し始めたので、材料は家に余っていたものを使いました。
つまり、計画性は全くなしです!

角材を削りだして、円柱のように彫っていきます。
この時、とにかく手の平の感触を大事にしながら、気になるところをどんどん削っていきました。
働きの保証もないものを作るのはなんだか変な気分です。
ただ、この労力が無駄になったら・・・というよりもやりたい事を今やれる喜びの方が大きかったかな。

出来上がった「棒」ですが、自分で作ったわけですから愛着があるのは当然ですが、触っていて気持ちいいんですね。「板」がお寺の廊下だとすると、これは・・・使い慣れた木刀のようなものかなぁ。

あとはこれに「働き」までちゃんと封じ込まれていればいいわけです。

結果から言えば、予想以上にいい!
例えばこの棒を持ってカラダをねじって見たり、前屈をしてみると、カラダが柔らかくなっていたりして不思議です^^
柾目返しの時に反対側の手で棒を握っていると抑えられている事に囚われず、「自然」に手が出て行く感じがします。ただ、疑いながら効果を調べるには人数が足りません。明日は大所帯の栄の講座がありますから、そこで試してこようと思います。

こうご期待!

※お知らせ※
9/26の甲野先生を招いての名古屋講座ですが、残り10名ほどになりました。最終週は予約も重なり合うかも知れません。考え中の方はお早めに。
http://www.karadalab.com/modules/eguide/event.php?eid=139

なお、稽古の後、懇親会を行える事となりました。
申し込まれた方には近々案内を出させていただきます。よろしくお願いします。

|

9/16 豊橋中日文化センター

毎月第3水曜日はとよはしの中日文化センターでの講座。
今日も例の「板」を持って行きました。

私の稽古というのは仮説を作って、それを壊すための稽古です。
カラダの使い方によって生まれてくる働き、主には強さなんだけど、なぜそこに強さや優しさがでるんだろうかと考えていきます。そして今ある強さを崩すにはどうしたらいいのかと考えています。

甲野先生がそういう姿勢だったからですが、とにかく稽古の中には遠慮はいりません。もちろん「研究」のための遠慮ですが・・・。お互いがより動きを高めるために最善を尽くして研究するのは企業が新しい商品を徹底的に開発している姿勢に似ています。決して売れそうだからと安易に販売に走るのとは違います(笑)

・・・で、「板」の話なのですが、あまり説明をせずにとにかく試してもらう事にしているんです。なぜか、といえば私自身なぜ乗るだけで動きがよくなるのか分からないから。私も不思議、乗っている人も不思議、その不思議を外から眺めているのが楽しいからです。

今日は板への食いつきが良かったせいか、新しい使い方まで見つかりました^^
今一番きつい稽古といえば、片手を両手で床へと力いっぱい押し付けてもらい、それを上へと上げる稽古です。相手の押し付けてくる力に「つい」反応してしまうのですね。

気にしないぞ!と思っても、カラダは無意識に抵抗します。その抵抗は「力み」として表れてきますから、どんなに頭が固くても認めざるをえません。この辺りが頭や心だけで自分を探す作業とは違うところです。

つい相手を意識してしまうわけですが、この時、足の下に「板」を置いておきます。すると、なぜか手をあげることができるんです。「上がる」という現象は結果です。「なぜ上がるのか」を考えなくてはいけません。

そしてここからはいつものように「仮説」です。
足の下に置いた板は正体不明の感触です。もちろんただの板ですから感触としては普通です。ただ、手彫りというランダムなカーブのおかげで無意識の興味をひくようになっているのではないか・・・。自分の中にある意識と無意識の大きさを比べれば無意識の部分の方がはるかに大きいはずです。その大きなものが全部足に向かっていきます。すると余分なエネルギーがアタマに上らずに、抑えられている手に対して過分に考えすぎる事がないのでしょう。意識する力が少ない分、カラダが協力せざるを得ない状況を生んでいるような気がします。

簡単に言えば、教室を掃除してくれる女子がいれば男子は遊ぶ、という話です。

|

9/14 操体法にて

早いもので操体法を学び始めて2年がたちます。
この2年で操体法から学んだものは何だろう?

技術も学びましたが、実際に覚えている「手順」だけを使って直せることは多くありません。
・・・多くない、というよりも治ってしまう不思議はあるけど、痛みがなくなることと生きることが楽しくなることはイコールではない事に気づいた事が大きなことです。。

なにも治せなかった頃には治してあげられれば・・・と思っていたけど、今はちょっと違う。
せっかくそこにある「痛み」を自分のものとしてどうすれば感じ取ってもらえるのだろう・・・そんな事を考えています。

痛みの痛さ、というよりも、痛みから生まれる感情に興味が出てきました。
きっかけは最近稽古で遊んでいる「あの板」です。二重曲面で作られているただの板、この板が生む働きが面白い。

ちょうど稽古のテーマが「無心」なのは偶然なのか、必然なのか?
あの板に乗ると、なぜか強く、しっかりするのは試してもらったとおり。

操体法的に板に乗ってカラダを回旋させてみました。
これが、よく廻るのです。
何も無いところで廻してみると、引っかかるところが出てきますが、それが出てきません。
痛みも減っている、という事になります。

なぜか・・・?
ここからは仮説というより、私の解釈。
あの板は人が作ったものです。しかも手で。一彫り一彫り丁寧に。
その板に足の裏を載せると、足の裏の緊張が抜けます。なんだか「探っている」感じです。

足の裏が「ここどこだ?」と情報を探っているんでしょう。
そこに自分の無意識が集まり、結果としてアタマが色々と考える余裕がなくなるのではないか、そう考えました。

この板を触っていて思ったことがあります。
そういえば今は全部「人工」のものだ!という事。
床も地面も、自然なものはほとんどありません。
土の地面であっても、私達は靴でそこを歩きます。

この板の手触りはある場所の床に似ている気がします。
ある場所とは、「お寺」です(確かめてはいませんが・・・)。
長い年月を多くの人たちが集う中で自然と生まれたであろう、床のくぼみ。
この柔らかいカーブと二重曲面が似ているような気がしてきました。

自分のカラダが無意識に受け取っているもの、それを意識できた時に生きている事にありがとうと言いたくなります。

|

9/13 月一定例稽古

日曜日は名古屋で月一の定例稽古。文化センター枠とは違い、好きなだけ時間を取れるので、求めている本来の稽古が「伝えられ」ます。どうしても「講座」や「講演」はその時自分が思っている事、感じている事を伝えるだけで時間が来てしまいます。「自分から」稽古するところにも楽しさがあるのですが、目の前に「先生」がいると遠慮しちゃうんでしょうね、きっと。

この月一稽古はその「自由」を探すために行っているようなものです。自分がやりたいことって何だろう・・・それに気づくための時間だと思っています。講座のように親切ではないし、丁寧でもありません。ただ、感じたこと、思ったことは気兼ねなく聞ける環境だけは整えているつもりです。

実はこの月一の稽古会では「分かった」という答えは渡したくないと思っています。答えにしてしまうと、そこに居ついてしまうから。答えではなく、よくわかんないけど、確かそう・・・という方向が「次」へと向かわせてくれます。答えが無いからこそ、次に向かうための勢いをなくさずに求め続けていけるんですね。

あとちょっとで分かりそうなんだけどなぁ・・・という時の楽しさが一番元気がでてきます。

それにしても昨日の稽古ではセールスマンがモノを売るための仕組みとして話をずっとしていたのは我ながら驚きました。もちろんカラダの動きを通してです。考えていたわけでもないのに、話し始めたら、どんどん「分かって」いくんですよね。話をしているときには自分自身では自分の言葉を信じているんです、完全に。でも絶対この理論が「正しい」と思い込むとダメな事も知っています。だからこそ、稽古を通じて何をするかといえば、自分の仮説を壊す「なにか」を見つけるわけです。

自分の正しさを補うのではなく、自分の隙を見つけて補っていくのが稽古ですから。

|

9/12 浜松中日文化センター

久しぶりのようでも、久しぶりでない昨日の浜松中日文化センター。前回の参加者が少なかったせいなのかな?

1回1回の講座で行う新しい術理をマスターしなければ先に進めないわけではないので、気軽に休めるようになってしまうというのもよくないですが、そもそも自分のカラダに「既にある」ものを見つけていく作業ですから、きっと講座で無い日にもカラダのことを考えてくれているだろう・・・と思うようにします。

浜松の講座には家族で参加してくれている人がいます。中1の子と小4のお子さん。彼らを前にして「無心」の話をしていると、彼らの場合は無心の方が多いんですね。講座中、ずっと動いているし。出来ないことがあってもそれに「居着かされずに」すぐにココロを切り替えて別の楽しいこと、興味のある事に向かっていけます。

なにが大切かって、こういう子供の姿勢にこそ学ぶべきものがあると思っているのです。我々大人はすぐに止まってしまう。切り替えて動きを続けていけばもしかしたら新しい解法が見つかるのかもしれないのに、目の前の問題をじっとみて考えてしまいます。子供達は止まりません。そこにあるのは何か・・・アタマとカラダの使い方の問題でしょう。
今日は定例稽古です。
7時間ぐらい動き続けるのかな?とにかく新しいことが生まれてきやすい環境を作ることを一番に考えていきます!

|

9/11 アクテノン

今日はアクテノンでの稽古。
いつもと変わらず2週間ぶりの稽古のはずなのに、なんだかずいぶんと間が空いてしまった気がします。いつも以上にもやもやを抱えていたせいなのかもしれません。

ある時期からアクテノンでは「動く稽古」はしなくてもいい、と思ってホームページでの告知は変えてあります。とにかく自分とはなんだろう・・・という事をカラダを通して感じてみたい、そんな思いでいつも向かっています。

その甲斐あってか、これまでこのアクテノンでの成果は大きなものとなっています。ただ、その成果を使いきれない、自分がいることに気づいてしまったんですね・・・。

ただ、動きを求めていたときには動くだけでよかったし、目標とする技もありました。それが上達?する事で、形のある結果を求めるよりも、自分の内面に興味が向くようになったのです。向き合ってみれば色々と気づくこともあるようで、これまで振り回されていた事に対して自分なりの答えをもてるようになってきました。

自分自身で「成長」を感じているはずなのに、それを「発揮」するものが無い、そんな感じです。作品としてモノであったり、演奏だったりがあればどんなに楽しいだろうか・・・そんな事を求めていたりする自分がいて驚いています。これまでそんな事を考えたことも無かったですから。

誰かと競い合うことも、誰かに自分の作ったもの、考えたものを見てもらいたい、と思った事がないんです。自信のなさ、といえばそうかもしれません。それが「自分」という存在を少しずつ認めだして、その「自分」を全てなにかにぶつけたらどんな形になるんだろう、そう思い始めています。

もちろん、今の活動は自分の全てをぶつけているつもりです。ただ、そこに目標というべきゴールが曖昧なんですね。脳の働きの1つとして、自分が望んだものを脳は自動的に実現する方向へと向かう、と言われています。これまでアタマはなるべく働かさないようにしてきました。そろそろアタマを考えるときがやってきたのかなぁ・・・。

※お知らせ

9/26の甲野先生の講座ですが、徐々に定員が埋まりつつあります。

現在のところ残り10名ほどです。

申し込みはこちらから

|

鳴海と桃花台の中日文化センター

鳴海の中日文化センターには面白い人材がたくさんいます。
ある身体操法系の指導されている方や、さまざまなセミナーに出られて多くの経験をもたれている治療家、そして色々な武道を渡り歩いてこられた80に近い大先輩などです。

たまたま男性人とはお話をよく聞くことが出来たのでその「キャリア」を聞くことが出来ましたが、女性陣もまた面白い。おおよそ武道・武術とは縁の無い方が集まっている。そこで、稽古が成り立たないかといえば、不思議と同じ土俵で稽古が出来ているのです。

女性の方たちも特に武道やメソッドを学んできたわけではないけれども、今まで生きてきた中で作ってきた「自分」があります。その「自分らしさ」が稽古では出てくるんですよね。

昨日の桃花台でもはじめての方が数名おられました。
カラダラボの稽古ではほとんど自己紹介的な時間はありません。名前ぐらいは聞くこともありますが、すぐに忘れてしまうんですよね。

それはなぜか・・・カラダを通して稽古をすると、自分の持っている肩書き以上に生の情報が共有できるからです。柾目返しで手をつかむ。そのときの反応は一人一人違います。がんばる人、元気が無い人、負けず嫌いな人、興味を持って集中できる人・・・ただ手をつかむという単純な動きの中に「その人」が出てきます。

自然と自分に合うのか会わないのかが「カラダ」で分かってきます。嫌いだから跳ね除ける、のではなく、合わない所をぶつかるところと見立てて、それをどうなじませていくのかが稽古です。もともと武術は人と人とが戦うところからスタートしていますからね。

具体的な形に惑わされずに、奥にあるなにかを見ることが出来たらあらゆる生活の場面で生きていきます。介護に役立つ、スポーツに応用できる、誰かを投げられる、というだけでなく、自分が精一杯生きることの楽しさをどう伝えたらいいのか、そのために必要なものはなにかを考えています。

ぼんやりと頭に浮かぶ事がありますが、それを実行するには「勢い」が「まだ」たりません。出来ない事ってないだろうなぁ、と思っています。稽古を通して自分の勢いを伸ばしていく、その勢いが自分の夢や理想という目標に近づいていく手がかりです。

※ただいまのお知らせ※

名古屋の月一稽古 9/13(日)

甲野先生の名古屋稽古会 9/26(土)

共にはじめての方の参加はOKです。

10月より、一宮と瀬戸の中日文化センターで新規講座を開講します。

|

大垣イオン、四日市中日文化センター

無心になる工夫を口にし始めて、どれぐらい経つんだろう?
これまで一足で三足分伸びていく、という説明で行ってきました。
その説明の中で、今後の課題は1つを3つだけで終わらせずに、どう100、1000に伸ばしていけるかですね、と話してきました。

そろそろ1つが3つになるレベルでは納得できなくなってきたのか、今の自分の動きに不満を感じるようになってきました。もしかしたらこの不満は不安なのかもしれません。自分の動きが今度どう変わっていくのかが見えなくなってくる時です。

仮説として色々と考え、工夫する事はできますが、アタマで考えたものよりも偶然というか、思いもよらない中で気づいてきたものの方がレベルが高いんですよね。焦らず待つしかない・・・とわかっていてもココロにもカラダにもそれは出てきてしまいます。

カラダに出たそれは勢いで抑えて、ココロに生まれたそれは見方を変える事が「答え」だと知っています。でもそれができないほど大きい場合もあります。そんな時、仲間が欲しくなるんです。自分には無いものを持っているからこそ、頭で考える以上のものが見つかるんでしょうね。

頼るばかりの自分、どうしたらそれを返していけるのだろう。やっぱり言葉で、動きで、変化を示していくしかないのかな。生かされている、という思いの中で一生懸命伝えて行こうと強く思いました。

|

9/4 栄中日文化センター

相変わらず、ココロについての研究が続いています。
「ココロ」と一口に言っても、それは形の無いもの・・・ただ、その存在については皆認めています。
では、それを追い求めて研究がどんどんと進んでいるかというと、全然です。
いくら言葉を通して学んでも、実際にココロを揺らされる場面に立てば、それはカラダに現れてきます。
カラダの変化をしっかりと見ていくところに答えはあるようです。

無心になる、というのも本を開けばあちらこちらに出てきます。
では、どんなときに無心になれるのか、どうすれば無心になれるのか・・・
普段の生活の中でも「無心」になっている瞬間ってあるんだなぁ・・・そう認めるところから始めたらどうでしょう?
自分の生活の中にあるものなら、認めるしかありません。
まさか全部意識をして動いている人はいませんよね。
「なにげない」動きの集まりが生活です。特に子供達はそうです。
悩みの無いなかで楽しい事をやれているときには無心で遊びまわっています。
それがゲームでも、マンガでも、スポーツでも・・・。

不思議なものを不思議として手の届かないところにおいてしまうよりも、今自分に出来ることを探して、カラダで確かめていくのがカラダラボ流です。不思議なものを自分のものだけにして、どうだ・・・と威張る気には到底なれません^^

疑問があればそれを全部ぶつけて、発見があれば共有する。その繰り返しの中で一人では見つからないものが見えてくる、そう思います。

※ただいまのお知らせ※

名古屋の月一稽古 9/13(日)

甲野先生の名古屋稽古会 9/26(土)

共にはじめての方の参加はOKです。

10月より、一宮と瀬戸の中日文化センターで新規講座を開講します。

|

9/3 知立カルチャーセンター

今日は知立カルチャーセンターでの稽古。
実は昨日、珍しくワインを飲んだ。飲んだ、と言っても、グラスで2杯ぐらい。もともとお酒は飲めない方ですが、さらに弱くがなっていたのか、お昼頃まで体が重くて鈍い感じが残っていました。

でももしかしたら、「朝は何もない」という「環境」がそうさせたのかもしれません。「講座」という「環境」がココロに力をくれたのかも・・・。

数ヶ月前の話を覚えているでしょうか?
カラダは時間でココロは空間に近いのかもしれない、という事。時間をカラダをよく動かすことはもちろん大切。でも環境の力はもっと大きいかもしれないというお話でした。

自分が望むべき場所へどう向かうのかを考えたときに、自分だけの力でいけるほど、甘くはありません。自分の周りの空間、つまり環境をどう捉えるかでプラスにもマイナスにも働くのです。

とまぁ、スタート前から今日は何をしようかなぁ・・・と出かけたのですが、この講座には珍しく男性がされていました。聞けば合気道を数年されているだけあって、感度がいいんですね。ついつい話を拡げてしまいましたが、楽しんでくれたようで何よりでした。

途中、漢字の記憶の仕方でもお話しましたが、わかったと思った「後」が大切なようです。記憶として定着させるための「4回」が。自分の中でおもしろい、と感じた後にそれを定着させないと、せっかく覚えた感覚がなくなってしまうらしいのです。「記憶」法というのはこの辺りがうまく出来ているんですね。

そう考えると、毎日何らかの稽古が出来ている人が伸びていくのは当たり前かもしれません。自分の稽古に置き換えてみるとどうですか?うまく定着させる事ができていますでしょうか?

※ただいまのお知らせ※

名古屋の月一稽古 9/13(日)

甲野先生の名古屋稽古会 9/26(土)

共にはじめての方の参加はOKです。

|

9/1 大垣中日文化センター

今日は大垣の中日文化センターでの講座。
ぎりぎりまで今月の小冊子に向かっていただけに、ココロに色々と浮かべながらの講座となりました。

自分を認める事が辛かった。
だからこそ技が形になってくるまでに時間がかかった。
でもこの時間があったからこそ、今の自分があると思う。
誰かと比べるとまだその辛さが出てくる。なぜ、自分はこんなに弱いんだろうって。

そんな不安もちゃんとカラダに現れてくるから自分を見失わなくて済む。
応援してくれる人もいるから、一生懸命にもなれる。
ありがとうという言葉しか出てこない。

|

8/28 アクテノン

ほぼ一月ぶりのアクテノン。
アクテノンの稽古はココロの稽古です。とは言っても、全然「真面目」ではありません。自分の中のココロにどう向き合えばいいのか、それを求めて「私は」稽古しているつもりです。皆はわかりませんが^^

とにかく数人での「研究稽古」がいいのです。申し込みページには「アクテノンでの稽古はお勧めしません。」とか書いてありますが、自分という存在をカラダを通して実感したい人には「お勧め」します。

私にとっての稽古というのは分かっていることを反復するのではなく、常に新しい視点で自分に向き合えるように捜し求めることです。脳の働き1つに対して、どうカラダをたくさん動かしていくのか、そのきっかけを「歩法」に見つけました。結果で見ればできるようになった技、より柔らかく、優しくなった技とその効果は絶大ですが、それ以上に今までの考え方から大きく飛び出すことができたように思っています。

これまでは脳の動きが1つ、そしてカラダが1つです。その1つを消そうとする工夫が気配を消すこと。そしてその1つの威力を高めていこうと工夫したものが骨を意識するような工夫でした。でも、1つは1つです。今稽古している動きは脳の動きは1つでも、どうすれば3つ、4つ・・・100・・・1000と大きく伸ばしていけるかを考えるようになったのです。考えずに動く、無心で動くということですね。

「無心」という言葉には力があるし、普通にはたどり着けないように思いがちです。でも違う、そう思います。今実感できる無心状態が0.01秒なのかもしれませんが、ゼロではないことが大切なのです。だんだんと難しくよく分からない方へと向かってしまいました(笑)。しかし、これまでどおり、変化を恐れず、どんどんと掘り下げて行きたいと思っています^^

|

8/26 鳴海・岡崎中日文化センター

鳴海・岡崎中日文化センター

鳴海・岡崎とも1ヶ月ぶりの稽古。
今日のテーマも足運びです。ただ、単純に歩く、というよりもより「雀足」に近くなってきました。

当初、歩幅が広く使えることに注目していた歩き方ですが、大切なのは長さではなく、意識、意思だということが分かったからです。一足で三足分歩くことの出来るこの歩法、最初の一足に意識が出るのは仕方ありません。その後二足が進んでいるときの「考えていない」感覚が大切です。

雀足として行うというのは、その場で足踏みが出来るほど「小さく」動くということです。動きを小さくしても働きを失わないように出来れば、技への応用が拡がります。

抱き起こすとき、添え立ち、浮き取りをするときにもこの雀足を使うと、相手の緊張が取れ、スムーズに行えます。・・・いや、相手のというよりも自分の中の緊張が無いからこそ、相手にも緊張が生まれないかもしれません。

この緊張に注目すれば、人と会って何かをするときに生まれる緊張感(それが好きな人でも苦手な人でも・・・)を感じたときに、無意識に生まれる緊張感を解くきっかけになるかもしれません。

今の時代、人間関係で悩む人は多いですから、ヒントになりそうです。

|

8/25 豊田中日文化センター

豊田中日文化センター

豊田の講座はなぜか人数が多い。ありがたい事ではあるものの、いつも「なにを」伝えればいいのか、という事に苦労をします。ただ、不思議とこれまで具体的なものに居着かされずに来れているような気がしています。なんでかな?

今日の講座は勢いをつなげる歩き方を「主に」しての稽古でした。参加者の疑問にあわせて、こだわることなく、カラダを楽しめるように・・・先入観が「ある」事に気づけるように進めてきました。なぜ、足を飛ばすだけでこれほど違ってくるのか。一応解説をして理論をつくりますが、全部「仮説」です。この「仮説」を壊すために研究稽古をしているようなものです。

仮説を壊す現象を「見ない」のではなく、あえて「探す」事で、捨てる覚悟が生まれてきます。

それにしても今稽古している忍者のような走り方、これを小さく細かくすると、以前甲野先生が行われていた「雀足」という使い方にとても似ています。もしかしたら関連があるかもしれません。

|

8/23 定例稽古

23日の日曜日は月に一度の定例稽古の日。金曜日のショックから浜松の稽古で何とか復帰できましたが、やはり心配がありました。

・・・終わってみれば非常に楽しい3時間。
今回、特にテーマを絞って、稽古をしたわけでもなく、ただ、自分のカラダを観察することを中心にお話しました。参加者が10名ほどだったのも良かったんだと思います。(いつものように常連さんたちがいて、まかせる事ができましたし^^)

今、自分が興味を持っている技術を「一生懸命」に伝える。それが一番だとは以前にも気づいたはず・・・いつのまにか忘れていたのかなぁ。

ちょっとした心の変化、体の変化で自分を見失ってしまうことがあります。不安を持っていたとしても、過ぎてしまえば、それは糧となっているから不思議ですね。「居」なおらず、「開き」なおる事で、行動に移し、その行動から生まれた変化をしっかりと見つめて、次につなげていく、そんな連続なのかもしれない。

|

自信

自信をつけるためには自分を知らないといけない。

自分から目を逸らさずにしっかりと見なくてはいけない。

この時、本当に見てみる。しっかりと。

すると少し強くなっている。

じゃあ自分のカラダの音を聞いてみよう。

また強くなった。

鼻は?口は?感触は?

自信の意味が少し分かった。

|

ココロの教育はできない

ココロはどこにあるのか?

ずっと考えている。

もしかしたら自分の中にはないのかもしれない。

自分のカラダの居つきがなくなった時、見えてくるものそれがココロかもしれない。

ココロを磨く。

それを求めるためにはカラダを磨かなくては。

|

ある国の少年の眼

目なのか、眼なのか・・・

眼には人との勢いがでてくる。

今日、テレビの中に、ものすごい眼をした子供を見た。

果たして自分にそんな勢いの眼が出せるのだろうか・・・。

あらゆる理論が飛んでいく力がまだまだあるに違いない。

|

カラダの形

カラダの形は一つじゃない。

いろんなカラダがある。
一つしかないように「みえる」だけ。「思える」だけ。

期待に胸を膨らませているときのざわざわ感。
この時のカラダの形はどんな形だろう?

|

真夏の稽古

昨日の名古屋の気温はおよそ35度。
いよいよ夏がやってきました。
立っているだけで汗がガンガン出てきます。

苦しい環境を「嫌」なものと考えれば
次から次へと甘い誘惑がやってきます。
その苦しい場所からどうすれば逃げられるのか、
そんなことばかり考えてしまいます。

これ、自分の中に生まれた理想と現実との「ギャップ」ですね。
どうも人はそのギャップを「そのまま」にはしておけないみたいです。
ギャップそのものをなくすことは出来ません。
では・・・そのギャップをどうすればいいんでしょうか。

昨日一つ、相談を受けました。
学校とのトラブルなんですが、どうも不満がたまって、
なんとかできないか、という事でした。
ここにも現実と理想のギャップがあったんですね。

話を聞いていると、いくつか「対応策」は出てきます。
でもこの問題に力を貸してしまえば、
それは本当の力に気づかないまま大人にしてしまうことになるかもしれません。
世の中に出て、一人立ちすれば、理不尽と思えるような問題は山ほどあります。
いつまでも誰かに頼れるわけではありませんよね。
ちょっと厳しいかな、と思いつつ、自分で試してみないと・・・と言っておきました。

こういう問題が生活の中で生まれてくればいいのですが、
問題に向き合わないまま、惰性で流れていく生き方もあります。
私はそうでした、とにかく目の前の問題から逃げまくっていました。

そうすると、自分の中には弱い心しかないんだ、と思ってしまうんです。
稽古を通して見えてきたのはギャップに対する身の振り方です。
生活の中では逃げまくっていましたが、稽古では逃げることはできません。

手を上げたい、そんな単純な事もちょっと邪魔をされれば出来なくなってしまいます。
この問題がおきたときにどうするのか・・・
方法は二つです。

一つは技に頼ること。
「正しい」形の中には力があります。
その形に助けてもらい、問題を排除していきます。
ただ、これには弱点があります。どうしても「知っている」形でないと使えないのです。
空想を広げて、応用技として考えなくていけません。

そしてもう一つ。
技に頼るのではなく、「勢い」を増していく方法です。
困った問題に対して諦めずに自分の全身をぶつけていく方法です。
全身全霊、という言葉がありますが、最近はあまり使われなくなりました。
対応策が事細かに作られて、それを追うことが精一杯だからでしょうか?

私が今頼りにしているのは後者、勢いをどう増していくか、という事です。
でも我慢、というわけではありません。
そして心構えという事でもありません。(心構えを作るのは苦手中の苦手です・・・)
動くことで自然と生まれてくる勢いがある、それが頼りになっています。

まずは自分の中にギャップを見つけることが大切だと思っています。
そういう意味では「暑い」夏はもってこいです。
立っているだけで稽古になってしまいますから(笑)

さて、最後にご連絡です。
真夏の名古屋、8月2日は甲野先生を名古屋へお招きして講座を開催いたします。
既に申し込みは始まっておりまして、残り10名ほどの枠しか空いておりません。
興味がある方は下記をご覧ください。
http://www.karadalab.com/modules/eguide/event.php?eid=138

|

カラダが割れる感覚

甲野先生は「カラダを割って使う」と表現してカラダを教えてくれました。

95年のことです。

「割れる」という表現はまったく分かりませんでしたが、自分の中でこんなかんじかなぁ、と思い描きながら稽古を続けてきました。

先日これまでとは違うカラダの感覚に気づきました。カラダが割れるように・・・ではなく、割れている実感があるんです。

「割れる」、という表現と同じように「小魚の群れがいっせいに向きを変える・・・」ということも言われていました。最近「勢い」という事を考えて稽古をしてきましたが、「勢い」の動きは「小魚の一匹」の生きの良さの工夫と言えそうです(笑)。

腕を見ればそこに「一匹」しかいないように「みえます」。これまではそうでした。

でも割れる感覚を持ってからは、腕は多くの小魚が集まって腕の形になっている、そんなように「みえます」。

あまりにも常識とは違う考え方に、怖くなりますが、技の利きを便りに稽古を進められるのが武術のよさです。またアドバイスをよろしくお願いします。

|

人生を変えた一歩

おはようございます。カラダラボの山口です。
暑くなったり、寒くなったり、
エアコンに慣れすぎてしまった我々にとっては
ちょっと厳しい日が続きますね。
カラダのほうは大丈夫でしょうか?

さて、今日お話をしたいのは
「なにから始めればいいのか?」と言うことです。
いろいろな所で仕事をもらうようになり、
一番多い質問はやはりなにから、
なにを始めればいいのか・・・という事ですね。

例えば武術や介護、スポーツなどであれば
それぞれに「技」がありますから、
その練習を通していけば自然と上達をしていくかもしれません。
ただカラダラボでは特定の技法を稽古しているわけではありません。
武術、武道の人もいれば介護の人もいるし、
なにより「自分という人間」をもっと知りたい、感じたい、という人も多いです。

そうなると「なにから?」というのがやはり問題なのだと思います。

ちょっと自分が稽古を始めた頃のことを思い出してみました。
なぜ、自分は続けることができたのか?
なにから始めたのだろう・・・と。

もちろんそれは甲野先生の動きに「触れ」、
直接肌を通して驚きを得ることが出来たからですが、
驚くだけでは「次の一歩」が踏み出せません。
私にとって驚きの次にあった「一歩」はなんだろうと考えてみると、
それは身体を「ねじらない事」だったんですね。

身体をねじらない、というのはいわゆる「ナンバ」です。
「ナンバ」で歩けば「ナンバ歩き」です。
とにかく手がかりになるのは「ねじらない事」しかなかったんです。
それが正しいかどうかを迷ったり、悩んだりするよりも、
「それしかない」という状況でした。

おそらくこれが「答え」です。
何から始めれば良いのか?
その答えはナンバで歩く、という事でしょう。
でも「どうして?」と新たな疑問も出てくるかと思います。
この数日、何から始めれば良いのか、と考え、
納得した答えとして「ナンバ歩き」にたどり着きましたが、
その裏づけとして理由も頭に浮かびます。

なぜナンバ歩きなのか、という理由はまた次回お話しするとして、
行動をし始めた人は「変わるかも」しれません。
そして行動しない人は「変わらない」でしょう。
ただ、私が今ここにいるのは捻じるのをやめたから、
ナンバ歩きを始めたからです。
そして甲野先生ももちろんナンバで動いています。

しばらくナンバ風に歩いてみてください、
強制はしませんが、この決断が人生を変えるかもしれません(笑)
では、また。

甲野先生の名古屋講座、いよいよ今週です。
お待たせしました。
http://www.karadalab.com/modules/piCal/

|

甲野先生の講座に行ってきました!

 甲野先生の講座に行ってきました。
 横浜のカルチャーセンターです。
 60名を超えるぐらいでしょうか、
 会場内には「興味」の気配が満ちていました。
 
 一受講生として甲野先生の話を聞き、
 動きを見るのは久しぶりです。
 もしかしたら10年ぐらい経っているかもしれません。
 集注して、甲野先生の動きをじっと見つめ・・・、
 いや、じっと見つめてから「外し」、
 動きを身体で感じてきました。
 
 時折「外す」感覚があるものの、
 やはり今の自分の身体では
 捕らえきれないらしく、見えません。
 いくつか課題を頂きましたが、
 この種をしっかりと育て上げられるか、
 不安が残ってしまいました。
 
 
 
 しかし、講座終了後、
 ロビーで先生としっかり話をする機会があり、
 自分の中に残っていた不安や疑問をそのままぶつけてみました。
 もう一度、ゆっくり技を受けてみました。
 
 今自分が興味を持っている「ズラス」感覚。
 これは良い感覚も悪い感覚も全部「ダメ」と考えて、
 感じたところから、あえてずらすところからスタートをしています。
 
 ずらしてみることで、「アタマ」が働きすぎずに、
 「カラダ」に動きをゆだねることができるのです。
 結果として気配が出にくい動きになっていきます。
 
 今の自分のレベルは「ズラス前」に「合わせる」必要があります。
 相手と「合う」からこそ、「ズレル」わけです。
 自分のできる限りの動きをしたことによる「自信」が
 相手とつながる感じを持たせてくれるのですが、
 先生を前にしたときにはあわせられません・・・
 
 目はこちらをしっかり見ている、でも気配なのか、意識なのか、
 普通の人には感じる何かがありません。
 ずらされたときには気になる感じでもないんです。
 
 どう言葉にすればいいのか、
 帰りの新幹線でずっと考えていました。
 
 「散っている」、この言葉なら合うかもしれません。
 先生からくる視線が細かく割れて、 目の前に散らばっている感じです。
 その細かなものを感じようとすると、こちらの意識も散っていきます。
 
 普段頼りにしている意識が散ってしまえば当然、
 どこに自分をおいて良いのかわからなくなります。
 それが「崩れ」になっていると考えました。
 
 甲野先生はカラダを割って使う、
 という言葉でご自身のカラダを表現されていました。
 散ったときに感じた感覚は意識が割れる感じです。
 
 どこにでも行きそうで、居着かない。
 相手とやわらかく一つになる感じです。
 
 とにかく多くのことを考え、気づかせてさせてもらいました。
 ちょっと前の自分ならばきっとここまでは「見えなかった」はずです。
 おそらく自分の中でなにかを見て、
 感じる精度が少し細かくなったからですね。
 
 妄想といわれてもかまいません。
 甲野先生に出会う前の自分は妄想すら出来ませんでしたから。
 自分の夢、自分のやりたいことって何だろう・・・
 それも描けなかった自分が嫌いでした。
 どうすればいいのか、その答えは誰かに教えてもらうものではなく、
 自分の心と身体が感じていることに気づいてあげることだったようです。
 
 
 追伸
 2月22日の甲野先生の名古屋講座は満席となりました。
 ただいまはキャンセル待ちになります。
 http://www.karadalab.com/modules/eguide/event.php?eid=124
 ご了承ください。

|

針の穴に糸を通す話

 最近の稽古に出られた方は
 「針の穴に糸を通す」喩えを聞いたと思います。
 よく「目が見えにくくなって・・・」、
 糸が通りにくくなるという事を聞きます。
 
 本当か?
 ちょっと考えてみてください。
 目がすごく良い、今、
 簡単に針に糸を通す事ができるのでしょうか?
 
 私は眼鏡ですが、裸眼で大丈夫な若者に
 針と糸を渡して楽々、
 自然に通していけるのでしょうか?
 
 針に糸が通らない理由は「目」だけではなく、
 「手」が使えない、細かい動きができない、
 という事も考えられないですか?
 というお話でした。
 
 先週、奥さんの実家に行って来ました。
 古い家で、使ってこそいませんがかまどがあり、
 お風呂はいまだに薪も併用との事。
 
 薪を割りながら考えていました。
 こんな生活が「日常」であったら・・・
 手の働きが今の私とは比べ物にならないはず、だと。
 
 子どもの頃、私の家もお風呂は薪で沸かしていました。
 お婆さんが「自然」に火に向かい、
 薪をくべるのです。
 どう、薪を組むのか、どこに火を入れるのか、
 火を落とさないように、薪を追加していく。
 
 それを行う為の手の精度って、どれぐらいなんだろう?
 今はスイッチ一つで火もつくし、お湯も出ます。
 温度まで管理をしてくれるし、危なくも無い。
 手の精度は必要がなくなりました。
 
 ちょっと長くなりましたが、
 最近の稽古のテーマは「センチからミリへ」です。
 大雑把にしか動けなかったのが、
 細かく動けるようになるんだ、という事を
 「認める」事が大切だと思っています。
 
 人を目の前にした時に、見えてくる「隙」、
 これまでは大きな穴しか見えませんでした。
 でもどうやら「穴だらけ」のようなのです。
 それも一番入れやすい隙は、
 一番自信のあるところの「1ミリ横」です。
 
 針の穴に糸を通すような精度があれば、
 まず間違いなく相手は崩れていきます。
 
 私のカラダにはその「精度」はありません。
 生まれた時から「便利」な道具ばかりでしたから・・・
 でも「不便」な頃を知っている人たちには
 もうカラダに染み付いているはずです。
 
 後は思い出すだけ!
 ぜひその感覚を教えてください。

|

見えなかったもの

 昨日の桃花台の稽古で
 今年一年の講座が始まりました。
 術理の中心は昨年末から「手のひら」に移っています。
 
 1ヶ月手のひらを見てきて
 ココロの変化にも敏感になってきてきました。
 この「感覚」は新しく生まれたものではなく、
 これまでは気にならなかった、見つからなかったものです。
 
 これは物理の世界でより小さなものが見つかっていく事に近いのかも。
 物体を構成する最小単位はなんだろう・・・と求め続けています。
 物体を観察する道具が進化するにしたがって、
 それまで見えなかった世界の事がわかるようになります。
 でもそれは新しいものではなく、見えなかったものです。
 
 見えないものを見れる様になった時に、
 今まで見えなかった「繋がり」も見えてくるかもしれません。
 カラダとココロとアタマ、
 それぞれがどうつながり合っているのか、
 その答えに繋がるものが見えてくれば良いなぁ。

| | コメント (5)

あけましておめでとうございます

 あけましておめでとうございます。
 
 新しい年、2009年が始まりました。
 年がかわる事でなんだか自分のココロの中にも変わるものが生まれているような気がしませんか?
 こういう時ってチャンスなんです。
 
 自分が変わりたい、と思った時に「動いて」みる。
 つまりカラダを動かすという事。
 面倒な事、不安な事、怖い事もたくさんありますが、
 ちっちゃい一歩を自分の力でやってみる事が良いように思えます。
 
 自分のカラダが「動かない」ものだと認めたとき、
 少しだけ安心感を得たんですね。
 
 弱い自分をそのまま認めたことが今につながっています。
 最初の一歩はとても不安でした。
 
 先が見えない不安。
 でもこの不安があるからこそ、楽しさもくるし、自分に向き合う事が出来ます。
 
 昨年の活動の中でたくさんの人たちと出会え、
 そのおかげで自分が考えている以上にココロとカラダが大きなものだという事が分かりました。
 誰の中にも大きなものが溢れている、
 それを実感し、楽しさを共有できる世の中になればどんなに楽しいだろう・・・。
 
 今年はもっともっと自分らしさを楽しめるような仲間を作っていきたいと思っています。
 お手伝いをお願いします。

| | コメント (3)

むすんで、開いて・・・

 手のひらをじっと見ながら、
 手を開いたり閉じたりしてみてください。
 どうですか?
 
 「できますか?」
 
 不自由の無い方でこの「問い」に対して、
 できない、と答える方はいないのではないでしょうか。
 
 手を握ったり、開いたりする事は「当たり前」の事なんですね。
 でもこの「できる」と思っているところが落とし穴です。
 じっ~と見ながら開閉してみると
 親指、小指の付け根の辺りはどうですか?
 ちょっとサボっている感じがしませんか?
 
 武道、武術の世界では手をつかまれたときには
 まず「手を開け」と言われます。
 でも「どこまで」「どうやって」という事を
 研究・稽古する事って多くないです。
 皆できると思ってしまっているから。
 
 私もそうでした。
 手のひらを「全部」使って開く、
 ぐぅ~っと指先が伸びるのではなく、
 手のひらと手首の境目から押し拡げるように・・・
 
 そうすると「結果として」、
 手首に流れが生まれます。
 手首を流そうとしても難しかった事が
 手のひらを全部使って開くと流れます。
 
 お試しあれ。
 
 さて、毎月稽古会でプレゼントしている小冊子ですが、
 もし興味があって聞いていただけるのならば
 贈らせていただきます。
 自分のココロとカラダの変化を綴っているだけですが、
 感想をいただければうれしく思います。
 
 今月のテーマは「スランプのない生き方」です。
 希望される方は下記のアドレスまで
 送付先とお名前をお書きの上メールをください。
 古武術というか、身体操法について思っていること、
 求めている事、簡単に教えていただけるとうれしいです。
 
 小冊子の申し込み先アドレス
 jun@karadalab.com

| | コメント (0)

「学ぶ」と「変わる」

 変化のお話をしました。
 なにかを「学ぶ」というのは今の自分が「変わる」
 という事です。
 
 でも以前は「変わる」というよりも「足す」
 という風に思っていました。
 技を覚える、コツを知りたい、
 というのもそうですね。
 
 今よりももっと楽しく、充実した時間を・・・
 と考えても今の生活をガラリと
 「変化」させた生活はなかなか思い浮かびませんでした。
 
 そういえば「事実は小説よりも奇なり」という
 言葉がありました。
 今この言葉を実感を持って感じています。
 
 自分の想像できる以上の世界にはなかなか入れません。
 子どもの頃から想像も創造も苦手でしたから。
 できないことだらけでした・・・。
 
 それでも今こうして変化を楽しんでいられるようになったのは
 どうしてなんだろう・・・、とよく考えます。
 気がついたら・・・変化を楽しめるような自分がいたんですね。
 甲野先生は「結果として・・・」という事をよく言われていました。
 あのよくわからなかった稽古法に秘密があったのかなぁ^^
 
 今、講座の中でも「わかりやすさ」を目的とはしていません。
 とにかくカラダの不思議さ、楽しさが伝わればと思っています。
 頭で考えれば不安が出てくるかと思いますが、
 その時にはどうぞ遠慮なく言葉にしてみてくださいね。
 
 カラダを観ていく稽古を通して身についたのは
 自分が変わることへの恐れが少なくなったということです。
 それでもまだまだ恐れや不安はたくさんあります。
 
 ただその不安や恐れが「ある」事が当たり前で
 消えるものではない、という事は分かりました。
 
 自分のカラダが感じている不安や恐れがあります。
 それをカラダを通して気持ちよさに変えていくことで
 ココロにも良い変化を与えてくれると思っています。
 
 先日お知らせしました甲野先生の講座も早々と
 定員の半分まで埋まりました。
 年明けには甲野先生のサイトでお知らせをして頂こうと
 思っています。
 
 定員を決めているのは甲野先生に触れて、
 その感触をカラダで感じてもらいたいからです。
 ご理解ください。

 年内の公開稽古は2回、浜松と名古屋です。
 詳しくはjun@karadalab.comまで
 

| | コメント (0)

ちゃんと変わっていますか?

 今年も残すところ後、半年となりましたね。
 思い切って始めたこの仕事も
 たくさんのご縁頂いて忙しくさせてもらっています。
 
 
 文化センターでの講座は愛知・岐阜・三重・静岡と
 東海地方全てで開講となりました。
 また文化センター以外にもいろいろな所でお仕事を頂き、
 遠くは高知、和歌山まで行かせて頂きました。
 熱心な人たちに囲まれ、カラダとココロの楽しさを聞いてもらっていると、
 勇気を出して一歩踏み出してよかったとつくづく思います。
 
 
 講演先でも、その時感じている楽しさをそのままお伝えするようにしています。
 相変わらず「正しさ」が見つからないのは師匠譲りだと思いますが、
 だからこそ現状に甘えずに成長していけるのだと感じています。
 
 
 さて今年一年の変化を考えるとカラダを通して
 ココロの形を見ていけた一年なりました。
 
 
 春先に甲野先生との稽古で背後に「なにか」を感じました。
 それまでとは違った何かがあったんです。
 それに気づいた事により、
 自分自身の身体以上に心が動いていない事が分かったんです。
 この体験がココロをカラダで感じたきっかけになっています。
 
 
 その後胸鎖関節、仙腸関節という具体的な手がかりを得て感じたのは
 全力を使う楽しさです。
 どんな状況であってもまずは自分ができることを全部やるという事。
 カラダを使い切ることで生まれる充実感、
 納得できる心は生きていく上での力となります。
 
 
 カラダを全部使い、全力で「動く」事で
 ココロも引っ張られたのか自分の中に
 「元気」という力があることを「体感」しました。
 
 もちろん言葉ではずっと知っていた「元気」です。
 それをカラダで体感できた事で、人を見る目が変わりました。
 
 
 特に子供たちに対して、表面的にみえる「良い悪い」よりも、
 その子の中にある「元気」を見つけ、方向を変えて、
 伸ばし続けていく事こそ必要なのだろうと思えたことは
 今後の指導の道しるべになりそうです。
 
 
 心も身体も大きく変わった一年でしたが、
 最後の一月でこれまでの考え方を
 180度方向転換させられるような気づきをえました。
 
 毎月通ってきていただいている人には混乱させてしまっていますが、
 必ず役に立つと確信していますので、
 少しだけ我慢をしてお付き合いください。
 
 
 その気づきというのは「手首の流れ」です。
 これまで力が流れる、
 という事は古武術の「入り口」としてお話をしてきました。
 
 力をぶつけるだけではなく、
 流していく事で身体全体の力を集めて
 「大きく」する事ができるのだと説明をしてきました。
 
 
 今でもこの考えには揺るぎはありません。
 手先だけではなく、身体全体を使ったほうが
 自分の中には充実感が生まれますからね。 
 
 
 
 ・・・ただ、出口がなかったんです。
 つまり相手との間に力を渡す「道」がなかったんです。
 それでもなぜ相手が崩れていたのか?
 
 
 それは相手の力以上の力を
 身体全体の力を集める事で出していたからです。
 今までの使い方では考えられないような力と速さが生まれてしまった事で
 それに満足してしまっていたのかもしれません。
 
 
 道がない、と言いましたが、
 自分の中では「繋がっている」と思っていました。
 ただ自分が知らない世界をイメージする事は難しいです。
 まさかこんなに柔らかく相手と繋がる世界があるとは・・・
 想像もできませんでした。
 
 
 そんな世界も実際にそれを身体で体感するとなれば話は簡単です。
 「ある」という事を前提に、触れてみる、
 それだけでその柔らかく繋がる感覚は手に入ります。
 普段どれだけ自分が力んでいるのか、それを感じる事ができます。
 
 
 難しく聞こえるかもしれませんが、
 頭で考える事ではありません。
 知識として覚えたとしてもそれは役にはたちません。
 自分の身体を実験材料にして
 「流れている感覚」「繋がっている感覚」をぜひ感じてみてください。
 
 
 ところでこの3ヶ月の間、
 自分の中に「変化」はありましたでしょうか?
 自分の「成長」を実感する事はありましたか?
 
 
 カラダラボでは目の前の苦労に対しての
 「コツ」を身につける事もできますが、
 それは私が本当に伝えたい目的ではありません。
 自分の中にある変化に気づき、
 成長していく楽しさを伝えたいんです。
 
 
 もし今の自分と3ヶ月前の自分に変化がないのであれば
 ちょっと考えてみてください。
 もしかしたらこの先10年、20年、
 変わることがないかもしれません・・・。
 
 
 不安にさせてしまってすいません。
 でもほとんどの人が自分が見ている世界、
 感じている世界で止まっているように思えるんです。
 お節介なのかもしれませんが・・・自分が変わる、
 という経験は難しい事ではないからこそ伝えていきたいんです。
 
 
 ただ「心」が変わることは難しいかもしれません。
 私は苦手でしたから。
 それでも「身体」はとにかく「変わります」。
 身体が変わることで、結果として心の中にも変化が生まれてきます。
 身体を通して自分を見ることに慣れてくれば、
 日々の生活の中にある経験だけで
 どんどんと自分の中の価値観まで変わっていきますからね、
 楽しみにしてください。
 
 
 外国に行かなくても、大きな出来事がなくても価値観は変わります。
 自分のカラダとココロは日々様々な刺激を受けています。
 カラダを通して自分の内面に向き合う事さえできれば
 毎日の生活をワクワクした気持ちで過ごす事ができるんです。
 痛みや苦しみでさえ、自分を成長させる手がかりにする事ができます。
 
 
 ただこの感覚はお金では買うことはできません。
 誰かに替わってもらう訳にもいきません。
 自分が自分に向き合う事でしか手に入らないんです。
 24時間営業のコンビニが街に溢れ、
 ネットであらゆるものが買えるようになって「便利」になったとしても、
 自分の身体と心は自分が動く事でしか見えてはきません。
 
 
 「不便」なんです。
 便利に慣れすぎてしまっていると、
 不便なものにはなかなか手が出せなくなってしまいます。
 おそらく将来は今以上に便利になるでしょう。
 様々なサービスや商品が便利さや快適さを売りに現れてくるはずです。
 でもそれは私たちにとって本当に親切なのでしょうか・・・
 考えてみてください。
 
 
 身体も心もその成長には限りがありません。
 少なくとも今の私にはゴールは見えません。
 それでも必ず、肉体は衰えていきます。老いです。
 
 ただ必ず老いていくからこそ、
 自分の生き方を振り返れるとは思いませんか?
 自分の事を考えさせてくれるのが、年をとる、
 という事なのだと思います。
 
 
 先月は「元気」がテーマでした。
 自分の中に心のエネルギーとも言うべき、力があることに驚き、
 熱く語ってしまいました。残念ながら、今その「熱さ」はありません。
 上手に解説する事はできますが、
 その元気以上に気持ちの良い事が見つかってしまったからです。
 
 
 おそらく今興奮している「手首の流れ」も
 来月にもまた「変化・成長」しているはずです。
 後を振り返ることはできません。
 それは甲野先生から学んだ事でもあります。
 ぜひ自分のカラダの見方、ココロの感じ方をつかんでください。
 
 
 年内の稽古会は限られていますが、都合があるようならご参加ください。
 メールを頂ければ稽古会の予定をお送りします。
 長々と失礼いたしました。
 
 
 追伸
 甲野先生との稽古会が決まりました。
 2月22日です。詳しくは予定表を確認ください。
 甲野先生との稽古会

| | コメント (0)

言葉であらわせない事

 身体と心は不思議です。
 一番身近な自然が身体、といわれたりしますよね。
 
 自然の大きさが見えにくくなってしまってきている現代では
 どんな言葉、頭で自然の凄さを「勉強」するよりも
 その自然の大きさ、不思議さ、凄さを感じる事が
 何より自然に対して尊敬をできることだと思います。
 
 信じられないような事を奇跡というのかもしれませんが、
 本当に信じられないような事に出会った時には
 「奇跡」という言葉で表現する事も難しい事が分かりました^^
 
 なにもないところから、手探り状態ではじめたこの仕事、
 この先まだまだやって良いんだ・・・という勇気と自信を頂きました。
 
 ありがとうございます。

| | コメント (0)

生きるという大きすぎる問題

 どんな人間にも必ず「死」はやってきます。
 これまで死ななかった人間は一人もいません。
 仏教では「四苦」といって根本的な苦しみとして
 「生・老・病・死」というものがあるといいます。
 生きる事は同時に死ぬ事を考える事なのかもしれません。
 頭でどれだけ勉強、理解をしても心の安らぎは得られませんよね。

 この大きすぎる問題を考えてもいいのかなぁと、
 ちょっと迷いましたが自分の身体と心が感じた事です。
 こういう自分の心と身体に生まれた事に正直になってください、
 というのがカラダラボでは伝えたい事ですので、
 今日は少し我慢をして聞いてください。

 そもそも身体は「よく動く事」が幸せなのでしょうか、
 動かなければダメなのでしょうか?
 そう考えると、「老いる」という事はダメに向かって進んでいる事になります。
 ちょっと考えてみましょう。

 怪我や病気や老い、生きる事死ぬ事に恐れのなくなった人は多くないでしょう。
 だからこそこれだけ様々な健康グッズが次から次に流行っていきます。
 多額のお金と多くの力を費やして病気に対して新しい対抗策を考え出しています。
 アタマとカラダとココロで分けてみれば、
 それだけ強いココロの力を誰しもが持っているという事です。
 もちろんこのまま強い力に振り回されてしまえばダメです。
 そのココロの強い力を楽しく生きる力に変えて行きたいですよね。

 身体が動くにつれて見えてきたのは心の力です。
 身体の感覚を通して心の強さ、力を知りました。
 身体はおそらく老いていく中で動かなくなっていきます。
 どんな薬や運動でそれに抵抗をしてみても、いつか必ずやってきます。
 
 それに対して心はどうでしょうか?
 いくつになっても元気な人、優しい気持ち、
 楽しい気持ちにしてくれるおじいさん、おばあさんもいます。
 逆にイライラさせてくれる人もいますが(笑)

 どの方向へ向かうかは自由ですが、
 ココロを強く豊かにしていく事はできそうです。
 そのココロの強さがあれば様々な事をすることができます。
 ココロの強さをカラダで表現した稽古法が
 「内側の力、外側の力」でしたね。
 今日は詳しくは説明しませんが、興味があるならまた遠慮なく聞いてください。

 カラダは感覚を通して、ココロの形に気づかせてくれます。
 カラダが動く事は確かに楽しくいくらお金を出しても得ることのできないものですが、
 動く事でココロの力が見えてくる事も忘れてはいけません。
 自分のココロの強さ、力がそのままカラダに現れてくるといいのかな、そう感じています。

 痛みや苦しみは嫌なものですが、
 その痛みや苦しみがあるから誰しもがココロに向き合えるようになります。
 もしずっと健康だったら、何も痛みがないまま生きていくとしたら・・・
 ナマケモノの私ならきっといつまでも「自分」に向き合わず、
 なにも変えられないままでいるかと思います。
 カラダが老いる、痛みがあるからこそ、
 このままでいいのかなぁ・・・と考えるようになりましたからね。

 自分が自分自身に対して「問い」を立てたときにどう答えを出していくのか。
 自分自身で答えを探していく力こそ生きていく為に必要な力ではないでしょうか。
 
 手がかりがなければ続ける意欲がなくなります。
 カラダの感覚に気づく事が自分に向き合う手がかりになるんですね。
 残念ながらこういう「学び方」は学校では教えてくれません。
 学校で学ぶ事は知識ばかりが優先されています。
 ただ記憶するばかりの勉強は面白くありません。

 甲野先生に学んだ事はこの学び方、上達の仕方だったのかもしれません。
 そういえば甲野先生が開かれた会の名称は「武術稽古研究会」でした。
 稽古法を研究、学び方を研究する会でした。
 考えさせられます・・・。

 話があちこちに飛んでいますが、
 それだけ私の中でもまとまっていない、という事なのでしょう。
 うまく「言葉」にはできませんが「感覚」としては確かなものがあります。
 生きていく上での光になるものが自分の中にあるんだという確かな感覚。
 
 生きる事、死ぬ事には力があります。ただ生きるのではなく、
 その生きる強さ、生きたいと思う強さを感じて行きたいと思っています。
 真剣に生きている人からは迫力を感じます。
 
 どんなにカラダが動いて技となり、誰かを倒せたとしても、
 ココロに向き合っていなければ凶器と同じになってしまうでしょう。
 そういえば「刃物」にも人に感動を与える美しさを持った「刃物」もありますね。
 真剣な人が作った作品には思いが宿る・・・
 大切な人には必ず思いは伝わると信じられる自分も出てきました。
 身体の心地よさを頼りにこれからも稽古を続けていこうと思います。
 
 長々とすいませんでした。

| | コメント (0)

目標はかなわない・・・

 先日ショッキングな事を聞きました。
 
 「目標はかなわない・・・」
 
 そんなまさか!
 それがまず思ったことです。
 
 でも聞いていくうちに・・・
 なるほど、確かに目標は達成しないのかもしれない、
 そう思うようになっていました。
 
 ちょっと面白かったので紹介します。
 
 目標と手段というお話です。
 
 まず目標・目的はかなわない、という事。
 目標・目的ってなんでしょうね。
 
 カラダラボで言えば、
 「古武術的身体操法を身につけたい」
 ってところでしょうか。
 
 ではその目標達成のために必要な事は?
 
 知識を入れたり、稽古をして身体で覚えたりですね。
 これが手段です。
 
 この手段と目標の関係のままでは
 目標を達成するのが難しいというのです。
 
 子供の例を考えてみましょう。
 最近うちの子は「PSP」というゲーム機が欲しいといっています。
 これ目標です。
 そのための手段として、
 「欲しい」と口に出して言ってきました。
 
 はたしてこの目標は叶えられるのか?
 もちろん答えは「NO」です^^
 そんなに甘くはありません。
 
 さて子供の頃はどうだったか・・・?
 欲しいものができた時にたくさんの「言い訳」があったような記憶が。
 
 当時出たばかりのパソコン。
 「欲しい」というだけでは当然買ってもらえず、
 パソコンを買えばあれができて、これができて、自分もこうなるし、
 すごく役に立つ、ただ遊ぶだけではなく、○○のためには必要なんだと・・・
 無茶な言い訳を考えては言っていました。
 
 実はこれ、目標が手段になっている状態だそうです。
 単純に「欲しい」に対して、
 それを使って何ができるかを持つ事というのは
 一つ「目標」が上がりました。「視点」が上がっています。
 そう考えると欲しいものを手に入れる、というのは「手段」になりますね。
 「手段」というのは当たり前の状態ですから
 結果として叶えられるというわけだそうです。
 
 では「古武術的身体操法を身につける」という目標を手段にするには?
 
 古武術的身体操法でなにがしたいの?どうしたいの?
 という事ですね。
 本当につらい介護を楽にしたい、ココロとカラダの調和を感じたい、
 あと10キロ速い球を投げたい・・・なんでもいいんです。
 自分にとってまた大きな目標を作れば自然とそれは当たり前になります。
 
 考えてみると私自身もそうでした。
 最初は「古武術的身体操法を身につけたい」しかありませんでした。
 もちろんなにもできません。
 上達している実感もありませんでした。
 
 ただ気がついたら自分が古武術的身体操法の凄さ(甲野先生の凄さですが・・・)
 を「伝えたい」と思っていたんです。
 身につけるという目標から、伝えたい、という目標に変わっていました。
 つまり身につける事は伝えるためにはいちばん簡単な手段になっていました。
 
 なるほど・・・そうだったかぁ^^
 
 すいません、ちょっと長くなってしまいました。
 

| | コメント (1)

迷わなくてもいい

 実は木曜日に大きな気づきがありました。
 でもそれは新しい動きが見つかった・・・というのではありません。
 動きはこれまでとなんにも変わっていないにも関わらず、
 これまでよりも断然速いようなのです。
 
 その気づきとは簡単に言うと「迷わなくてもいい」というもの。
 全然分かりませんね^^
 
 経験を積み重ねていくと一つの問題に対して「複数」の答えが頭に浮かんでしまいます。
 それだけ選択肢がある、という事なのですが、
 どれを選択するのか、迷ってしまうとその事自体が問題になってしまいます。
 でも経験から来た迷いですから、なかなかこれは取れません。
 
 複雑な事例でなくても迷いは出てきます。
 例えば最近の一番の発見である、手首の流れ。
 無意識に手首で力を止めてしまっている事で動きが滞っているのを
 指先にまで流していけばいい、と分かりました。
 
 この感覚をみつけて2週間ほどですが、稽古を重ねていけばいくほど、
 手順のようなコツが「分かって」きます。
 そんな発見が積み重なっていくと、感覚を一番に動いていきたくても
 どうしても自分が上手に動く為のチェックポイントを抑えたくなってしまうんですね。
 アタマで分かってしまい、それを求めてしまう、というのは仕方ありません。
 
 この「仕方ない」というのが最初にお話した「迷わなくてもいい」、
 という気づきのきっかけです。
 頭は迷うんです。知識は増えれば増えるほど迷う。
 これがアタマの働き、癖なんだ・・・思えるようになりました。
 
 今までどうしよう・・・と迷っていた自分が気に入らなくて、
 そんな自分を責めてみたりもしましたが、それが「あたりまえ」だとわかった時に、
 じゃあそれを止めればいい、と繋がりました。
 
 身体に聞く、という言葉があります。身体は間違わない、とか・・・。
 考えずにカラダが感じたままで動く、
 アタマで知っていた事が少しだけ感じられそうな気がしています。
 
 武術を通して動きが良くなり、スポーツにも介護にも
 様々な応用が出来る、そうやって考えられている人は多いはずです。
 だからこそ世に広まっているんでしょう。
 
 でもそれ以上に自分とは何だろう・・・という疑問に対して
 自分の中でなにかが感じられる、という大きな喜びがあります。
 
 正しい答えは無いかもしれません。
 でも「今の時点」で自分で納得できる答えは持つことが出来るんですね。
 この答えをもっていると、ただここにいる、というだけでも楽しくなってきます。

 物が溢れ、便利になり、それで幸せになったかというと、
 ちょっとどうかな?と思う人もいるはずです。
 何とか力になりたい、そう思うのですけどなかなか上手く言葉に出来ません。
 ただ、言葉で足らない部分はカラダが補ってくれます。
 講座の中では動きを中心にお話をしていますが、
 いつも心と身体がどう繋がっているんだろう・・・と考えています。
 もし疑問に思うようなことがあれば遠慮なく聞いてくださいね。

| | コメント (0)

和歌山での出張稽古

 和歌山に出張講座に行ってきました。
 お相手は高校の体育の先生ですから
 普段の講座とはちょっと違いました。
 
 子供たちに「元気」を・・・と思っていたところだったので、
 カラダを普段間近に接している方たちとのご縁は貴重です。
 
 それぞれの先生が自分の専門をお持ちのようで、
 ラグビー、野球、サッカー、カヌー、介護・・・等、
 質問も多岐にわたり、熱心さを感じてきました。
 
 それでもどの質問にも困ることが無かったのには
 通常の「コツ」とは違う、「身体操法」だからこそだと実感しました。
 スポーツの動き「だけ」が変わるのではなく、
 「生活そのもの」が変わるからこそ、働きが出るんですね。
 
 技として形で動きを作ってしまうと
 「応用」ができずに技は出来ても生き方までは変わりません。
 技ではなく、自分のカラダのなかにある流れや違和感を
 意識していくと、ただそこにいるだけでも楽しくなります。
 
 単純に生活できていた時代とは違い、
 現代はアタマを高度に働かせなくてはいけなくなってしまっています。
 どんなに世の中が便利になっても
 自分の中に生まれた詰まりを取り除けるのは自分しかいません。
 答えがある安心感ではなく、問いを楽しめる余裕をカラダは教えてくれます。
 
 楽しい時間をありがとうございました。

| | コメント (0)

体温計

 病院での講座で「手首にある流れ」について実演を交えて
 説明をしていると、40代の方から「体温計を振る動き」と同じでは?
 と聞かれた。
 
 あぁ、そうかもしれない。
 
 そういえば子供の頃、体温計の水銀を落とす事は苦手だった気がします。
 そんな時は、「母ちゃん、やってくれ」と。
 母はそれを簡単にやっていました。
 
 今、体温計は「ピッ」で済みますからね・・・。
 
 ちょっと前、身体を使う事が当たり前だった頃には
 「普通」の事が、今こうして「便利」になってきた事で
 失われていっているのではないか・・・そう思います。
 
 目先の「楽」を追いつづける事で、
 本当の楽しみが見えなくなっていく事は果たしてどうなんだろう・・・

| | コメント (0)

ドラクエその2

 経験値のお話でしたね。
 この経験値ですが、楽な相手からは少なく、
 「死にそうな目」にあう相手からはたくさんの経験値がもらえます。
 例えば小さなスライムからは1ポイント。
 強そうなドラゴンや悪魔からは2000ポイント。
 のように色々と設定されています。
 
 レベルを上げる為に「10000ポイント」必要だとすれば、
 スライムを1万匹倒してもレベルは上げられます。
 でもこれは「時間」がかかります。楽しくも無いし。
 死にそうな思いをするからこそたくさん経験がつめる、
 そんな単純なことをゲームでは表してくれています。
 
 ゲームの中では単純でもこれが現実の世界となると
 なかなか難しいんですね。
 ついつい「楽」な方へ行ってしまいますから。
 
 子供たちの練習は常に「楽」です。
 内側から声を出せ、と言ってもすぐに忘れます。
 頑張る、という事が少なくなっているからだと思いますが、
 頑張る事で元気が出てくるのだとすると、
 避けて通るわけには行きません。
 
 自分の経験値をためていかないとレベルを上げるのに「時間」がかかるよ、
 と伝えたところ、「いい顔」をしていました^^
 
 少しは分かってくれた様な気がします。
 
 でもたぶんすぐに忘れてしまうんでしょうけどね(笑)
 「伝える経験値」を「死にそうな思い」で集めていかないと・・・

| | コメント (0)

ドラクエ

 ドラゴンクエスト(以下ドラクエ)というゲームがあります。
 RPG(ロールプレイングゲーム)と言われています。
 
 このドラクエは私が小学生の頃、第1作目が発売されました。
 当時このドラクエを購入する為に徹夜で並ぶ人たちが出たり、
 ドラクエを買えなかった人たちが子供たちから奪っていく、
 という事件も多発して社会問題化していました。
 
 事件としてみれば色々ありましたが、
 子供たちの世界もずいぶんと変わりました。
 このゲームをクリアする為に夜更かし、徹夜をするのは
 珍しくありませんでした。
 
 今ほどゲームが「悪者」ではありませんでしたから、
 親も寛容だったのでしょう。
 一日中どころか、毎日ずっとドラクエですから・・・。
 
 先日道場でこのドラクエ、RPGの話をしました。
 RPGというのは「経験値」を集めて、
 レベルを上げていくゲームです。
 
 この経験値、レベルが低いうちは少ない経験値で「成長」を
 することができますが、
 レベルが高くなるにつれ、なかなか「成長」できなくなっていきます。
 当然弱い敵ばかりを相手にしていてはなかなか成長できません。
 
 弱い敵というのは「楽」な相手です。
 自分が「死にそうな目」に逢わなくても楽々倒せてしまえる相手です。
 こういう相手からは経験値はほとんど入ってきません。
 
 この辺りの感覚が「現実」の世界をうまく表していたんだと思います。
 自分が成長できる感覚、成長できる喜びがそこには確かにありました。
 当時はまだ現実と仮想現実を比べればはるかに「現実」の方が強かったですから。
 
 この経験値のシステムは今のゲームにも引き継がれています。
 ドラクエもそのまま残っていますし、
 子供たちの大好きなポケモンにも
 経験値を重ねてレベルを上げるシステムがあります。
 
 最近特に熱を入れて話している「元気」が
 少しでも伝わればと思い、経験値と重ねて話をしましたが、
 反応が良く、ちょっとうれしかったです^^
 長くなってしまったので、続きはまた次回に。

| | コメント (0)

手首を通すと感動する?

 3連休を利用して、香川、高知まで行ってきました。
 高知はこの夏にご縁ができた方たちです。
 2ヶ月間の間でどう「変化」しているのか・・・
 それを楽しみに行って来ました。
 色々とお世話になり、高知人の人の良さを
 感じさせてもらいました、ありがとうございました。
 
 途中、吉野川の透き通るような綺麗さにびっくりして、
 (皆さんはあれが「普通」と言ってましたが^^;)
 四国山脈の雄大さにも「感動」しました。
 
 「自然」なものに心を動かされるようになっている・・・
 そんな自分がちょっと不思議な感じです。
 それだけ年をとった、重ねたから・・・?
 
 でもちょっと前には「自然」に憧れてはいても、
 それを「感じる」事って難しいなぁと思っていました。
 テレビゲームで育ったからなのか、
 どうしても「自然」に「自然」を楽しむ事ができません。
 
 それがちょっと違ってきた。
 沈む夕日もなんか違ってみえる。
 空に浮かぶ雲もかっこいい^^
 
 もしかしたら「手首」に秘密があるかもしれない。
 手首に入っていた無意識の力みが抜けて、
 指先にまで通してきました。
 その手で相手に触れると、相手と自分との一体感が感じられます。
 
 相手と自分との境がなくなるような感じでしょうか。
 この時、一つになろう、と強く思うのではなく、
 自分の持っているもの、感じているもの、強いのも、弱いのも
 全部相手に「見せる」感覚です。
 
 つながる事で外からもたくさんの感覚が入り込んできます。
 「見る」という事も、なにかこれまで気づかなかったものが
 入ってきているのかな?
 分かりませんけど(笑)
 

| | コメント (0)

伝えたい事、伝わってしまうもの

 テレビで教育問題を取り上げていた。
 教育委員会のメンバーも交えて討論していました。

 そこにある答えはまさに正反対。
 では、そのどちらが正しいのか・・・

 僕はたぶん正しさは無いと思っている。
 今は正しくても未来は?
 正しいことだったとしても、それを誰がつたえるの?
 意思疎通の無い意見は逆に働いてしまうこともよくあります。

 テレビを見ていて思うのは、表に出てくる人の「多く」は
 熱い気持ちを持っている気がします。
 そういう気持ちを持っている人から「なにか」を伝えられたら
 伝えられた「なにか」以外のことが伝わっていく気がします。
 一生懸命さが自分にではなく、子供達に向いていればですが。
 
 今日勉強会で色々と言葉を交わしました。
 そこにあったのは間違いなく「熱気」。
 気持ちが一番大切、というのは泥臭くて今に合わないかもしれない。
 でもやっぱりそこが一番大切な気がします。
 
 自分の中の熱いもの、真剣なものを添えて伝えていかないと。
 みんなわかっているんだよね・・・。

| | コメント (0)

内側対外側

 昨日四国についた時、久しぶりに「カッ」となっている人を見た。
 
 電車内での車掌さんの仕事振りが気に入らなかったらしく、
 降りた駅で駅員さんに怒鳴りまくっていた。

 真横にいながら「すごい内側だなぁ・・・」と思い興味を惹かれ、
 その「熱い内側」がどうなっていくのかを観察してみました。

 とにかくもう怒っている彼は
 (ちなみに彼は風貌は怖かったです^^;)
 なにを言っても聞きません。
 それどころか、周りで笑っていた人にもケンカをふっかけるような
 勢いです。

 駅員も困り顔でしたが、どうにも「内側」が感じられない。
 マニュアルがあるんでしょう、おそらく。
 困ってはいましたが、どう見ても負けているなぁ・・・と。

 そんな対応ですから客の怒りもどんどんと上がって行きます。
 その言葉が激しくなり、「脅迫」のような雰囲気までいきました。
 ここで駅員さんもようやく「カチン」と来たようです。

 脅すんなら、警察呼ぶぞ、とキレ気味です。
 中身はともかく、その言葉の雰囲気は「内側」です。
 その「内側の言葉」に対して、客が怖気づきます。

 「いや、わかってもらえればいいんや」

 真剣(というか、本能でかな?)に向かっている人に対して
 マニュアルで対応しようというのは、考えなくても、
 相手を見ていなくてもできますよね。
 でもそれは相手の内側に対して響きません。
 相手の内側をしっかりと受け止めて、観ることが必要かもしれません。
 
 内側に対してそれを見てくれていると感じると、
 満足するのかもしれませんね。

 でもそのおじさん、顔を真っ赤に怒りながらも、
 電車に迷うお客さんに「・・・で乗り換えや」と
 「やさしい」声で教えていましたから、人に対して真剣なのかもしれません。
 こういう人はちょっと前にはたくさんいたような気がしてきました。
 人に対して「無関心」になっていないか、自分に問い掛けてみると、
 恥ずかしさがわいてきます。

 喉が痛い痛いと書いてましたので、色々と心配をしていただきました。
 おかげさまでずいぶん楽になりました。
 ありがとうございました。

| | コメント (0)

四国・・・

 今日から4日、四国で研修会と稽古会。
 今年の夏、高知で講座を行なわせてもらいました。
 その高知で今回3回目の稽古会です。

 夏の頃は「胸鎖関節」でカラダの不思議を楽しんでいました。
 今「元気」を元に、ココロの底力に驚いています。

 具体的な「技術」を求める現場の人たちに「ココロ」の工夫
 がどこまで受けいれらるかはわかりませんが、
 生きていくためにはカラダと共にココロにも注目しなくてはいけません。

 あいかわらず声はでませんが、
 その分気持ちだけはしっかりと入れさせてもらいます^^

 http://www.karadalab.com/

| | コメント (0)

声が出ない・・・

 昨日から喉が痛い・・・。
 突然の寒さにやられてしまったのか、気落ちした自分を隠すためだろうか(笑)
 それはわかりません。
 
 ガラガラ声になるだなんて何年ぶりだろう^^
 昨日の豊橋中日文化センターの2時間の講座の間、
 どんどんと声が出なくなっていきました。
 
 それでも伝えたい事は山ほどあります。
 元気、真剣さ、そして新しく見つけた手首の流れ。
 
 声が出ない、そのおかげで「それでも伝えたい」という気持ちを
 育てる事ができました^^
 気持ちはちゃんと伝わりましたでしょうか(笑)
 
 普段声を出している時、そこに「幸せ」はありません。
 当たり前だから。
 だからこそ、出したい気持ち、届かせたい気持ちは普通のままです。
 
 声が出せないからこそ、自分に問い掛ける事ができます。
 「じゃあ、やめる?」って。
 もちろん答えは「それでも伝えたい」です。
 
 そこで初めて「欲求」を見つけることができます。
 見つけたらそれをしっかりと育てて、伝えるだけです。
 
 こんな気持ちになるんだなぁ・・・と
 自分でも不思議です。

http://www.karadalab.com/

| | コメント (0)

がんばってはいけない、でもあきらめてはいけない

 がんばってはいけない、そう思うようになっています。
 
 でも昨日5歳になる娘に「がんばる」事を教えました、
 今までにないぐらいに真剣に。
 
 がんばる事がいけないのに、なにをがんばるのか。
 これまでは自分でもよく分かっていなかったみたい。
 
 がんばらない、という言葉は僕にとっては麻薬のようなものだった気がしています。
 リラックスする事が大切、がんばる事はよくない、
 そこに「甘えて」、本当にしたいことを見つけられずにいたんじゃないか。
 
 がんばる事であきらめなくてすむ、
 あきらめてしまうと、全てを失ってしまう事になるのではないか、
 そう思いました。
 
 自分の内側にある、欲求。
 自分が本当にしたいこと、なかなかそれはみつかりません。
 自分に対して問いを続けていくと、
 だんだんとやりたい気持ちが大きくなってくるのを感じます。
 
 その気持ちを「育てていく事」が自分らしく生きる事を
 感じる鍵になりそうだから。

http://www.karadalab.com/

| | コメント (0)

保護者から叱られそうな指導法

 元気を体感して変わったこと、
 子供たちの指導が、見方が変わりました。
 
 例えば遊んでいる子と、真面目に練習している子、
 今までは遊んでいる子が、「ダメ」に思えて
 注意をしたくなっていました。
 
 結果として出ている「練習をしていない」事が
 気になっていたわけです、元気よりも。
 
 でも元気という内側の力でその様子をみると、
 真面目に練習をしている子の中に、
 ただ練習をしている・・・という元気の無さが見えるし、
 遊んでいる子の中に叱られるのが分かっていても
 遊びたい、というすごく強い元気を感じます。
 
 評価としては正反対になってしまいました^^
 元気が足らない子も意識では元気が足らない、とは
 思っていないわけです。
 練習をしているから、自分の行動がダメだとは思っていない。
 そこを元気を認めさせて、どうしてら全力で行動ができるかを
 感じさせることが大切な気がします。
 
 遊んでいる子にはただ表面的に押さえつけて練習させても
 それは逆効果です。
 大切なのは自分が遊んでしまうほどの大きな力を持っている、
 という事を認めさせてその力を「やりたくない」練習の中にも
 使えるように方向を変えてあげることではないかなぁ・・・と。
 
 遊んでないで勉強しなさい、
 っていうのは今もたぶん「つい」使っちゃうんです。
 でもそれがちょっと違うな、とは皆知っているんですよね、ホントは。
 

| | コメント (0)

力について

 力について、
 またなにかよく分からなくなりました。
 
 これまでも散々自分の中に生まれている力をどうしよう・・・と
 抜いたり入れたりしてきました。
 最初の手がかりになったのは力がぶつかる事で生まれる圧力が
 動かす事ができる、と「分かった」事でした。
 
 今こうして手首の中に流れが生まれているという事に気づき、
 「分かってしまった」事が遠回りになってしまっていた事に驚いています。
 
 手がかりだった「圧力」、それを発見して、頼りにしてしまった事で、
 それを捨てる事ができなかったんですね。
 この圧力を流していく事で感じる外に拡がる感覚、
 不思議です・・・。
 
 力的に「流れる」感覚はもちろん、
 自分と相手との境が消えていくような気持ちになっていくのが気になります。
 なんだろう?
 
 今こうして新しい手がかりをみつけ、興奮している自分がいます。
 でもたぶんこの「わかった」もいつか壊れるんだろうなぁ・・・と
 その日がくるのを楽しみにしている自分もいます^^

| | コメント (0)

手首の流れ

 元気や欲求というようなココロのエネルギーに注目をしだすようになり、
 稽古の手がかりが消えてしまっていました。
 
 胸鎖関節や仙腸関節はそれ自体が「ある」事がわかります。
 感覚は分からなくても存在している事はわかりますから、
 まだ何とかなる。
 
 でも自分の「欲求」なんて、なにが欲求なのか分からないです。
 その存在すらわからない欲求を「育てる」なんて、
 ほんといい加減です^^
 
 ココロの研究が進むと、カラダがしたくなるだろう、
 と分かっていたので、今回は不安な気持ちを少し冷静に見ていました。
 
 昨日、朝から晩まで3連続の稽古で、
 自分のなかの「見つけたい欲求」が高まったのか、
 またカラダに戻ってきました。
 
 手首です。
 手首の中を力が流れるということ・・・
 
 なんだか、基本中の基本のようなものです。
 つかまれた手を上げてしまう事がいけなかった、それです。
 流れていた気分になっていただけみたいです。
 
 でもそれが分かるのは、今こうして「流れている」のを
 実感できるようになったからです。
 
 今までなぜ気づかなかったんだろうか・・・
 一つは流れている力が小さすぎたからかな?
 自分の小さな力は今までの処理の仕方で
 間に合ってしまっていたのかもしれません。
 
 大きく育てた欲求、
 カラダを動かしてしまうほどの欲求の力が生まれてきたので
 手首で止まる事に気づけたのかなぁと思っています。
 
 自分の思いを相手に伝えるときに、
 その接点となる手が引っかかっていれば「タイムラグ」が生まれます。
 そのタイムラグが、なくなる感じです。
 
 棒でもペンでも自分との一体化というのは達人への道への必須感覚でしょう。
 今まで以上にそれが実感として感じられます。
 
 今日は名古屋で一日稽古です、しっかり研究してきます。

http://www.karadalab.com/
 

| | コメント (0)

あと10cm遠くへ・・・

 歩くという事を考えてみよう。
 
 普段歩く事は当たり前なので、意識しない。
 つまり自分の内側の力は使っていない。
 
 当たり前だからこそ、
 自分の気づいている能力だけで済んでいます。
 
 でももっと自分の力はあるはず。
 
 昨日久しぶりに「歩きました」。
 普段車や電車の移動で歩いていないなぁ、と驚きました^^
 
 どうすれば内側の力を使って歩く事ができるか・・・
 
 いつもよりも「ちょっと大股」で歩いてみました。
 もう10cmだけ遠くへ、そんな気持ちで。
 
 良いかどうかは、分かりません。
 ・・・むしろカラダには悪いかも(笑)

http://www.karadalab.com/

| | コメント (0)

共通点は私

 今、気になっている考え方が2つあります。
 
 1つは「何もしない、ただ上げるだけ」という事。
 もう一つは「とにかく力を集め、カラダを作っていく」という事。
 
 共に仲間からの言葉と残されている言葉だけでの理解なので
 悩むのは稽古してからにしたらどうだ?というココロの声も聞こえます。
 
 なかなか手が出せないでいるのは、
 (それでいて頭の中では常にぐるぐるとその言葉たちが踊っていて)
 あまりに大きい言葉や体験をしてしまう事で
 自分がそれに依存してしまいたくなる事を
 怖れているような気がしているから。
 
 先日その両方を稽古している友達からの言葉にはっとしました。
 
 それぞれの動きや考え方は「真逆」だという事。
 それでいて言葉としての「共通点」はたくさんあります。
 
 彼は「唯一の共通点は「私」でしょうか。」と教えてくれた。
 
 なるほど・・・そうだなぁ、と改めて思いました。
 
 自分に向き合って、その残された大きな知恵に自分が
 どう向きあい、なにを感じるのか、というのを
 見ていかなくてはいけない、と一人納得しました。
 

| | コメント (0)

欲求

 内側を出していく時に邪魔になるのが
 「つい」外側が動いてしまう事。
 
 何かをしようとすると、外側は「ぱっ」と動きます。
 外側を意識だとすると、内側は欲求?
 そんな事を考えています。
 
 歩くという事。
 普通は誰にでもできます。
 普通に出来る、これ外側かなぁ。
 
 でも「歩けない人」が「歩こうとする」。
 外側は動かない、でも歩きたいという強い欲求があれば・・・
 たぶん僕はココロを動かされる。
 
 内側には人を感動させる力がある気がする。
 分からないけど・・・。
 

| | コメント (0)

現実をみる

 「現実」という言葉がありますが、
 なにが「本当の」現実なのかはわかりません。
 
 先日M先生よりうかがった「マトリックス」の話。
 私たちはみんなシステムの中にいるのでは?
 という問いかけです。
 
 今見ているもの、聞いているもの、
 それは全て目や耳という感覚器を通して
 脳で処理をされているといいます。
 正確さを求めるのならその時点で現実から
 一つ処理を加えていますよね。
 
 今自分の内側に「元気」というモノが見えてきました。
 それを通して人をみると、目や耳から入るものよりも
 「先に」元気さが気になってきます。
 
 自分がすごいと思えるような「元気」を持っている人は
 やはりかっこよく、一緒にいたい気持ちにさせてくれます。
 逆に元気を出せない人(決してないわけではありませんよ^^)
 に対しては、なんとか気づかせてあげられないだろうか・・・
 と考えてしまいます。
 
 そう考えようというよりも先に、そう思っちゃうのですから、
 これも自分の中にできた物差しなのかなぁ・・・。
 
 まぁこう「経済性のない」事をのんびりと考えられるのは
 ココロに余裕というか、遊びがあるからで、
 その余裕がなくなれば考える暇すらなくなります。
 
 心を亡くして「忙しい」だなんて、よく出来ているなぁ、
 なんて事を考えちゃったりして^^
 
 今日はこれから「操体法」のお稽古。
 形と感覚は少しずつ分かってきたような気がしますが、
 まだまだ足りません。
 今手がかりにしているは自分の内面と相手の内面を
 あわせて考えられないかどうか、という事。
 自分が気にしているところを相手も気にしてくれれば
 また違った働きが生まれるのでは・・・と
 勝手に練習しています。すいません、先生。

| | コメント (2)

幼稚園児

 昨日この何年かぜひともあってお話を伺いたいと思っていた
 M先生と食事をする機会に恵まれました。
 
 そこで分かったのは自分が幼稚園児程度なのだなぁ・・・
 という事。
 
 話は時間、存在、認識・・・など多岐にわたり、
 「問いをどう立てるか」という事の大切さを感じさせてもらいました。
 
 自分がようやく見えてきているのは「元気」の尻尾程度なんだなぁ・・・と。
 
 ただ同時にこの分からない世界、先生を通して先にみえそうな世界を
 楽しみにしている自分がいた事もわかり、ほっとしていたりします。

| | コメント (0)

ピカソ

 ピカソ展が名古屋で開かれています。
 http://k20nagoya.jp/index.htm

 「芸術」に関してもなにも意見を持てなかった私ですが、
 友人が早速行ってきたらしく、
 面白い事を話してくれました。
 
 「超内側」だって・・・
 内側と外側と言うのは今の稽古の中でのキーワードで
 自分の中にある力を感じてみた時に
 出てくる感覚です。
 
 共通の感覚として「内側」という言葉を持っているからこその
 話でしたが、「超」って・・・
 
 う~ん、見てみたい、感じてみたい^^
 
 内側の力を認識すると、外側を捨てる事ができます。
 結果として、相手に無駄に力ませなくても
 技がかかるという事です。
 
 この感覚と、ピカソがどう関係するのか・・・。
 
 自分の中に新しい感覚が生まれる事で、
 同じように見てきたものでも、
 これまでとは違った感覚で捉える事が出来るみたいです。
 物の見方が変わるような。価値観が変わる事ってあるな、
 と今回の内側の力は教えてくれました。
 
 同じ絵を見たとしても人それぞれ「なにを」感じているかは
 違うはず。そして同じである必要はありません。
 
 今まで音楽を聞いても絵を見ても何を感じているのか
 分かりませんでした。
 今ようやくカラダの中に「動く感覚」が生まれた事で、
 なにかを感じる事ができるかも・・・と
 希望を抱いています^^
 

| | コメント (2)

元気も嫌な気持ちも源は同じ?

 カラダを通して自分を見つめてみると、
 そこに「内側の力と外側の力」があることが分かりました。
 内側の力を意識して動いてみると、
 それはどんどん「元気」というものに向かっていきました。
 
 あっているのか、間違っているのか・・・
 その答えは今は分かりません。
 
 でも「元気」に気づく前の自分と気づいた後の自分は
 何か違っている気がします。
 
 ちゃんと毎日を元気よく生きよう。
 カラダに元気の感覚が残っているからこそ、
 ココロが負けずに済んでいます。
 
 子供たちが好きな事をやっている時には
 みんな元気一杯楽しく動いています。
 うらやましいぐらいにね。
 
 逆にいやいややらされていると、
 元気というよりも「嫌」が前へと出てきています。
 この「嫌な気持ち」というのも「内側の力」なのかなぁ。
 エネルギーという点では同じものとしてみる事ができそうですが・・・

| | コメント (0)

無心と集中

 鏡に向かい一生懸命練習をしている女の子がいました。
 目標とする大会が近い事もあり、
 鏡に映る自分の姿の「形」が気になっているようです。
 
 ふと「一生懸命」だけど「集中」していないなぁと感じました。
 目の前の自分の形が気になりすぎています。
 
 自分が「こうしたい」と考えても実際に形になるまでの間に
 時間的なギャップが生まれます。
 上手にしようとすればするほどね。
 
 座禅をしてみると「無心」になる事が難しい事が分かります。
 自分でも「無心」になれた経験はありません^^
 でも「集中」はする事は出来るはずです。
 
 いろんな事を気にせずに自分の中に集中する、
 これも技術ですよね。
 
 カラダの使い方、つまり術理を稽古するというのは
 自分のカラダの中に集中できるなにかを作るものなのかもしれません。
 何かをしなくてはいけない、という強制ではなく、
 自分がとにかくやりたい事をやる、
 そんなものが自分の中にあれば鏡の前の自分に
 惑わされなくなります。
 
 形は練習をすればどんどんと整ってきます。
 でも元気や真剣さは自分に集中しなければでてきません。
 真剣な姿は人を感動させる力を持っています。
 そういう力を持っているのだからそれを伸ばしてあげたいなぁ。
  
 そんな話をしてみましたが、
 「?」な顔をしてました(笑)

| | コメント (0)

指アーチ再び

 昨年一番「わかりやすい」術理はたぶん
 指アーチという指、手の使い方だと思います。
 指を意識的に緊張させる事で、
 肩へ力が止まってしまうことを防ぎます。
 
 その後この指アーチは「貼りつく感覚」へと移り、
 それが「カカト」を踏む使い方へと育っていきました。
 
 内側の力の使い方を意識しながらこの「指アーチ」を
 行なってみるとさらに具合がいい感じです。
 
 一度試した術理ですから、頭の抵抗はないはず、
 意外に楽しく動けるかもしれませんね。
 
 こうして答えのない世界を探し求める事が楽しいんですが・・・
 
 伝わっていっていますか^^

| | コメント (0)

負けてはいられない!

 連休の間、元気に遊ぶ子供たちをたくさん見かけました。
 
 最近何度もお話していますが、
 とにかく子供たちには「元気」が溢れています。
 小さい子供はいつでもどこでもですし、
 中学生ぐらいの子でも「好きな事」であれば
 すごくいい顔、いい動きをしています。
 
 その「力」をずっと持ちつづけていければいいのに・・・
 そう思います。
 
 私の場合、誰かと比べている中では自分の力を自覚できませんでした。
 だからこそ自分にはなにも出来ない、
 という思いを強く持ってしまったんですね。
 そういう思いだけは持たせたくない、
 自分に何が出来るんだろう・・・そう思っています。
 
 あるテレビで女子高生を紹介していました。
 カヌーに一生懸命な女の子です。楽しそうだったなぁ・・・。
 
 その女の子のエピソードがすごい!
 小学校一年生にしてトライアスロンの自転車で
 「130km」を走破したそうです。
 う~ん、子供の力を小さく見すぎているのは私たち大人なのでしょうか。
 
 負けずに力一杯、元気一杯、
 生きていく姿を見せていかなくては、と勉強になりました。

| | コメント (0)

無意識の反応

 11月になりました。
 今年も残り2月・・・あっという間に過ぎてしまうんだろうなぁ。

 後2ヶ月でカラダとココロが
 どう変化していくんだろうか、楽しみです。

 昨年の今ごろは指アーチの使い方から
 カカトを使う事を考えていました。

 またココロの使い方として、
 相手を気にしない事が大切、という事も考えていたかなぁ。

 この相手をきにしない、という事。逆に考えると、
 相手に気にしてもらう事が技をかける場合に有効なのです。

 今考えているのは相手の動きの「元」となるところを
 動かせないか・・・という事なのですが、
 これは「無意識」に相手にこちらに反応してもらう事なのかもしれません。

 意識的にこちらの動きに抵抗しようとか、あわせようか、と思う前に
 無意識レベルであわせてしまう動きがあるのではないか・・・
 そう思えるようになってきました。

 より小さな動きを感じ取れるようになってきた、という事なのかな。

 もちろんこれが最後の気づきではありません。
 先日のノーベル賞でも話題になっていた、物質の最小単位、
 あれって次から次へと発見されていきますよね。

 カラダの感覚もそれに近いような、
 そして小さくなればなるほどココロに近づいていく、そんな気がしています。

 全力を使って悔いのないように毎日を生きる。
 それを求めていける、意味のない自信だけは得る事が来ました^^
 正しさと誤りを問題にするよりも、なにがあるんだ・・・と
 一緒に掘り下げていきたいと思っています。

| | コメント (0)

伝えていく事

 カラダをみて、ココロを考えていくのはなぜでしょうか?
 自分の中に生まれてくる楽しさ、
 充実感を得るためではないかと思っています。
 
 カラダを通してココロに気づき、
 人としての深さを知ることで、
 もう少し自分を好きになる、
 認めていくことが出来ると思います。
 
 人の中にある力を感じられることで、
 自分と交わる人、今を共に生きている人を
 別の視点から考える事ができると思います。

 答えが最初から用意をされているわけではありません。
 だれも「人」に対して答えは持っていません。
 (強く断定する人はいますけどね(笑))

 自分の感覚を少し頼りに、自分の人生を生きてみる、
 生きていく中には楽しさも苦しさもあるでしょうが、
 全部含めてみていける力を感じていきたいと思っています。
 
 私は三人の子供の親です、
 そして道場ではたくさんの子供たちと接しています。

 子供たちに伝えたい事、
 それは人を倒したり、投げたりする術でも、
 世の中を器用に生きていく術ではありません。
 
 自分の人生を認めて元気に生きていける事を
 伝えたいと思っています。
 そのためには元気に生きていける、
 ということを自分自身が実感をしなくてはいけません。
 
 自分で気づいた楽しさや強さ、
 辛さをぜひ自分の言葉で大切な人に伝えてみてください、
 伝えればきっと別の楽しさが待っていますから。
 応援しています。

| | コメント (0)

手段と目的

 例えば内側の力を使えるようになれば
 重いものも楽に上げる事が出来ます。
 おそらく速くも走る事が出来るでしょうし、
 スタミナも無駄に消費をしなくなるでしょう。
 
 でもいくらこの内側を使える人を
 何百人集めても機械の力には適いません。
 ビジネスとしての規模が大きくなり、
 何千、何万トンの商品を
 世界中に運ばなくてはいけないときに、
 人力では仕方ありませんからね。

 介護の現場やスポーツの世界で
 古武術の身体操法が話題となっていますが、
 「技術」としてだけをその全てと思っていては
 人生は楽しくなりません。
 
 たぶん別の何かがまた自分を悩ませてしまうはずです。
 悩みを個別に解決する「技」でなく、
 悩みそのものに負けない方法、
 いや、悩みに負けなくてもいい強い自分を
 見つけるための手段と考えると良いかも知れません。
 
 手段と目的というのはよく問題にされますが、
 自分にとっての目的、そしてそれを達成するための
 手段とはなんだろう・・・
 
 ちょっと考えたくなってきました^^

| | コメント (0)

価値観

 元気に限らず、ココロをどう輝かせながら生きていくか・・・
 という問題は誰しもが抱えている事だと思います。
 
 それが幸せという言葉になるのか、充実感になるかは
 分かりませんが。
 
 幸せを求めていく中で近道に思えるのは
 やはり「お金」でしょう。
 ただ「お金」を求めていった先には幸せは無かった
 というはなしもよく聞きます。
 
 アメリカのデータだったと思いますが、
 高額の宝くじに当選した人の大半がその後の人生を
 狂わした・・・というのがあるそうです。
 
 良くも悪くもお金は自分を浮き彫りにするものなの
 かも知れませんね。
 
 とにかく内側の力を運転できないままでは
 「大人として」の自分の窮屈さが
 重荷になってしまっていたかもしれません。
 
 昔から苦手だった「がんばる」という事、
 カラダを通して元気を出し、
 その元気に引かれていくようにすれば
 楽しく行けそうだと感じています。

 今世の中はちょっと大変ですね。
 時代の流れなのでしょうが、
 これまでとは違う価値観が求められていくのかもしれません。
 経済性という事を考えて伸ばしてきた事で失われてしまったもの、
 それがカラダとココロだった様な気がします。

| | コメント (0)

外側を捨てる

 どうやら内側と外側を分けて考えられると、
 内側をしっかりと使い、
 外側を捨てられるようになりそうな感じです。
 
 必要だと思っていればどうしてもその外側の力は抜けません。
 この分かりやすくて使いやすい力は相手にとっても
 「手がかり」になりやすいわけです。
 
 「気配」が出ているという事なのかな?
 
 外側をいらない、と思えるようになってくるからこそ
 相手の強い外側の力にぶつからずに入っていけられるわけです。
 
 自分の外側の力をださなければ内側の力が出ないレベルでは、
 どうしても外側の力が相手に伝わり、
 強い抵抗をされてしまいます。
 
 相手にとっては力みとして伝わってしまうし、
 自分にとっては内側というアクセルを踏みながら
 外側というブレーキも同時に踏んでいる事になります。
 
 モノとして客観的にみればおかしいと思える事でも
 自分のカラダの中にあると
 何も見えなくなってしまいますからね。
 難しいです・・・。

 外側を意識して抜く事ができれば
 内側の力だけを出していく事ができます。
 
 もし相手が内側の力を使うことが出来なければ
 結果として崩していく事が出来るわけです。
 相手が抵抗するためには
 抵抗するべき対象がなければいけませんからね。

 ですから内側の力に耐える機会があるのならば、
 自分が崩れていくときの感覚を良く味わってみてください。
 自分のカラダに内側の力が入ってくる瞬間を経験しておく事は
 どんなに本を読んで、映像をみることよりも大きな力になるはずですよ。

| | コメント (0)

回り道

 これまで様々な稽古法を提案してきました。
 相手の力を手首、肘、肩、背中、腰、お尻、
 カカト、つま先、膝、お腹と流して
 丹田に「流して」いく稽古はずいぶんやりましたね。
 
 今思うとこれって、外側の力ばかりですね(笑)
 今いらない、と言っている外側の力を
 一生懸命に練習して損をした・・・
 そう思われるかもしれません。

 無駄に思えたこの稽古も、
 見方を変えると多少は意味もあったかなぁと思っています。
 
 外側を「上手」に意識して使ってきたことで、
 今度はでしゃばらずに
 「上手」に「止まっていて」欲しい訳です。
 
 意識して力を入れられないところは
 逆に考えると意識して力を抜く事が出来ない場所ですから。
 
 後からみれば回り道に見えたことも自分がそれだけ
 「経験」しているわけです。
 「経験」した分、「苦労」した分、
 何かを見つけたときの喜びは大きいですよね!

| | コメント (0)

カリスマ?

 しっかり腕を伸ばして手を上げる事が必要・・・
 と言いました。
 
 でもこういう人もいると思いませんか?
 重苦しい会議の席で、どっしりとすわり、
 おもむろにゆっくりと手を顔の前に上げ、
 
 「ちょっといいかな?」
 
 と雰囲気を作るカリスマ社長。
 映画や小説の見すぎでしょうか(笑)
 
 内側から出てくる迫力、
 オーラというものは間違いなくあるはずです。
 場の雰囲気を一変させるような力を持っている人はいますから。
 
 この時の力は「元気」というよりも
 「真剣」
 という事だと思いますが、
 「エネルギー」として考えてみれば同じようなものだと思います。

 だれでもすぐにこんな事が出来るわけでは有りません。
 やはり外側のカラダを休ませておきながら
 内側の力を働かせられるのが能力ですね。
 
 一気にこのレベルを求めるのではなく、
 一つ一つ納得しながら見ていくと、
 無理ではないという事ぐらいは分かってきそうです。

 学校(今は会社に入ってもですが)で身につけるべきは
 知識ではなく、
 この人としての「元気」では無いかと強く思います。
 
 まずは外側の力をしっかりと使い、
 内側の力をだす下地を作ります。
 外側を使い切って、アタマがあきらめてくれる事で
 それまで意識の出来なかった内側が働いてくるのです。

 大切なのは「内側と外側の境」を作る事です。
 これまでは内側も外側も何もありませんでした。
 なにもなければ使いこなす事はできません。
 
 「分ける」事で言葉を作り、意識をしていきます。
 そしてこの境を徐々に動かしていく、
 自分の中の当たり前を変えていくことが今の稽古の目安になっています。

| | コメント (0)

粘り強い力を実感する

 さてこの内側の力ですが、外側の力と比べてみる事で
 質の違いを感じられると思います。
 するするとした外側の力に比べ、
 内側の力はとても粘り強く、
 どこまでも出てきてくれそうな力です。

 手を上げる、という話をしました。
 小さな子供たちをみていると分かると思いますが、
 本当にココロのそこから選ばれる事を望んでいれば、
 自然とカラダが伸び上がり、
 ぴょんぴょんと弾んでしまうほどの勢いが出てきます。
 
 大切なものをタンスの隙間に落としてしまったとき、
 無理と分かっていても手を伸ばさずにはいられませんよね、
 カラダが「つって」しまうほど無理をして
 手を伸ばした経験ありませんか?
 
 そういう内側の力が私たちにはあるはずなんです。

 ただいつのまにかその「見えない」内側の力は忘れてしまいます。
 使いこなせないまま、忘れてしまうんですね。
 何とかしなくてはいけません。
 強く生きるため、楽しく生きるための大切なものなのですから。

 内側の力を簡単に発揮するのには条件があります。
 まずは外側を使い切ることです。
 想像してください、
 手をしっかり伸ばさず、そっと出します。
 そして「元気」だけはたっぷりと出してみてください・・・。
 出ないですよねぇ、これでは。
 
 しっかりと腕を伸ばし、カラダ全体で上へ上へと行くからこそ、
 元気も一緒に出て行くわけです。
 
 話を聞く、解説を読むよりは体験するのが一番ですが、
 大切な事なので何とか伝えていきたいと思います。

| | コメント (0)

内側の力は元気そのもの

 「元気」というあいまいなものだからこそ、
 そこに人を見る目が必要なるのでは無いでしょうか。
 
 朝の朝礼もそうですね、ただ立っているだけではダメでした。
 ただ立っていればそれを注意してくれた先生は必ずいたはずです。
 だんだんと求められるレベルが落ちていき、
 まぁ邪魔をせずにいてくれればいい、
 となってしまったのであればとても残念です。

 ただこんな事を思うようになったのもこの数週間の間です。
 もちろん色々と考えてはいましたが、
 具体的にどこが問題で、どう解決をしていけば良いのか、
 自分の中に答えはありませんでしたから、
 強くそれを考える事が無かったのですね。

 内側の力に気づき、
 生きていくうえで必要な事はこの力だ・・・
 と強く思うようになりました。
 
 カラダを通してこの力を感じると
 「内側の力」という言葉になりますが、
 これは「元気」そのものです。
 
 「元気」を出せる人、いつも出している人っていますよね、
 そういう人であればそのままでいいでしょう。
 「元気」なのですから。
 
 でもアタマで元気でありたい、
 と思っても出ないときもあります。
 特に年を重ねていけば病気や怪我も出てきますしね。
 
 アタマで考えても元気が出せないのなら、
 すこしカラダに助けてもらいませんか?
 カラダを通して「元気」を感じて、
 カラダを運転してこの「元気」を出していきましょうね。
 
 これからもう少し具体的にお話をしていきますので、
 もう少しお付き合いください。

| | コメント (0)

手を上げる事を教える

 先日授業参観に行ってきたいうお話しをしましたね。
 まぁそれなりに元気もよく、楽しそうに授業を受けていました。
 そこで気になったのが、子供たちの姿勢と手の上げ方です。
 
 先生が質問します。
 それに対して子供たちは「ハイッ」と手を上げます。
 まぁよくある光景ですね。

 子どもの頃はどうだったかなぁ・・・と思い返してみると
 もう少し「厳しかった」ような気がしてきました。
 手を上げる「形」はしっかりと耳につけて
 真上へ伸ばすようにと言われなかっただろうか・・・。

 数年前に「学級崩壊」が話題になりましたね。
 今それが落ち着いてきたのか、あまり耳にする事もなくなりました。
 私の場合はイメージの中だけの学級崩壊ですが、
 先生の言葉も聞かずに自分勝手に行動をし続ける子供たちがいたとすると、
 多少形は悪くてもおとなしく話を聞いてもらえ、
 手を上げるという事で返してくれるならばそれでいい、
 という風になったのかもしれません。

 でもここに大きな落とし穴があるように思えてきました。

 手を上げるという事はなにを求めている事でしょうか?
 「質問に私は答えますよ」
 という合図なのでしょうか?
 
 学校での役割が
 「知識だけを教えていく事」
 ならばそれでも良いかもしれません。
 でも違いますよね。
 
 知識だけが必要ならば、
 大人になって使わない、複雑な数式なんかはいりません。
 もっと生きるうえでの必要な何かを教えていく事が
 求められているはずです。特に小学生のうちは・・・。

 手を上げる動作、形はまっすぐ真上にピンッと伸ばして上げます。
 さてしっかり伸ばしたこの「形」、
 私たちの頃はそれで褒められたでしょうか?
 なにか足らない気がします。
 
 ただ形だけを整えてあげただけでは
 「人を見る目を持っていた先生」からは「元気が無い」と
 言われていたと思います。
 今の一年生は「元気よく」と言われないのかなぁ?
 
 そして中学生や高校生、大人になったら「元気」はいらないの?と思いませんか?

| | コメント (2)

あと1cm・・・

この粘り気のある内側の力ですが、簡単な稽古で感じられると思います。
キーワードは「あと1cm」です。

 

どんな形でもいいのですが、単純に両手で押し合う、
という形で考えてみましょうか。
両手をつかんでもらい、自分から相手を押していきます。
その押しをしっかり止めてもらいましょう。
この時、何も気にせず押せてしまうのならば
もう少し力の強い人で試してもらってください。
大切なのは「外側の力を止めてもらう」事です。

 

どんなに押してもびくともしないようならば良いですね、
良い稽古が出来そうです。しっかりと押してみても動きません。

 

この時「動かない」と思った瞬間があるはずです。
その瞬間はアタマがあきらめた瞬間でもあるわけです。
自分のカラダの能力をアタマが勝手に決めている限界があるはずです。
その限界に達したとき、もうダメだ、押せない、と思ってしまうわけです。

 

この時、しっかりと止めてもらっているところから
「あと1cm」だけ
押し込んでみてください。あきらめずに、1cmだけ。
もうちょっと、あと少し・・・。

 

今、なにか感じませんでしたか?
ぐぐっ・・・とカラダの中から生まれてくる力を感じませんでしたか?

 

腕に圧力がかかり、痛みとして感じてしまうかもしれません。
それは痛みで自分のカラダの中を感じる事ができないわけです。
もう一度やってみてください。

 

相手を押し返すという結果が欲しいわけではありません。
大切なのは外側がぶつかり、
それ以上でないところからまだ生まれてくる力がある、
という事に気づく事です。

 

外側さえ止まれば良いのですから、
これはカベを押しても出来ると思います。
ただカベはどんなに押しても動きません。
最初からアタマがあきらめてしまうかもしれません。

 

一人稽古が出来るのが上達の証ですが、
やはり誰かと稽古を一緒にしたほうが楽しいですから、
ぜひ一緒に試してみてください。
そして何かを気づいたのならそれを伝えてあげてください。

 

話がずれましたが、
この最後に出てきた力が今日のテーマである「内側の力」です。
内側の力は外側の力を使い切ったところからでないと
分かりにくいようなのです。

 

もう一度、「手を上げる」という事で
お話しを続けたいと思います。

では!

| | コメント (0)

粘り気のある力

こんにちは、今日は「外側の力と内側の力」のお話をします。
この「内と外」に気づいたのが2週間ぐらい前ですので、
まだアタマの中でもうまく整理されていません。

それでも「今」の状態のままをお話しておく事が大切な様な気がして
いますので、いつものように話半分で聞いてください。

この力に気がついたのは
仙腸関節の動きに気づいた事がきっかけです。
3ヶ月ほど前に胸鎖関節に気づき、
自分のカラダの中にまだまだ気づいていない可能性を見つけました。
その胸鎖関節の感覚を頼りに丁寧にカラダの内側を見ていき、
生まれてきたのが仙腸関節です。

最近では骨盤を意識するとダイエットに良いという事で、
仙骨、腸骨を知っている人も増えてきていますが、
場所は知っていても実際にココを意識して働かせているという人は
少ないみたいです。私の言葉の上では知ってはいましたが、
どう動くのか、そもそも「動く」感覚すらありませんでした。

それが棒を押し合う稽古をしていた時に突然、動き出したのです。
もしかしたら今までも気がつかないまま動いていたのかもしれません。
カラダは無意識に色々な働きをしてくれています。

カラダに無理をさせずに気持よく過ごす事ができればいいのでしょうが、
カラダが背負ってくれている無理はやがて痛みとして現れてくるはずです。
今動きを感じられるようになり、それをとても強く実感します。
今、痛みが無い人もそれは気づいていないだけで、
カラダはやっぱりがんばっていると思います。

仙腸関節が動くときそこに生まれてくる力の感じが
これまでとは少し違うんですね。

なんというか「粘り気」がある。

粘り腰という言葉が有りますが、まさにこの言葉がピッタリ!
カラダの中にもう一つ力を見つけてしまいました。

また明日お話を続けさせてもらいますね。

| | コメント (0)

向かい風

今日面白い光景をみました。
向かい風に向かって歩いている親子です。
幼稚園ぐらいの男の子とお母さんです。

向かい風といっても台風ではないですので、それは「日常」です。
お母さんにとっては髪型が乱れていやだわ、
という程度でしょう。

ですから「全力」をだす状況では無いわけです。
ただ歩くという状況に「全力」を出している人はいませんからね。

それに対して子供は「ちょっと大変」なんですね。
風に対して負けないように「前へ」と向かっていきます。

この前へと向かっていく様子に「元気」を見つけました。
「元気」ですから「明るい」んです。

カラダは飛ばされそう、
でもそれを楽しんでいる様子がとてもよかったんです。
こういう気持ちを忘れずにいたいなぁと本気で思いました。

| | コメント (0)

無駄な動きと無駄をとった動き

昨日は友人の結婚式。

そこで巫女さんの動きを興味深く見させてもらいました。
どうしてこういう「作法」になるのだろう・・・。

階段を上り下りする時には身体を横(斜めなのかな?)に向けし、
お神酒を注ぐ時にも特徴的な動きをしていました。
もちろん歩く動きもそうです、手を振って歩く事などはありませんでした。

おそらくこういう作法に「解説用」の意味はついているのだと思います。
そういう説明を聞けば「なるほど」と分かってしまうかもしれません。

でもそれって「アタマ」でしかわかっていないから僕の中では
「3分の1」です。
アタマだけではなく、カラダとココロでも実感したい、そう思います。

武術、武道の型もそう。
天才的な開祖が型を作ります。
そこには後からくる人たちに上達して欲しい、という気持ちがあったはず。
なにかをつかんでもらいたい、とその型を作ったはずです。

型の中にある無駄に「見える」ものこそ大切にしていかなくてはいけないかなぁと。

そういえば巫女さんの動きを見ていると無駄に見える動きも
それぞれが組み合わさり、一つの動きになるときれいに見えます。
某大手の作業場でストップウォッチを片手に、どう動くか、どう歩くかまで
マニュアルとして決められているという動きをおもいだしました。
こっちは最大限に無駄を省いていった動きなのにね、不思議です^^

では今日も一日楽しく、元気に!

| | コメント (0)

悪い姿勢は「無い」

この2日、たっぷり稽古できたせいか、
ずいぶんと内側の力について言葉も上手になってきました。
言葉が生まれればそれだけ「意識」が強く持てます。(これが良いのか悪いのかはわかりませんが^^)

その中でこれまで考えてきた事が大きくひっくり返るような気づきがありました。

姿勢についてです。
稽古の中ではこの姿勢についてこれまで何度も触れてきましたね。

流れを意識して、正中線と丹田と・・・まっすぐ、力強く、そして柔らかくを意識して姿勢を「作って」きました。
でもこれ、もしかしたら違っていたかも。

というのは全部「外側」なんです。
姿勢という形を作るわけですから、外側ですよね。
この外側を正しく、まっすぐ作れば当然丈夫になります。
でもそれだけでは足りない・・・内側の力が。

外側はどうでも良いかもしれません・・・
内側に力が有るのか、無いのか、それだけが問題な様な気がしてきました。

カラダをつかって生活をしていた時代、おそらくその頃はだれでもその内側に力を持って生きていたはずです。便利な機械はありませんからね。
内側に力をもっていればどんな仕事、どんな動きでも「あり」の様な気がします。
それが力仕事のように力が目立つものでも、茶道のようなやさしく、柔らかい動きでも・・・です。

寝転がっても、立ち上がっても、肘をついても、怒っても、笑っても、あくびをしても、・・・お行儀の悪い姿勢はあっても「科学的に?」やってはいけない姿勢は無いと思います。
求めるべきは「力のある姿勢」。

その力を有して、なにをするかは「自分」に戻ってきます。
自分がなにをしたいか、決める。
その上でそれを全力で精一杯やる、そこに生きていく充実感が生まれてくるのではないでしょうか。

| | コメント (0)

元気

この前小学校へ授業参観にいきました。

学級崩壊というような問題はなく、実に平和な授業でしたが、
子供たちを見ていると色々と考えさせられます。

元気ってなんだろうなぁ~

最近カラダを見ていると内側と外側に力があることに気づきました。

その内側を「元気さ」と表現してもあまり違和感が無いかもしれません。
例えば手を上げるという事。
授業の中でもみんな手を上げていました。まぁ大きな声をだして。

でもそれは全力なのか?

子どもの頃を思い出すと「ただ手をあげる」だけでは、
叱られていたような気がします。

「もっとちゃんと上げなさい!」

この時まっすぐ手を上げてみてもそれだけでは足らなかったように思います。
姿勢はもちろんまっすぐ、手もしっかり上げて・・・それでも足らない。
何が足らない?

真剣さ、元気さです。

気持ちまでも見てくれていた先生がいなかっただろうか?
朝の朝礼でもしっかりとした姿勢で立ち、
気を入れていなければ注意をされていなかった?

いつの間にか黙っていれば何も言われなくなっていない?
姿勢も元気も見れる先生がいなくなっちゃったのかな?

「型」について。
手を上げるという技の型がここにありそうですね。
しっかりと限界までカラダを使う。これ「外側」です。
その限界から「元気よく」さらに上げる事で
「内側」の力を引き出してくれていたような・・・

なかなか子供たちとカラダだけの稽古をする機会は少ないですが、
自分のカラダですからねぇ、信頼だけは持たせてあげたいものです。

では、今日も楽しく!良い日でありますように。

| | コメント (0)

気づく、変わる

カラダラボで伝えたい事は「変化」すると言う事。
これは「成長」と言っても良いし、「可能性」と考えてもらっても良いです。
自分のカラダはまだまだ不思議な何かが
たくさん眠っている、という事を感じてもらいたいと思っています。

それは言葉を通してでもそうだな、と今日思いました。
同じ言葉を通しても、
その言葉はカラダが変わる前の解釈と変わった後の解釈では
全然違うと思うんですね。

だとするとその変化を伝えていくにはそれを残していかなくてはいけないですね。
ココロに浮かんだこと、カラダが感じたこと、上手に出していければなぁ、
と思います。

|

仙腸関節って・・・

月曜稽古、お疲れ様でした。
この月曜日はメンバーが固まってきて、ずいぶんと「研究」をさせていただけるようになりました。

今日の稽古、終わり間際に「仙腸関節」に動きがはっきりと感じられて、それを試していたらこれまでにない力が生まれているのに気がつきました。

この感覚に気がついたのも、やはりオオタさんが力いっぱい抵抗してくれたから。自分の技と力がうまく伝わっていないという事を自覚させてくれたからですね。

棒を押し合う稽古をした時に、どうしても力が単純になってしまい、うまく入っていけません。力を伝えられない、という事です。なぜだろうと考えてみるとやはり、力が棒を伝わっている事で動きが単純化されてしまい、読まれやすくなったのでしょう。

どうすればいいんだろう・・・

頭に浮かんだのは棒に弾丸のように回転を与えてみるという事。最初は手をつかってそれを表現しようと工夫をしましたが、やはりうまくはいきません。方向性が間違っていない、という事はわかりましたが、どうすればもっと滑らかに行なえるんだろう・・・と考えながらの稽古です。

自分の力を止められていた時にふと腰のあたりに動きが生まれていました。ちょうどこの動きが棒に回転を与えているんですね。棒に回転を与えながら手に集めた体重を降ろして前に進めていくと、これがなかなかいいみたいです。

仙腸関節が3次元的に動いているからなのか、相手にもその3次元的な動きが伝わっていくみたいです。

動画は腰をしっかり抑えられても動ける様子です。
手を上げる動きと同じで、自分の腰を楽に動かせる「道」がみつかったのかもしれません。

http://jp.youtube.com/watch?v=3zzOXrKmTt0

http://jp.youtube.com/watch?v=ri1bKh68kNE

|

なにが違うんだろう・・・

ふと入ったコンビニで気になる事がありました。

コーヒーを買いにレジへ・・・。
そこでの出来事。お決まりの挨拶、お金を渡し、レジを打つ。そしておつりをもらい、ありがとうの一言。その流れの中で「気になる」事が何一つ「無い」のだ!!

アルバイトだからというのも無いし、かといって不自然なサービスも無い。淡々と仕事をこなしてぶっきらぼうかといえばそうでもない。レジを打つ動きにも無駄が無いし、とにかく残ったものは「気持ちよさ」だけでした。

若い男性の店員でしたが、外見上では特に目立った様子も無いし・・・。

ふと頭に浮かんだものは七人の侍。人材を集める時になにを見るのか、つまり「人を見る目」なのだけれども、ぱっとであった瞬間にこの人欲しい、と思わせることってあるんだなぁと思いました。

よくわからない話ですが、お伝えしたくて書きました^^

| | コメント (4)

驚!ナンバ歩き

ナンバ歩きは手を振らない。

でも歩く時には手が揺れてしまう。でもナンバの動きを習得するのだ、と「振らない」事を意識して歩くのは不自然だ。

だから今まで「自然」にナンバで歩く事って難しいなぁと思っていた。

昨日手を振らない事が「楽」、「力」になるという事がわかった!

ナンバ歩きが普通になるかもしれない・・・

| | コメント (0)

親指を隠せ

先ほど爆笑問題が出ているテレビの中で「霊柩車をみたら親指を隠せ」という話が出ていました。

そういえばそんな事もあったなぁ。

ふと何気に親指を隠してみたところ、いつもと違う・・・。

親指の隠し方にもレベルがあるのかも。そう思った。

胸鎖関節でも感じた事だけども、今の人の体の動かし方は繋がらない。だからこそ手先や足先だけを動かしてしまうわけです。末端である親指を隠してみる事はおそらく誰にでも出来るはず。ではこの親指を隠した力がどうカラダをめぐっていくのか・・・それを感じてみました。

細かいところは省きますが、カラダの奥のほうへと進んでいくのは間違いない。その進んでいった先に現れる感覚にそっと耳を傾けてみるといろいろとアタマに浮かぶ事がある。そこに何かがあるのではないだろうか。

と、良い稽古が出来た後は何気ない一言からでも妄想が広がり人生が楽しくなります(笑)

| | コメント (0)

交差する胸鎖関節

もちろん実際には胸鎖関節は交わらない。

ただ、その感覚は「交差」しているんです。
この「交差」によって何が変わるかといえば上方向へと体重が動くという事。体重が動くというのは最近の話で言えば自分の全力を上方向へとそのまま移動させる事が出来るようになったのです。

上へと向かっていけばその先にあるのは指先になるのですが、手の平に自分の体重が全部集まるような感覚が・・・。

そして「感覚」だけではなく実際にそこに「重さ」が生まれてくるようです。この感覚で崩されると結構楽しいみたいです。次の稽古会、ちょっと期待して良いかも知れません^^

| | コメント (0)

胸鎖関節で気づいた「全力」

胸鎖関節に興味が出てきて1ヶ月。よくぞここまで動きが変わってきたものだ。アタマで想像していた事とはまったく違った感覚があるからこそ、新しい自分の世界をもてたように感じる。

カラダラボを始めたのはカラダを通して自分の世界を拓いていく楽しさを伝えたかったから。胸鎖関節を意識してただ振り子のようにする稚拙な動きでも楽しさを感じる事ができる。この先、「術」と呼べるほどにまで展開して行ってくれるだろうか?

さてなにがそこまで楽しませてくれるのだろうか?

一つは胸鎖関節を意識できた事で、自分の「全力」を考える事ができた事にある。「全力」とは簡単な言葉だし、これまで何度も耳にしてきた。普段道場で子供たちにまずは「気持ち」を入れなさい、と指導もしてきた。

でも「全力」を使うというのはどういうことだろう。自分が「全力」を使っているのを実感できていただろうか。なかなか「全力」では動けない。

先日北京オリンピックが閉幕したが、マラソンのような長い時間を使ってうごけば「全力」を使い切る事ができるだろうか。

私の場合、たぶん無理。途中でアタマが「辛い」と思ってしまい、あきらめてしまうだろう。全力を使い切るまでどれだけかかっても良い、と無限の時間を与えられても「全力」を使えるほど根性は無い。

例えば根性がすごくあったとしても、ただ「一歩」脚を踏み出すだけに「全力」を使いきれるだろうか?ただ箸に手を伸ばすだけに「全力」を使い切る事ができるだろうか?

当たり前の生活の中で「全力」を使い切っている実感を得る事はやっぱり難しい。アタマで「こうしよう」「こうするべきだ」と分かっていても、ついつい別のことを考えてしまう。ただ目の前の事に「集中」するのは難しい。

「全力」と「集中」は似ているのかもしれない。カラダの力を全部使う「全力」とココロを集める「集中」。胸鎖関節の動きはココロまで届いていく気がする。

胸鎖関節が動く事で感じられるようになったのは自分の「体重」。体重がわずかな操作で動くようになったということ。そしてその体重に方向性を持たせることができる。これまで体重を操作するのには膝を抜く事が多かった。最初楽しかった膝を抜く動きも、動きを重ねていく中でやはり慣れていく。この慣れを感じて楽しくなくなっていくのはたぶん成長しているからだろう。過去の技術に囚われることなく楽しさを道しるべに自分の中をもっと拓いていきたい。

まとめ切れなくてちょっと長くなってしまいました。また続きは今度。

|

胸鎖関節その2

胸鎖関節が動く事でなぜこれほど変わってくるのか?

人間の事だから「ココロ」の働きは絶対にあるはず。動く事で楽しさを感じ、未来に可能性を期待する。期待の前借をしているのかもしれない。このまま終ってしまえば、前借した分のお返しが必要なので、楽しさ以外のところで成果を残しておかないと、後で苦労してしまう。

「術」というと難しさを感じるけれども、単純に胸鎖関節間の距離が短い、という事が働きを生む一つの原因だと思う。左右の切り返しがこの2つの間で行なわれるのだから、早いに決まっている。デンデン太鼓や竹とんぼをイメージしてもらうと分かりやすいだろうか?軸の太い竹とんぼは廻しにくいですよね。

そういう意味で考えると、「背骨」は「正中線」となり、背骨で回れば軸が作りやすいような気がする・・・。でも今までは難しかった。背骨を正中線として軸にするというのは武道で言えば「当たり前」になるかもしれません。でもなかなかうまくは使えない。働きが無かったんですね。その正中線が結果として出来たものではなく、背骨ありきで作ってしまったからかな。

胸鎖関節を指で触りながら左右に振ってみる。

「意識」しようとしても難しいですが、「触れて」いれば自然と意識が向いていきます。股関節の時と比べてもずいぶんと意識しやすいと思います。振っていくと遠心力なのか、肘が外へと飛び出していくような力に気づくはずです。自分の中から「生まれてくる」力は大切ですから、これを大事にしてください。ブンブン、と振りながら飛ばしてみましょう。動きがあれば支点が分かりやすいはず。

これであってる・・・?と聞くよりも何が楽しいかを探すつもりで、工夫してみてください。

|

胸鎖関節について

分かりやすそうで、わかりにくい「らしい」胸鎖関節について・・・

この胸鎖関節の使い方は「術」と言って良いのか、ちょっと迷っています。というのも、使い方としては「ムチ」の原理だから。ムチというのはあの猛獣をてなづけるためのムチ。ピッチャーがボールを投げる時に使うムチの原理です。

つまり「術」と呼べるかどうかわからないレベルなわけです。

でも、これが効く。体験した人は分かりますが、重いし速い。無駄が少ない・・・ムチなのに。

考えたのはこれこそ人間が持っている構造のチカラだという事。つまり誰でも胸鎖関節という構造をもっているわけで、それをちゃんと使うとこれぐらいは出来るでしょ!という事。運動オンチだから関節が無い、という事はないしね。

おそらくここが新しいスタートなんだと思います。
このムチの原理からどう術に展開していくか。そこがこの先の楽しみでしょう。

あまり考えずに素直にカラダを楽しんでみてください。
ポイントはまず「触ってみる」という事。やはり感覚は重要で、気にしなくても気になりますからね。そして振り子のように手を振る、胸鎖関節を支点にして。

|

カラダの受身、ココロの受身

 おはようございます。

 あれだけ暑かったのに、昨日は雨の影響もあって涼しさを感じる事ができまして。それでも道場でココロを集中して稽古していると汗がじわっとでてきます。眠るときでもこれまで布団も要らなかったのが、朝方などはなんか寒い・・・体調を壊してはいけないなぁ、と思っていたら鼻水が出てきてるし・・・う~ん、カラダは正直です^^

 昨日の定例稽古は胸鎖関節をテーマに研究を進めました。前日に胸鎖関節の働きとして受身があるのではないかと気づき、受身を通して稽古をしてみました。受身は一人で稽古できるので、家でなにをしたら良いのか、という悩みを持っている人の手がかりになりそうです。

 受身というとなんだか敷居が高いですが、動けなくなったときにどう動くか、だと思ってください。例えば転んで怪我をするのは、転んだときにカラダが固まってしまうから。衝撃が逃げないんですね。動きを止めない、固めない、というのは稽古を始めたときからのテーマでしたが、どこまでできれば合格なのかがよくわからないんです。自分の中の「のびのび」さがよくわかりません。昨日の受身からこれまで「のびのび」を求めて稽古してきたけれども全然足りていなかった、という事がよくわかりました。

 稽古の仕方は簡単です。受身というよりも寝返りをうつ程度でもかまいません。左右に寝返りをうってみると、背中がついたときにちょっと動きが止まります。もしこれが1メートル上から落ちてきたと考えてみると、痛そうです^^その圧力が出てきた時にどう動くか・・・普通の使い方では体重が動く事はありません。そのまま落ちていくだけです。でもこの状態であっても胸鎖関節は動くんですね。つまりくるりと胸鎖関節を動かしてみると、カラダ全体が自然とくるりと回ります。

 寝返りを続ける事が、受身の稽古になっちゃうんです。ちょっと今日は細かい話になってしまいましたが、これも目で見てやってみれば簡単です。変な稽古ですが(笑)寝転んでなにやっているんだろう・・・そんな感じでしょうか^^

 カラダが動かない、ということで考えてみると、普段私たちは色んなものに縛られています。それは約束とか、責任とか、夢や希望にも縛られているかもしれません。ストレスをカラダが感じると、それだけ動きが止まります。なかなか動く事ができません。こういう状態は実際にカラダを抑えられているときと同じなんです。激突する瞬間にカラダが固まるような状態です。問題を突きつけられて、カラダを固めてしまえば、その問題に押しつぶされてしまい、ココロが怪我をしてしまうかもしれません。

 カラダが動くという事はココロも動くということです。苦しい状況で足は動かなくても、胸鎖関節のように深いところにあるものは動きます。カラダを通して受身を学び、ココロでも受身が取れるようになれば良いですよね。なぜ今の時代に「武術」をわざわざ稽古するのか、そんな事がちょっとわかった気がします^^今度丁寧に稽古しますからね。

 分からない事、気になった事があればメールください。

 jun@karadalab.com

|

発想の転換

昨日面白い感覚があったので報告します。今日はちょっと「技術」的です。僕的にはココロも十分に技術的なんですが、どうしても言葉にするとあやふやになってしまうので、今日はしっかり「カラダ」を意識して書いてみますね。

状況で言えば、ベッドに座っている人を車椅子に移動させたい時の技です。色々な方の話を聞いていると、人によって、施設によって「方法」は違うようです。当たり前ですよね、移動させる人、移動される人、みな同じではありません。体格差、カラダの状況、全部違ってきます。ですからこれから紹介する技も、これが「正しい」というわけではありません。参考程度で聞いてください。

見た目の形としては座っている人を立たせずに、そのまま抱えて向きをかえ、イスに移動しているように見えます。目で見た動きをそのまま行おうとすると、手で「上げたく」なってきます。でも上げてしまえば、やっぱり「重い」です。大切なのは上げない事。でも目で見ると、上げているように見えるので、上げたくなる。このギャップをどう埋めるかがポイントみたいですね。

これまでも「似たような」動きで工夫をしてきましたが、これほど「上げない」ですむとは思いもよりませんでした。実際に技として形になってみれば、どうして気づかなかったかな?と思えますが、仕方ありません(笑)

上げずにどうすれば抱えた形を作れるかと考えてみると、「相手よりも小さくなる」しかありません。正座をして相手の正面(少し角度をつけたほうがいい時もあります)に座り、相手のわきの下に自分の頭を入れカラダを少し前に倒しながら肩に乗せる様な感じで体重をこちらへ少しずつ移動させます。

ココからがポイントです。肩に乗ってきた相手の体重を感じながら、自分がもう一段「小さく」なってみましょう。肩で支えていたのが背中に移ってくるように意識してください。自分は小さく丸まるようになってもいいので、とにかく「小さく」なります。しっかりと相手の体重をもらうことができると、相手のお尻が浮いてきます。この時手で少し誘いをかけてもいいですが、決して力で上げてはいけません。

浮いてくればイスの方向へと自分のカラダ全体が向き変われば、後は腰を下ろしてもらうだけです。相手の体が前へと倒れる事で、お尻が浮き、そのままの形で向き変わり、ゆっくりとお尻を下ろしてもらいます。それだけの動きで上げることなく移動する事ができます。

上から(自分は立ったまま)という形にこだわってしまえば、どうしても相手を引き上げなくてはいけません。いかに楽に出来るか、負担をなくすかと言う事を第一に考えて工夫をすればまだまだ変わって行きそうです。講座では「手順」を伝えて技ができるようになる事を第一にはしていません。色々な技を通して発想を転換する楽しさを知ってもらいと思っています。

今介護を必要としない男性陣にも「発想をかえる」と言う点ではパズルのように楽しいと思います。力の強い男性はどうしても自分の力に頼ってしまいますから。もう「手はつかわない」それぐらいの気持ちで向かってみてもいいかもしれませんね。

目で見れば、体感すればすぐの事もやっぱり「言葉」にすればこれでも足らないぐらいです^^なにげない言葉で落ち込んじゃう事も多いですが、うまく使えば言葉で気持ちよくさせる事も簡単なはずです^^言葉に振り回されないようにしたいですね。そのためには言葉を「感じる」ことが必要なのかなぁと思っています。また意見を聞かせてください。

|

ありがとう

昨年、中日文化センターの方から「古武術の講座」を依頼され時、自分が伝えたい事が、「講座」という形で伝える事ができるだろうか・・・と考えました。というのも、普段の私のスタイルというのはカリキュラムのようなものがないからです。常に今の自分に必要なもの、求めているものはなんだろう・・・と問いかけながらしているからです。

普段の稽古というのは時間も自由、内容も自由、自由だからこそ「自分は何を?」という事が求められます。それに対して、文化センターの講座では時間が定められていますから、始まるまではとても不安でした。求められている事も「介護の技」が中心だという事もわかっていましたから。

技としての「手順」を伝えるだけなら、カリキュラムを作って伝える事のほうが有効かもしれません。ただそれでは「自分が変わる」という事が伝わらないと考えたのです。自分が「技」を学ぼうと思っていた時には全然上達しなかったからかもしれませんが。

「技」を学ぶのではなく、自分を観る、という事が大切だと知ってからは常に発見の連続、甲野先生がよく言われるように「スランプ」はなくなりました。誰かと競い合う事で、自分を見つけるのではなく、今の自分の殻を破りつづける事で自分というものを考えて欲しかったのです。だからこそスタイルを変えずに「カリキュラムを作らないまま」で講座をスタートさせました。

不安の中ではじめた文化センターでの講座でしたが、そこで大きな出会いがいくつもありました。自分が伝えたい事は、言葉ではなく、姿勢で伝わっていくことが分かったのです。気がつけば本当に伝えたい事を理解してくれた人もいます。この事実にどれだけ勇気をもらったか分かりません。

勇気をもらうたびに、やはりカラダを通してココロを伝えていこう、という気持ちが強くなってきました。生き方に正解はありません。ただ自分の納得できる道を探すだけです。その時自分のカラダの声、ココロの声が聞こえればどんな結果が生まれてきたとしての、受け入れる事ができるはずです。形だけの強さでなく、そういう人間としての強さを求めて稽古を続けているんですね、一緒にがんばりましょう^^

|

中日文化センター岡崎での講座

中日文化センター岡崎での講座「古武術に学ぶ身体操法」が始まりました。
どういう宣伝、告知をしたかは分かりませんが、平日のお昼だというのに満席になってしまいました。・・・という事で、急遽2部構成で行うことになりました。

合計で35人ぐらいの講座ですが、内わけがすごい!
女34男1・・・信じられません。

昔々、甲野先生を迎えての稽古会では、「武道系」ばかりだったし、介護への展開が出てきたといっても、男性がやはり中心でした。

時代は変わるものですね。
女性相手の稽古は必然的に柔らかさが求められます。この柔らかな稽古が今私がおこなっている技を伸ばしてくれた大きな要因です。女性でも出来るように、力でなく、感覚を伝える事を第一に考えていたら、自然と余分な力みが消えてしまった気がします。

初めての稽古なので「流れ」をついやってしまいましたが、これは私の中の自信の無さの現われですね(笑)
「それ」をやればよかったのかなぁ^^

|

「選択」という事

甲野先生に同行させていただいた「若手経営者」への講演会。武術そのものには興味のない人へどのような切り口で話されるのか、じかに感じたくて同行をお願いさせていただきました。

技そのものを「稽古する」会ではないので、いかにその人たちのココロに届かせるのかを見せていただきました。稽古会でも言われていたと思いますが、今の先生の動きというのは「過渡期」だそうです。どう変化していくのか、ご自身でもわからないそうです。

普段は今一番真剣に取り組んでいるものを材料に色々と組み立てていくそうですが、その材料があまりにも「普通の」考えからは飛躍していますからね(翼や蹴りの事です)。この20年ぐらいで一番困った、と言われていました。とはいえ、横で見ているとそんなに困っているようには見えないし、むしろ何かを模索しているようで、楽しそうに見えてしまいましたが・・・。

その講演の中でココロに残ったのは「なにを選択するか」という事。ちょうどその日の午前中、先生の後ろの「それ」を見つけたばかりでしたから、自分が「見る」という事をずっと考えていたからかもしれませんね。

自分が選択するとは、どこから何を見ていくかを決めるという事でしょう。人間は見たいものしか見ないし、聞きたいものしか聞こえない、といいます。「あれを見なさい」といわれても、形そのものをみるのか、その後ろにある考え方をみるのか、その人の中で必要としてしているものしか見えないはずです。

そして世の中では形として現れてこないものばかりですよね。その形として現れてこない不安を「科学的根拠」という所に安心をもとめてしまうように思えます。

まずは自分がみている枠を広げていく事。その広がった中で「なにを」見ていくかを決めていきたいと思いました。カラダからのメッセージは強烈です。その感覚に振り回されてしまうことも多いですが、一つ一つを経験にしていければいいなぁ・・・。

|

「怖い」言葉の力

何か新しいカラダの使い方、術理に気がつくと興奮します。この術理を使いこなしたらどうなるんだろうか・・・。夢のような「あの達人」のようになれるんだろうか・・・つい期待してしまう。

今現在で言うと「それ」ですね。この使い方を共有しようと色々とあの手この手で解説をします。決められた「指導法」があるわけではないので、その人に一番伝わりそうな説明をするわけです。

最初興奮気味に説明していた事も、何度も何度も繰り返すうちに自分の中でどんどんと当たり前になっていくわけです。ちょっと「怖いな」と思いました。

何が怖いかといえば、うそもホントになってしまうかもしれない・・・ということ。自己啓発系、願望達成の術を読むと頭は現実と夢とを区別できない、とあります。うそなのかホントなのかを判別せずに全てを無意識は求め続けるのだそうです。

最初「ある」と感じた「それ」がたくさんの人に伝える事で、どんどんと実感になっていくんですね。触れているだけでも、離れていても、そして見ていなくても・・・相手の中心となる「それ」を意識しているのといないのとでは全然その後の対応が違ってきます。

自分の中で生まれてきた実感だったので、大きく育ってきた事を認めることも出来ますが、これが「気」であったり実感の無い「丹田」だったら大変な事です。

あると思って話し続けているうちに、頭の中でどんどんと想像力を膨らませてしまうのかな?自分の実感とはかけ離れて言ってしまうような気がします。能力だけで自分の優劣を決めるのならそれもいいでしょう。ただそれは楽しくないかもしれません。

お金があっても楽しくない、幸せになれない、そういうことを良くききます。今の時代潜在能力を活用させる「マニュアル」はたくさんあります。そこではほぼ100%自分が「できる」事を疑わない、それどころか「できてしまった」事を当たり前として行動しようといわれています。言葉は悪いですが、自分をどんどんとだましていくのかもしれません。

整体協会の野口先生だったと思いますが、ある会で(七夕の会だったかな)願い事は完了形で、ありがとうという形で書くといいですよ、といわれたそうです。そういわれると受講生はみんな書きますよね、自分の願望を。その方法をつかって。

やはり願い事は「自分の事」ばかりだったようです。その時にさりげないく野口先生は来年はもう少し自分以外の人の幸せを願う人が増えればね・・・といわれたそうです。

そんな事を思い出しました。

|

人としての「器」

ここ数日甲野先生から大きな衝撃を受けた事で、自分の中でも戸惑っています。
何とか伝えたくて言葉にして、書いたもの、話した事を検証してみると、そこに「ズレ」があることに気づきます。違うなぁ・・・そんなことを感じながらも、形にしていかないととの思いがあるので、それを繰り返しています。

ふと成功と失敗について考えました。
成功の反対は失敗といわれますが、現実には失敗ではなくて「行動しないこと」なのかもしれません。この辺りの話は小冊子にも書きましたが、イメージとして浮かんだ事があるので聞いてください。

失敗の一つ一つは「ダメ」なものかもしれません。第三者から見れば役に立たないものばかりでしょう。でもその失敗を繰り返していくといつか必ず成功します。ではこの成功はゴールなのかな?自転車に乗れない子供がいます。彼が失敗を繰り返し、乗れるようになった、それがゴールだとするともっと先の技術は出てきませんね。

成功した、うまくいったと同時に新しい「枠」が広がっているのではないかと感じます。ただこの枠を見ないようにしてしまうと、今の技術で停滞してしまうわけです。「枠」は「器」と言い換えた方がしっくりくるのかな?

例えばこんなイメージです。
大きなビーカーのような容器に小さなボールを入れていきます。一つ一つのボールは失敗です。この失敗が積み重なっていき、あるラインを超えたとき、ビーカーからボールが溢れた時、これが成功です。運良く大きな失敗を乗り越える事が出来たとしたら、一気に成功へと近づくはずです。ただ失敗が積み重なっていく時には怖いでしょうね、やっぱり。

では溢れたボールはどこに行くのか、ビーカーの外にまた一回り大きな容器があるような気がします。これ、人間の器じゃないかなぁ、と。器を広げていくためには、経験が必要です。その経験は失敗を恐れていてはなかなか広がっていきません。どう失敗を楽しく積み重ねていくか、ココが人生が楽しくなるかどうかのポイントではないでしょうか。

生活の中でどこでもこの経験はつめるはずです。
仕事でも学校でも子育てでも、家族間の人間関係でもそうです。それを「武術」という枠で考えてみると、短時間で多くの事を楽しく学べるような気がします。

稽古を通して、自分のカラダが変わり、もてないものが持ち上がったり、今までよりもつよいボールが打てたりというのは結果です。出来ればうれしいですが、それだけを伝えたくてこの仕事を一生の仕事として選んだわけではありません。

ただそれをどう伝えていくか、いつも試行錯誤です^^
失敗のボールを積み重ねている途中です(笑)

|

カカトを踏む使い方 その4

 では実際にどう「カカト」を意識していくのか。そこを詳しく書いていきましょう。まず大切なのは、カカトを押し出す感覚です。カカト自体は動きませんから、体重をカカトを通して地面へと伝えていく事が必要になります。
 
  「力を入れる」事では体重は生かしきれません。自分の体重が上から下へ降りていくのを感じながら、カカトで着地をしてみます。この時に足首が力まないようにするといいのかな、カカトで地面を引きずるように摩擦力を感じてみましょう。
 
  最初から不慣れなカカトの感覚は分かりづらいですよね。だからこそ、敏感な「手のひら」を使って実験をしてみます。手を開いて、指先をつま先、親指の付け根辺りをカカトとして考えてみましょう。ぺったりと床に手を置いて、指先、手首と交互に体重を乗せてみてください。この時「指のアーチ」を作ってみてもいいですね。
 
  真っ直ぐに降ろすよりも、横に押し出した方が強く地面を押し出せるような気がしませんか?特に親指の付け根は動かしにくいですので、カラダの重さが実感しやすいと思います。カラダの重さが跳ね返ってくるのをしっかりカラダで確認してみてください。しっかりと親指の付け根に体重が乗ると指先が浮いてきませんか。指先の余分な力がこれで抜けてくるはずです。
 
  この手のひらで感じた「跳ね返って来る力」を足の裏で再現してみましょう。カカトをそぉ~っと降ろし、横へ押し出すように重さをかけていきます。「踏む」事を意識しすぎてつま先に力が入ってしまう人は、むりに「踏む」事を意識しなくても大丈夫です。重さが「カカト」から出て行くことを考えてみましょう。
 
  カカトがずれ、地面との間に摩擦力が生まれてきます。下から上へと力が上がってくるのを感じてみましょう。足元から生まれた力が頭を揺らすように・・・ぐっ、ぐっ、と感覚を確かめながら踏んでみてください。
 
  少しずつ跳ね返ってくる重さに身をゆだねるようにして、カラダを飛ばしていきます。いきなり何メートルも飛ばなくていいですからね。最初は10センチでも良いと思います。無理に飛ぼうとするとそれまでの使い方が出てきてしまいますからね。自分のカラダの重さが自分のカラダを飛ばす力になる事を確かめてみてください。

講座・稽古の予定はカラダラボのサイトで

|

カカトを踏む使い方 その3

 新しいつま先の使い方でできる事が広がりました。最初は左右への飛び出しぐらいにしか使えなかった動きも、検証を続けるうちに、より細かな操作が出来るようになってきます。だんだんと身についてくるようになるんですね。
 
  ひと通り、日常生活の動きや普段稽古している技に応用して、その効果を楽しむとそれまで「楽しかった」つま先の操作の中にも「ものたらない」場所が見えてきます。楽しかった事がつまらなくなるわけですから、損したように思えますが、実はこれが次へのステップへの信号なのです。
 
  自分の中にまた新しいものを見つけてやろう、という気持ちが生まれて来なければ次の成長は無いからです。自分が身につけた技、出来るようになった技を捨てる事はなかなか出来ないかもしれません。私自身もそうでしたからよく分かります。それでもココは声を大きくしてぜひ伝えていきたいところです。
 
  「今のカラダの使い方を手放す事で新しい自分が見えてくる」、という事を。
 
  さてこれほど早くに「つま先」の使い方に物足らなさを感じてきたのは、やはりココロの中で「カカト」をどう使うかが引っかかっていたからでしょう。つま先の動きも今までの中では一番速くて強い動きだったものの、どうしてもこれをこの先何年もずっと稽古していく気にはなれなかったのです。
 
  だからこそ、自分の中の細かな力みが分かったのかもしれません。つま先側だけでは処理しきれない重さに力んでしまっている場所が気になってきたのです。
 
  つま先を意識する事で、「貼りつく」感覚はずいぶんと分かるようになりました。次にする事はこの「貼りつく」感覚を「カカト」で出せないかという事です。カカトをただ降ろすだけでなく、接地してからすこし「押し出す」ようにしてしてみました。
 
  すると以前試した時では分からなかった「貼りつく」感覚がすこし生まれてきているように感じました。ただ、実際の動きとなると使いこなすところまでは程遠く、結果だけを求めてしまうと、「つま先」に頼りたくなりますが、もちろん後戻りはいけません。
 
  こういう姿勢で稽古していると、よく人から「先生は潔いですね~」と感心してもらえる事があります。そこは胸を張って威張りたいところですが、そんなにすごいわけではありません。これまでの稽古を通して「何度も」自分が変わる体験をしたからこそ、今の自分が大事にしているものを「手放す」事が出来るようになっただけです。慣れてしまっただけなんですね。
 
  なかなか伝えきれませんが、カラダの稽古の隠れたメリットはこういう考え方が身につくという事もあるのではないかと思っています。実生活の中、特に仕事の中で「手放す」習慣を身につけるという事は難しいですよね。失敗してはいけない、という怖れや不安がありますから。どれだけ自分が成長してもっともっと大きくなれるから・・・と言われても現実に自分の失敗を想像してしまえばなかなか手放せません。

  それがカラダの稽古でなら身につきますから。ウソだと思って試してみませんか(笑)?

講座・稽古の予定はカラダラボのサイトで

|

カカトを踏む使い方 その2

 つま先に貼りつき感が出てくることで「出来る事」を考えてみます。
 
  大きく眼で見て分かる変化は横への移動が速くなった事ですね。例えばサッカーやバスケットボールで相手を抜き去る時に使えそうです。ちょっとそんな様子をイメージしてみてください。
 
  では自分から見て左側から相手を抜くと考えてみましょう。この時どこから動き出して、どうやって力が入っていくでしょうか?多分ほとんどの人が「無意識」で動いているために、自分が「どうやって」動いているかは意識できないと思います。意識していなかった事を意識する事が自分の動きを変えていく一歩ですから、めんどくさがらずに考えてみてください。
 
 
  どうですか?難しいですか?
  色々と細かいところは違ってくるでしょうが、私の「普通」を書いてみます。
  1、まずは相手を認識、腰を落として次の動きの準備をします。
  2、(左に抜くと仮定しましたから)右足のつま先(親指辺りですね)に力を入れ、自分のカラダを斜めに入れていきます。
  3、勢いのせいで悪くなった姿勢を立て直しながら前へと走り抜けます。
 
  大雑把に書くとこうです。ただし、このままで使えるかと言えば無理ですよね。自分と同じ動きを相手がトレースしてくれば当然抑えられてしまいますから。だからこそ「右に行くと見せかけて、左」と言うようなフェイントが必要になるわけです。コメディー映画にありましたよね、相手の前で上体だけをブンブン振っているのを想像してみてください^^

 結局、自分が普通に使っている動きは相手も使えるために追いつかれてしまうわけです。タメができる、気配が出る、動き出しの初速が低い、カラダの中で置いてきぼりになってしまう場所が出来る。いろいろと原因は上げられるわけです。
 
  この状況を改善するためにカラダの運転の仕方を変えるわけですが、それが今回は「つま先の貼り付け」になるわけですね。左に行くために右足の親指に力をこめて飛び出す。これがダメな事はもう分かりますよね。居着いてしまって、動きを読まれてしまいますから。力を使いやすい筋肉に頼るのではなく、カラダの重さを使います。
 
  「左」に抜いていくためにまず最初に行なう事は、「右」に飛び出していく動きなのです。右に飛び出していき、右足が着地した時に脚を「力ませずに」、つま先が「ぴとっ」とはり付く感じを意識してみると自分の体重が地面にぶつかり跳ね返ってくる感覚が生まれます。
 
  足裏でブレーキをかけない、と言っても良いかもしれませんね。ついつい力の入りやすい親指を使わない事で、戻ってくる力を使う事が出来るようになるのです。ただ、右、左とカラダが動く事で普通の「フェイント」と何が違うの?という疑問が湧いてきます。
 
 この疑問は上手な人も下手な人も同じやり方でフェイントをしている、という思い込みから出てきています。上手な人と下手な人、そこにカラダの運転の仕方があると考えてみましょう。自分の動き方が変っていくからできなかった事が出来るように近づいて行くのですから。
 
  この動きを試してみると、自分もその動きにだまされているような感じがします(笑)。全力で右にカラダを飛ばしていったのに、足裏に意識を置いて、自分のカラダが丈夫になる事で、「勝手に」カラダが左側へ飛んでいくのです。自分がだまされるほどの動きであれば、少なくとも意識から出てくる「気配」は消えそうですよね。

講座・稽古の予定はカラダラボのサイトで

|

カカトを踏む使い方

なんだか毎日があっという間に過ぎてしまって、ついつい自分が説明していた事を忘れてしまいそうなのがとても心配です。

これまでのカラダの使い方の変化で「言葉」として残せてきたのは指アーチ(読みにくくてすいません、稽古で配布している小冊子のテキストですから、ご勘弁を。)までです。この指アーチに気づいて、工夫して・・・手のひらに張り付く感覚が生まれ、それがどうやら足の裏にも使えそうというところで終っています。

いつかは書かないとな・・・そんな事を思っていたらあっというに春になってしまいました。

最近はこの指のアーチから出てきた一連の使い方から別の線路へと進んでしまいましたから、この先説明する機会もさらに少なくなってしまいそうです。

というわけで、この場を借りて記録しておく事にしましょう。

小冊子「指アーチからの展開」のその後です。

足裏の貼り付け感が出てきたといっても、それはカカトではなく、つま先でした。ご存知のとおりつま先で「蹴って」動くというのは、ありえないわけです。それでもつま先に力がたまり、勢いに変わりそうな予感がするわけです。

この時、自分のココロの中で強い葛藤というか、迷いが出てきたのを覚えています。知識としては「蹴ってはいけない」。でもつま先が床に強く入っていくと「体幹部」が勢いよく動く・・・。このままこの使い方を研究していってもいいのだろうか。

迷った時は「楽しい方」。これは私の稽古の一番の基本です。なにかを期待して、ノルマをかけて稽古して成果が出るほど私に才能はありません。これまでずっと上達を続けてこれたのは楽しく稽古できたからだと思っています。だからこそ、「楽しさ優先」で選択しました。

研究モードとなって使い方をよくみてみると、どうやら「普通に蹴って」動いているのとは違うようです。脚の力で蹴っているのではなく、体重が力となって、つま先から地面に入っているようです。この時つま先のアソビがうまく取れている状態が「貼りつき感」を生み出しているようでした。

「蹴っていない」という事がわかった時には正直、ほっとしました。これで「強く蹴って動け~」なんて言い出したら、甲野先生にあわす顔がありませんから^^;

おそらく「カカト」と「つま先」のどちらが意識しやすいか、といえば私の場合は「つま先」だったんでしょう。もしかしたらいきなりカカトで実感できる人もいるかもしれませんが、私には無理でした。カカトを意識すると、動くどころか、立っていられませんし。

つま先の貼りつき感で遊ぶ稽古がしばらく続きます・・・。

カラダラボのサイト

|

力がぶつかるという事

対人での稽古の良さというのはなにより、「問題点が明確になる」という事だと思います。

例えば相手に手を押さえてもらった時に、つい力が入ってしまう場所があります。大抵の場合この力がぶつかった事で自然さが失われ、「できない」状況が生まれてきます。

問題はこの「できない」状況をどう考えるかですね。「できない」事を感情的に引っ張られてしまえば、そこからあせりや不安や劣等感などが出てきて余計に悪循環です。すこし冷静になってみて、「できない」事を受け入れてみる事が次の一歩に繋がってくるようです。

どう力がぶつかっていて「できない」のか、それがわかると、ぶつかっている部分を流してあげるという選択肢がカラダの感覚を通して見えてきます。もしかしたらそこを「通らない」ようにする力の道が見えてくるかもしれません。

とにかく「できない」状況を体験させてくれる自分よりも「できる」人というのは貴重な存在なんです。感謝しましょう^^

話はかわりますが、脇がしまり自分の動きだけで自然と力が集まってくる事がわかると、その力のおかげで、自分のカラダの中のゆがみが現れてくる事にきづきました。

例えば私のカラダの場合左の脇を締めて、力がぐぅ~と入ってくると、右肩があがってきます、回り込みながら。どうやらこれが普段から自分の中にあった「余分」な力だったみたいです。この力を抜いてみると、今までに感じた事の無いほど肩が軽くなってきます。

自分の中にこれほど力みとして力が入っていたと、これまで分からなかったのですね。改めて気づく事の大切さを知りました。

|

ピアノと身体操法

明日(もう今日か・・・)、長年の稽古仲間であるエリちゃんの卒業演奏会が名古屋で開かれます。名古屋音楽大学の4年生ですが、なんと学園一位となっての代表での演奏だそうです。すごいですよね!

彼女はもう5年ぐらい稽古しているのですが、とにかくつかみ所が無いわけです。もともと「武道」の方に入ってきたのですが、2年ぐらい経った時「身体って不思議ですね」と言われ、今まで気がつかなかったの!?と驚かされた覚えがあります・・・。

その後ピアノにも生かせるような身体の工夫の仕方を「勝手に」言わせてもらい、それを彼女なりにまた「勝手に」工夫をしたんだと思いますが、それで結果を出しているのがなんともすごいです。

本人からは、ほとんど先生(一応私のこと^^)に身体の事を教えてくれたおかげです!と言われていますが、それはまちがい^^
教えただけで上手になれれば苦労はいりません。分かりますよね。

やっぱり自分の中で「すごい」と思えるような身体の感覚に感動できたからこそ、変ってこれたのだと思います。もちろん最初の「人の話を聞く」というのは大切な要素ですが、聞きすぎるとよくないんですね~(笑)

音楽の事はよくわかりませんが、間違いなく腕は上がっているのでしょう。自分が変われた要素というか、使い方を他の人に伝えていってくれればいいなぁ。

|

自信と勇気を分かちあう

日曜日はある講習会を受講しに「奈良」へ。
道中の車の中で、最近のカラダの使い方やこれから「なにを」「どう」伝えていけばいいのかを色々と考えました。(車で一人ですからね^^渋滞してるし。時間はたっぷりありました。)

体調が悪かった時にはマイナスな考えばかりが思い浮かびましたが、カゼもすっかりと良くなって、もう少し前向きな思考が出来るようになってきました。やっぱり繋がっているんですね、カラダとココロは。

考えている中で自分は何を伝えたいのか、という事をはっきりとした言葉に落とす事が出来ました。
それは「自信と勇気を分かちあう」という事。

自信と勇気。このどちらも自分の中ではずっと「コンプレックス」として抱えてきた問題です。甲野先生に出会い、カラダの感覚を教えてもらい、自分の中の感覚を掘り下げているうちに、気がついたらそのコンプレックスが消えていました。

逆に今は人の前に立ち、自分の考え方を話させて貰っています。以前の自分からでは考えられない事なんです。

世の中には自信がある人もいれば、無い人もいる。どっちが多いのかな、多分自信が無い人のほうが多いでしょう。幸せを感じて楽しそうに生きている人もいる一方、世の中に対して恨んでいる人もいるし、そういう事を考える暇も無く忙しく過ごしている人もいるでしょう。

自分自身が自信の無い人でしたから、どうしても力になってあげたいなぁ、と思うのはそういう人に対してなんです。(自信満々のひとは大丈夫!どんどん行っちゃってください^^)

ある程度稽古をしていると二つのタイプに分かれます。
自信のある人はこちらが何も言わなくても「すぐに」自分の感覚を伝え始めます。こっちがちょっと違うなぁ・・・と思っていてもお構い無しです。色々と間違いながらもどんどんと前に進んでいくんですね。

逆にずいぶんと技が出来るようになってきているのに、「まだまだ私は・・・」というタイプの人もいるんですね。私はこっちでした。ただ、私の場合はまわりを見たときに自分以外の人がこの「カラダの感覚」というのを知らなかったので、自然と「伝える側」にまわるしかなかったのです。自分がやらなくてはいけない「場」が与えられた事で、もう少し成長する事ができました。

人に何かを伝えるときってドキドキします。怖いんですね。自分の考えがあっているかどうかという事が。これが「答え」がちゃんとあるものなら心配は要らないでしょう。でもカラダに関していえば「正解」は無いわけです。自分がもっている「感覚」そのものを出していかなくてはいけないのです。自分の感覚って自分そのものじゃないですか。ココロの奥まで見られている感じがするんですね。

怖いけれどもそれを伝える事で、喜んでくれる人がいる。そこでなんだか自分が認められた気がしてくるんですね。

実はコンプレックスは自分にとって最大の長所になるところなんだよ、と教えてくれた人がいます。
本で読んだだけの知識ではそれを理解する事は出来なかったと思います。カラダを通して感じれたからこそ、今ようやく分かってきました。

先週の浜松の稽古会ではずいぶんと教える側にまわっていただきました。静岡の人たちも僕と似てますから、遠慮してるんです、もうすごく出来るのに(笑)
ありがとうございました。上手に丁寧に教えていて、一回り大きくなったように見えましたよ!

|

コミュニケーションについて

 身体を通して自分を見ていくと、思いもよらなかったところにも影響が出てきます。その1つが『コミュニケーション』。もともと私は人の前に立つのが苦手、当然話すのも苦手、コンプレックスがありました。

 その私が今、大勢の人の前に立ち、話し、動き方、生き方を伝えています。自分の中で何かが変わったのは確かです。その『なにか』が分かれば同じように困っている人の助けになるのでは、と思いこれを書いています。
 
  最近では『空気が読めない』事が流行語にも選ばれるほど問題になっています。本当に空気が読めないのでしょうか。私はちょっと違うと思っています。場の空気、雰囲気と言うのは確かにあって、ほとんどの方は感じていると思うのですね。
 
  問題はその空気に自分が負けてしまっているのではないか、と思っています。『会議』を例にあげて考えてみましょう。最近では会議自体をうまく廻す方法もいくつか出ていますが、ほとんどの場合は出口が見えないか、答えありきの『報告会』になっている事が多いのではないでしょうか。
 
  それこそ『空気の重い』席では手を上げて発言するのも勇気が要りますよね。いろいろな事が頭を巡り、自分が言わなくてもいいや・・・と答えを出した経験ありませんか?私はあります、しょっちゅうです。その度に反省をしますが、なかなか『空気の壁』は破れません。本当に重いんです・・・。
 
  つまり自分の心が作った怖れで身体が動かなくなってしまったのです。一度動かなくなってしまえば、普段どおりにはとても行きませんよね。そしてその動かなくなった自分を当たり前だと思ってしまうからこそ、どんどんと自分を尊敬できなくなってしまうと考えています。
 
  自分の事を尊敬できなければ、人に対して優しくなれるはずがありません。相手の嫌なところが目に付いたり、自分が少しでも不利にならないように無意識に守ってしまいます。どんな自分であってもそれを認めて、次の一歩を踏み出す力に変えることが出来ればいいなぁと思っています。
 
  そのためには小さなところから『練習』しなくてはいけないのですが、その練習こそ自分を丁寧に見つづける『武術』の稽古が最適なようです。身体が動くようになり、出来ない時にも冷静に自分を見つめれるようになると、全てが自分の気づきのために繋がっているような気になります。
 
  自分自身の残っている可能性を身体で感じれるようになったからこそ、ココロに余裕が生まれたのかな。『自信を持って』とはよく聞かれる言葉ですが、自然に自信は生まれてくるものでしょう。ココロの問題ですから、形としてあらわす事は出来ません。ただ自分の中で大きな変化があったのは事実です。
 
  自分とはなんだろう、自信を持ちたい、そんな事を求めているなら、少しは力になれるかもしれません。試してみてください。

カラダラボ

|

なにを目指して稽古するのか

 父親の影響で私は子供の頃から武道を稽古してきています。そのおかげで甲野先生に出会う事が出来て、身体の不思議さ、奥深さを経験する事が出来ました。身体の感覚をみながら手探りで稽古をはじめた頃と今考えている事はずいぶんと変わってきました。
 
  はじめて触れた「術」の世界に驚き、その「技」を身につけたくてモノマネをして、今日までやってきました。最初はつかまれた右手をどう上げるか、ずっとその事ばかりを考えていました。外から見ればまったく意味のない事のように見える事を永遠と稽古していたのです。そしてそれは今でも変わりません。
 
  だからこそ自分がどこに目標をおいて稽古しているのかを考えなくてはいけないと思っています。外から見ればただ「手を上げる」稽古も自分がそこにどんな事を感じて稽古しているのかで全く意味が違ってきます。
 
  どんなに強く抑えられたとしても、笑いながら楽々手を動かせる結果だけを求めてしまえば、それはただのデモンストレーションとなり、一時の喜びでしかありません。誰かと比べる事でしか自分の行動を認められないならば、学校で一番、会社で一番、売上一番といった今の社会の仕組みとなんら変わりがありませんよね、ただ形が武術に変わっただけです。
 
  私が甲野先生に惹かれていったのは、私のやっている武道が「自分とは」「生きるとは」「幸せとは」なんだろうと考えさせてくれるものだったからかも知れません。子供の頃から人として「当たり前」のことを聞かされてきても、現実社会を間近で見る頃になるとそこに「違和感」を感じるようになります。自分の武道が人としての完成を目指しているのに、お前はそれでも良いのか、と問われているわけです。
 
  なんとなくでは続けていけなくなったときに甲野先生に出会えた事は幸運としか言いようがありません。答えそのものは教えてはもらえませんでしたが、自分の身体でその答えを探す楽しさを教えてもらう事が出来ました。
 
  スポーツには必ずついてまわる「引退」という事。高校球児の憧れである「甲子園」はどんなに頑張っても高校生でなくては出場する事は出来ません。当たり前です。大切な目標にする事は出来ても人生を生きる事の目標にはならないですよね。自分だけの目標を持つ事をあきらめてはいけません。
 
  そのためには自分の中の常識という壁を壊していく事が大切な事です。自分にはまさかそんな事は出来るはずがない、そう言ってもう一人の自分がささやいてきます。自分を作っているセルフイメージを少しずつでも変えていけるとするとワクワク、ドキドキ楽しい生き方が出来ると思いませんか。
 
  今の自動車も飛行機も100年前には夢の中のものだったはずです。でも私たちはそれらを「当たり前」のモノとして認めていますよね。自分にできる事の限界を作っているのは自分自身なのです。形が残っていく機械ならわかりやすいですよね。「人間」の能力はほんの数十年前の事でも忘れられてしまうようです。
 
  祖父が生きていた頃聞いた話があります。若い頃、自動車がまだなかった頃毎日のようにリヤカーに荷物を載せて数十キロ離れた繁華街にまで商売に行っていたそうです。祖父が特別だったのではなく、その頃の人はそれが「当たり前」だったわけです。
 
  講座や稽古会で技を披露して誉められたとしても、今の身体のレベルが落ちてしまったからであり、両親や祖父たちであればきっと当たり前に経験してきた事ばかりだと思っています。この先時代が進みどんどんと身体の使い方は忘れ去られるかもしれません。身体の楽しさに気がついてしまった以上、その楽しさを伝えていく事が私の大きな目標となりました。

|

押し付けない

 カラダの中にたくさんの感覚があると言う事が分かってくると、自分の中から「気づく」事が多くなります。このカラダを通しての気づきと言うのはとても強力でゆるぎない「自信」の元になってくれるようになります。
 
  「自信」が作られていく、しかもそれが無理なく大きくなっていくわけですから、すばらしい事・・・に思いますよね。ここに大きな落とし穴がありそうです。カラダから出てきた「ゆるぎない感覚」、教える側、伝える側に立った時にどうしても「押し付けて」しまいたくなります。
 
  親切なように見えてもそれは行き過ぎると問題になっていきます。人の為だと思って善い事を「押し付けて」しまえば「偽善」となってしまうのでしょうか。
 
  自分の中に自信を持つ事、それは自分自身の可能性をを認める事であり、自分が生きてきた道を認めてあげることですから、とても大切だし必要な事だと思っています。ただその自信がどこに根を張っているのかを考えなくてはいけません。本当の自信、というものがあるのかは分かりませんが、どんなに誉められても、非難されても、ココロを揺らされる事なく、少し冷静にそういう見方もあるよなぁ~と言えるようになりたいと思っています。
 
  稽古をしてきて感じているのは、目に見える結果以上に工夫できる自分が育っていくことがうれしいという事です。甲野先生に出会う前、私は常に他人の目が気になってしまう人間でした。目立ってしまう自分が怖かったのです。その反面、野性味溢れる個性的な友人に憧れて形だけを真似していた自分もいました。とにかく自分がどうしていいのかが分からなかったのです。
 
  技に憧れて甲野先生の稽古をはじめましたが、気がつくと自分らしさとはなんだろうと考え、工夫している自分を見つける事が出来ました。もちろん今の自分の中にも気に入らない部分はたくさんあります。ただその足らない部分も気がつけたことがうれしいし、次につなげていこうという気持ちが生まれてきます。
 
  ついつい「結果」が伝えたくて、「形」を押し付けたくなりますが、その時はうまくいったとしても、自分の中から気づきとして生まれなくては一人で使えるようにはならないですからね。
 
  つい「答え」を教えてしまうのは私自身の弱さだと思っています。甲野先生は「わかりやすい」ようには教えてくれませんでした。でも今ここに甲野先生からたくさんの事を学んできた自分がいます。これってすごいですよね。人に考えさせる、行動させる、気づかせる事ができるわけですから。
 
  自分の中から気づいた事を自分ひとりで頑張ったんだ・・・と思っても良いでしょう。自由です。でもココロの声に耳を傾けてみるときっかけをくれた人や何かがあったと言うことが分かると思います。これを一言で「謙虚であれ」とは言いたくないですが、子供の頃いろいろと言われてきた言葉がすこし分かってきました。
 
  やはりカラダという「正解」のないものに対して向き合える事が良いのでしょうね。どうしても学校の勉強では「一つの正解」に対してしか進めないので、自分の工夫の余地が少なくなります。そのために答えに対して一直線に進んでしまいたくなるし、人に対しても「親切心」でそれを押し付けてしまうのかな。稽古をしてきて、カラダを見てきて、回り道にも意味があるんだ、と思えるようになりました。

|

2007/10/12 頭の空白を埋める

今日のアクテノンでは、京大カードという情報カードを利用した、アイデア創作法を試す。

「えっ!身体操法じゃないじゃん!」

そんな声が聞こえてきそうです。でもこれも稽古のうちなのです。身体の稽古を続けていると、自分の身体が思うように動かない事を肌で感じます。その動けなさが意識されると、心に響くんですね。

そして身体と心がつながっている事を実感すると、この心をどう扱っていけば良いのかという事が大きなテーマとなってきます。

心の扱い方も身体で学んだ感覚を応用すると、一直線では出てくる気持ち、アイデアは予想の範囲内なんですね。どうしても自分の中で出したい答えがあっても、なかなか出てきません。

その出したい答ええを導く時に有効なのが、カードを利用した発想法。そのやり方はまた別の機会で紹介したいですが、自分の力、考える力、生み出す力ですね、これが自分の想像していたものよりもはるかに大きい力が自分には備わっているという事を感じます。これは身体で感じた力と速さで驚く事と全く同じ感覚。自分を見直せる感覚なんです。

いくつかのカードを並べて、そこにある関係性を「見つける」ように意識すると、全く関係がなさそうな2つに対して、頭が自然と関係を作り出すようになります。この時、自分には何も生み出す事が出来ない!と思ってしまってはダメ、身体と同じです。自分が出来ることを信じて、出てくるアイデアを楽しむといいみたいです。

|

マイブーム

最近のマイブームは小冊子作り。

稽古の際に資料として使ってもらう事を目的に始めたものだが、最初の苦労がウソのように楽しくなってきた。

というのも、私のコンプレックスの1つに、文章が書けない、というのがある。小学生の頃、遠足の作文がどうしてもかけなくて、2時間かけて「ぼくは、」だけだった・・・。とにかく自分の言葉を残す事に強いアレルギーがあったんです。

それでも稽古をしていると、自分の感覚を伝えていかなくてはなりません。その稽古がよかったのか、いつしか、自分の言葉を伝える楽しさをしったものの、作文に対してのコンプレックスは消えないでいました。

それでも稽古に来てくれている人たちに何か出来る事があるのではないか、と考えて、定例の稽古会の度になんとかレポートを作るようにしたんです。最初はA4一枚からはじめました。その一枚書くのもやっとの思いで。

どれ位続いているのかな?一年ぐらいでしょうか。

10月から中日文化センターでも講座が始まる事もあり、ちょっとまとまったものを書いてみるか、という気になってしまいました(笑)

アレコレ考えながら、やっとの思いで一つ目の小冊子が完成。出来上がる前に奥さんに添削してもらうと、赤だらけ(笑)。国語コンプレックスが顔を出しかけましたが、なんとか作り上げて配布しました。評判は聞いていないけど。

1つ出来上がると、一作目の苦労がウソのように、色々と頭に浮かぶものがあります。気づくと、マインドマップを作って、テーマを決めて、だぁ~っと書き始めています。なんだか気楽に書けるようになってしまったようです。まだ配る予定の無い小冊子をいくつか作って遊んでいます。術理の小冊子もあるので、飽きないうちに配りたいと思っています(笑)

|